入間カイのアントロポゾフィー研究所

シュタイナーの基本的な考え方を伝えたいという思いから、日々の翻訳・研究作業の中で感じたことを書いていきます。

シュタイナーの「社会三層化」と市民運動(2)

2007-02-15 16:29:13 | 社会問題
シュタイナーが『社会問題の核心』を書いたのは、ドイツが戦争に敗れた直後である。
新しい国家の枠組みが模索される状況だったからこそ、たとえば私有財産に関しても、著作権と同様に、所有者の死後一定期間が過ぎた後は適切な後継者、もしくは公共の「精神生活」領域の機関の所有とすべきだといったラディカルな提案をもりこむことができた。
この本は、あくまでも当時の敗戦国ドイツの混沌とした社会状況に向けて書かれたのである。その内容をそのまま現代に応用することはできないし、そうする意味もないだろう。

しかし、シュタイナーの当時から状況は大きく変わったとしても、問題の本質は依然として変わっていないのではないかと思う。
シュタイナーは、プロレタリア運動の問題の本質は、「精神生活」(Geistesleben)の問題だと述べている。精神生活というと分かりにくいが、要するに一人ひとりの個人がもつ才能や能力、個性などの「人的資源」のことである。
シュタイナーにとって、「精神・霊」(Geist)という言葉は、いわば現実を生み出す「可能態」を意味するので、精神生活という語は、単に教育や研究といった精神活動を意味するだけではなく、すべての人間が潜在的にもっている可能性を指している。
だから、もしかすると現代では、「精神生活」というよりも、「人的資源」(human resources)という言葉を使ったほうが通じやすいかもしれない。ただ、シュタイナーにおいては、人的資源とは「精神・霊の働き」(Geistesleben)のことだという意味も含意されているのである。
これは、シュタイナーの社会論において、人間の「精神生活」が「天然資源」(Naturgrundlage)に対応していることからも理解できる。

そのような意味での「精神生活」についてシュタイナーが指摘していることのなかで、僕自身が特に重要だと思うのは次の2点である。
一つは、「労働力」は「商品」ではない、ということである。なぜなら労働力とは、人的資源、すなわち「精神生活」だからである。賃金労働者がもっとも痛みを感じているのは、実は自分の「精神生活」が切り売りされていることだというのである。

すべての人間は、自分自身を実現するためにこの世に生まれてくる。そのために携えているのが人的資源なのである。この資源は本来、自分自身を表すために使われなければならない。それを他人に売り渡すということは、人間の尊厳を非常に傷つけることである。

ここでシュタイナーは、社会の三領域を明確に分けること、つまり三分節化する必要を説く。ちょうど人間の身体が神経・感覚系(頭部領域)、呼吸・循環系(胸部領域)、代謝系(四肢・腹部領域)に分かれていて、それぞれが独立して働きつつ身体という全体をなしているように、社会においても「精神生活」、「経済生活」、「法・国家生活」は相互に介入することなく、自律的に働かなければならないという。

今回、この本を再読していて、これらの言葉がやたらと「生活」という語が付いた複合語になっているのは、実際ドイツ語にそういう表現があるというだけではなく、シュタイナーにとって精神生活のみならず、経済や法律の働きもまた「社会の生命」に関わっているという含意があったのではないかという気がした。

シュタイナーがこれらの三領域を区別する際に強調しているのは、それぞれの領域が独自の仕方で外界との関係をつくっているということである。
たとえば、神経系は眼や耳や触覚などの感覚器官を通して外界と関わっている。呼吸・循環系は呼吸を通して、そして代謝系は栄養摂取や排泄を通して、外界と内界をつないでいる。同様に、精神生活、経済生活、法律生活とは、個人が他者に関わるときの三様の関わり方なのである。社会は、その三通りの関係性によってつくられていく。

経済生活は、もっぱら「商品」の生産、流通、消費に関わる領域である。いわば自己表現として商品=作品を創造すること、それを人々の手に渡るようにして、それを気に入ったり、必要としたりする人が受け取るという関係性である。そこに働く原理は「連合」(association)である。生産者、商人、消費者が商品を介してつながっていく。その原理をシュタイナーは「友愛」という言葉でも表現している。

