笑うしかない友
~間違い電話
アナタノオカケニナッタ電話番号ハ現在デハ使ワレテオリマセン……
知ってる。君は知ってるかな、現在ではなく、過去にこの番号が使われていたこと。知らないよね。だったら、未来はどうだい? 知らないよね。
アナタノオカケニ……
アナタって誰だよ。君は僕が誰だか、知っているのかい。知らないよね。知るはずがない。知られたくないから、僕はこの番号を選んだのさ。
……使ワレテ……
君は使われて?
……オリマセン……
君はいない。どこかにいるとしても、今はいない。僕の前にはいない。後ろにも、横にも、上にも、下にも。遠い池の畔に自生した木の枝で花弁が誰にも知られずに咲いて散るように、君はいない。君とのありえない出会いのことを、君は知らない。
君は何かを隠している。たとえば、正しい電話番号とか、正しい挨拶とか、正しい生き方、そして、死に方。
君は笑っている。きっと笑っている。そして、その笑いを隠している。笑うがいいさ、好きなだけ、勝手に、喉が嗄れて裂けるまで。
もう、終わりだよ。遅い。遅すぎる。だから、もう笑うことしかできないんだ、君は。そのことを君は隠しているよね。
笑いは最初の挨拶。そして、最後の挨拶。愛の挨拶。
現在デハ……
現在、君はどこにでもいる。どこにでもいることができる。どこにでもいてしまう。だから、君はいない。君はいなかった、いつも。
使ワレテ……
ほんの一息で吹き消すことができそうな炎を時間という風から守るように、君はある記憶を守ってきた。この炎という言葉は、誰かのある記憶の比喩だけど、同時に、その記憶の中で揺れ続けている炎それ自体をも表すんだ。知ってるよね。知ってて違う話をしてるんだよね。たとえば、電話番号とか、地球の未来とか、被害の思い出とか、行かなかった海の波打ち際とか。でも、僕は君の声をここでこうして聴いている。まるで、記憶の中の僕の両手が炎を覆うように、この耳を守っている。守れば守るほど、君の声が脳味噌に突き刺さって苦しい。
アナタノ……
僕は誰なの? 僕の手の持ち主は誰なの? 僕の手の持ち主が誰か、君は知っているの? 僕の知っている持ち主は、僕ではない。僕だと確定することができない。確定する根拠がない。かつては僕の手だった。でも、根拠はなかった。ただ、そのように教えられただけだ。そして、信じた。この手は僕の手だと。でも、思い出せない、その手が触れた何かを。その手が何に触れて、そして、ぴくっとして引っ込んだのか。君の何に触れたのか。触れなかったのか。
アナタ……
ああ、何度でも呼びたまえ、アナタと。僕を知らない君の声がアナタと言う。そして、それを僕の耳が捕まえる。何て平和なんだろう。
アナタ……
君と僕はあの同じ炎に手を翳してみたよね、あの夜、街路樹の下。マッチの炎を風が吹き消す前に、誰かが吹き消した。君か? 僕だっけ? じゃなくて、他の誰か? 違うか。でも、今の僕に思い出せる炎の熱は、あの夜の熱とは違う。だから、この手は僕の手ではない。
オリマセン……
近すぎるよ。火傷しちゃうよ。君の手は冷たい。機械のように冷たい。機械のように冷たい君の声。
現在デハ……
近い。近すぎるって。危ない。もっと離れて。そして、もっと話して!
あなたは出口を見ないことに決めていたんだよね。見えても見詰めないことにした。急速に落下する太陽の縁で、あそこからどこかへ帰還する鳥が翼を焦がすのを見たくなかった。あそこがどこだか、君は教えてくれなかった。
出口なんか、なかった。出口は比喩だ。ありもしない何かの比喩。君は何かを忘れたがっていた。でも、何を忘れたいのか、言葉にできなかった。思い出せなかったのかい?
アナタ……
よく聞く言葉だ。それが今も聞こえた。
僕が何を待つかによってアナタが誰なのか、決まる。僕が僕を待つのが現在なのか。
君は扉を見てしまう。そして、すぐに目を逸らす、壁に、床に、椅子に、窓に、空に。
扉が少しだけ開いている、いつからだろう。誰が開けたのか。自分で開けたのか。
扉は締まらない。誰かが蝶番を壊した。何度修理しても壊される。
扉の向こうで何かが動いた。蝶番の破壊者かやってきたのか。でも、何かはもういない。蝶番がまだ修理されていないから。違うか。
扉は閉ざされている。だが、その向こうで何かが動く。そんな気配がする。音はしない。
君は排除されようとしている。僕によって排除されようとしている。違うか?
君は退屈している。退屈するから、排除される。いい気味だ。
君は退屈し続けている。同時に緊張し続けている。
扉を開くと、廊下にいる何かを見ることができる。だが、君は扉を開かない。
君は自由だ。いや、自由ではない。君には僕を黙らせる力がない。だから、僕は自由だ。君の声を聴くときだけ、僕は自由だ。
自由とは何か。放棄だ。君の声を聴く権利の放棄だ。
僕は自由だ。君の声を聴いている僕の未来では、自由だ。
君に僕の声は聴こえない。だが、僕の声を聴かない自由は、君にはない。君は放棄できない、何も。
アナタノ……
君は隠している。湧き上がる怒りを隠している。あるいは、恐れを。
アナタ……
君は君ではない。だから、君には君でなくなる自由がない。
オカケニナッタ電話……
いや、この番号は間違っていない。間違っていなかった。だって、こうして君の声を聴いてるんだから。
……番号ハ現在……
退屈かい? 殺してあげようか? 僕は君を殺すことができるよ、簡単に、たった一つの言葉で。あばよ。
……バイチャ。
(終)