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「勘竹庵」evnc_chckの音楽やそれ以外

音楽の話題が中心になるかもしれませんが日々の雑感など書いていけたらと思っています。

今日、聴いた音楽 ヘンリク・ミコワイ・グレツキ交響曲第3番「悲しみの歌の交響曲」作品36

2009-08-18 00:05:53 | 音楽(クラシック)
ベートーヴェンの交響曲第9番ニ短調が1824年に初演され、ここでベートーヴェンは自身の持てる音楽的技術をすべて注ぎ、壮大・絢爛な交響曲の頂点を提示してみせた。

そして最後に厳粛な低音が地を這うように響く中、突如としてバリトン歌手に歌わせた。
「こんな音楽は意味が無い!さぁ、人生の希望と喜びをともに謳おうではないか」
と。

それから150年を経て、ポーランドの作曲家グレツキは自身の交響曲第3番で、同じ厳粛な低音のカノンに乗せて、古い15世紀のポーランドの祈りの言葉をソプラノ歌手に語りかけさせた。

私の選ばれし愛しい息子よ
おまえの傷をおまえの母と分かち合おう
愛しい息子よ
私はずっとおまえを私の心に抱き
そしておまえに忠実に仕えてきたのだ
母に語っておくれ
母を幸せにしておくれ
これが私の望み
おまえは今、私の元を去って行くのだから・・・
(CDの英語詩を訳したんで少しいい加減かも・・・)

聖母マリアが亡きイエスに語りかけた哀歌である。
神に選ばれた息子のすべてを受け入れ、真摯につくした聖母の姿はここには無い。ただ若くして自分よりも先にこの世を去った息子をひたすら思う、悲しい母の姿しかここには無い。

第二楽章。
清らかで哀しみをたたえたコラールに続き、ソプラノ歌手は、ナチスの秘密警察の本部があったザコパネの第3独房の壁に刻まれた、ヘレナ・ヴァンダ・ブワジュシャクヴナという18歳の少女の祈りを語って聞かせる。
この少女は1944年9月25日より投獄されたと自身で刻んでいる。

お母さん、だめ。泣かないで
天国の清らかな女王様
いつも私を救っていてください
恵み溢れるマリア様
(これもCDの英語詩を訳したんで・・・)

この少女の行方はわからないが、祈ることで彼女は少しでも救われたのだろうか?ただ祈るだけであったのか・・・。少なくとも明日をも知れない身では無い、平和な時代をただ漫然と生きる私は、せめてこの少女が人類の未来に絶望せずにいられたと信じていたい。

第三楽章
ポーランドのオポーレ地方の民謡が語られる。

私の愛しい息子はどこへ行ったの?
たぶん、蜂起したとき邪悪な敵に殺されたのね
ろくでなしどもよ
神様の名の下に教えて
なぜ私の愛しい息子を殺したの?
(以下、長いので省略します。すいません・・・)

シンプルな和音のストロークを奏でる弦、管に重なるように。あるいは支えるように響くピアノの断片が、哀しくも強靭な民族の魂を聴かせる。
このオポーレの歴史的ないきさつはわからないが、なんという哀しい民謡だろうか。

19世紀に人生の歓喜を信じたベートーヴェンの第九番交響曲から180年経ち、私たちは今も未来に喜びと希望を持っていられるだろうか?

グレツキの第三番交響曲を聴き、涙を流せる人々がいるまではそう信じたいと思う。

今日、聴いた音楽 シャルル・カミーユ・サン=サーンス「ピアノ協奏曲第2番ト短調 作品22」

2009-08-12 00:03:18 | 音楽(クラシック)
続く第2番協奏曲です。

第1番から実に10年後の1868年に作曲されています。

イタリアのバロックのような、バス声部とアリアのレチタティーボをピアノが独奏で演奏し、技巧的な独奏が繰り広げられます。
そして、まるでオラトリオかオペラでも始まるのか?と思わせる宗教音楽のような劇的な前奏が強い印象を与えます。

