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夏目漱石を読むという虚栄 3210

2021-05-19 00:52:43 | 評論
   夏目漱石を読むという虚栄
 
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3200 「近づく程の価値のないもの」
3210 「一種の失望」
3211 「何処かで見た事のある顔の様」
 
青年Pは「淋(さび)しい人間」だったはずだ。しかし、その自覚がなかったのだろう。
 
<その時私はぽかんとしながら先生の事を考えた。どうも何処かで見た事のある顔の様に思われてならなかった。然(しか)しどうしても何時(いつ)何処で会った人か想(おも)い出せずにしまった。
その時の私は屈託がないというより寧(むし)ろ無聊(ぶりょう)に苦しんでいた。それで翌日(あくるひ)もまた先生に会った時刻を見計らって、わざわざ掛茶屋まで出かけて見(ママ)た。
(夏目漱石『こころ』「上 先生と遺書」二)>
 
「その時」は、PがSを見かけたときだ。〈「ぼかんとしながら」~「考えた」〉は意味不明。この「先生」は、Sであると同時に〈「先生」的人物〉でもあったろう。
「考えた」が「思われて」に下落している。
「思」の文字が「想」に変わっている。嫌らしい。
「何時(いつ)何処で」より、〈どんな「人」か〉という問題を先に解くべきだろう。
 
<私たちの実験によれば、過去のできごとを思いだすときに活性化する脳領域と、未来のできごとを想像するときに活性化する脳領域はほぼ重なっていた。脳にとって、この二つの行為のあいだにはほぼ違いというものがないようだ。
(マイケル・コーバリス『意識と無意識のあいだ 「ぼんやり」したとき脳で起きていること』)>
 
「屈託がない」は意味不明。
 
<気にかかることが一つもないさまでさっぱりしている。
*霧の中の少女(1955)〈石坂洋次郎〉四「二人は小指を絡み合せながら、屈託無く笑い出した」
(『日本国語大辞典』「屈託(くったく)無(ない)」)>
 
「無聊(ぶりょう)」は意味不明。
 
  • <心配事があって楽しくないこと。新花つみ「―の事なりとて、ひたすら避してうけざりけり」
  • つれづれなこと。たいくつ。「―を慰める」「―な日々」
(『広辞苑』「無聊」)>
 
本文の「無聊(ぶりょう)」は①だろうか。「苦しんでいた」というから、〈Pは退屈している「というよりも」気晴らしを必要としていた〉と解釈すべきだろうか。その場合、青年Pには何か「心配事」があったように思われる。「心配事」を、語り手Pは隠蔽しているわけだ。また、〈「心配事」を「先生」的人物が解消してくれる〉という物語をも隠蔽しているようだ。
 
 
 
 
 
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3200 「近づく程の価値のないもの」
3210 「一種の失望」
3212 「相手も私と同じ樣な感じを持って」
 
〈PとSの邂逅の物語〉は不可解だ。
 
<私は最後に先生に向って、何処かで先生を見たように思うけれども、どうしても思い出せないと云った。若い私はその時暗に相手も私と同じ様な感じを持っていはしまいかと疑った。そうして腹の中で先生の返事を予期してかかった。ところが先生はしばらく沈吟したあとで、「どうも君の顔には見覚(みおぼえ)がありませんね。人違(ひとちがい)じゃないですか」と云ったので私は変に一種の失望を感じた。
(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」三)>
 
「最後に」は、〈我慢しきれなくなって、話の流れを無視して〉などが適当。ここまで、Sは、Pにとってあまり興味のないような「色々の話」(上三)をしていた。
「若い」や「暗に」や「疑った」などは、過負荷だ。思わせぶりが過ぎる。
Pが「予期して」いたのは、〈私も「同じ様な感じを持って」いますよ〉だろう。だったら、〈先生も「同じ様な感じを持って」いらっしゃるのではありませんか〉と問えばよかろう。そのように問わない理由は不明。
Sの答えは、Pに対する応答としては、ずれている。Pが「予期して」いたのと違うのではなくて、普通の会話として成り立っていないのだ。
Pが「変に一種の失望を感じた」という理由は、Sの返事がPの発言に対して適切ではなかったこと、および、「予期して」いた「返事」と異なること、この二つだ。ところが、このことがPには整理できない。前者の場合、「変」なのはSだ。後者の場合、「変」なのはPだ。「一種の」だから、Pの「失望」は普通の意味での〈失望〉ではない。「予期して」いた「返事」が推定できなければ、「一種の失望」の意味を想像することはできない。
 
