夏目漱石を読むという虚栄
5000 一も二もない『三四郎』
5400 「ストレイ シープ」
5430 「迷える(ストレイ)子(シープ)」と「迷(ストレイ)羊(シープ)」
5431 「森の女」
『三四郎』は三四郎の惑いを描いた青春小説ではない。作者の惑いを露呈した模擬作品だ。三四郎の夢想を描いた小説ではない。小説のようなNの夢想の叙述だ。だから、明瞭な意味はない。恐ろしく恐ろしげな「意味」ならあるが、その「意味」は私に通じない。
普通の〈意味〉は、通じたようで、本当は通じていない。だが、通じたことにしてしまう。通じていないことが明らかになるまで、通じない部分は放置してある。情報を発信する側にも、それを受信する側にも、ある種の諦めがある。厳密に定義をすれば難しくなり、通じない。〈意味を調べてもリンク地獄に陥るだけ〉と知れている。
言葉には意味がある。ある言葉は、その意味を越えた何かによって言葉として認知される。その意味を成り立たせる何かがあるわけだが、その何かが何なのか、誰も知らない。知れば、それも言葉になる。それはあらかじめ知られているような事柄ではないのだ。それは、対話を含めた共同作業によって共有される。そして、作業が終わると同時に無用となり、忘れられる。それを〈理性〉と呼ぼうか。あるいは、〈社会性〉や〈友愛〉や〈神〉と呼ぼうか。何とぼ呼ほうと、呼ぶと同時に、それは言葉になり、意味が生じる。
夏目語の「意味」は、逆だ。通じなさそうだからこそ通じた気になる。〈通じる〉をも含めた言葉のあらゆる意味は、意味不明の「意味」によって制圧される。
常識的に解釈すれば、「ストレイ シープ」の美禰子的意味は、三四郎に通じていない。彼が通じたことにしてしまっているだけだ。一人合点。
美禰子をモデルにした「森の女」という題の絵の前で、与次郎が三四郎に問う。
<「どうだ森の女は」
「森の女と云(ママ)う題が悪い」
「じゃ、何とすれば好いんだ」
三四郎は何とも答えなかった。ただ口の内で迷(ストレイ)羊( シープ)、迷(ストレイ)羊( シープ)と繰返した。
(夏目漱石『三四郎』十三)>
なんちゃって。
三四郎は、ナンチャッテ・ロマンスの主人公を気取っている。語り手は、まことしやかに語る。作者は、嘘つきの語り手を支持している。『三四郎』そのものがナンチャッテ・ロマンスなのだ。三四郎の妄想恋愛を、作者は真実のように暗示している。
美禰子の自分語である「迷(ストレイ)羊( シープ)」の「意味」と三四郎の自分語である「迷(ストレイ)羊( シープ)」の「意味」が重なるとき、広田の自分語である「ラッヴ」が成り立つ。自分語を共有する者だけが「第三の世界」で出会うことになっている。
なんちゃって。
「ラッヴ」は夏目語だろう。作者は読者に向って、〈君ももしかして与次郎?〉と暗に問うている。〈違う〉と答えるのが夏目宗徒だ。しかし、Nこそが「ラッヴ」を知らないのだ。Nは性愛に関する自分の無知を隠蔽するために『三四郎』を書いた。
大量の夏目語の「意味」をNと共有できたように錯覚した人が夏目宗徒になる。
5000 一も二もない『三四郎』
5400 「ストレイ シープ」
5430 「迷える(ストレイ)子(シープ)」と「迷(ストレイ)羊(シープ)」
5432 蒟蒻問答
美禰子と三四郎は、蒟蒻問答をやっていたようだ。
<(旅僧のしかけた禅問答を住職に化けたこんにゃく屋の主人が受け、相互の誤解に基づいて滑稽なやりとりをする落語の題名から)話のかみ合わない会話。
(『広辞苑』「蒟蒻問答」)>
落語の『蒟蒻問答』では、言葉ではなく、ジェスチャーが用いられている。
「話のかみ合わない会話」というのは第三者の判断だ。「旅僧」と「こんにゃく屋」は、大いにかみ合っているつもりでいる。
アンジャッシュが蒟蒻問答的コントをよくやる。たとえば、二人の男がある女について話をしている。ただし、その女は同姓同名の別人だ。ところが、そのことに二人は気づかない。観客には二人の勘違いと知れているので、笑えるわけだ。
<それから主人は鼻の膏を塗抹(とまつ)した指頭を転じてぐいぐいと右眼の下瞼(まぶた)を裏返して、俗に云うべっかんこうを見事にやって退(の)けた。あばたを研究しているのか、鏡と睨(にら)め競(くら)をしているのかその辺は少々不明である。気の多い主人の事だから見ているうちに色々になると見(ママ)える。それどころではない。若し善意を以(もっ)て蒟蒻(こんにゃく)問答的に解釈してやれば主人は見性(けんしょう)自覚の方便として斯様(かよう)に鏡を相手に色々な仕草を演じているのかも知(ママ)れない。