その後は物悲しげな主題の提示。実に明確に伝統的なソナタ形式で古典派管弦楽が続きます。
モーツァルトから始まりベートーヴェンまで、きっちりと自身に消化していないとこういう音楽は書けないな・・・。と思うのですが、そういう技巧しか感じないんですよねぇ。もちろん第1番から続けて聴けばその技術や創意の進化は明らかなんですが、これだったら前半はベートーヴェンの「皇帝」を。後半はチャイコフスキーの第1番を聴けばそれで十分だ。と感じてしまいます。

随分と前のことですがツェルニーのピアノ協奏曲を聴いたことがあります。

ツェルニーと言えばベートーヴェンにピアノを学び、大ピアニストにしてロマン派最後の巨匠であったFリストの師匠として、また現在ではピアノ学習に必須とも言える多くの練習曲集で有名です。
リストはベートーヴェンに学んだツェルニーが自分の師匠であったことから、「自分はベートーヴェンの直系の弟子だ」と自慢していたそうです。

で、横道にそれましたが、サン=サーンスのこのコンチェルトにもその時に感じた、「よそからの借り物の集合体」を感じてしまいます。

彼は1835年の生まれですから時代的には1833年生まれのブラームス、1824年生まれのブルックナーなどと活躍時期が重なります。
あくまで古典主義の技法を継承しつつ、より進歩的にアプローチをし続けたブラームス。
本人の意思かどうかはともかく、ブラームスと対立しつつロマン派の音楽をその深い宗教観で極限まで壮大化し、瞑想と解脱の領域にまで高めたブルックナー。

同時代に生きながら、サン=サーンスの孤軍奮闘と呼ぶにはあまりに痛々しいこの停滞感のある音楽はどうでしょう?

構成力も技術力もすごいのに、悲痛なまでに取り残された彼はそれでもポピュラーな人気のある「動物の謝肉祭」などでは、近代音楽を思わせるような技法も聴かれます。

当時のフランス音楽界において権威ある指導的立場であった人物で、唯一国葬でもって弔われた作曲家だそうですので、あまりに冒険的な進歩主義には迎合できなかった、時代の犠牲者というのがやはり正しい認識なのでしょうか?

今日、聴いた音楽 シャルル・カミーユ・サン=サーンス「ピアノ協奏曲第1番ニ長調 作品17」

2009-08-10 00:04:51 | 音楽(クラシック)
音楽を鑑賞するにしても、自分で演奏するにしても、そういった趣味を持たれた方のブログはよく「今日、聴いた音楽」について書かれたものが多いように感じます。

で、たまには自分もそんな記事を書いてみようかと・・・。

今日、聴いたのはGabriel Tacchino ピアノ、Louis de Froment指揮、ルクセンブルグ放送管弦楽団による「シャルル・カミーユ・サン=サーンス」のピアノ協奏曲1番ニ長調、および同2番ト短調。

第1番は1858年の作曲なのでサン=サーンス23歳の作品です。23歳にして本格的なピアノ協奏曲作曲というのは、歴史上の大作曲家の中でもかなり早熟な方ですが、そもそもサン=サーンスが所謂「神童」であったのは有名なことです。

2歳からピアノを習い始め、10歳で初リサイタルを開きます。2曲のピアノ協奏曲を弾いてみせ、更にアンコールでは「ベートーヴェンのソナタ集、ショパンの練習曲集からなら、どれでもリクエストしてもらえれば暗譜で弾きます」と言ってのけたそうです。すげぇ!けどイヤなガキだ・・・。

因みに私の知っているピアノストの生徒さんで、バッハのインヴェンション全曲を、暗譜で全調に移調しながら弾く小学3年生がいるそうで、世の中にはいつの時代にも「神童」タイプの子供はいるもんです。

で、この第1番協奏曲ですが、第一印象は「中途半端な曲だなぁ」といったところです。

冒頭のホルンによる爽快で印象的な上昇フレーズに、思わず「お!マーラーみたいだ」と思ったのも一瞬のことで、ピアノが入ると安いモーツァルトかと思うような妙にチャラチャラした雰囲気です。軽快と言うにはあまりに中身の無い構成で、彼がどんな音楽を目指しているのかが正直よくわかりません。

この時期に若きサン=サーンスは、フランスのオルガン奏者としては頂点である「マドレーヌ教会のオルガニスト」に就任しており、演奏家としての評価は最大のものであったそうです。それだけに立場的には保守的な「古典主義」思想に片足を置かざるをえず、それでいてより壮大でトラマティックになっていた、「後期ロマン派」音楽の先鋭さも取り入れたい。という彼の思いと言いますか迷いが感じられる折衷的な音楽になっていると思いました。

