ヒルネボウ

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ネンゴロ 1962

2022-12-23 00:32:43 | 学習

   ネンゴロ

1962 びっくり無事か、キューバ危機。(キューバ危機)

(終)


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夏目漱石を読むという虚栄 6410

2022-12-23 00:32:43 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

6000 『それから』から『道草』まで

6400 どこへも行けない『行人』

6410 呪術的あるいは超心理学的

6411 嫉妬妄想

 

『行人』という題名は意味不明だ。読み方さえ、わからない。〈こうじん〉か、〈ぎょうにん〉か。〈ゆくひと〉かもしれない。

 

<行人(ゆくひと)は浄土の春の花見哉

落(おち)行(ゆく)は臆病風(おくびょうかぜ)か花いくさ

(『犬子集』)>

 

『行人』は途中で主人公が変わる。次のあらすじは、後半のものだ。

 

<長野一郎は妻を愛しつつも信じきれない。弟の次(ママ)郎は兄夫婦を和(なご)ませようと尽力するが、兄の苦悩は死か発狂か宗教か、いずれかを選択するかまで追いつめられていく。人間存在の不安と人間不信に悩みながら、容易に動けない知識人の孤独が描かれている。

(『近現代文学事典』「行人」)>

 

「妻」の名は「直(なお)」という。「信じきれない」は〈自分が妻に愛されていると「信じきれない」〉の略のはずだが、この事典はそのように解釈していないようだ。

「次郎」は「二郎」の間違い。彼が前半の主人公だ。選択できる「死」なら、〈自殺〉と書くべきだ。「発狂」を「選択する」ことはできまい。〈「宗教」~「を選択する」〉は意味不明。〈「苦悩は」~「追いつめられて」〉は、日本語になっていない。

「人間存在」や「人間不信」や「知識人」や「孤独」などは意味不明。

 

<「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入(い)るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」

(夏目漱石『行人』「塵労(じんろう)」三十九)>

 

一郎の発言。聞いているのはHだ。この発言を、Hは二郎に書き送るつもりでいる。

「死ぬか」って、人は必ず死ぬよ。「死ぬ」は〈自殺する〉のつもりか。「気が違うか」だと、まだ違っていないわけだが、どうかな。「宗教に入(い)る」は意味不明。「特定の宗教・宗派に帰依すること」(『広辞苑』「入信」)といった説明も意味不明。そもそも、日本人のほとんどは仏教徒だろう。そういう話じゃないの? へえ。じゃあ、どういう話? 

一郎は被愛願望を満たせなくて、お直の不貞を疑う。その相手は、弟の二郎だ。

 

<夫、あるいは妻が浮気をしているにちがいないという妄想。まったくなんでもない出来事がその証拠となり、相手方を監視下に置いて絶えず自白を強いるようになる。

(『精神科ポケット辞典[新訂版]』「嫉妬妄想」)>

 

一郎の嫉妬は妄想だろう。ただし、お直の気持ちは不明。二郎の気持ちは無関係。

 

 

 

 

 

6000 『それから』から『道草』まで

6400 どこへも行けない『行人』

6410 呪術的あるいは超心理学的

6412 「夫に責任の過半を譲(ゆず)るつもりか」

 

『行人』は、「友達」「兄」「帰ってから」「塵労」の四章から成る。「塵労」の後半はHの手紙で、これが終わると同時に『行人』も終わる。例によって尻切れ蜻蛉。

最初の「友達」の章は、二郎がその「友達」である三沢について語る。ただし、その前に、二郎の遠縁にあたる岡田とその妻の話がある。ほとんど無駄なような話なのだが、作者にとっては一つの峠なのだろう。これを越さないと、三沢の話に進めないらしい。

 

<もう晩(ばん)飯(めし)の用意も出来たから帰ろうじゃないかと云って、二人帰路についた時、自分は突然岡田に、「君とお兼さんは大変仲が好いようですね」といった。自分は真面目な積(つもり)だったけれども、岡田にはそれが冷笑(ひやかし)のように聞えたと見(ママ)えて、彼はただ笑うだけで何の答えもしなかった。けれども別に否(いな)みもしなかった。

(夏目漱石『行人』「友達」四)>

 

このあたりは、Pが花見で新婚夫婦について「冷評(ひやかし)」をする場面に似ている。Nの小説はネタの使い廻しなのだ。文芸的技法ではなく、似たような夢を見るのに似ている。