(夏目漱石『吾輩は猫である』九)>
「それから」は無視。
「あばた」はNの恥部でもある。「鏡と」は〈「鏡」に映る自分「と」〉の略か。
「色々になる」は意味不明。
「それ」の指すものが不明。
「蒟蒻(こんにゃく)問答的」の「的」が怪しい。「見性(けんしょう)自覚」は「自己の本性を悟ること」(『吾輩は猫である』新潮文庫注解)だそうだが、意味不明。「自覚」は不要だろう。「鏡を」は〈「鏡」に映る自分「を」〉の略か。
<二世。前身は托善という禅僧で、「野ざらし」「こんにゃく問答」などの作者といわれる。
(『日本国語大辞典』「林家正蔵」)>
正蔵は、落語を「方便(ほうべん)」と考えていたのかもしれない。
「こんにゃく屋」は蒟蒻の製造や販売に携わるうち、自ずと悟りの境地に達していた。「旅僧」はそのことを鋭く察した。だから、第三者が彼に「話のかみ合わない会話」と教えてやっても、「旅僧」は承知せず、かえって凡人を見下す。
ワガハイは『蒟蒻問答』を、このように解釈していたのかもしれない。また、Nの解釈も同じだったのかもしれない。
5000 一も二もない『三四郎』
5400 「ストレイ シープ」
5430 「迷える(ストレイ)子(シープ)」と「迷(ストレイ)羊(シープ)」
5433 野狐禅
『チャンス』(アシュビー監督)のチャンスは庭師で、ぼけ気味の老人だ。質問されると、何であれ、園芸に関する話をする。聞いた人は、それを訓話や予言として解釈し、勝手に信じる。蒟蒻問答だ。ところが、彼を信頼すると成功する。信頼しないと成功しない。チャンスは池の上を歩く。イエスが湖を渡る話(『マタイによる福音書』14)が連想される。
<「偽預言者(にせよげんしゃ)を警戒(けいかい)しなさい。彼(かれ)らは羊(ひつじ)の皮(かわ)を身(み)にまとってあなたがたのところに来(く)るが、その内側(うちがわ)は貪欲(どんよく)な狼(おおかみ)である。あなたがたは、その実(み)で彼(かれ)らを見分(みわ)ける。茨(いばら)からぶどうが、あざみからいちじくが採(と)れるだろうか。すべて良(よ)い木(き)は良(よ)い実(み)を結(むす)び、悪(わる)い木(き)は悪(わる)い実(み)を結(むす)ぶ。良(よ)い木(き)が悪(わる)い実(み)を結(むす)ぶことはなく、また、悪(わる)い木(き)が良(よ)い実(み)を結(むす)ぶこともできない。良(よ)い実(み)を結(むす)ばない木はみな、切(き)り倒(たお)されて火(ひ)に投(な)げ込(こ)まれる。このように、あなたがたはその実(み)で彼(かれ)らを見分(みわ)ける。」
(『マタイによる福音書』7)>
チャンスは「偽預言者(にせよげんしゃ)」だろうか。
「実(み)」の寓意は不明。
ワガハイは一種の「偽預言者(にせよげんしゃ)」だろう。だが、作者の意図は不明。
<禅宗用語。野狐とは「のぎつね」の精のこと。悟ってもいないのにいかにも悟ったふりをして人を欺き、奇異な言動をする禅の修行者のこと。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「野狐禅」)>
広田は三四郎に「良(よ)い実(み)」を与えたのか。こんな問題は成り立たない。本文が意味不明だからだ。広田が本物の思想家なのか、野狐禅なのか、わからない。
「ストレイ シープ」の美禰子的意味と三四郎的意味が二人の心の深層で共有されていたとしよう。だったら、いつの日か、二人は再会し、『それから』みたいに、やけぼっくいに火がつきそうだ。だったら、『三四郎』は尻切れ蜻蛉だろう。逆に、尻切れ蜻蛉ではなくて、そして、再会がありえないとしたら、「ストレイ シープ」の「意味」は〈結婚したとしても「淋しさ」を抱いて生きるしかない変人〉といった、ありがちな暗い喜劇になりそうだ。その場合、三四郎が「ストレイ シープ」と呟けば、与次郎にだって了解できてしまいそうだ。だったら、三四郎が呟かない理由は不明。
「ストレイ シープ」の「意味」は、広田のいう「露悪家」と同じだろうか。同じなら、なぜ、その言葉を三四郎は用いないのか。「ストレイ シープ」が「露悪家」よりも深い洞察に基づくのなら、三四郎は広田を追い抜いたことになる。この場合、広田は野狐禅だったことになる。逆に、「ストレイ シープ」の「意味」が「露悪家」以下なら、三四郎が野狐禅で、そして、『三四郎』は尻切れ蜻蛉ということになる。
「美禰子の使ったstray(ストレイ) sheep(シープ)の意味がこれで漸く判然(はんぜん)した」(『三四郎』六)と語られているが、私にはちっとも「判然し」ない。
(5430終)