長いんで2番は次回に・・・

German historic hold!(最終回)

2009-05-13 00:09:01 | 音楽(クラシック)
前回、学校教育では古典派、ロマン派の音楽に続くものが今ひとつ片手落ちのように感じる旨を話させていただきました。

日本の音楽教育において古典派、ロマン派後の音楽史が今ひとつ中途半端に思います。
フランスを中心にした「印象派≒フランス近代音楽」のドビュッシーとラヴェルが何の前触れも無く現れ、ドイツではロマン派の時代にいてシューマンに見出されながら、古典的な作風を維持して「新古典派」とやや皮肉られているブラームスぐらいしか登場しません。
後期ロマン派まではあれほど「ゲルマン」一辺倒であった日本の音楽教育が、何故かこの時代まで来ると「印象派≒フランス近代音楽」こそがこの時代の音楽のメイン・ストリームであるかのように教え始め、ドイツの音楽家がことごとく無視され始めます。
この心変わりがよく理解できません・・・。ドイツと一緒に戦争をやって負けたことが戦後教育に大きく関係しているのかしら・・・?何て思わず勘ぐってしまいます。

冗談はともかく、実際は日本の音楽教育が大好きなドイツやオーストリアにも、ロマン派のカテゴリーに入りながらより進歩的な音楽、スケールの大きな音楽を創作した作曲家がたくさんいるのです。
例えばブラームスと同時代ではワーグナー、ブルックナー
少し時代が進んでマーラー、R・シュトラウス、ラフマニノフ

彼らは近代→現代と「進歩することこそが芸術の本旨」のように思われた時代は、いつまでもロマン主義的な作風に停滞する時代遅れの作曲家と思われたのか、日本で演奏会などで聴く事はあまり機会がなかった作曲家です。
実際のところはドビュッシーはロマン派的音楽からスタートしたものの、独自性を求めて教会旋法の利用や不協和音の使用などを始めたもので、その後に続く音楽家に大きな影響を与えたことは疑いようもありませんが、実際にこの時代の主流であった音楽はロマン派のカテゴリーの音楽でした。
ブルックナー、マーラー、R・シュトラウスなどは第二次世界大戦が終わって、ようやく世界中の指揮者やオーケストラ、演奏家が作品を取り上げてじょじょに日本人も彼らの作品を聴くようになりました。現在ではCDショップに行ってもドビュッシーの交響詩などよりも、マーラーやブルックナーの交響曲のほうがたくさん店頭に並んでいるように思います。
しかし学校ではこれらの作曲家は未だにまったく登場しないかトピックス的な音楽史の捕らえ方しかしていないように思います。
どういったトピックスかと言いますと国民学派とかロシア五人組とかがそれにあたります。ドヴォルザークとかリムスキー=コルサコフなどは民族的な旋律やテーマが愛国的であったりする。という特徴を除けば曲の実体はロマン派の範疇であると思います。
そして現在でも映画やミュージカル、ゲームなどのBGMとして、商業音楽の世界でロマン派的な技法は現役を続けています。
以上は私見であることをお断りしておきます。

German historic hold!(4)

2009-05-10 00:05:43 | 音楽(クラシック)

前回、学校教育ではバロック音楽の時代はバッハを中心に回っていたかの説明が実際のところどうであったか?を私見で検証しました。

次に古典派音楽です。
古典派においても「神童」モーツァルトと「交響曲の父」ハイドンが時代を席巻していたかのような勢いで教育を受けましたが、当時の超大国オーストリア・ハンガリー帝国の王家(ハプスブルグと言うべきか)の音楽上の要職はイタリア人で独占されており、ハイドンは大貴族とは言えハンガリーの貴族であるエステルハージー家のお抱え、モーツァルトはスポンサーと折り合いが悪く順風満帆の音楽人生でも無かったようです。そのモーツァルトが絶大な尊敬を抱いていた大バッハの息子クリスティアンも、父と違い最新のイタリア音楽の技術や趣味を自身に取り込むことで成功したと言われています。
この時代に関してもイタリアの音楽家がヨーロッパ音楽の最先端で活躍していたと理解できるのですが、学校ではそうは教えていないように思います。

