「勘竹庵」evnc_chckの音楽やそれ以外

音楽の話題が中心になるかもしれませんが日々の雑感など書いていけたらと思っています。

引っ越します

2009-10-21 00:35:26 | Weblog
ここでブログを始めてかれこれ1年と3ヶ月が過ぎました。

実はここ数ヶ月、ブログの管理画面がめちゃくちゃ重くて、あまりのノロい反応に更新をあきらめた日があるほどです。
メールに至っては開くことすらできません・・・涙。

ですので、せっかく継続してきて、ご訪問いただける方々も増えてきた矢先ということで、本音は行いたく無いのですが、引越しを実行させていただこうと思います。

引越し先「勘竹庵evnc_chckの音楽がそれ以外」

因みにこちらの方は更新も以後はございません。またコメントの受付も停止させていただいておりますので、引越し完了までの放置状態となること、ご理解いただけますようお願い申し上げます。
ただgooブログって他のブログ・サービスへ引越しするのがかなり大変らしいです。あまり技術的なことはわかりませんが、何とか形式というのに変換してポン!と言うわけにはいかないようで、有料のソフトを使えばできそうな情報もあるにはあるのですが、現時点でもそのソフトが対応しているかわかりませんし、元来、営利目的でやってるブログでも無いのにカネを使うことがすでに馬鹿らしいです。
ですから時間を見つけては少しづつ過去記事やリンク先、またいただいたコンメントなどは移動していこうと思います。

今後も訪問して読んでやってもいいよ。とおっしゃる心優しい方々は、是非、こちらへお越しください。お待ちしております。

引越し先「勘竹庵evnc_chckの音楽やそれ以外」

20,000IPのご訪問ありがとうございました

2009-09-29 00:07:01 | Weblog
一昨日でトータルのご訪問者様の累計がIPベースで20,000を超えました。
(という事実に今、気付きました・・・)

それほどマメに更新するでも無し、内容がポピュラーな記事で構成されているわけでも無いのに、こうして続けてこられたのもいつもコメントくださる方々を始め、どなたとも知れないご訪問者様方のおかげです。

ちなみにPVベースですとアクセスいただいた数は累計で約39,000です。

今後もわかりやすい記事から、何が言いてぇんだ?的な記事まで、自分の能力の範囲ではありますが、ヴァラエティーに富んだ内容を書いていけたらと思います。

ありがとうございました。

ワンマン始皇帝

2009-09-27 00:04:01 | Weblog
こんな記事がありました。

秦の始皇帝は毎日30万字を読んでいた?―中国誌
9月26日9時19分配信 Record China

22日、中国誌・博覧群書は秦漢史の研究者として知られる王子今氏の寄稿を掲載した。王氏は秦の始皇帝は毎日約30万字を読む習慣があったと論じている。

2009年9月22日、中国誌・博覧群書は秦漢史の研究者として知られる王子今(ワン・ズージン)氏の寄稿を掲載した。王氏は秦の始皇帝は毎日約30万字を読む習慣があったと論じている。網易歴史が伝えた。

秦の始皇帝は中国を初めて統一した皇帝。陝西省西安市にある始皇帝陵や兵馬俑は有名な世界遺産だ。兵馬俑は6月から新たな発掘作業を始めており、国内外の多くの観光客を惹きつけている。

秦(紀元前778年―同206年)の時代、文字は竹簡(ちくかん)という竹で出来た札に書かれていた。前漢時代の歴史家、司馬遷(しばせん)の著書「史記」には、「始皇帝は事の大小に関わらず、すべて自ら決裁していた」とあるほか、1日に閲覧する量を決め、それが終わるまでは眠りにつかなかったとされている。「史記」に記されたその1日の量は「竹簡120斤(現在の約30kgに相当)」。

王氏はこれを台湾の学者が発表した論文を参照にして計算した。その論文によれば、当時の竹簡の平均的な重さは51kgで1枚につき38文字前後、合わせて53万文字前後が書かれていた。これに照らし合わせれば、「竹簡120斤」には約31万文字が書かれていた計算になるという。

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まぁ「白髪三千丈(9km)」のお国なので、そのまま額面どおり受け取っていいものかわかりかねますが、どれぐらいの速度で読んだら日当たり31万文字を達成できるのでしょうか?

