入間カイのアントロポゾフィー研究所

シュタイナーの基本的な考え方を伝えたいという思いから、日々の翻訳・研究作業の中で感じたことを書いていきます。

憲法9条とシュタイナー(1)

2006-10-08 22:04:55 | 霊学って?
友人から、今日の「週刊ブックレビュー」という番組のビデオを見せてもらった。太田光氏と中沢新一氏の『憲法九条を世界遺産に』という本が取り上げられていて、ゲストの中沢氏が、平和と芸術の関係や、国防と免疫機構の話などをしていた。中沢氏の話の内容にはやや引っかかるところがあったが、これはまたビデオを見直したり、実際に本を読んだりしてから(今のところ翻訳関連の本以外が読めないのが悔しいのだ)、改めて感想を書きたいと思っている。

今は、この話をきっかけに、自分のなかに想起された思いをつづっておきたい。それは、6年前の2000年アジア・太平洋アントロポゾフィー国際会議のときのことだ。

あのとき、僕は「日本国憲法第9条と自由の哲学」という題目で講演させてほしいと申し出た。ドルナッハの理事やヨーロッパの人々だけでなく、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、そして韓国、台湾、中国、フィリピン、マレーシアなど、アジアの国々から、アントロポゾフィーにかかわる人たちが一堂に会する機会に、その当時から改憲の危機に瀕していた「9条」の意味をいっしょに考えたかった。ところが、会議を準備していた人々から、「9条は日本に特化される問題であり、アメリカやアジアの人たちが関心を持つとは思えない。そういうテーマは分科会で深めていただきたい」と、参加者全員に対して話をすることは許されなかった。

結局、分科会にはいろいろな国の人たちが参加してくれて、とても有意義な話し合いが持てたのだが、僕があのとき悲しくて悔しかったのは、シュタイナー思想に取り組んでいるはずの日本の人たちが、あまりにも時代から取り残されていたからだ。
なかでも、チェルノブイリの問題に取り組んでいるという人が、「憲法9条は日本に特化された問題である」といって、僕の提案に反対した。僕は、チェルノブイリのような時代的な問題に取り組んでいる人であれば、きっと共感してくれるだろうと思っていただけに、かなりのショックを覚えた。あの人は今、この日本の現在の状況をどんな思いで見ているのだろうか?

今の日本には、アメリカでシュタイナー思想を学んだ人たちが少なくないが、アメリカのアントロポゾフィーの歴史は、シュタイナーの生前の頃にさかのぼる。アメリカのアントロポゾーフたちは、アメリカという国に生まれた自分たちのカルマをどのように見ているのか? 原爆投下について、その意味をシュタイナー思想を通してどのように捉えているのか? そういうことを、原爆を落とした国の当事者としての彼らと話し合ってみたかった。しかし、僕の分科会には、アメリカの人はたった一人しか参加していなかった。

また逆に、2000年の会議には、日本の侵略を受けた国々のアントロポゾーフもいた。分科会にはマレーシアや韓国の人たちもいた。マレーシアからの参加者は、最初は日本がアメリカの傘の下から外に出て、自国の防衛を強化すべきだという意見を述べていたが、僕が自分なりに捉えた憲法9条の霊的な意味について話すと、「もし日本が、本当にそのような霊的な認識に基づいて憲法9条を掲げるのであれば、アジアの国々はそれを積極的に評価するだろう」と言った。そのことばは今でも、僕の耳に残っている。

僕は、アメリカやアジアの国の人たちと当事者同士として語り合いたかった。そして、そのような話し合いは困難ではあるけれど、本来、アントロポゾフィーの認識の共有によって、それが可能になるのだと信じていた。しかし、その認識が、日本ではほとんど共有されていなかったのである。

もちろん、ここでいう「認識」とは、9条が重要であるという認識ではない。2000年のアジア・太平洋会議でも、大事なテーマだといって僕を励ましてくれた人は少なくなかったし、後から「ああいうテーマこそ、全体の講演テーマとして取り上げるべきだった」という感想を送ってくれた人もいた。