このあたり映画「アマデウス」で描かれていますね。

時代が進み音楽の大衆化が進むと権威のある教会や貴族のものであった音楽も、少し生活に余裕があれば楽しめるようになりました。またモーツァルトのように、自身の演奏を一般の聴衆から金を取って聴かせる、所謂「リサイタル」のはしりを始めた先人の功績もあって、純粋に「演奏家」として生活のできる人間が現れたことも音楽の大衆化に寄与したと思います。これによって地方の出身でも才能があればボーダレスに活躍できる環境が整い、多数のコスモポリタンな音楽家の活動が始まったわけです。ポーランド出身のショパンやハンガリー出身のリスト、フランスのベルリオーズなどです。
もちろん日本の音楽教育が大好きなドイツにもシューマンやメンデルスゾーンなどがいます。
しかしこの後の日本の音楽教育上の音楽史が今ひとつ中途半端に思います。
・・・つづく
以上は私見であることをお断りしておきます。


German historic hold!(3)

2009-05-08 00:01:44 | 音楽(クラシック)
長男の学校の音楽の試験対策に音楽史を教えようとテキストを確認しましたら、えらくゲルマン寄りの音楽史になっており、改めて驚きました。
どれほどゲルマン寄りかを、私見満載ではありますが考察していきたいと思います。

まずバロック音楽です。この時代はポリフォニックな音楽が頂点をきわめ、巨大なバロック建築に呼応するように音楽の規模も壮大になり、特にオルガン音楽が発達しました。
バロック音楽におけるバッハの偉大な位置づけは理解はできます。私もバッハの巨大伽藍を思わせる構築的な対位法音楽には恐怖すら感じる壮大さと緻密さを聴くことができます。しかしこの時代からロマン派初期にかけてヨーロッパの音楽界で圧倒的な力を持っていたのはイタリアでした。古典的な音楽の範囲において、バッハの主活動分野であった宗教音楽は「教会の権威」が高い時代の中ではそれなりに重要なものですが、最も聴衆の支持を得ていたのはオペラであったわけです。現代で言えばハリウッドの映画プロデューサー、ディレクター、脚本家、音楽監督と、教育的・道徳的な教育映画の監督、脚本家、作曲家を比較するようなものでしょうか?どれほど高尚で高い精神性にあふれた教育映画であっても時代のトレンドを創造するほどの影響力までは発揮できないように思います。
そういう意味ではよく並び称されるもう一人のバロックの大家であるヘンデルは、ドイツの田舎をさっさと抜け出してイタリアでオペラを作り更にはイギリスに渡って、ドイツ同様にオペラのニーズはあれどサプライヤーの不足していたかの地で、オペラの「作曲家兼興行主」として実に当時の音楽界での理想的な成功者でありコスモポリタンであったわけです。有名なオラトリオ「メサイア」も宗教曲ですが、オラトリオというものがそもそも「教会で演じられるオペラ」なのです。
何故か学校では西洋音楽の歴史はまるでバッハから始まったかのごとくの教育で、この時代は教会でしか音楽が鳴っていなかったかのような表現に感じます。現実は映画「カストラート」で見られるようにオペラが大衆娯楽の殿堂であったわけで、そこで流れる音楽が時代を牽引していたことでしょう。
・・・つづく
以上は私見であることをお断りしておきます。

German historic hold!(2)

2009-05-05 01:27:08 | 音楽(クラシック)
長男の学校の音楽の試験対策に音楽史を教えようとテキストを確認しましたら、えらくゲルマン寄りの音楽史になっており、改めて驚きました。
どれほどゲルマン寄りかを、私見満載ではありますが考察していきたいと思います。