<「このお嬢さんなら、ぼくお会いしたことがありますよ」
するとご隠居さまがお笑いになって、
「そらまたそんなでたらめを。会ったことがあるなんて、そんなわけがあるものかね」
宝玉も笑いながら、
「いいえ、それは会ったことはないでしょうけれど、なんだがぼく、お顔に見覚えがあるような気がするんです。だからこれは昔の旧友で、今日こうして久しぶりに再会したということにしても、かまわないじゃないでしょうか?」
「そうかい、そうかい、それはよかった。そんな工合だといっそう仲良しになれるだろうね」
(曹雪芹『紅楼夢』第三回)>
 
Pが「予期して」いたのは、「ご隠居さま」のような対応だろう。彼女は真実を知らないが、「お嬢さん」の黛玉と宝玉は霊的な世界で「会ったこと」がある。ただし、二人ともその記憶を失くしていた。
 
 
 
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3200 「近づく程の価値のないもの」
3210 「一種の失望」
3213 認知的不協和
 
語り手Pは、語られるPの〈自分の物語〉における自分とSの亡霊との会話を語りなおしている。この〈自分の物語〉は怪談だ。
 
P 私は、なぜ、先生に対してだけこんな心持が起るのか解らなかったのです。
Sの亡霊 それは私が死んだ今日になってみれば、もう解っていましょう。私は、初めからあなたを愛していたのです。私があなたに示した時々の素っ気ない挨拶や冷淡に見える動作は、あなたを遠ざけようとする不快の表現ではなかったのです。
P 傷ましい先生! 
Sの亡霊 私は、自分に近づこうとする人間に、〈近づく程の価値のないものだから止せ〉という警告を与えていたのです。他人の懐かしみに応じない私は、他人を軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していたのです。
 
本文は、次のようになっている。
 
<私は何故(なぜ)先生に対してだけこんな心持が起るのか解らなかった。それが先生の亡(な)くなった今日になって、始(ママ)めて解って来た。先生は始(ママ)めから私を嫌っていたのではなかったのである。先生が私に示した時々の素(そっ)気(け)ない挨拶や冷淡に見える動作は、私を遠(とおざ)けようとする不快の表現ではなかったのである。傷ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づく程の価値のないものだから止(よ)せという警告を与えたのである。他(ひと)の懐(なつ)かしみに応じない先生は、他(ひと)を軽蔑(けいべつ)する前に、まず自分を軽蔑していたものと見える。
(夏目漱石『こころ』上四)>
 
「こんな心持」を要約することは、私にはできない。
「始めから私を嫌(きら)っていたのではなかった」には〈最後には私を嫌うようになった〉という含意がある。だが、この含意は無視しなければならないらしい。つらいな。
「傷ましい」は、私には皮肉に思える。〈イタ過ぎる〉みたいな感じ。
 
<こうした不協和を心理学では「認知的不協和」といって、アメリカの心理学者フェスティンガーが提唱した。これは、人が自分の考えなどと矛盾するものと出会った時に心のなかで生じるストレス状態のことをいう。このモヤモヤとした精神状況を解決するために、「自分は初めから嫌われてなどいなかったのだ」と思い込むようになる。この際、相手への好感度も自然とUPする。
認知的不協和を巧みに利用すれば、相手の考えを誘導することができるのだ。
(斎藤勇『マンガ 悪用禁止!裏心理学』)>
 
Sは、「認知的不協和を巧みに利用」していた。つまり、Sは人たらしだった。ただし、たらせる相手は、自分に似た「淋(さび)しい人間」に限られていたろう。
 
(3210終)
 
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