 

『門』  『彼岸過迄』 『行人』「友達」(一~十一) 『行人』「友達」(十二~三十三)

宗助   須永     岡田           三沢

お米   千代子    お兼           「あの女」と「看護婦」

安井   高木     二郎           二郎

―    須永の義母  ―            洗い髪の年増

 

「年増(としま)」(「友達」十八)は、出てきて、すぐいなくなる。岡田夫妻には子がない。『門』や『こころ』の夫婦の場合と同じ。二郎は、その理由を知りたがる。変な話だろう。岡田夫妻と二郎の物語を、作者は隠蔽している。つまり、構想できなかった。

 

<それで又「奥さんは何故(なぜ)子供が出来ないんでしょう」と聞いた。するとお兼さんは急に赤い顔をした。自分はただ心(こころ)易(やす)だてで云ったことが、甚(はなは)だ面白くない結果を引き起したのを後悔した。けれどもどうする訳にも行(ママ)かなかった。その時はただお兼さんに気の毒をしたという心だけで、お兼さんの赤くなった意味を知ろうなどとは夢にも思わなかった。

(夏目漱石『行人』「友達」六)>

 

「赤くなった意味」は不明。〈性行為をやり過ぎると妊娠しない〉という俗説の暗示か。あるいは、お兼は、『それから』の三千代のように、二郎に対して未練があって、夫との性行為を拒否していたか。二郎は、どちらも想像したのか。どちらも想像しなかったのか。作者は、何をしているのだろう。何かの伏線のつもりだったか。

『門』や『こころ』の場合、妊娠しない理由として呪術的なことが語られる。ただし、それが作品の内部の世界における真実とは考えにくい。

 

 

 

 

6000 『それから』から『道草』まで

6400 どこへも行けない『行人』

6410 呪術的あるいは超心理学的

6413 『趣味の遺伝』

 

S夫妻に子がいない理由は、不明。

 

<余が平生主張する趣味の遺伝と云(ママ)う理論を証拠立てるに完全な例が出て来た。ロメオがジュリエットを一目見る、そうしてこの女に相違ないと先祖の経験を数十年の後(のち)に認識する。エレーンがランスロットに始(ママ)めて逢う、この男だぞと思い詰める、矢張り父母(ふも)未生(みしょう)以前に受けた記憶と情緒が、長い時間を隔てて脳中に再現する。

(夏目漱石『趣味の遺伝』)>

 

作中で『ラブ・レイン』(韓国KBS)みたいな話が語られる。

「ロメオ」や「ランスロット」は無関係。こじつけでしかない。

 

<日本における催眠・超心理学の先駆者。東京帝大助教授のとき、1910年(明治43年)から御船千鶴子(みふねちづこ)(1886―1911)らについて透視・念写の実験的研究を始め、1913年(大正2)『透視と念写』を著し、それらが事実であると発表した。

(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「福来友吉」大谷宗司)>

 

 『行人』の読者は超心理学的解釈を試みるべきなのかもしれない。

 

<その話によると、兄はこの頃テレパシーか何かを真面目(まじめ)に研究しているらしかった。彼はお重を書斎の外に立たして置(ママ)いて、自分で自分の腕を抓(つね)った後「お重、今兄さんは此処を抓ったが、お前の腕も其処が痛かったろう」と尋ねたり、又は室の中で茶碗の茶を自分一人で飲んで置(ママ)きながら、「お重お前の咽喉(のど)は今何か飲む時のようにぐびぐび鳴りやしないか」などと聞いたりしたそうである。

(夏目漱石『行人』「塵労(じんろう)」十一)>

 

この「理論」が真実でも、通じる話になるとは限らない。

 

<「御父さん、その杉の根の処だったね」

「うん、そうだ」と思わず答えてしまった。

「文化五年辰(たつ)年(どし)だろう」

成程文化五年辰年らしく思われた。

「御前がおれを殺したのは今から丁度百年前だね」

 (夏目漱石『夢十夜』「第三夜」)>

 

Nは、〈自分とメイサの恋愛を互いの親に邪魔された〉という妄想を抱いていた。彼は、この妄想を処理するための、たとえば〈自分とメイサの恋愛を親が応援する〉といった物語を構想できなかった。代りに「趣味の遺伝と云う理論」をでっち上げた。

(6410終)


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