湯船につかりながら本を読むという行為は、以前からしていたのですけれど、もっぱらそれは電子書籍にかぎってのことでした。湿気に弱いという特性を考えたとき、紙の本ではできないと決めつけていたからです。
ある日のことです。ふと、だいじょうぶなのではないかという思いが沸きあがり、試してみようと思い立ったのは。たぶんそれは、手にしていたその本の質が比較的硬質だったからでしょう。
そこでぼくは、環境をそこそこに保っていさえすれば、そこそこいけるのだということに気づきます。
それは只今のところ、令和6年度最大の発見でした。
というのは少々大げさですが、近ごろ、それまでの「ほぼKindle」とは一転し、旅や出先以外では極力電子書籍読書を避けているぼくが歓喜雀躍したのは言うまでもありません。
ですが、何と言おうと紙は紙です。湯がかかって濡らすのはNGですし、余程注意をしてかからなければならないのは当然です。
ならばわざわざ風呂場に持ちこまなければよいだけのことではないか。フツーならばそう考えるでしょう。ところがぼくは、そこらあたりがチトふつうではなくて、いったんなんとかなるさと思ってしまえば図に乗って、次第次第に大胆になってしまいます。
すると皆さんが今ご想像したとおりに、ふやけて劣化するものもでてきます。
『ぼけと利他』(『ぼけと利他』伊藤亜紗・村瀬孝生、ミシマ社)がそれです。
だったらそれ以降は止めておけばよいのですが、「申しわけない」という想いを抱きつつ、昨夕もまた湯船に持ちこんでしまうのでした。
読みかけのページを開いて十ページほど読み進めたところです。
******たとえば吃音の人が、「思った言葉を体が発してくれない」という分裂によってつまずくとき、それは「意図して伝えることを諦めて、他者のうけとってくれる力に任せる」ことに通じていきます。P.264)******
嗚呼、
と心のなかで嘆息し、
甘いな、
とこれまた心中でつぶやくと、思わず本から目を話し天井を仰いでしまいました。
自分自身が、伝え方や表現の仕方について、どう考えどう悩みどう実践しようとも、受け手の曲解という強烈なパンチを(というかこの場合は、そのような生易しいものではなく、そもそも解しようとする気配すらない理不尽なものなのですが)ひとつ食らっただけで、その思考も表現も、木っ端微塵に吹き飛んでしまうと思えば、ふだんの行いのすべてもそのようなものなのかもしれない、何をどうやっても、自分のできることなど、それしきのものでしかないのではないか。
そもそも読み取ろうとする気がない、あるいは理解しようとする意思がない者に対しては、それが情であるにしても理であるにしても、伝えるために行われるあらゆる試みは、まったく意味をなさないのではないか。
つい2週間ほど前にそのような思考に陥っていた自分が恥ずかしくてたまらなくなったからです。
他者のうけとってくれる力に任せる
とどのつまりは、そうするしかないのです。
どんなに精緻なロジックであっても、また、どんなに優れた表現であっても、最終的には受け手にゆだねるしかない。この理から逃れることができる人など存在しません。
だからといって、「伝え方」を工夫しなくてよいとか、「伝えるちから」を磨かなくてよいとか言うのではありませんし、それに向けた努力も放棄するべきではないのですが、結局はそういうことなのです。
であれば、「うけとってもらえない」事実に対して、うじうじ愚痴愚痴という繰り言は詮無いことだと言うしかありません。
たとえ少数であるにせよ、他者が「うけとってくれる」という根拠のない信頼があるからこそ、ぼくは〈伝えるひと〉でありつづけてこれた。
だとしたら、その「うじうじ愚痴愚痴」は、真っ当に「うけとってくれる」どこかの誰かさんの信頼を裏切る行為ですし、観点を替えればそれは、発信者としての自らを信頼していないことにもなります。
天井を仰ぎ見たまま、それらの想いが次から次へと沸きあがったあと、湯船にかけた蓋の上に置かれた本に目を移すと、心なしか潤びてゲンナリとしているように見えます。
「もうこれで今日の私の役目はお終い。早く外へ出して」
まるでそう懇願しているかのようでした。
「申しわけない」と心のなかで手を合わせ、そのあとすぐさま風呂からあがったことでした。しかし・・・それもこれも、きっとまたやるんでしょうなあ(たぶん)。