まずは31万文字という数字を具合的なイメージにする必要があります。
小説とか少し軽めの学術書が書かれた文庫本は、段落替えとかタイトル部分など空白もかなりあるので一概には言えませんが、多めに見積もって大体1頁600文字くらい印刷されていると思います。
そうなると

310,000文字÷600文字=516.666・・・

ですから、比較的薄めの250頁くらいの文庫本2冊強です。私は出張で電車での移動がある場合に、その時間は正直暇なので文庫本を3冊くらい購入して持ち込みます。小説であったりエッセイであったりいろいろですが、内容がおもしろければ3時間くらいで2冊読んでしまうこともあります。ただしこれは興味を持って読めれば。ということとそれほど集中せず内容がある程度わかればいい、ぐらいの読み方を仮定したものです。
しかしいずれにしても文庫本520頁弱を毎日読むのだ。とイメージすれば人間の能力として「超人的」と言うほどでは無いと思いませんか?

ただし、始皇帝の読んだ31万文字は、未来からやってきた不思議美少女と何故か次々と女子がほれてくれるふざけた男子高校生を描いたラノベや、お父さんの大好きな人妻の体験を描いた官能小説ではありません。企業で言えば稟議書や申請書の類ですから、決して楽しい内容の物ではありませんし、事の重大性の大小はあれどそれなりに集中して読む必要があります。

始皇帝が一日24時間をどう時間配分をして過ごしたかはわかりませんが、いくら一代で中国統一を成し遂げた偉人とは言え一日4時間くらいは眠ったとして、起きて活動しているのは毎日20時間。食事はよくグルメ雑誌とかでも「始皇帝の晩餐」とかで大袈裟に紹介されている、豪華絢爛な満漢全席を本当に食べていたとしたら、どんなに急いで食べても三食で2時間くらいは要したことでしょう。
それに入浴や用便もありますからそれにやはり2時間くらい。
となると趣味と業務に使えるのは16時間といったところでしょうか?他国からの要人の接待や、「郡県制」をしいていたことからも地方への視察などの公務や、個人的な趣味に半分くらい使ったと考えると、平均8時間で来る日も来る日も稟議決裁をしていたと仮定します。

そうすると文書を読む速度は

310,000文字÷(8時間×3,600秒)=10.7638・・・文字/秒

何かピンと来ませんねぇ・・・。

実際のところ、文書を読むスピードは一定の時間内に単純に読める文字数で測ることは難しいと思います。そもそも表意文字である漢字を繋げた漢文や、同じく表意文字である漢字と、ひらがな・カタカナの混在する日本語と、名詞と動詞を繋げた英語や独語などとでは読み方も異なります。一つ言えることはどんな言語であっても文字を一つ一つ読んでいけば、文書の意味がわかるという物では無く、いかに重要な単語や表現を見落とさず、逆にそこだけにポイントを絞って読むか。ということでは無いかと思います。

ですから当時の秦においては、始皇帝の読む文書は書式や形式がかなり細かく規程されていたのではないでしょうか?
まず文書を予算申請とか、制度改訂とか、人材採用とかの内容によって分類する。
そしてタイトルは内容の重点を明確にさせたものとし、更に内容の要約を予算などと共に5W1Hで前文に記載させる。
大体のものはここまで読めば概ね決裁できるレベルになっており、必要に応じて詳細文や添付資料を確認するようにしていたと考えられないでしょうか?

