「勘竹庵」evnc_chckの音楽やそれ以外

音楽の話題が中心になるかもしれませんが日々の雑感など書いていけたらと思っています。

引っ越します

2009-10-21 00:35:26 | Weblog
ここでブログを始めてかれこれ1年と3ヶ月が過ぎました。

実はここ数ヶ月、ブログの管理画面がめちゃくちゃ重くて、あまりのノロい反応に更新をあきらめた日があるほどです。
メールに至っては開くことすらできません・・・涙。

ですので、せっかく継続してきて、ご訪問いただける方々も増えてきた矢先ということで、本音は行いたく無いのですが、引越しを実行させていただこうと思います。

引越し先「勘竹庵evnc_chckの音楽がそれ以外」

因みにこちらの方は更新も以後はございません。またコメントの受付も停止させていただいておりますので、引越し完了までの放置状態となること、ご理解いただけますようお願い申し上げます。
ただgooブログって他のブログ・サービスへ引越しするのがかなり大変らしいです。あまり技術的なことはわかりませんが、何とか形式というのに変換してポン!と言うわけにはいかないようで、有料のソフトを使えばできそうな情報もあるにはあるのですが、現時点でもそのソフトが対応しているかわかりませんし、元来、営利目的でやってるブログでも無いのにカネを使うことがすでに馬鹿らしいです。
ですから時間を見つけては少しづつ過去記事やリンク先、またいただいたコンメントなどは移動していこうと思います。

今後も訪問して読んでやってもいいよ。とおっしゃる心優しい方々は、是非、こちらへお越しください。お待ちしております。

引越し先「勘竹庵evnc_chckの音楽やそれ以外」

ネタ探し・・・汗(2)

2009-10-18 00:04:32 | 音楽(DTM)
E-WIndの次回テーマ指定は「涙」のネタ探し。例によって独創性の無い私は既存の巨匠たちの以下の作品を参考にするつもりです。

・H.パーセル
劇音楽「オイディプス」より「ひとときの音楽(Musik for a while)」
youtubeでこんなのを見つけました。
music for a while - purcell

・A.マルチェッロ
オーボエ協奏曲 ニ短調 第2楽章Adagio
youtubeでこんなのを見つけました。
マルチェルロ オーボエ協奏曲
・フォーレ
レクイエム第5曲 Agnus Deiおよび第7曲 In paradisum

バロック時代のイギリスの大作曲家パーセルの「ひとときの音楽」は、彼のオペラの中で歌われるアリアですが、ただでさえオペラを聴くと辛くなる私はこんな古典オペラまったく聴いたことがありません(え?。
ベルギーのカウンター・テナー歌手で、今では古楽の研究と指揮で評価の高いルネ・ヤーコプスによる録音を聴いています。ヤーコプスのカウンター・テナーをリュートとヴィオラ・ダ・ガンバの通奏低音が支え、シンプルな響きの中に何とも色っぽさが漂い。聴いていてもうっとりとしてきます。
ヴィオラ・ダ・ガンバによるバス声部の動きを参考にできないかと検証中です。
因みに、同じルネ・ヤーコプスがリュートのみを伴奏にして歌った録音も所有していますが、通奏低音として聴いた場合はこちらのほうがより声部がシンプルでわかりやすいです。ただ今回は室内楽程度の編成の曲を創る想定なので参考にはできません。

マルチェッロのオーボエ協奏曲は映画「ベニスの愛」で使用されたことで有名な、古今、最も美しいオーボエ協奏曲と言われる名曲です。哀愁に満ちた2楽章の弦群の刻みが美し過ぎるので参考にしたいな・・・と。
全然、余談ですがこの曲はおもしろいエピソードがあります。長くなりますがせっかくなんで書かせてください・・・。

アレッサンドロ・マルチェッロはJ.Sバッハより一つ年長のイタリアの作曲家です。彼は弟のベネディットとともに当時から有名な作曲家でしたが、職業音楽家では無く本職は別にあるアマチュア音楽家で、地元の同好会に参加して他の芸術家たちと交流しながら創作活動をしていました。
このオーボエ協奏曲は発表された時から評判であったようで、ドイツの作曲家J.Sバッハによってチェンバロ独奏曲に編曲され更に一般に普及していきました。
CDも無ければ一般大衆がオケ曲などに触れる機会も少なかった時代は、こういった協奏曲や交響曲をピアノ独奏、室内楽などの、比較的演奏機会の多い編成に編曲することはよく行われました。
このバッハ版は大変人気があり現在でもピアノの発表会などでもよく聴かれるのですが、何故かこれが出版された際に誤って「ヴィヴァルディ作曲/J.Sバッハ編曲」として出回ってしまいます。
その後、200年以上も経った1923年、ドイツの作曲家R.ラウシュマンがこの曲がマルチェッロのオーボエ協奏曲であることを発見し、バッハ版を元に協奏曲の形式に復元しました。ところがここでラウシュマンは「作曲者は弟のベネディットであり、調性はハ短調であった」と推測してしまい、長らくこの曲はハ短調版とニ短調版があると考えられていました。
ようやく近年になって18世紀に出版されたオーボエ協奏曲集に、この作品が収録されていることが発見され、そこに作曲者「A.マルチェッロ」と明記されていたことから現在の認識となりました。

