答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

(土木的)清濁の音象徴

2024年03月17日 | 土木の仕事

 『言語の本質』(今井むつみ、秋田喜美、中公新書)を読んでいる。なかに「清濁の音象徴」について書かれた項がある。著者によると、日本語のオノマトペは整然とした音象徴の体系をもっており、「gやzやdのような濁音の子音は程度が大きいことを表し、マイナスのニュアンスが伴いやすい」のだそうだ。
 以下、著者が書中に挙げた例を示す。
 
 コロコロよりもゴロゴロ。
 サラサラよりもザラザラ。
 トントンよりもドンドン。

 オノマトペ以外でもそれは見られる。
 以下もまた、同著のなかにある例だ。

 「子どもが遊ぶさま」の「さま」に対して「ひどいざま」の「ざま」
 「疲れ果てる」の「はてる」に対して「ばてる」

 清濁の音象徴はまた、ポケモンの名前の付け方にもあらわれており、体長の長いポケモンや体重の重いポケモンには濁音が多く、進化が進むにつれて名前に濁音をもちやすくなることがわかっているという。たとえば、「ヒトカゲ」というポケモンは進化すると「リザード」にその名を変えるというように。

 ほかにも、「ブルドーザー」「バズーカ」「ゴジラ」「どんぶり」「仏壇」「ゾウ」「ブリ」はいずれ大きなものを表すが、日本語話者の耳には、いかにも濁音がぴったりと感じられるのではないだろうか。「プルトーサー」「パスーカ」「コシラ」「とんぶり」「ぷつたん」「そう」「ぷり」では、どこか物足りない。(P.24)


 そこはちょっとねえ・・と苦笑しながら読んでいたぼくだが、そのあとにつづくセンテンスを読むなり笑いが止まった。

ゴキブリはその名のせいで余計に嫌な生き物に見えているかもしれない。

 そこに来て、やおらその説が切実さをもってぼくに迫ってきたのである。

 業界でドボジョという言葉が使われ始めたのがいつ頃からだったか、たしかな記憶はないが、それが一般にも通用するようになったのは、たぶん松本小夢作のマンガ『ドボジョ!』が人気を博した2011年以降ではないだろうか。
 ところがそれからしばらくして、他ならぬ業界内から、そのドボジョという呼称に対する異論が湧き起こってくる。
 なぜドボジョという言葉がダメだとされたのか。その原因となったのが「清濁の音象徴」だ。もちろんその論は、そのような専門用語によって語られたわけではなく、「濁音がつづく」「だから印象がわるい」という理由で拒否反応が示された。そこでは、前提としてまずそもそもドボクという音そのものが否定的に捉えられている。3つの文字のなかに濁音が連続して2つもある。それがドボジョとなると連続3つである。これがいけない。当時ぼくは、そういう意見をたしかに見聞きしたことが何度かある。

 その結果、代案として示されとって代わったのが「けんせつ小町」なるネーミングだ。どちらがよりよい名前か。それぞれの好みはあるだろうが、少なくともぼくはドボジョの方に圧倒的な支持を与えた。逆に「けんせつ小町」にはセンスの欠片も感じることができなかったぼくは、「濁音上等、根拠にもならないコジツケを言うな」とばかりにドボジョ反対論者に噛みついたこともある。

 それがである。「清濁の音象徴」という立派な根拠があったとは。そもそもその論者たちが、そういった理論的根拠を意識していたかいなかったか。たぶんしていなかっただろうとは思うが、そこに濁音が清音に対してマイナスニュアンスをもっているという日本人がもつ無意識の共通認識があったであろうことは、いったんこの「清濁の音象徴」について知ってしまった以上、否定することができない。
 
 と、そこではたと考える。
 かつて全国的に行われた、大学や高校における土木科の名称変更のことをである。その甲斐あってか、今や、土木と冠した科名はごく少数派に落ちぶれてしまい、環境ナンタラという、何を学ぶのか実態がよくわからない名称に置き換わってしまった。そこでもまた、「清濁の音象徴」を意識したかしなかったは定かではないけれど、ドボクという3文字のなかの頭から2つが濁音である音をもつ言葉が忌避されたことだけは確かである。

 ではアレはあながち間違いではなかったのか?
 それは、当時も今も、土木という呼称を変更することによって印象を変えようという言動に対しては常にNOを表明するぼくの考えが、はじめて揺らいだ瞬間だった。
 
 と、そこでまた考える。
 一般の方はいざ知らず、業界人なら、土木の語源が古代中国の書物である『淮南子』のなかに出てくる「築土構木」という言葉にあることは言わずもがな、誰でもが知っていることである。ところがこれにも異論があり、「土木」という文字が『淮南子』より何百年も前の春秋時代に『国語』等に登場していることや、日本でも鎌倉時代の『源平盛衰記』の東大寺建立を叙述した箇所に「土木(ともく)」という記述があるところから、「築土構木由来説」を否定する向きもある。
 それはそれとして、ここではこれ以上言及しない。
 兎にも角にも「土木」が公に用いられ始めたのは、いつごろからだったのか。たとえば明治2年には民部官土木司、明治10年には内務省土木局、といった職制部署名にその痕跡がある。それ以前の江戸時代には普請奉行、作事奉行という職名でもわかるように、建築は普請であり土木は作事という名で呼ばれていた。これらをつなげると、「土木」という名称の由来をどこに置くかは別として、それが一般的に用いられるようになったのは、明治の初めか、あるいは江戸末期からであることが推測される。また、それらから類推できるのは、たとえ築土構木が由来でなくても、「土木」という名称は古くから存在し、何が原因でそうなったかはわからないが江戸期においては作事と呼ばれていたそれを、王政復古に準じて復活させ、Civil Engineering の邦名として採用したということである。

 いや、その独断的自説をもって、だから「土木」という由緒ある言葉を金科玉条のようにして守るべきだとぼくは言いたいのではない。ぼくが着目したのは、だとしても、この仕事が「土木」とネーミングされたのはたかだか150年ほど前しかない、という事実である。

 であれば、今そこにある「土木」が、「土木」という呼称にこだわる必要があるのか。

 今このときに「土木」という仕事が蔑視されているとして、その仕事を表す「土木」という言葉が、たとえば「清濁の音象徴」で説明されるようにマイナスのニュアンスがともない易いものだとして、それを理由に、自ら放棄するのは愚の骨頂であるとぼくは思う。だが、それと同じか、もしくはさらに重い意味をもって、それに拘る心もまた、ひょっとしたら愚かなものなのかもしれない。

 と、ひょんなことから「清濁の音象徴」という理論を知り、「土木」における名称変更問題についてのこれまでの自説が、180度転回してしまうかもしれない事態を迎えてしまったおじさんは、天井を仰いで今一度考えてみる。

 コロコロよりもゴロゴロ
 サラサラよりもザラザラ
 トントンよりもドンドン
 ドボクよりもトモク・・・

 ん?


コメント
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