このあたりは現代でも一般的な企業や役所であればごく当たり前の制度ですし、漢字を標準化し、貨幣の統一を行うなど先見性のあった始皇帝です。この程度の制度運用はされていたと思います。そうで無ければダラダラとただ長いだけで要点の無い文書を、本当に集中して毎日毎日文庫本2冊分も読めたとは思えないです。

それより気になるのは「~事の大小に関わらず、すべて自ら決裁し~」という記述ですね。

その辺の企業と一大国家を同一には論じることはできませんが、企業では業績の低迷や外部環境の変動に応じて、企業トップの決裁範囲を広げたり狭めたりすることはよく行われます。
従来は予算1,000万円以上は社長決裁。それ未満なら担当役員決裁としていたものを、社長決裁が500万円以上からになる。とかの制度変更です。
しかし、中にはワンマン経営者が例え10万円の支出でも、すべて目を通す。何ていう例も散見されます。
企業環境が厳しい中での処置ならともかく、通常時までそういった経営体制を貫くことで、経営体制の活性化が遅れてしまい、結果として後継者難とか、新規事業や問題点への迅速な対応遅れなどで企業業績悪化に陥ってしまう例も無いわけではありません。

後年、不老不死を夢見てありもしない蓬莱国の発見に巨額の投資を続けた始皇帝は、ごく一部の側近の意見のみ聞く、などで真の中央集権国家制度の整備や、後継者作りに失敗して大国秦は崩壊します。

来る日も来る日も行政文書や外交文書に目を通し、徹底した「私企業」管理で国家を率いた始皇帝は、あの世で何を思うのでしょうか?

ムカつくカミナリさま

2009-09-13 00:07:00 | Weblog
先日、家族でたまには外食しようや。ということで昼食時間帯に、近所の「CASA」というレンストランに行って来ました。

ご存知かもしれませんが、まぁ所謂ところの「洋食」を提供するファミレスですかね。

ハンバ-グやらトンカツやらを注文し、ひとしきり食事をしますとそろそろ出るものを出さねば。と私はトイレに立ちました。
この手の店ではよくある配置ですが、入り口を入ったところにトイレがあります。用を足そうと扉に手をかけますと先客が入っているようで、錠のところに赤いマークが見えます。
仕方なく空くのを待つことにしました。

そのトイレの入り口の向かいには公衆電話が置かれていました。最近では携帯電話がごく当たり前に普及しているので、公衆電話なんて誰も使わないだろうな・・・。なんてとりとめのないことを考えておりますと・・・

来ましたよ。高木ブー!

がカミナリさんに扮したときにそっくりのおばちゃんが。

「ケイタイなんて小難しいもんはわからんよ!」
といったところでしょうか?公衆電話に今ではコレクションすら下火のテレカを入れて、電話をかけ始めました。

「ああ、わたしだけどね。今さぁ、あの店に来てるんだよ。」
相手はご家族かご友人かわかりかねますが、さすがに「あの店」ではわからないらしく、このカミナリさま・・・じゃない。おばさまは早口で店の説明を始めました。

「ほらほら。あの大通りから少し入ったところにあるレストラン。え?だからレストラン。ご飯食べるとこ!」
まぁ、レストランは食事するところですね。確かに・・・。
「わからない?なんで?だからあの白い建物」
白い建物って、あんた。メンタル・クリニックじゃないんだからさぁ。

あまりにそのじれったい会話に、笑いをこらえながら思わず眺めておりますと、そのカーリー・ヘア(風のパーマ)のあばちゃん。あろうことか受話器の会話口を右手で押さえると、私に話しかけてきました。
「ちょっと、お兄さん。この店、何て言ったっけね。名前。」

んなもん店員に聞けよ。と思ったりしましたが、一応、紳士をきどって慇懃に答えました。
「CASAと言います。」

・・・。おばちゃん。無反応。

「えぇと、CASAと言うお店ですよ。」

ちょっと声が小さかったかな?と思い少し音量を上げて答えました。
しかしそれでもおばちゃんは電池が切れたみたいに静止し、虚ろな瞳で私を見つめています。背後霊でも見えるのか?

