腐った林檎の匂いのする異星人と一緒
26 架空戦争
松葉杖の先が敷石の同じ個所を突いた。こつこつ。曲がっていた脚が伸びて、粗末な作業着の男の泥のように暗かった表情が解れた。喜び。だが、すぐに眦が裂け、怒りが浮かぶ。怒りが悲しみに変わり、諦めかけ、それから、怒りを拵える。今度のそれは硬い。
「兄貴?」
うだるような暑さだ。
杖を銃に擬して構える。だが、すぐに息切れ。杖は脇に挟み、片足を引きずりながらベンチに近寄る。ベンチには、彼に似ていなくもない男が掛けていた。前を向いている。身じろぎひとつしない。「兄貴?」という声が聞こえなかったのか。では、「兄貴」ではないのか。あるいは、無視か。
傷病兵は「兄貴」の前に立ちはだかった。だが、「兄貴」は彫像のように動かない。彫像か? 「兄貴」にとって、この元兵士は存在していないみたいだった。その視線は、眼前に立つ男の胴体をぶち抜いて遠い所にある何かに届いているみたいだった。「兄貴」の放った否認の弾丸をまともに食らったような気がして涙ぐみ、ぐっと堪えながら、彼はその痩せた上半身を捩じりつつ、「兄貴」に見えている何かを探した。だが、これといって、何も見当たらない。
「兄貴……」
図書館が休館になって久しい。知事は、休館の理由を明らかにしなかった。だから、開館のタイミングについて語ることもなかった。
「書物とは、そもそも、何なのでありましょう。それはヒステリーなのではありませんか。デザルグの架空戦争のようなものと申しましても過言ではありますまい。無限遠点への誤謬回帰であり、それはあると思えばあるし、ないと思えばないものなのです。真理と書物との間に因果関係を見出すことは易しいようで難しいのかもしれませんが、逆に言えば、かもしれなくもないのかもしれないのですからね。だって、ねえ、だって、そうでしょう?」
彼女の演説のこの部分だけを引用した記者は、元記者になった。
「書物を開くとき、心の小箱は閉じられます。心を開くには、書物を閉じなければなりません。開くは閉じる。閉じるは開く。閉じるは開く。開くは閉じる」
喘ぎながらも、彼女は唱え続けた。
あの日、近くて遠い場所にいた聴衆の数人は冷笑した。十数人は奇声を発した。数十人は静かに俯き、唇を噛んだ。大多数はぼんやりとしていた。社長たちは眠っていた。あるいは、眠ったふりをしていた。演説の途中から、三々五々、聴衆たちは帰還し、元聴衆に成り下がった。最後の一人が娘たちのいない部屋に戻ったとき、夜はまだ更けていなかった。だが、夕食には間に合わなかった。
元司書が見ていたのは、いや、見ているつもりでいたのは、図書館だ。ただし、それは実在しない。爆破されたからだ。図書館のあった場所は更地になり、棘のある雑草がぼさぼさと生えているばかりだ。生きている鉄条網。
元工兵は、身を屈めて元司書の背後に移動し、杖に縋って目の高さを同じくした。そうすることによって「兄貴」に見えている何かが自分にも見えるかと考えたのだ。
やはり、何も見えない。その代り、戦場の記憶が生々しく蘇った。新兵は、古参兵を「兄貴」と呼ばされていた。ある夜、敵地に侵入した「兄貴」の何人かが捕虜になり、やがて元戦友に銃口を向けるようになった。「兄貴」の銃弾がこの脚を傷つけたのだ。きっと、そうだ。しかし、どの「兄貴」だろう。
糸操りのように元司書の腕がゆるゆると上がった。図書館の跡地のその向うを指している。美しい青空に黒い点が現われた。飛蚊症か。いや、それは見る見るうちに拡大した。ああ、懐かしくも狂おしい、悔しい空飛ぶ円盤! 機銃掃射を始めた。ところが、元市民らは驚かない。逃げ惑わない。五月雨のように思ってか、軒下を借りる程度だ。
この区画は今週の戦場だった。忘れていた。「兄貴」もか?
(終)