入間カイのアントロポゾフィー研究所

シュタイナーの基本的な考え方を伝えたいという思いから、日々の翻訳・研究作業の中で感じたことを書いていきます。

マントラの翻訳

2007-10-25 05:05:25 | 霊学って?
ヨーロッパから戻り、
久しぶりに「アントロポゾフィー指導原理」(12)の翻訳に向かおうとしたとき、
ゲーテ自然科学研究者である森章吾さんから、
翻訳について連絡をとりたいというコメントをいただきました。
今年6月に出版した
クリストフ・ヴィーヒェルト著『シュタイナー学校は教師に何を求めるか』という本のなかの、
メディテーションのことば(マントラ)の訳語についてのご指摘でした。

P91~92のメディテーションに関して、
前後半ともに Geistiges Blicken で始まるが、
訳文は「精神のまなざし」および「精神のかがやき」と別な語になっている。
これは
1.意図的に訳し分けた
2.編集上のミス(日本語、あるいはドイツ語に誤植がある)
のどちらだろうか?
というご指摘でした。

森さんが僕の訳文を丁寧に読んでくださったことがありがたく、
自分の翻訳作業を改めて見直す、よい機会となりました。

先ほど、森さんにはお返事を差し上げたのですが、
このブログにコメントをいただいたので、関心をお持ちの方もあるだろうということ、
また、ここで取り上げている「アントロポゾフィー指導原理」も、ある意味で
メディテーションのことばとも捉えられることから、
以下に、僕の翻訳に対する考え方を少し記しておきたいと思います。

まず、森さんのご質問に対するお答えとしては、
1.意図的に訳し分けた
ということになります。

たしかに、原文では、前半と後半の冒頭で
Geistiges Blickenという同じ語が繰り返されているので、
当然、日本語でも双方に同じ訳語を当てるべきではないかという考えもあります。
僕自身もとても迷ったところでした。

関心のある方は、ぜひ本書を手にとって、
該当箇所(この章全体)を読んでいただきたいのですが、

このメディテーションはシュタイナーの人間学、
とくに教育の基礎となる『一般人間学』の内容をマントラとして凝縮させたものといえます。
本書には、シュタイナーの次のようなことばが引用されています。

「教師は人間学を受容する必要があります。
メディテーションを通して人間学を理解すること、
人間学に即して自分自身を想起することが必要です。
そのとき、自己想起は、生きいきとした生命に変わります。」(P.119)

まさに、このメディテーションのことばはそのような「自己想起」に向けて与えられたものです。

今回、森さんからのご指摘を受けて、改めてドイツ語の原文に浸ってみました。

メディテーションとしてこの原文に向かったとき、
Geistiges Blicken(霊的に見る)と
Herzliches Tasten(心性で触れる)という二つの行為に対して、
Du(汝)として、つまり「主体」として呼びかけていることが強く意識されます。

この本を訳した時点での、僕の理解では、
このメディテーションは、
「精神のまなざし」と「心の触覚」という二つの霊的主体が、
前半から後半にかけて「変容」するプロセスを表していると捉えました。

つまり、メディテーションの前半において、
このGeistiges Blickenはまだahnend (予感的)なあり方をしており、
Herzliches Tastenもherzhaftという胸の領域の温かさを感じさせる語で表現されるあり方をしていますが、
それが「人間の霊(精神)と魂(心性)は、意識のなかで
宇宙の輝きを地上の暗闇に結びつけている」という体験によって変容を遂げ、

それによって後半においては、
この二つの働きは、erblicken とertastenという
er-という何かを生み出す力を暗示させる接頭辞とともに表現されるに到ります。
そして、そのふたつの働きによって、
「人間」そのものを形成する「宇宙のかがやき」であり、
同時に私自身の「自己」であるものが「発生」ないし「成立」する。
そういう流れで受け止めたのです。

そのとき、
精神のまなざしが同時に光であること
(ちょうど「眼は太陽である」というゲーテのことばのような意味で)、
そして、見ること(考えること)は内的な光であり、
感じることは触れることであるということが、
このメディテーションのなかで生起する「変容」の手がかりとして
非常に重要であるように感じました。

つまり、この翻訳を行なった今年6月の時点では、
このマントラの後半は
Geistiges Blickenを「精神のまなざしよ」ではなく、
「精神のかがやきよ」という別のことばに置き換えることによって、
そこに「変容」が生じていることを意識化すること、
また、この「精神のまなざし」(精神のかがやき)と
その後に出てくる「宇宙のかがやき」との連なりを明確にすることが、
日本語におけるメディテーションのことばとして
よりドイツ語の働きに近づくものになると捉えたのです。

したがって、翻訳のあり方としては
当然、「精神のまなざしよ」ということばを繰り返すこともありえます。

ここではメディテーションのためのマントラの訳文として、
あえてこのような「意訳」を試みたということです。
こうした翻訳作業は、
つねにその時点での訳者の理解と体験に根ざしたものになります。
そのため、マントラの訳文には
(このブログでの「アントロポゾフィー指導原理」の訳文と同様)
できるだけつねに原文を添えるようにしています。
そうすることで、今回、森さんが気づかれたように、
原文では同じ語が使われていることなどが分かるようにしたいと思っています。

以上は、
このブログだけではなく、
本書のメディテーションの訳文と原文に当たっていただかないと
なかなかご理解いただけない内容になってしまいましたが、

今後、日本でアントロポゾフィーと取り組んでいくなかでも
重要な問題を含んでいると思います。
そのため、このブログでも、
こういう問題があることを知っていただくためにも、
あえてストレートにご紹介することにした次第です。

実のところ、もともとドイツ語で書かれた
(つまり、シュタイナーがドイツ語の中に降ろした)
メディテーションのことばに対して、
日本の人たちとともにどのようにアプローチしていくのか、という問題は、
今、僕のなかでとても大きなテーマになっています。

今回は、森さんの誠意に感謝しつつ、
この機会に、今の僕にとって大切なことを少し述べさせていただきました。

もしこのブログの文章をごらんになった方が、
この問題を意識のなかにとどめておいてくださったなら、
とてもうれしく思います。