ややあっておばちゃま。受話器に口を戻すとまた話始めました。
「ちょっと聞いたけど何言ってるかわからないんだけどね。とにかく通りの奥の白い店よ。白い。」

ちょっと待てぃ!人に物を聞いといてその言い草はねぇだろうが・・・。

こちらの精一杯のメンチも気にせず、有意義に会話を終えることができたのか、おばちゃんは満足げに電話を切ると立ち去って行きました。


尿意も忘れてムカつくevnc_chckでした。

謎の職業(最終回)

2009-08-25 00:04:09 | Weblog
子供のころ近所にあった少し大きめの池。先日、久々にその池の側を通ったときに、ふと昔そこに建っていた木造の小屋のような一軒家の記憶がよみがえりました。

ずっと謎であったこの一軒家の家族の生業は、この池から収穫した生き物を加工することでした。

銀色の魚をおろし終え、次にお母さんが始めた作業。
バケツの中から取り出され私の目の前に現れたその生き物は、お母さんに両足を左右の手で握られ逆さづりになった、体長20cmはあろうかというカエルでした。

カエルは自由にならない足の代わりとばかりに、前肢を力士が突っ張りをするようにバタバタとさせています。はた迷惑なイビキをかいて眠るおっさんのようにノドを膨らませ、低いうなるような声で「グムォー、グムォー」と鳴いています。
そんなカエルの空しい抵抗もお母さんは気にも止めずいきなり腕に力を入れると、カエルの両足をエキスパンダーでバストアップを夢見るかのような勢いで「グイッ」と左右に引き離しました。

食パンのCMでふっくらモチモチ感を表現するために、食パンをゆっくりと割く場面がよく見られますが、そんな感じでモッチリと伸びてお母さんの力に抵抗するカエルの股間。それを紙でもやぶくようにお母さんが「エイヤッ!」と引き裂くと、皮の亀裂からカエルのヒョロヒョロとした内臓がこぼれてドロンと流し台に落ちました。
裂けると言うよりグーンと伸びてから「パチン」と切れるようなイメージで、そのカエルは左右に分かれました。
その左右対称になったカエルをまな板に置くと、お母さんはでっかい包丁を右手に持ち、左手でカエルの半裂きを押さえて打ち出の小槌でも振るみたいに包丁をまな板に叩きつけます。

「スコン」と軽快な音がしてカエルの足と半分になった胴体が切り離されると、お母さんはカエルの胴体を流しの中に包丁で黒板をふくように捨てます。

そしてもう半身。

それが終わるとまたまたお母さんはバケツの蓋を少しズラし、中から新たなカエルを取り出しました。

そこからはひたすら「グイッ、ヒョロヒョロ、ドロン、パチン、スコン、ポイッ」のくり返しです。

その初めて目前にし、恐らく今後も二度とお目にかかれない光景に瞠目している私の方を振り返ると、お母さんはニカリと笑いながら話しかけて来ました。
「これね、おいしいよ、少し持ってく?」

フルフルと首を左右にふると、ここからはひたすら妹が一刻も早く戻ってくることを祈るばかりです。しかし妹はなかなか戻らず(単に時間の経つのが長く感じられただけかも・・・)、私は鬼武者も裸足で逃げ出すカエルのジェノサイドにたっぷり付き合う。という苦行に耐えたのでした。

この一家は鯉や鮒などの淡水魚や食用蛙を池で養殖し、それを加工して販売をしていました。当然、物凄くニッチな職業ですから地域でも最高級の中華料理店や料亭に卸していたそうです。と母から聞いたことがあります。

現在は時代が時代ですから、勝手に個人が近所の池で食用の魚介類を養殖して販売するなど許されないでしょう。衛生管理だってどうなっていたかわかりません。

池の周りを歩きながらかつてカエルが半裂きになっていた辺りを眺め、甘酸っぱい思い出に浸るevnc_chckでした(笑。

謎の職業(2)

2009-08-23 00:07:57 | Weblog
子供のころ近所にあった少し大きめの池。先日、久々にその池の側を通ったときに、ふと昔そこに建っていた木造の小屋のような一軒家の記憶がよみがえりました。

