笑うしかない友
~奥義3
汝に扇を授けよう。
扇子ね。
畳むと箸になる。
知ってる。
煙管にもなる。
切腹のときの脇差にもなる。
広げると奥義になる。
字が違う。
閉じると無知になる。
字か違う。
ピシッ。
痛い。
(終)
笑うしかない友
~奥義3
汝に扇を授けよう。
扇子ね。
畳むと箸になる。
知ってる。
煙管にもなる。
切腹のときの脇差にもなる。
広げると奥義になる。
字が違う。
閉じると無知になる。
字か違う。
ピシッ。
痛い。
(終)
笑うしかない友
~奥義2
汝に奥義を授けよう。
ははあ。
食べないふりをして食べる。
ほう。
食べないと見せかけて食べる。
おやおや。
食べる。食べる。食べる。食べまくる。
ははは。
太ると見せかけて太らない。
無理。
御馳走様。
ふう。
と言いながら後ろを向いて。
がっつく。
おお。ついに会得したな。
これは如何なる技でありましょうか。
罪悪感から逃れる技である。
デブ。
This is me.
痛い!
(終)
笑うしかない友
~奥義
汝に奥義を授けよう。
はっ。
構える。
はい。
そして、撃つ。
はっ。
と見せかけて撃たない。
はっ。
と見せかけて撃つ。
はっ。
撃つ。撃つ。撃つ。撃ちまくる。
はっ。はっ。はっ。
と見せかけて撃たない。
はあ。
と見せかけて。
撃たない。
と思わせて。
撃たない。
じゃあねえ。
ふう。
と言いながら後ろを見せて。
突然、振り返り、撃つと見せかけて撃たない。
おお。ついに会得したな。
これは如何なる技でありましょうか。
敵を鬱にする技である。
撃つ!
痛い。
(終)
夏目漱石を読むという虚栄
6000 『それから』から『道草』まで
6300 僻み過ぎたまでの『彼岸過迄』
6340 「技巧なら戦争だ」
6341 「僻み根性」
『彼岸過迄』の「高木」という名前は、作者の高所恐怖症的気分の露呈だろう。
<もし千代子と高木と僕と三人が巴(ともえ)になって恋か愛か人情かの旋風(つむじかぜ)の中に狂うならば、その時僕を動かす力は高木に勝とうとする競争心でない事を僕は断言する。それは高い塔の上から下を見た時、恐ろしくなると共に、飛び下りなければいられない神経作用と同じ物だと断言する。
(夏目漱石『彼岸過迄』「須永の話」二十五)>
「飛び下りなければいられない」は〈「飛び下りなければ」なら「ない」〉という義務の表現と、〈「飛び下りな」いでは「いられない」〉という欲求の表現の混交だ。
<或時サローンに這入(はい)ったら派出な衣裳(いしょう)を着た若い女が向うむきになって、洋琴(ピアノ)を弾(ひ)いていた。その傍(そば)に脊(せい)の高い立派な男が立って、唱歌を唄っている。その口が大変大きく見えた。けれども二人は二人以外の事にはまるで頓着(とんじゃく)していない様子であった。船に乗っている事さえ忘れている様であった。
自分は益(ますます)つまらなくなった。とうとう死ぬ事に(ママ)決心した。それである晩、あたりに人の居ない時分、思い切って海の中へ飛び込んだ。ところが――自分の足が甲板を離(はな)れて、船と縁(えん)が切れたその刹那(せつな)に、急に命が惜(おし)くなった。心の底からよせばよかったと思った。けれども、もう遅(おそ)い。自分は厭(いや)でも応でも海の中へ(ママ)這入らなければならない。只大変高く出来ていた船と見えて、身体は船を離れたけれども、足は容易に水に着かない。然し捕(つか)まえるものがないから、次第々々に水に近附いて来(ママ)る。いくら足を縮めても近附いて来る。水の色は黒かった。
(夏目漱石『夢十夜』「第七夜」)>