上の2曲はどちらもバロック音楽の範疇の作品ですが、フランスのフォーレのレクイエムはロマン派の音楽です。モーツァルト、ヴェルディのレクイエムとともに「三大レクイエム」と呼ばれ、比較的短い曲であるためかアマチュアの合唱団などもよく取り上げています。第5曲の「Agnus Dei」の終始コーラスを支えるオケの対旋律と、第7曲の「In paradisum」で天国的な美しさを聴かせるハープが参考にできないかと思っています。

まぁ、まだ時間もあるんで、もう少しいろいろ聴いてみますが、目移り(耳移り)してしまうんでそろそろ構想くらいは決めないと・・・。と悩んでいる最中であります。

ネタ探し・・・汗(1)

2009-10-16 00:02:56 | 音楽(DTM)
E-WIndの次回テーマ指定は「涙」。今回の三部作の最後を飾るテーマですが、「失恋」「温もり」と順番にハードルが上がって、正直、悩んでいる方、もう開き直った方、悲喜こもごもでは無いかと・・・(笑。

かく言う私も無理やり名作コミック「トーマの心臓」を元ネタに、とりあえず第二作までは何とか既存曲を「大いに参考にさせていただき」ながらでっち上げました。

・第一作
組曲「トーマの心臓」より「これがぼくの愛」
こちらはややバロック音楽、特にJ.Sバッハに代表される対位法音楽を目指しています。ですからJ.Sバッハの「マタイ受難曲」の第一曲「Kommt, ihr Tochter, helft mir klagen(Tochterのoはウムラウト付き)」をアナライズし、声部の動きなどかなり参考にしています。調まで同じです(笑。
因みに冒頭で弦が高音からヒラヒラと弾き流しで降りてくる部分と、中低音でチェロがワシャワシャ動く部分は、実はダニー・エルフマンの「スパイダーマン」を参考にしたのは秘密です(笑。

・第二作
組曲「トーマの心臓」より「ぼくの翼をあげる」
第一作はトーマという少年の死、という衝撃的なオープニングを表現したことから、やや感情的と言いますか人間くささのある曲調であったかと思います。
第二作では元ネタのコミックの本旨である「宗教観」をより強く表現しようと、単一の旋法で主題を奏で、他超声部がそれを飽くまで華美にならない程度に装飾するアレンジを検討しました。交響曲の第二楽章にアダージョを配置するみたいなもんですね。
アレンジのインスパイアは、ポーランドを代表する現代音楽の作曲家H.グレツキの「交響曲第三番」の第一楽章です。「まんまやんけ!」と突っ込むのは大人げ無いです(笑。

で、第三作めです。どうしましょう?
オラトリオの終曲のような華やかなオケとコーラス(合唱)で締めようか?とも思っていましたが、もう少し落ち着いた曲調にしようかと考えています。そもそもコーラスのいい音源がありません。どれも70年代のプログレのようになってしまう音色ばかりです。
場面の設定は純粋な少年が神の愛に気付く瞬間と、これからの人生を神とともに生きていこうと決意する場面を想定する予定です。

例によって既存の巨匠たちの作品を参考にすべく、いろいろ検証した結果で(今のところは)以下の作品を参考にするつもりです。

・H.パーセル
劇音楽「オイディプス」より「ひとときの音楽(Musik for a while)」
・A.マルチェッロ
オーボエ協奏曲 ニ短調 第2楽章Adagio
・フォーレ
レクイエム第5曲 Agnus Deiおよび第7曲 In paradisum

つづく・・・

封印された東宝特撮大作!