ずっと謎であったこの一軒家の家族の生業を知る日がやって来たのです。

その日も、この家のお嬢さんと遊ぶために来ていた妹を迎えに、私は池の端のこの家にお邪魔しました。しかし妹たちは近所の広場にでも遊びに出かけていたようでまだ戻っておりません。仕方なく妹が戻るまで私はこの家の玄関口で待たせてもらうことになりました。

玄関には狭い土間があり、そこには小さな流し台がありました。家族の食事などは家の中の炊事場を使用しているようで、この土間にある流し台が何に使われているのか実はずっとわからなかったのですが、その日はこの家のお母さんがちょうどこの流し台で何やら作業をしておりました。よく見るとどうやら魚をさばいているようです。大きめの鯵ぐらいの魚が足元のバケツに入っていて、それを掴み取っては流し台の上に置いてあるまな板の上で手際よくおろしておられます。
銀色にキラキラ光る魚のウロコを包丁でガシガシとこそげ落とし、頭を落として三枚におろすとポリスチレンの容器に次々と放り込んでいきます。
その作業の早いこと早いこと。バケツにはまるで野球部の合宿で山のように積まれた汚いユニフォームのように、こんもりと銀色の魚が入っていたのですが、ものの5分くらいですべて三枚におろされてポリスチレン容器に詰め込まれました。

容器に蓋をしてガムテープで封をすると、お母さんはバケツを持って池にかけられた梯子を降りて行きました。

おろされた魚は恐らく池で釣ってきたのでしょう。あの風呂オケ大の金網の箱はイケスで、その中であの魚を飼育しているのか、池で釣ってはしばらくイケスに入れているのかはわかりませんが、とにかくこの池から収穫した生き物を加工して何らかの生業につなげているのでしょう。このあたり詳細はわかりませんでしたが、子供心にもこの一家がこの池を生活基盤にしていることは何となく理解できました。

10分ほどして戻ったお母さんの下げたバケツは木でできた鍋蓋がふせられ、バケツの中に何かいるのかしきりにボンボンと動き回る音がしています。興味しんしんで見つめる私の前で、お母さんはバケツの蓋を少しだけズラすと中に手を突っ込みます。中にいる謎の生き物はバタバタと逃げ回っているようですが、お母さんは手馴れているのか、「ヒョイ」とバケツからその生き物を摘み上げると、ちょうど牛の角かなんかを両手で持つような手つきでその生き物を自分の胸のあたりの位置で持ちました。思わず凝視する私の視界に飛び込んだのは?!

続きは次回と言うことですいません。

謎の職業(1)

2009-08-21 00:05:00 | Weblog
私は今住んでいる地区に小学校の3年生のときに引越して参りました。
当時は新興住宅地区という触れ込みでしたが、それどころかまだまだ造成中の土地ばかりで、まともに住所も付けていない土地があちこちに点在していました。造成された順番に連番で土地に住所をつけるため、「○○町 1」と「○○町 2」が数Km離れている。なんてのはざらなことでした。

近所には学習塾があり、その塾の建っている場所のすぐ隣に少し大きめの池があります。

先日、久々にその池の側を通りますと、「パシャッ」と池の水面を跳ね上げて大きな鮒が水底に潜っていくのが見えました。それを眺めたときにふと子供のころの記憶が・・・。

今はすっかり様相も変わってしまいましたが、私が小学生のころはこの池の護岸は土がむき出しで、池の周りも丈の高い雑草が生い茂り、突然ひょっこりと河童でも現れそうな風情のある場所でした。
そして当時、そんな少々不気味な場所にポツンと木造の小屋のような家が一軒建っておりました。