子供のころ(中学生くらい)からジャズやフュージョンばかり聴いていたのですが、音楽の授業は大好きでしたので「音楽鑑賞」の時間に聴くクラシックの名曲はけっこう楽しい時間でした。
最近はどうか知りませんが日本の学校の音楽室には、いかめしい表情の大作曲家たちのポートレイトが飾られています。だいたい年代順に「バッハ」から始まって「モーツァルト→ベートーヴェン(その前にハイドンが入ったり・・・)→シューベルト→ブラームス(その後にチャイコフスキーがあったりここで終わったり・・・)」といった具合のラインナップでした。
音楽史を少し理解された方々はお気づきでしょうか?ほぼ全員ドイツかオーストリアの作曲家で占めています。歴史の途上ではオーストリア領になったり現在はドイツだったりする地域で生まれた作曲家もいるので、簡単には判断できないのですが何にしてもゲルマン民族ばかりです。
ですから私も子供のころからクラシックと言えば「バロックはバッハ」「古典派はモーツァルト、ハイドン」「ロマン派はシューベルト」というイメージでした。ベートーヴェン?あの人を時代で簡単にくくっちゃだめでっせ。
それはともかく・・・。
音楽の授業ではロマン派に続くようにフランスを中心とした近代音楽が登場し、従来のクラシックらしい厳格な和声の範囲の音楽が否定され、ついには調性や形式破壊が起こり現代音楽に続いている。というような音楽史を学んだように記憶しています。

自分で趣味とは言え作曲を始めると、音楽を創る技術的な知識だけで無くその技術がどういった時代の要求から生み出されたのか?とか、元々どういった基本的なアイディアがあって現在に到るプロセスがあるのか?といった音楽史の範疇の知識を把握することは有意義であることに気づきました。
そんなもの無くても誰もが目を見張るような斬新なアイディアや技術を生み出す天才なら、そんなこと勉強する必要などまったく無いと思いますが、私は自他共に認める普通の人間ですので先人の足跡をたどり、その偉大なおこぼれを拝借するしか無いわけです。

で、まぁそれはともかく教養として音楽史を特に音楽の技術的な側面から勉強し直すと、学校教育の音楽史が相当偏ったものであることがわかります。
えらく前置きが長くなりましたが、次回より私見で音楽史について検証をしていきたいと思います。
・・・つづく

German historic hold!(1)

2009-05-01 00:45:58 | 音楽(クラシック)
長男の学校の音楽の試験勉強につきあいました。
楽典に関するものは家内が面倒をみたほうが良いのですが、音楽史に関しては私のほうがいいだろうということです。

テキストをパラパラと眺めたところ古い順に以下の作曲家が記載されていました。
そしてそれらの作曲家の音楽史上の区分が注記されています。

カチーニ(バロック派 ただし旋律とバスで構成された音楽としての)
ヴィヴァルディ(バロック)
JSバッハ(バロック)
ヘンデル(バロック)
ハイドン(古典派)
モーツァルト(古典派)
ベートーヴェン(古典派)
ショパン(ロマン派)
リスト(ロマン派)
ヴェルディ(区分なし 恐らくオペラ代表)
チィコフスキー(ロマン派)
ドヴォルザーク(国民楽派)
グリーグ(国民楽派)
ドビュッシー(近代・印象派)
ラヴェル(近代・印象派)

う~む・・・。なにこのドイツと言うかゲルマン寄りの音楽史。

イタリア:カチーニ、ヴィヴァルディ、ヴェルディ
ポーランド:ショパン
ハンガリー:リスト
ロシア:チィコフスキー
チェコ:ドヴォルザーク
ノルウェイ:グリーグ
フランス:ドビュッシー、ラヴェル
あとの方々はドイツとオーストリアです。

息子に音楽史を教えることをしばし忘れ、思わずこんな感想を持ってしまったわけですが、日本の学校教育で行われている音楽史のラインナップについて、私見満載ではありますが考察していきたいと思います。
・・・つづく

みんなのモーツァルト

2009-04-11 01:22:01 | 音楽(クラシック)

こんな記事を興味深く読みました。

ゴーゴリはどちらの国の作家? 露、ウクライナが論争
4月10日10時35分

今月1日に生誕200年を迎えた作家のニコライ・ゴーゴリ(1809~52年)について、ロシアとウクライナの間で「どちらの国の作家か」をめぐり論争が起きている。年始の“天然ガス紛争”に続く悶着(もんちやく)の行方はいかに。

