先週、1時間のリモート講演が終わったあとに設けられた質問タイム。
「質問はありませんか?」
司会者はそう言ったが、その声に応えて手をあげる人なぞ、めったにいるものではない。こう言っては失礼だが、儀式のようなものだ。
というわたしの憶測を裏切り、後方から手があがった。
それをディスプレイで確認したわたしは、
「さて、なにが飛びだすかな・・」
期待半分うれしさ半分で、質問者の言葉を聴くと、わたしの話への共感と、自身が今後どのような姿勢で仕事にのぞむかを話した彼が、「それと・・」とつけ加えた言葉が意外だった。
質問者さんいわく、
「13年連続優良工事受賞の秘訣みたいなものがあれば教えてほしい」
それがなぜ「意外だった」かといえば、60数分の拙話のなかでわたしは、その類に関しての話をひとつもしていなかったからだ。
推測するところ彼は、司会者がわたしを紹介する際に使ったその種の言葉に興味をひかれたようだ。
「時間はどれぐらいもらえます?」
もったいぶった言い回しのあと、わたしが語ったのは、「コミュニケーション力」や「チーム力」という、どこか抽象的なものでしかなく、そのあとにようやっと、「細かいテクニックっていうのはもちろんあるんですけどね」と、これまたもったいをつけ加えて、たぶん具体的な何かを求めたであろう質問に対しては、答えにならない答えを終えた。
驚いたのは、それを受けた司会者の補足だ。
「講演中、いくつか現場の写真が登場したんですけど、すべて”空が青い”ですよね。そういう細部にも、高得点や表彰をつづけられる仕事ぶりがあらわれてるんじゃないでしょうか」
その言葉を聞くなり、すぐに思い浮かんだのは「張良と黄石公」の逸話だ。
『日本辺境論』(内田樹)のなかに収められた、その内容と内田的解釈を引用してみたい。
エピソードを要約するとこうだ。
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張良というのは劉邦の股肱の臣として漢の建国に功績のあった武人です。
秦の始皇帝の暗殺に失敗して亡命中に、黄石公という老人に出会い、太公望の兵法を教授してもらうことになります。
ところが、老人は何も教えてくれない。
ある日、路上で出会うと、馬上の黄石公が左足に履いていた沓(くつ)を落とす。
「いかに張良、あの沓取って履かせよ」と言われて張良はしぶしぶ沓を拾って履かせる。
また別の日に路上で出会う。今度は両足の沓をばらばらと落とす。
「取って履かせよ」と言われて、張良またもむっとするのですが、沓を拾って履かせた瞬間に「心解けて」兵法奥義を会得する、というお話です。
それだけ、不思議な話です。けれども、古人はここに学びの原理が凝縮されていると考えました。
(P.142)
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ではその「学びの原理」とはどういうものか?
内田さんはこう書いている。
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張良の逸話の奥深いところは、黄石公が張良に兵法極意を伝える気なんかまるでなく、たまたま沓を落としていた場合でも(その蓋然性はかなり高いのです)、張良は極意を会得できたという点にあります。
メッセージのコンテンツが「ゼロ」でも、「これはメッセージだ」という受信者側の読み込みさえあれば、学びは起動する。
(P.148)
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たいせつなのは最後の部分、
「受信者側の読み込みさえあれば、学びは起動する。」
というところだ。
「青空」に話を戻せば、その撮影者としてのわたしは、意識をして「青空」を入れている。場合によっては「空待ち」や「雲待ち」をすることさえある。その逆として、快晴ではなく、あえてくっきりとした陰影が出ない日を狙うこともある。
だとしても、いくらなんでも、それが優良工事受賞の極意であるはずもない。
しかし、くだんの司会者さんは、そういう数枚の写真の細部にさえ意図が表出するのだと読み込んだ。そして、そういうところを読み取ることが重要なのではないですかとアドバイスをした。
必要なのは、その「読み込み」である。
極言をすれば、その「読み込み」が正解であるかまちがっているか、つまりわたしが意図したものであるかどうかは、さして重要ではない。
そしてこれまた極端な物言いをすれば、その「読み込み」さえあれば、「先生」が誰であろうとさして問題ではない。学びの対象たる「先生」が優れていようがいまいが、それは副次的な要素でしかなくなってくる。
多くの方は、いやいやそうではない、「教えてくれる人」が優秀であるに越したことはないではないかと思われるかもしれない。しかし、わたしは思う。場合によっては、むしろ「先生」が優れていることが邪魔になることさえあると。
音波が、受信する生物が存在することによってはじめて音となるように、コミュニケーションが、その発信者ではなく受信者からスタートするように、ものごとの多くは、じつは、その受け取り手がイニシアティブを握っている。
多くの人は、その理がわかっていない。
だから待つ。
「よい先生」があらわれるのを待つ。
「よい教え」を待つ。
だから嘆く。
「よい先生」がいないと嘆く。
「具体的に教えてくれない」と嘆く。
しかし、「よい先生」も「よい教え」も、本質的には学ぶ側の「読み込み」がつくり出すものである以上、そういう人にかぎって、いつまで待ってもそれがあらわれることはなかったりする。よしんば、待つことなく動いたにせよ、「よい先生」や「よい教え」の出現を期待して動いているかぎり、結果は同様だ。
逆に、「受信者側の読み込みさえあれば、学びは起動する。」ということを理解し、それを前提として能動的に読み取ろうとする者には、次から次へと「よい先生」や「よい教え」があらわれる。
そうなったらそうなったで、自らの資質や能力がともなわずにアタマをかかえてしまうという、わたしのような情けない例もないではないが、とりあえず、スタートラインに立ちつづけることはできる。
以上、思わぬところで思いもかけずあらわれた「読み取り手」に感激し、またぞろ大げさに考えてしまった辺境の土木屋なのだった。