〈「這入(はい)ったら」~「弾いてい」るのが見え「た」〉が正しい。「自分」が「若い女」になったみたいだ。「脊(せい)の高い立派な男」になれそうにないので、「自分」は「益(ますます)つまらなくなった」のだろう。「口」が象徴するのは〈愛の告白〉か。授乳の要求か。
<僕はよく人を疑ぐ(ママ)る代りに、疑ぐ(ママ)る自分をも同時に疑が(ママ)わずにはいられない性質(たち)だから、結局他(ひと)に話をする時にも何方(どっち)と判然(はっきり)した所が云い悪(にく)くなるが、若(も)しそれが本当に僕の僻み根性だとすれば、その裏面には未(まだ)凝結した形にならない嫉妬(しっと)が潜んでいたのである。
(夏目漱石『彼岸過迄』「須永の話」十六)>
「代りに」は「同時に」と矛盾する。「疑ぐる自分をも同時に疑がわずにはいられない性質(たち)」なら、誰をも疑わないはずだ。「それ」は高木の「誇り顔」(「須永の話」十六)に対する「疑」だ。この「嫉妬(しっと)」は意味不明。「僻み根性」は「明治の精神」の類語。
6000 『それから』から『道草』まで
6300 僻み過ぎたまでの『彼岸過迄』
6340 「技巧なら戦争だ」
6342 コケットリー
「嫉妬(しっと)」が意味不明だから、それと対立するらしい「技巧」も意味不明だ。
<僕から云(い)わせると、既に鎌倉を去った後猶高木に対しての嫉妬心がこう燃えるなら、それは僕の性情に欠陥があったばかりでなく、千代子自身に重い責任があったのである。相手が千代子だから、僕の弱点がこれ程に濃く胸を染めたのだと僕は明言して憚(はばか)らない。では千代子のどの部分が僕の人格を堕落させるのだろうか。それは到底(とて)も分らない。或は彼女の親切じゃないかとも考えている。
(夏目漱石『彼岸過迄』「須永の話」三十)>
「鎌倉を去った後(あと)」には、高木と千代子は会わなくなった。
「僕の性情」とは、〈「競争心のない」(「須永の話」十七)こと〉だろう。「男らしくないとも、勇気に乏しいとも、意志が薄弱だとも」(「須永の話」二十三)と評される。
「墜落させ」は高所恐怖症的。
「親切」が仇になる。
<高木の名前を口へ(ママ)出さないのは、全く彼女の僕に対する好意に過ぎない。僕に気を悪くさせまいと思う親切から彼女はわざとそれだけを遠慮したのである。
(夏目漱石『彼岸過迄』「須永の話」三十一)>
「彼女」は千代子。「過ぎない」は〈「過ぎない」のだろう〉などが適当。
「遠慮したのである」も。〈「遠慮した」のだろう〉が適当。
須永は自分が空想する千代子の「親切」を、「露悪家」に特有の「技巧(アート)」(「須永の話」三十一)と疑うようになる。被愛妄想的気分が被害妄想的気分に転換したらしい。須永は、〈女の男に対する「親切」に偽装した「技巧(アート)」〉という考えを導入することによって、〈男が男に抱く嫉妬①としての「嫉妬(しっと)」〉と〈男が女に対して抱く嫉妬②としての「嫉妬(しっと)」〉を区別することに成功した気になる。その目的は、被愛妄想的気分を自身に対して隠蔽することある。自己欺瞞。夏目語の「技巧(アート)」は〈コケットリー〉と誤読される。
<しかし、ココットを一般的興味の中心からひきずりおろしたのは、多くの人が想像するように、有産階級のどこまでも押し通すきびしいモラルによってではなく、むしろ、こういうココットにたいして、有産階級の女性の中に現われた大きな競争によっていた。ココットはうしろへ押しやられてしまった。なぜなら、これまでのココットたちの生活様式は、だんだんに、有産階級の女性たちにも、受け入れられたからである。
(エードゥアルト・フックス『風俗の歴史』「9 性の商品化時代」)>
「ココット」は「上流相手の売春婦」(『風俗の歴史』)のこと。