僕が共有したかった認識とは、シュタイナー思想を学んでいれば、ほとんど当然の帰結として、憲法9条と日本に生きる自分たちとの関連に思いをいたさざるを得ないはずだ、ということである。

シュタイナー思想のなかで、民族の問題は避けて通ることができないほど、重要なテーマである。民族の運命とは何か。個人と民族の関係はどのようなものなのか。特に、第1次世界大戦を経て、ドイツの敗戦の混乱のなかで、シュタイナーは精力的に民族や社会の問題を取り上げていった。そのなかから「社会三層化運動」が生まれ、その一環としてヴァルドルフ学校が生まれたのである。

そして、シュタイナー思想の核心として、キリスト原理というものがある。これはいわゆるキリスト教の原理などではなく、「私」の原理、もしくは「個と普遍の一致」の原理とでもいうべきものである。

民族の問題にとっても、また現在の日本の国のあり方にとっても、この「私」の原理は決定的に重要な意味をもつと思う。僕は、2000年の当時、このキリスト原理、もしくは私の原理を、憲法9条の霊的基盤として示そうとした。そして、何人かの人が、それを半ば直観的に理解し、支持してくれた。

ただ、この6年間に、日本の状況は信じられないほど悪化した。しかし、アントロポゾフィーは時代の先端を行くはずなのに、当時のアントロポゾーフたちは、シュタイナーの「アントロポゾフィーは20世紀の末に頂点を迎えるであろう」という予言が当たっていないのではないかと狼狽することに忙しかったのである。

今は、あの当時とは状況が違う。僕は、あの当時は、同じシュタイナー思想を学ぶアントロポゾーフの仲間同士として、「シュタイナー思想からみると、日本国憲法第9条には、人類史的な重要な意味がある」というようなことを、共有の認識として発表したかったのだろうと思う。しかし、それはかなわなかったし、おそらくは僕は現実を認識していなかったのだ。

今、思い出すのは、ドイツで長らく「社会三層化運動」や「直接民主制」を孤独に展開しているヴィルフリート・ハイト氏のことである。孤独にというと語弊があるかもしれない。彼にはいつも熱心な仲間がいる。ヨーゼフ・ボイスもずっと彼とともにいた。しかし、彼のもとを去っていった人たちも数多くいるのである。それにもかかわらず、ハイト氏は一貫して、社会運動を続けている。数年前に、アントロポゾフィー協会の組織論に関する彼の長年の研究が、ゲーテアヌム誌に取り上げられたときは、彼の努力が一つ実を結んだと感じてうれしかったのを覚えている。
それはともかくとして、10年ほど前、ボーデン湖の近くのアッハベルクに彼を訪ねたとき、彼はこんな話をしてくれた。ヴィルヘルム・シュムントという人の社会論が、彼の運動の基盤になっているのだが、このシュムント氏は、「社会運動には認識が必要だ」と言ったというのだ。ハイト氏には初めはそれが理解できなかった。大事なのは行動だと思っていたからだ。しかし、シュムント氏と話をするうちに、そもそも社会三層化とは何か、それによって自分たちは何を目指しているのかさえも、認識できていないことに気づいたのだと。

僕も今、大事なのは行為だと思っている。しかし、認識のない行為は、個を抑圧し、戦争にまで突き進むだろう。認識は、自立の基盤でもあるのだ。たとえばシュタイナー学校にしても、シュタイナー学校とは何か、自分たちは何を実現しようとしているのかという認識がなければ、ただ「シュタイナー学校」という看板を掲げただけの、かつてシュタイナーが目指したのとはまったく違うものになりかねない。

僕は、いま一度「個」に立ち返ろうと思っている。僕のこれからの行為は、自分自身を含めた一人ひとりの「個」の確立に向けてなされるだろう。個が確立される前に、認識の共有はありえないし、共同体や社会の建設もできないと思いいたったからだ。

そんなことを、憲法9条をきっかけに思ったわけである。
僕自身の憲法9条についての考えは、また後々書いていきたいと思う。