今日もきのうに引きつづき、『「わかる」ことは「かわる」こと』(養老孟司、佐治晴夫)からのネタ拝借。お題は、「2×3」と「3×2」についてだ。
「わかる」ことは「かわる」こと | |
養老孟司 佐治晴夫 |
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河出書房新社 |
たぶん小学校の算数だろう。「1人に2つずつ、3人の子にあげるのに、ミカンはいくつありますか?」という問題があったという。
「正解」は、1人に2つずつ3人だから「2×3」で6だ。
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でも、ある子が「3×2」とやってしまった。それはペケになりました。その子に話を聞いたら、「3×2」というのは、まず1つめのミカンをAくん、Bくん、Cくんにあげて、それから2つめのミカンをAくん、Bくん、Cくんにあげたから「3×2」になった、と。それを先生はペケにしてしまって、それでその子は登校拒否になってしまったんです。(P.136)
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わたしには、これに類する体験をした記憶がけっこうある。いわゆる「正解」ではないが、けっしてまちがってはいないはずの答えを否定されるという経験だ。そのたびに「なぜ?どうして?」と歯がゆい思いをし、実際に声にも出したが、その問いをマトモに受け止め、きちんと回答してくれた大人の記憶はあまりない。
「そういうもの」
「それでいいの」
けど・・と食いさがると、あげくの果てには「屁理屈を言わない」と断を下される。
学校は屁理屈を勉強するところだろうがよ・・と心の内で思いつつ唇をかむ「ひねくれ者」の少年だった。
はて、ひるがえって、干支がひとまわりしてからはや一年を過ぎた今のわたしはどうなのだろう。「3×2」を頭ごなしに否定する人間になってはいないだろうか。佐治晴夫さんが語るエピソードを読み、自分自身に問うてみた。
なってはいないか?
なっていない(もちろん)。
なってはいないか?
なっていない(はずだ)。
なってはいないか?
なっていない(たぶん)。
なってはいないか?
(・・・)
問いを繰り返すうちに、その否定のトーンがどんどんと落ちてくる。
わたしの「正解」が、いつもどこでも「正解」とはかぎらない。
「そんなんもアリ」と認め「へーそんな解き方もできるんだ」と受け入れることができる感受性が、オジさんにも、いや、オジさんだからこそ必要だ。反射的あるいは感情的に、「まず否定する」などもってのほかだろう。
などなどとつらつら考えていくと、「2×3」の「正解」に固執して「3×2」を頭ごなしに否定した先生も、少年時代のわたしのひねくれた答えを否定した先生(たち)も、けっして笑う対象たる他人ではなく、ひょっとしたら自分自身かもしれないと思えだした。
もって他山の石とせよ。
いつものようにわれとわが身におよんでしまう思索と、かといって真正面から反省して深刻になるでもないのもいつものことである自分自身を、いつものように苦笑いしながら、養老孟司と佐治晴夫という両泰斗が繰り広げる軽やかな対談を読む。
ご両所、まことにもって識見豊かネタ豊富と感服しつつ。