Sの空想する静は、玄人の真似をしていた。嫉妬②を煽るために男をなぶった。
6000 『それから』から『道草』まで
6300 僻み過ぎたまでの『彼岸過迄』
6340 「技巧なら戦争だ」
6343 惚れたら負け
須永は千代子の「親切」の真意を疑うようになる。
<けれども若(も)し親切を冠(かむ)らない技巧(アート)が彼女の本義なら……。僕は技巧(アート)という二字を細かに割って考えた。高木を媒(お)鳥(とり)に僕を釣(つ)る積か。釣るのは、最後の目的もない癖に、唯僕の彼女に対する愛情を一時的に刺戟(しげき)して楽しむ積か。或は僕にある意味で高木の様になれという積か。そうすれば僕を愛しても好いという積か。或は高木と僕と戦う所を眺めて面白かったという積か。又は高木を僕の眼の前に出して、こういう人がいるのだから、早く思い切れという積か。――僕は技巧(アート)の二字を何処までも割って考えた。そうして技巧(アート)なら戦争だと考えた。戦争ならどうしても勝負に終るべきだ。
僕は寐付かれないで負けている自分を口惜(くや)しく思った。
(夏目漱石『彼岸過迄』「須永の話」三十一)>
「親切」とは、「高木の名前を口へ(ママ)出さないのは、全く彼女の僕に対する好意」と同じ意味だろう。「親切を冠(かむ)らない」は〈邪気のある〉と解釈する。この「技巧(アート)」と静の「技巧」は同じだ。「彼女」は千代子。「本義」は、静の「人間の心」(下十八)と同じだろう。
〈「二字を」~「割って」〉は意味不明。したがって、「考えた」も意味不明。
高木は正体不明。彼の千代子に対する感情も、千代子の彼に対する感情も、どちらも不明。〈「媒(お)鳥(とり)に」~「釣る」〉は意味不明。高木が「媒(お)鳥(とり)」つまり「他の鳥獣を誘い寄せて捕らえるための鳥獣」(『広辞苑』「おとり」)なら、須永にとって高木は友だちだろう。しかし、二人は交際していない。だから、ここは、友釣りの比喩が適当。〈友釣り〉とは、「自分の泳ぐ領域内に侵入する相手に対して闘争を挑むアユのなわばり意識の習性を利用する釣法」(『ブリタニカ』「友釣り」)だ。語り手の須永の日本語はおかしい。
「最後の目的」は不明。だから、「ない」が〈ある〉でも、無駄話。〈「愛情を」~「刺戟(しげき)して」〉は意味不明。
「ある意味」は、〈高木は千代子を略奪しそうだ〉という「意味」〉か。
須永も千代子も、〈愛されなければ愛さない〉というテーゼに囚われているらしい。このテーゼが〈エゴイズム〉などと誤解されてきたのだろう。これは、「極めて高尚な愛の理論家」(下三十四)のものだ。これは『こころ』で提示されるが、変に自嘲的で、やはりわかりにくい。『道草』では、このテーゼの無効性が明らかになる。
実際に、千代子が「技巧」を弄したのかどうか、わからない。無自覚に「技巧」を弄したのかどうか、また、須永以外の人に、どのように思えたのか、まったくわからない。
この「戦争」は、〈惚れたら負け〉あるいは〈惚れてもらえそうにないと思って諦めたら負け〉だろうか。〈art of war〉は〈戦術〉のこと。「最上の戦(たたかい)には一語をも交うる事を許さぬ」(『虞美人草』二)の「戦(たたかい)」と同じで、自分を愛させる競争。
「勝負に終る」は意味不明。須永が「負けている」のは、千代子が彼の前で「高木の名前を口へ出さない」理由について考えてしまうからだろう。「出さない」であって、〈出す〉ではない。考えさせたが勝ちか。
(6340終)
掘った ああ 或る脳
掘った ああ 或る脳
筆禍 ああ 有り
まあ 洞嚢 言う奇異
風味よ 襁褓 皮下
さあ ねえ つう つう
一通 確と恣意申す技能
東欧 呆気 逓増 おけさ
粟カレー 夕 食う
(終)