ただし、商品を生産する力、つまり労働力や生産力は、一人ひとりの個人の資源、あるいは雇用者が所有している天然資源や財力などの生産手段から発生する。その二つが合わさって、商品が生み出される。シュタイナーは、そこでは雇う側と雇われる側が共同して一つの商品を生み出しているという理解が必要だといっている。労働力は売り買いはできない。賃金労働者は、自分の人的資源(精神生活)を資本家に売り渡しているのではなく、資本家とともに、資本家ひとりでは生み出せない商品を共同でつくりだしているのだ。そして、雇う側と雇われる側との関係においては、その商品を生み出すためにどちらの力がどれだけの割合で関わっているかを明らかにすることが重要だという。
この精神生活の領域に働く原理は「自発性」(initiative)である。人間には自分の能力を生かして、何かを生み出したいという欲求が備わっている。そうした創造や自己表現への欲求に基づいて、自発的に生産活動に関われることが、人間の可能性を引き出していくうえでも重要である。そのためにも、労働力は売り買いできないこと、商品は雇用・被雇用者が共同でつくりだしているという共通理解が必要なのである。また、シュタイナーは「生活するためには働かなくてはならない」という考え方ではなく、「働き手がいなければ経済活動は成り立たない」という認識が必要であるとも述べている。「経済生活」は「精神生活」に依存して成り立っているのだ。この原理をシュタイナーは「精神生活における自由」とも呼んでいる。

シュタイナーは、当時盛んに叫ばれていたように、私有財産を廃し、すべての生産手段を社会化、もしくは国有とすることには反対だった。シュタイナーは、それがどのような経緯で所有されるに到ったにせよ、現在の所有物に対する権利を認めることから出発しようとする。人間には、自分の才能や能力といった人的資源に対する権利があるとともに、自分が獲得してきた土地や財産に対する権利もある。それらはともに「資源=精神生活」であり、それは社会活動へと生かされるべきものである。それをどのように活用するかは一人ひとりの自発性に任されている。しかし、この権利関係においては、「法のもとの万人の平等」が前提となる。財力をもち、自分が作りたい商品をつくるために人を雇える資本家も、そこで雇われる労働者も、権利関係においては完全に平等である。この平等を保障するのが「国家」の役割であり、国家は人間対人間の関係、すなわち法律・権利関係だけを担当するのである。

シュタイナーは、「社会的理解」ということを言う。ある商品に関して、その作り手(生産者)がそこにどれだけの力を注いだか、それにどれだけの価値があるのかを認めるのは、社会の側である。その社会の側の理解があって初めて、正当な賃金も、商品の価格も、雇用者と被雇用者の対等な関係も成り立つことになる。その「社会的理解」は、自由な「精神生活」から生じる。その意味で、精神生活は、すべての社会生活の基盤なのである。

以上が、シュタイナーが「精神生活」に関して指摘していることで僕が重要だと思う2点の一つである。もう一つは、プロレタリアの人々が根拠とした「科学性」に関する指摘である。
シュタイナーは、当時のプロレタリアの人々にとって、近代科学がほとんど宗教的な拠り所になっていると考えた。しかし、その近代科学は、プロレタリアの人たちが「ブルジョア」と呼んでいる階級の人たちが用意したものだった。近代科学を生み出した人々は、宗教性や精神というものを思想から排除し、唯物的な世界観をつくりあげたが、自分たち自身の生活のなかにはまだ旧来の宗教性が残っていた。ブルジョアの学者たちは、生活においては旧来の慣習や宗教性に支えられながらも、頭では精神性を取り去った思想をつくりあげた。ところが、プロレタリアの人々は、生活のなかからも、近代社会によって精神性や宗教性を奪われている。そして、彼らが拠り所にした科学的思想は精神的内容をもっていないために、魂を支えるものになっていないというのである。
シュタイナーは、プロレタリアの人たちが真に求めているものは、世界理解であり、精神に満たされた思想であるという。同時に、もしそういうことを言えば、プロレタリアの人々は反撥して、自分たちにとって思想は経済的現実の反映にすぎず、自分たちは経済状況の改善や、生産手段の社会化を求めているということも十分に理解していた。ただ、プロレタリアのいう「階級闘争」は、社会において精神生活が真に自律し、人々の間に社会的理解というものが浸透することによって必要なくなるだろうと考えたのである。

ここにシュタイナーが社会運動の一環として、最初に学校づくりに着手した理由も見えてくる。学校や教育の課題は、一人ひとりの個人の「人的資源」を引きだすことである。この人的資源は、子どものなかの生きる意欲として、自分自身を表そうとする欲求として備わっている。この意欲こそが、シュタイナーのいう精神・霊(Geist)なのである。