 ゴーゴリは当時、ロシア帝国の一部だったウクライナに生まれ育ったが、首都ペテルブルクに移ってロシア語で執筆したから通常は「ロシアの作家」とみなされる。ただ、ゴーゴリは「検察官」「外套」といった風刺的作品の一方、ウクライナの農村を舞台にした「ディカーニカ近郊夜話」など“ウクライナもの”も著している。ロシアとウクライナの国家・民族的起源は同じだが、19世紀前半にはウクライナの民族意識も高まっていた。

 そこで、ロシア離れを進めたいウクライナの親欧米政権はゴーゴリを「ウクライナの作家」として定着させようと躍起になっている。各地でロシアに対抗して生誕200年にちなんだ行事が盛大に行われ、ユシチェンコ大統領は「ゴーゴリは疑いなくウクライナのものだ。彼はロシア語で書いたがウクライナ語で思索していた」などと語った。政府はさらにゴーゴリの全作品をウクライナ語に翻訳することを計画し、ロシアの文学者から「作風を損なう」などと強い反発が出ている。

 他方、ロシアでもモスクワに初のゴーゴリ博物館が開館したほか、生誕200年を記念してウクライナのコサック(農奴制を逃れて辺境に住み着いた人々)を描いた「タラス・ブリバ」が国営ロシア・テレビの出資で映画化された。この映画については、ロシア民族主義やスラブ・欧州の対立が過度に演出されているとして、多くの識者が「プロパガンダ(政治宣伝)だ」と酷評している。

 【産経新聞】

ロシアとウクライナの政治的な確執は当事者同士のみならず、所謂東西の思惑までからんでしまい正直私のような世間知らずにはどうにもコメントも理解もできないのですが、いずれにしても欧州や亜細亜の大陸国ように国境を接した国同士、民族が同じでも宗教や過去の従属関係など言い出せばきりが無いものです。

ここまで実質的に紛争ギリギリの状態では無いのですが、過去にも似たような事例があったことを思い出しました。

もうかれこれ5、6年前のことですが、ドイツの国営第二テレビが視聴者参加型アンケートで「過去から現在までで最も偉大なドイツ人は?」というのを行いました。
で、そのアンケート募集の文言に「・・・例えばモーツァルトやフロイトのような・・・云々」というものがあったため、これがかつてはともに第二次大戦を戦ったお隣の国オーストリア人の神経を逆撫でしました。

オーストリアに観光しよう!とか考えてガイドブックなどを読まれると、オーストリアの紹介に必ずと言っていいほど書かれているオーストリアの有名人は、
「ザルツブルクで生まれウィーンで活躍した神童モーツァルト・・・」
「ウィーンで活躍した心理学者フロイト・・・」
では無いでしょうか。他にはワルツ王のシュトラウス親子や画家のクリムト、ココシュカあたりが見られますかね・・・。
とにかくドイツ第二テレビが例として挙げた「偉大なるドイツ人」は、我々も含めて一般にはオーストリア人だと思っている人物であるわけです。

ドイツ第二テレビがこう解釈する根拠はモーツァルトの生地ザルツブルクは1756年(モーツァルトの生年)当時はドイツ領であった。またフロイトは現チェコのモラヴィア地方出身でここも当時はドイツ領だった。だからドイツ人だ。と言う事です。

ザルツブルクは7世紀ころまではゲルマン民族に支配された土地でしたが、バイエルン人の東方植民政策の中でカソリック教の布教を進めるローマ・カソリック教会と思惑が一致し、司教国としてバイエルンがカソリック教会に寄進することで実質の東方植民を進めたのです。
その後もバイエルンと司教国はともにザルツブルクの領地拡大をはかり大司教国として繁栄していきます。

ちなみに映画アマデウスの冒頭の初めてモーツァルトが登場するシーンで、パトロンと喧嘩したモーツァルトがわざとパトロンに尻を向けてお辞儀していますが、あのパトロンの爺さんがザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレドです。なんで王様や貴族では無く宗教家の爺さんに雇われているのかわからなかった方もこれですっきりですね。

で、この段階ではザルツブルクは実質バイエルンのもの。つまりドイツだと言うことが先に紹介した「モーツァルトの生地ザルツブルクは1756年当時はドイツ領であった。」ことの根拠なのだと思います。

