答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

人を育てる

2024年03月14日 | ちょっと考えたこと

 「人を育てる」というのは、まことにもってむずかしい。
 この場合の「育てる」は、あくまで「育てよう」と企図し、それにもとづく言動をもって「育てる」ことを指すのであって、その対象となる人が、自らの意思と努力で「育つ」のは、その範疇にない。どころかむしろ、放っておいては「育たない」者に対して、試行錯誤をしつつも、首尾一貫して「育てよう」という意思だけはもちつづけ、なんとかそこそこの線までには到達できるように奮闘努力をすることが、ここで言う「人を育てる」という行為である。
 
 そうした場合、永遠のテーマとなるのが、どこまで手出しをするのがよりベターなのかという問題だ。もちろんそれは、対象となる相手によって異なるべきことにはちがいない。三者三様十人十色、百人百様千差万別。人それぞれが一人ひとり異なった個性をもち合わせているのは、人間世界の常識だ。たとえばそこに「人材育成マニュアル」のようなものがあって、誰も彼もにそのマニュアルどおりの対し方をしても、上手くいくはずがない。

 「育てる」と「育てられる」。双方にとっての理想は「卒啄同時」だろう。

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 導くには「機」(ここぞという絶好のタイミング)をとらえる必要があります。その時、ちょっとつつけば、パーンと割れます。これを禅では「啐啄同時」と言い、師弟一如の素晴らしいハタラキを表しています。卵がかえる時、雛が殻の中で啼くのを「啐」と、そしてその瞬間、親鳥が外から突き破ることを「啄」と言うのです。この啄のタイミングが早過ぎると雛は死にます。教育の極意です。
(『ロボット工学と仏教 AI時代の科学の限界と可能性』森正弘、P.99)
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 「花は咲くまいとしても咲く時が来たらきっと咲く」(種田山頭火手記より)という言葉がある。
 じつに説得力をともなって耳に響く言葉だ。けれど、人間世界の現実はそうではない。いや、じじつそうなるのが花というものの性質だとしても、咲く時季がきてもきれいに咲かない花は、自然界は別として園芸や作庭などの人為的関与がともなう場所では現実に数多存在する。それをして、真に「咲く時」ではないだけなのだろう、というのは容易い。だが、水をやり、肥料をやり、ときには厳しい環境から守り、またときにはあえて過酷な環境に晒すなどして、「咲く時」がいつなのかを感じとりながら、結果として「咲かせる」のが、花を「育てる」ということである。それが上手くいかなかったとき、花は「咲かない」。

 「卒」と「啄」の息が合えば理想的だが、現実はそうそう上手くはいかない。「手を差し伸べる」と「放っておく」とのバランスをどうとるか。これは、「人を育てる」を志した人間にとっては永遠のテーマである。特にぼくのような「お節介」な人間ならなおさらだ。にもかかわらずぼくは、「人を育てる」のが得意ではない。だが、だからこそいつも考える。その考えにもとづいて、錯誤しながら試行する。

 ときとして、そんなぼくを嘲笑うかのように、放任主義が成果を生み出す例を目の当たりにすることがある。なんだかな~と苦笑する。そのたびに、さはさりながらソレはそれ、と思い直す。なんとなれば、ぼくの「人を育てる」は、放っておいては「育たない」者に対して、試行錯誤をしつつも、首尾一貫して「育てよう」という意思だけはもちつづけ、なんとかそこそこの線までには到達できるように奮闘努力をすることなのだから。

 
コメント
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