今の日本では、この「意欲」が完全に押さえ込まれているのではないだろうか。そして、今、僕は霊的、精神的なものの重要性を思うのである。
先に、シュタイナーに関心をもつ人々は、霊的な方向と実際的な方向の二つの極のどちらかに偏る傾向があると書いた。僕自身は、おそらく霊的な方向が身近であったために、それに反撥し、実際的(というか哲学的)な方向を目指していた。
巷では「スピリチュアル・ブーム」とも言われるけれど、その「スピリチュアル」はえてして「前世」や「守護霊」のことであって、そこから実際の社会の現実への関わり方は見えてこない。
また、社会の現実としては、「戦争ができる国」となり、ついに教育基本法に手をつけ、弱い立場の人々を追い詰め、憲法までも変えようとする政治の状況がある。そこに危機感を募らせ、さまざまな運動が展開されているけれども、そこに「霊的なもの」へのまなざしはあまり感じられない。

かつてシュタイナーが社会三層化運動を展開したとき以上に、今の時代は、霊的なものが背後に押しやられているのではないか。
ここで「霊的なもの」というとき、多くの人が「現実から遊離したもの」を思う。それは根拠のない自己満足の世界であって、現実の力にはなりえない、なりえたとしてもせいぜい宗教のような、特定政党の政治活動や票集めにつながる程度のことのように思えるのだろう。
しかし、『社会問題の核心』のなかで、シュタイナーが一番言いたかったことは、社会の現実こそが霊的な現実の現われであり、抑圧された人々の訴えとは、つねに「霊的なものを求める魂の叫び」であるということではなかっただろうか。

前回、僕が「アントロポゾフィーはフェミニズム」であると書いたのは、どちらも「背後に押しやられたもの」「目に見えないもの」の権利を取り戻そうとしているからである。
たとえば元従軍慰安婦だった女性たちの証言に対して、「資料がない」という言い方で否定するのは物質主義である。それに対して、あくまでも物的証拠で戦うことは重要だけれども、その戦いへの意欲というものは、抑圧された側、虐げられた側がもつ目にみえない思いへの共感や想像力があるからではないのか。
人間の尊厳も、平和も、幸福も、目にはみえない。子どもがどのような大人になるのか、この人生をどのように生きたいのか、そういった意欲も目にはみえない。
自分がこの人生に期待していること、なぜ自分はこういう状況、こういう運命のもとに生まれたのか、そこで自分は何を表していきたいのか、そういった自分自身の意欲も目にはみえない。
そのとき、前世に目を向けたり、占いをしたりするのもよいだろう。でも「生まれ変わり」があるとして、それを知りたいと思うのはなぜだろうか? それは自分が何らかの意志をもってこの世に生まれてきたはずであり、おそらく何度生まれ変わりを繰り返しても、自分には生と死を超えて追い続けている目標があるという予感があるからではないだろうか。
以前、『バシャール』という宇宙人の話をぱらぱらと読んでいたとき、唯一共感できたところがあった。それは、質問者が「前世について知りたい」と言ったときに、「あなたの前世についての情報はすべて今生にある」と答えたところである。
自分のその時々の感じ方、どういったことに自分の意欲が向うのか、どういうことを達成したときに自分は幸せに感じるのか、そういったことを繊細に見ていけば、自分がどんなことをしたくてこの世に生まれてきたのかも見えてくるだろう。
どんな霊能者に言われることよりも、自分自身で感じたことのほうが遙かに力強い。

僕は、今、生き難さを抱えている人々は「霊的なもの」を求めていると思う。それは宗教に入信したり、自分以外の指導者にすがることではないだろう。生きる意味とか、納得とか、そういうものだ。それを「霊的」と呼ぶことに抵抗を示す人は大勢いるだろう。
でも、本来、霊的なものとはそういうものなのだ。人間自身が「霊」なのだから。自分自身に到ろうとしている人は、霊的なものを求めていることになる。
むしろ問題は、「霊的なもの」に目を向けることが、主体性や自律性の放棄であるかのように見られる今の状況である。

このブログの最初に書いたけれども、シュタイナーの時代に、霊的なものについて語ることは、学者としての生命を葬り去ることを意味していた。今だって、その状況は基本的に変わらないだろう。霊的なものはキワモノであり、たとえいくら持ち上げられ、騒がれることがあったとしても、やはり少数者の領域である。

今回、久しぶりに『社会問題の核心』を読み返して思ったことは、そのような霊的な視点をもって、市民運動を展開できないだろうか、ということである。これまで僕は、市民運動に関しては、そうした霊的な視点のようなものはできるだけ出さないようにしていた。
しかし、アントロポゾフィーの現代性とは、霊的なことがらを普通の理解力で理解できるかたちで扱うことにあるはずだ。だったら、僕も自分にとって身近なことをストレートに表現していくべきではないのか。
要するに、僕なりのカミングアウトが必要なのではないかと。
なぜなら、人間の尊厳を、あるいは生命の尊厳を本当に復権することは、霊的なものへのまなざしなくしては可能ではないと思うからである。