我が家が引っ越してきたころは、先ほどお話したとおりまだまだ造成中の土地ばかりですから、私や3歳離れた妹が遊べるような年頃の子供はその辺りには殆ど住んでいませんでした。しかしこの池の側の一軒家には偶然ですが私の妹と同い年の女の子が住んでおりました。
引っ越してきたばかりということもあり、あまり友人らしい友人のいない妹はよくその家にお邪魔してお嬢さんと遊んでいたもんです。
私も妹を迎えに行ったりする用事もあり、ちょくちょくこの家にはお邪魔していたのですが、子供心にこの家が何を生業にして生計を立てているのかよくわかりませんでした。
気になっていたのはこの家から池の護岸に向かって簡単な梯子がかけられ、その梯子の先には塩ビでコーティングされた金網で作られた、ちょうど大きめの風呂オケほどの箱がいくつか池に沈められていたことです。
この家のお母さんは少しぽっちゃりしたごく普通のあばさんでしたが、私がときどきお邪魔すると、そのお母さんは池に沈めた金網の箱に何やら放り込んだり、虫取り網のようなものですくったりしていたことを覚えております。
しかしながらやはり子供にはその一家が家の隣の池で何をしているのか知る由もありませんでした。

そんなある日、私はついにこの一家が何をもって生活の糧としているかを知ることとなりました。

さてさて、この一家の謎の生業とは?続きは次回と言うことですいません。

道具を使う心

2009-08-08 00:02:09 | Weblog
私の親類は大工道具を作る職人です。とても珍しい職業で、日本全国にも何人も存在しないので具体的な話は省略させていただきますが、電子顕微鏡と長年の経験の両方を駆使し磨き上げる刃先は「道具」の領域を「美」の領域にまで高め、その刃物を使って加工された物に使う人間の心までもを投影するのでは?と思わず見入ってしまいます。

ところで少し前の記事ですが、こんなことがありました。内容は笑い話なんですが・・・

えっ、カキの殻むきが銃刀法違反??…北海道警が注意
読売新聞より

 北海道警釧路方面本部は1日、カキの殻むきナイフの一部が、改正銃刀法で所持を禁じた規制対象の剣にあたる恐れがあると発表した。

 (2009年7月)4日の回収期限終了後、刃渡り5・5センチ以上、左右対称で著しく鋭い剣を所持すると、3年以下の懲役または50万円以下の罰金が科せられる。

 このため、道警では「一度確認を」と呼びかけているが、カキの産地・厚岸町では困惑が広がっている。

 道警によると、先月下旬、持ち込まれたカキ用ナイフを警察庁に照会したところ、規制対象となることが判明した。鋭利だったり、厚みがあったりする一部のカキ用ナイフは所持を禁じられるが、ただ明確な基準はない。

 厚岸町のカキ料理店の店主(59)は「初めて聞いた。急で驚いている」と話す。

 別の料理店ではすでに道警に照会を済ませ、該当するナイフがないため、胸をなで下ろしているが、担当者は「まさかカキ用ナイフが」と話している。

例のアキバで発生したいたましい無差別殺人に剣のような両刃を持つ「ダガーナイフ」が使われ、ごく素人でもたやすく人を殺傷できることが一般にも改めて認識されました。そこでそれ以前の銃刀法の規程が改正され、日本では刃渡りが15cm以上の刀、やり、などの刀(片刃の刃物)と刃渡りが5.5㎝以上の剣(両刃の刃物)は所持が禁止になりました。
また飛び出しナイフなどの刃を自動的に出す機構を持つナイフも刀剣類になるので、所持が禁止されています。
これはもう数年前になりますが、某人気アイドル主演のTVドラマの影響で、若者の間でバタフライナイフを持つことが流行した際に問題になったことからできた規程です。

いずれにしても刃物を持つなら(必要であれば)刃渡りが14.99cm以下の片刃で刃が自動で飛び出さないもののみ所持できます。

これは所持の規程ですので、これからはずれる刃物は目的は何であれ保管の仕方がどうであれ持っているだけで罪になります。
で、引用させていただいた記事はカキの殻むきに使う刃物が、この「所持禁止」に該当してしまった。という笑えない話なのです。

