以前はよく怒鳴っていたなと、思い起こすことがある。
といいながら、今でも十分に怒る人である私だが、なるだけ大声で怒鳴るなんてことはつつしんでいる(つもり)。
ガンガンとやれば、一時的にフラストレーションが解消されるかもしれないが、その興奮が冷めてしまうと、そのあと来るのは自己嫌悪である。
何も大声出さなくても他に伝えようがあったのはないか......。
そうすることでもしかして、表面上の熱さは伝わるかもしれないが、いいことより悪いことのほうが多い、と私は思う。
そんな私、近ごろもよく、怒る人である。
そしてよくよく考えてみると、私が気に入らないその根っこの部分は、だいたいが同じようなところにあるような気がしないでもない。
つまりそれは、「つながり」というものが理解できていない、あるいは無視している、という仕事のやり方に対してのものなのだ。
たいていの仕事は、「つながり」の中で行われるものだ。言い方を換えれば、つながっていてこそ仕事であり、つながっているから仕事である。
「他人の需要に応えること」が考えられなければ、それは「仕事」をしているということにはならない。自己完結型の仕事などないのである。
それをかいつまんで言えば、「一人じゃ何も出来ない」ということになり、だからオープンマインドな心構えが必要で、コミュニケーションやコラボレーションが重要になってくるんですよ、ということにつながっていくのだが、ここまで書いて、
「何にもかいつまんでないじゃないか」と別の私がツッコミを入れる。
では、陰々滅々とならないうちにこのへんで。
「わからない」は、あなた一人の恥ではない。恥だとしたら、「この世のどこかに”万能の正解”がある」とばかり信じて、簡単に挫折しうる「自分自身の特性」を認めないことが恥なのである。「特性」がいいものだとは限らない。
(『わからないという方法』橋本治、集英社新書、P.25より)