団地小説短編集を歩く

団地小説短編集の舞台を歩きながら団地や地域の魅力をお伝えします。

小説キャナルタウン 67 能福寺 ジョセフ・ヒコの英文碑 平清盛公841回忌追善法要

2021-02-12 06:00:14 | 日記

 平清盛公の回忌追善法要は2月4日、治承5年閏2月4日の御命日を日付け優先で新暦の置き換えて行います。お参りさせてい

ただくのも4回目になります。

    小説キャナルタウン 6 新兵庫運河物語2 能福寺 平清盛公837回忌追善法要(2017.2.9)

    小説キャナルタウン 35 能福寺 北風正造君碑 平清盛公839回忌追善法要(2019.2.15)

    小説キャナルタウン 53 能福寺 瀧善三郎正信碑 平清盛公840回忌追善法要(2020.2.28)

       平清盛公841回忌追善法要

   

 ご住職の御挨拶です。昔は清盛塚で行なってきました。平清盛公800回忌に能福寺に平相国廟が再建されて以来、能福寺で回

忌法要を行なってきましたが、コロナ禍の中今年は私一人ででも法要をするつもりでしたが、清盛公を慕う多くの人が集まってい

ただきありがとうございます。

  

 大河ドラマ「平清盛」の放映で境内が大変密になったこともありますが、今は安心してお参りいただくことが出来ます。

   

 ご焼香もソーシャルディスタンスです。

 ご住職のご法話です。兵庫は幾度もの戦乱、震災、そして疫病にも襲われましたが前向きな気持ちで乗り越えてきました。前向

きな気持ちが大切です。コロナ禍を前向きな気持ちで乗り越えていきましょう。

       ジョセフ・ヒコ英文碑

   平相国廟は1回目をご覧下さい。北風正造君碑、瀧善三郎正信碑と境内をめぐっています。

  

       ジョセフ・ヒコの英文碑

 我が国の新聞の父として、米国リンカーン大統領と握手した唯一の日本人として、下田の港で開国を迫った、ペルリ提督の通訳

として有名なジョセフ・ヒコ(浜田彦造)の手になる英文である。神戸港に着いた外人客が神戸のマスコットであった「兵庫大

仏」に多数参拝に来ることから能福寺第19世住職加藤慈晃師がジョセフ・ヒコに依頼して寺の縁起を英文で作ったものがこの碑

である。(明治25年頃)わが国最初の英文碑といわれている。
     
    上部に英文、下部が漢文になっています。

    漢文です。   傳教大師延暦廿三年  恭奉勅入唐伝法往還  寄即最初教化之霊場

 二、三の不確かな字がありますがだいたいこんな意味だと思います。英文も同じことが書いてあると思います。

  

 碑の上部の英文部分です。


  浜田彦造 幼名:彦太郎(ジョセフ・ヒコ)は兵庫県播磨町古宮の出身で町内にはゆかりの事物があります。

       播磨町資料館

   

 ジョセフ・ヒコの生涯と功績のパネルと海外新聞の第1号(複製)、自叙伝「漂流記」が展示してあります。

         栄力丸 15分の1模型  ジョセフ・ヒコが遭難漂流した船

  

   
 
       栄力丸  1500石積(225トン)弁才船

  全長 29.16m  航(かわら)一枚板の分厚い船底材の長さ 15.93m  船幅 8.67m  深さ3.12m


       蓮華寺 横文字の墓

   

       「新聞の父」ジョセフ彦建立の墓(横文字の墓)

 ジョセフ彦は天保8年(1837)本町古宮に生まれ幼名を彦太郎と言った。

 13歳の時、栄力丸で江戸見物を終えて故郷への帰途、遠州灘で暴風により遭難し、漂流し米国商船に救われ、サンフランシス

コについた。1年後送還中再びホンコンから渡米し、カトリックの洗礼を受け、安静5年(1858)アメリカの市民権を得た。

翌年、米領事館通訳として帰国、日米修好条約の締結などに奔走した。その後再度米国に渡りリンカーン大統領とも会見した。

 再び帰国した彦は、元治元年(1864)わが国最初の新聞「海外新聞」を発行した。

 この墓は、明治3年(1870)1月帰郷のとき両親等のために建立し翌年11月に除幕式を行ったもので、裏面に英文が刻ま

れていることから地元では英文の墓と呼んでいる。

                     平成4年2月             播磨町教育委員会

  

 墓の裏面が英文になっています。

  ERECTED TO THE MEMORY OF HIS PARENTS & FAMILY BY JOSEPH HIKO.  Decembr.1870

 墓の右面には明治三年十一月と旧暦で表記されているのに対し英文は1870年12月と新暦で書かれています。日本は明治5

年から新暦になりました。
 
 当時の田舎の石屋さんではアルファベットは初めてになりますので、見本を書いて彫ってもらったそうですが石屋さんの技量も

大したものです。


       ジョセフ・ヒコ生誕の地

   

       史跡 ジョセフ・ヒコの生家跡

 新聞の父、ジョセフ・ヒコは天保8年(1837)古宮村(古宮)に生まれ、幼名を彦太郎といった。ここは、その生家跡とい

われている。実父がなくなって、数年後、母は彼を連れて、隣村浜田村(現・本荘東)の吉ヱ門のもとに再婚したが、嘉永3年に

なくなった。彦太郎(当時13歳)は、その年住吉丸で江戸に向かう途中、熊野で栄力丸にのりかえ、江戸見物からの帰途、遠州

灘で暴風にあい、漂流すること50日余、米船オークランド号に救助された。その後数奇な運命をたどりながら、アメリカの市民

権を得て帰国。幕末から明治にかけて日本の外交界・実業界に活躍し、明治30年(1897)12月に死去した。生家の絵は彼

の自叙伝「ナレテイブ」からとったものです。

                     昭和62年8月       播磨町教育委員会

 地図は明治26年の2万分の1地図になります。矢印右が生家、矢印左が育った家です。

       もう一つの生誕の地 碑        

   

 新聞の父 ジョセフヒコ誕生の地   裏面に 昭和50年4月 播磨ライオンズクラブ 十周年記念 とあります。

 場所的には「育った家」の近くになります。巨大な人工島の入り口になりますので記念碑的に建てられたと思います。この人工

島のおかげで小さな町に大きな工業地帯、播磨町は財政が豊かです。


       栄力丸漂流150年記念碑   正願寺

   

 1853年1月22日にアメリカで発行された「イラストレイテッド・ニュース(絵入り新聞)」の記事1ページ分がそのま

ま刻まれています。イラストには同一人物が二度描かれていますので18人になっています。文字部分は小さくて写真では読め

ないと思います。

             怒涛を越えた男たち

   嘉衛3(1850)10月   1600石積廻船栄力丸   遠州灘沖で破船太平洋上を漂流すること五十余日   

   船頭万蔵ら17名   米船オークランド号に救助され   サンフランシスコに上陸

   異文化に触れ とまどい おののき 憧れつつも 遠き故郷の山河を思う

   鎖国から開国 動乱と混迷の時代    怒涛の果てに見た男たちがたどる   希望と失意 栄光と挫折の生涯   

   歳月過ぎて 漂流より150年  その面影をイラストイテットニュース1853年1月22日刊より写し記念の碑とする   

                           2000年(平成12)年12月



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