ちなみに街中などを持って歩く「携帯」はもっと厳しく規程されています。
刃体が6㎝以上の刃物は片刃・両刃の関係無く、正当な理由無しでの携帯はできません。刃体が5.99㎝以下の刃物となると、十徳とか切り出しとかの工作用程度しか携帯はできないわけです。
正当な理由とは「キャンプに行く途中」とか、「業務で使う」とかが一応の正当な理由のようですが、職質された際の状況で実体判断されることになりそうです。

刃物は道具です。正しく律した心を投影してやることが道具を使う人間に課された責任です。

レッド・ゾーン

2009-08-03 22:21:07 | Weblog
元プロボクサーで現在は俳優である赤井英和さん。
今日、娘さんの赤井沙希さんがボクサー志願している。というような記事を読みました。

血は争えず?赤井沙希“ボクサー志願”
8月3日9時21分配信 デイリースポーツ

 元プロボクサーの俳優・赤井英和(49)の次女で、タレントの赤井沙希(22)が2日、父と同じボクサーの道を歩む意思があることを明かした。
 都内で4作目のDVD「Love Passion」の発売記念イベントを行った赤井はビキニ姿も披露した新作のPRもそこそこに、取り組み始めたボクシングに話題を転換。K-1のイメージガールを務めたことをきっかけに3カ月前からジムに通い始めたことを明かし「ミットをしばくのがめちゃめちゃ楽しくて」と“血筋ぶり”を披露。“浪速のロッキー”と呼ばれた父には報告していないが「試合をしてみたい人がいるので
いずれは果たし状を送りたい」と度胸の良さをのぞかせた

赤井さんの娘さんがタレントであることはまったくの未知でしたし、娘さんのボクサー志望がどの程度の本気さで、ご本人に実力があるのかどうかはさっぱり不明ですが、赤井英和さんが現役であったころのことを思い出しました。

丁度、赤井さんがプロボクサーとして活躍していたのは1980年代前半のことであったと思います。私はそのころ京都に住んでおりましたが、世はまさに「フュージョン・ブーム」の真っ最中。1970年代から活動していたザ・スクェアやカシオペアの都会的な洗練されたサウンドに対抗するように、関西でも「関西のフュージョンを」とばかりにいくつかのフュージョン・バンドがメジャー・デビューしました。
本人たちはそんな意気込みがあったわけでは無いのでしょうが、浪速エキスプレス、羅麗若(「られいにゃ」と読みます。暴○族みたい・・・)、フォーナインの3バンドが「関西フュージョン」と音楽雑誌などで紹介されていました。

フュージョンと呼ぶにはあまりに暗くプログレのようだった羅麗若や、曲にあわせてユニットが変わるので正直、実態がよくわからなかったフォーナインは別として(個人的には羅麗若が一番好きでしたが)、浪速エキスプレスはステージ・パフォーマンスも「いかにも関西」的なノリがあり、人気があったことからザ・スクェアと共演したりしていました。
テクニックも凄まじくて、ドラマーの東原力哉さんが、後に日本を代表するギタリストの渡辺香津美さんのバックメンバーになられたことからもわかることと思います。よく京都のライブハウスに東原力哉さんのライブを聴きに行ったもんでしたが、力哉さんが「ジャズはええなぁ。フュージョンなんて最悪や!」と冗談交じりに話すのが爆笑もんでした。

で、何でこんな話かと言いますと、浪速エキスプレスは同じ関西のプロボクサーで、「浪速のロッキー」と呼ばれた赤井英和さんに入場テーマを書いているのでした。と言うか元々は彼らの「シンクロナイズド」というタイトルのオリジナルですが、赤井さんの入場で使われてタイトルを変更したそうです。

確か彼らの2ndアルバムに収録されていると思いますが、「レッド・ゾーン」というタイトルの曲です。

「大宇宙無限力神」

一聴するとツーバスかと思ってしまうドラムスが印象的なイントロに続いて、ハードロックのようなリズムとテーマが重く流れて、ギターとシンセの掛け合いがあって・・・。と、まぁいわゆる「かっこいいフュージョン」です。