結局、ザルツブルクは1800年代の始めにフランス革命の余波でフランスに占領され、ウィーンに亡命していたヒエロニュムス・コロレド大司教は領有権を放棄します。その後もオーストリアのものになったりまたバイエルンのものになったりを繰り返しますが、1816年、映画「会議は踊る」で有名なウィーン会議においてザルツブルクはオーストリアに併合されます。
ちなみにウイーン会議でオーストリア外相として活躍したメッテルニヒが、元々はドイツ生まれでオーストリアに亡命した人物なのは皮肉です。

モーツァルトは生地こそザルツブルクですが幼少のころからステージ・パパに連れられて、ヨーロッパ中を演奏旅行して回ります。さすがに「天才少年」では売れなくなってからはザルツブルクで大司教に仕えますが、すぐに喧嘩して25歳でウィーンに職探しに飛び出してしまい、そのまま35歳で没します。
ある意味、真のコスモポリタンであったモーツァルトを今更「ドイツか?オーストリアか?」の議論、意味があるのか?みなさんはどう感じられますか?

私の考えですか?まぁモーツァルト・クーゲルンがおいしいからいいんじゃないすか・・・ってワケわかんねぇ!

ドイツ人にしてみればそんなことより、オーストリアで生まれドイツでナチス党を創設した20世紀最大の虐殺者を返すからモーツァルトを返せ。といったところでしょうか・・・。

モーツァルトの曲の中でも特に好きな曲です。
ピアノ協奏曲 第26番 ニ長調 K.537《戴冠式》


パブロ・カザルスを想う・・・

2009-02-06 00:05:04 | 音楽(クラシック)

クラシック・ファンにはおなじみの「カザルス・ホール」が閉館することになったそうです。

お茶の水・カザルスホール、10年3月に閉館へ
2月4日12時17分配信 読売新聞


 「室内楽の殿堂」として音楽ファンに親しまれた日本大学カザルスホール(東京・御茶ノ水)が、同大キャンパス再開発のため、2010年3月末で閉館することが4日、明らかになった。同大では現在の建物を取り壊す方針とみられる。

 同ホールは、主婦の友社が日本初の室内楽専用ホールとして、名チェリストのパブロ・カザルスの名前を冠して1987年に開館。設計は建築家の磯崎新氏で、97年にはドイツ製パイプオルガンも設置された。2001年、同社の経営難から日大に売却され、一時閉館したが再オープンし、学内行事のほか貸しホールとしてコンサートに使われていた。

 同大では「パイプオルガンをどうするかなどは、まだ未定」としている。

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「室内楽の殿堂」とは言っても古いホールですから維持費はかなりのものだったんでしょうね。

ホールの命名の元となった「パブロ・カザルス」はご存知の方も多いと思いますが、20世紀の巨匠の一人である有名なチェリストであり指揮者であり作曲家でもある人物です。
現代チェロの奏法を確立した。という評価も聞きますが私は弦楽器はギターを始めとしてまったく弾けないので、その凄さは正直よくわかりません。しかしJ.Sバッハ作曲の「無伴奏チェロ組曲」を発掘し初演した功績ははげしく讃えたいと思います。
バッハの音楽で死後に忘れ去られながらも復活したもので、特に有名なものは「マタイ受難曲」とこの「無伴奏チェロ組曲」だと思いますが、個人的にはこのチェロ組曲はクラシック音楽における宝の一つだと思っています。もちろんマタイも凄いです。
楽譜を見るとよりその凄さがわかると言えますので対位法音楽の極限に触れたい方は是非!スコアは無理でも合唱用の楽譜であれば数千円で入手可能ですよ。チェロ組曲については以前にこの場で少し触れたことがございますので、ご興味のある方はお時間のあるときにご覧になってみてください。

チェリストであり指揮者でもあったカザルスは世界中を演奏して回っているのですが、それとともにかなり政治的にかっこたる意志を持っていたようで基本は「平和主義者」であったようです。そんなマエストロが平和への祈りを込めながら故郷のカタルーニャの民謡を愛奏したことはご存知でしょうか?決して派手では無いし短い曲ですが「私の故郷の鳥達は「ピース、ピース」と鳴きます」と、平和と故郷への思慕を語り演奏したエピソードが残っています。

「鳥の歌」

1973年、同じスペイン出身で平和を愛した同じ名前を持つもう一人の巨匠ピカソと同じ年に、この伝説のマエストロは96歳でこの世を去りました。