この曲が流れる。と友人から聞いた私は、それまで全然興味が無かった赤井英和さんの試合が見たくなりました。幸いにも彼はキャラがヤンキー・キャラで、インタビューなどでの発言もツッパっておもしろかったので、世界戦でも無いのに関西では深夜ではありますがTV放映がされていました。
忘れもしません。1985年2月5日のことでした。一度は挑戦して失敗した世界タイトルでしたが、再度挑むということで前哨戦として組まれたのがこの日の「対大和田正春戦」でした。

TVの前で座る私が初めて目にする赤井英和さんの姿。減量がつき物のボクサーなので当然ですが、意外とひょろっとした体型で、あごと頬に無精ひげを生やした姿は、いかにも「浪速のやんちゃなにいちゃん」でした。
レッド・ゾーンが鳴り響く中、大歓声につつまれて彼は拳をぐっと突き出してキメてみせます。

試合が始まりました。ハードパンチャーで前へ前へとプレッシャーをかけるファイト・スタイルと聞いていましたが、この試合は思ったよりオーソドックスなスタートでした。やはり一度、失敗して引退まで考えたそうなので慎重に試合を運んでいるのでしょうか?元オリンピック代表候補だったそうで、技術的にもいろいろなスタイルはできるんでしょうね。
しかし、R5くらいから大和田正春選手のパンチが当たり始めて、実は赤井さんの攻撃が大和田選手にすべて殺されていることがわかってきました。赤井さんは防戦態勢になる場面が増え、子供心に「いつになったら反撃するんだろう?」と思っていた矢先、R7の途中で完全に大和田正春選手に捕らえられて、フックの連打が何発も赤井さんに当たります。赤くはれ上がった顔で呆然と中空を見つめて棒立ちの赤井さん。司会や解説も「まずいですね。彼は責任感が強いのでガマンしてしまうんですよね。」と心配げなコメントです。
どう客観的に見ても赤井さんの戦意喪失ぶりは歴然としており、表情も「ここはどこなんだ?オレは何してんだ?」と言わんばかりに目もうつろでした。
レフェリーが大和田選手を止めてカウントをする中、ボーっと立ちすくみ客席を眺める彼の斜め後ろから、トレーナーのエディ・タウンゼントが「もうダメだな・・・」と言った態度でうつむき加減にタオルを投げました。

翌日のニュースで赤井さんが重症であることが報じられたのでした。

急性硬膜下血腫・脳挫傷で開頭手術をしたとのことでした。

その後、結局、赤井さんはボクサーを引退してしまいます。関西のローカルな試合などでたまに解説をしている姿を見ましたが、少し太って寂しげな雰囲気がただよっていました。

その後、役者に転向した際には「ボクサーがダメなら役者かよ!ケッ!」という気持ちもありましたが、過去のやんちゃであったことを感じさせない、真摯な役者への姿勢は評価できるのでは無いでしょうか?

お嬢さんもどこまで真剣に「ボクサー」になることを考えておられるかはわかりませんが、本気で取り組めば命を削るようなスポーツであることを十分に認識して、その上での発言であれば立派な志だと感じたのでした。

マスコミも面白半分であおるなよな・・・ったく!

スーパーモデルって・・・?

2009-07-28 00:07:51 | Weblog
朝、テレビのニュースを何気に見ていたら「第一回東京スーパーモデルコンテスト」の優勝者の紹介をしていました。

コンテストの主旨は特に興味も無いので存じ上げませんが、いつから国内で大量に刊行されているファッション雑誌のモデルに、「スーパーモデル」という言葉が使われるようになったのであろう?

職業に貴賎はありませんので、モデルという職業に限らずそのステイタスが向上するのは結構なことですが、1990年代に持て囃された単語を今更ここで持ってくるのは混乱を招くような気がします。

そもそもトップモデルとして、世界一流のファッション・ショーや、国際的に評価の高いファッション誌を舞台にされている方々と混同してしまうような報道のされ方や扱い方は少々気になりますね・・・。

あまりにも適正さを欠く言葉使いに思え、珍しく気になっていろいろ書いてしまいました。