2009-10-12 00:02:55 | 映画
DVDやらCDやら模型やら、とにかくいろいろな付録をムックに付帯して販売している、「DeAGOSTINI」から、今度は「東宝特撮映画」のDVDシリーズが販売されますね。

怪獣や特撮(懐かしい。今じゃVFXですか?人情味の無い言葉・・・)と聞くとうるさいevnc_chckです。すでに持っているソフトもございますが、全巻購入で鼻息も荒く意気込んで、すでに定期購読の申し込みまでしてしまっております。

初代ゴジラから始まり、つい最近まで邦画観客動員数歴代一位であった「キングコング対ゴジラ」や、少しマイナーなところでは「大怪獣バラン」や「妖星ゴラス」。ラストの核戦争シーンの悲壮さではハリウッド映画のやんわりとした表現なぞおととい来やがれ!の「世界大戦争」などなど・・・。

ところで当のムックには東宝特撮映画の年表が記載されているのですが、何故か1973年公開の「日本沈没」と、1974公開の「エスパイ」の間に一本、重要な映画の収録が抜けています。

それは1974年公開の「ノストラダムスの大予言」という作品です。

1970年代はオカルト・ブームが起こり、悪魔や幽霊など超常現象的なものに人々の興味が集中しました。
ハリウッド映画の「エクソシスト」はショッキングな内容だけで無く、論理的なストーリー展開や登場する役者たちも名優を起用したことで大ヒット。多くの亜流が生まれ、大抵は換骨奪胎であったり、単に気持ち悪いだけであったりしながらも、いくつかは名作として現在も鑑賞され続けています。

邦画は1977年の大林宣彦監督の、どこが巨匠やね映画「ハウス」ぐらいしかオカルト映画的な作品は無いように記憶していますが、そんな中で中世フランスの詩人で医師で占星術師である「ミシェル・ノストラダムス」の、四行の詩で綴られた預言書を世紀の大預言書としてムルヤリ喧伝した、「ノストラダムスの大予言」という胡散臭い書籍の内容を元に、何と東宝製作による大叙事詩的な怪奇ロマン映画が1974年に公開されました。
前年に公開した「日本沈没」が空前のヒットを記録し、日本でもアメリカに負けないパニック映画が(10分の1くらいの予算で)創れる!と多分思っちゃったであろう東宝特撮スタッフは、今度は傲慢に地球の自然環境を蹂躙する人類に、滅亡への警鐘を打ち鳴らような映像を実現しちゃる!と大いなる気概でもって挑んだことでしょう。

映画自体は殆ど「日本沈没」のヒットの勢いと、何故かバカ売れした原作の勢いに乗っかってヒットしたのですが、公開の際に起こった多くのエピソードから、今や伝説のトンデモ映画として語り継がれています。

あらすじはあるような無いような作品です。

まず江戸時代の場面から始まりますが、何を研究しているかわからない江戸時代の学者(丹波哲郎)が登場。どうやら彼はノストラダムスの預言書を研究しているのですが、人心をいたずらに恐怖に陥れたか何かで幕府に捕まります。
その後もこの江戸時代の学者の子孫が、預言書に基づいて第二次世界大戦の日本敗戦をとなえて特高につかまる。

でここで世界の冨田の気色悪いヘニャヘニャとしたシンセ音楽が流れ、時代は現代へと一気に飛びます。

さっきの江戸の学者とそっくりな現代の学者「西山良玄(丹波哲郎)」。つまり子孫なんですが、彼は西山環境研究所の所長として大気汚染などの環境破壊の研究をしており、このままでは先祖が研究していた「ノストラダムスの預言」のとおり人類は「恐怖の大王」により滅亡してしまう。と訴えていますが、糾弾される企業などからはいやがらせもされて前途多難な啓蒙活動です。
公害を垂れ流す企業の上空を勝手にセスナで調査したり、それを注意に来た警官に「企業のイヌ!」と罵倒したり、果ては家族と湯豆腐を食べながら、「しかしこの豆腐には危険な発ガン物質が使われている」とか、何か空気の読めない発言をしている姿を見ると、煙たがられるのもある程度は理解できるかなぁ・・・。

で、こっからはもういろいろなエピソードが現れては次!という感じでどう説明していいかわかりません。

現在と違ってまだゴミの山であった夢の島で、子犬くらいあるナメクジがウジャウジャと現れて焼却処理される。

西山の娘まり子(由美かおる。もの凄い大根ぶりは必見!風呂でも入ってろ!)の彼氏である、カメラマンの中川(黒沢年男)の故郷である漁村では赤潮の大量発生で海の幸が全滅。
漁村の危機の中、夜中に海岸で未来への不安を語り合ううちに感極まったか?漁船の中で思わずセクースするまり子と中川(必然性ゼロ)。かろうじてバスト・トップが見える由美かおるですが、この映画って文部省(当時)推薦であったはず・・・。

各地で異常なジャンプ力や計算能力を持つ「ミュータント」的な子供が現れ、逆に畸形児の出産率が高まる。

エジプトの砂漠に雪が降り、東京上空は大気汚染で空に地上の景色が反射し、ニューギニアの原住民が放射能の影響で食人族になり調査隊に射殺される・・・。

まり子と中川は砂丘でデート。すると突然、何の前置きも無くまり子は踊り出す・・・。バカさ加減は必見!風呂でも入ってろ!

最後には核戦争でほぼ滅亡した人類の後に、ウルトラセブンで登場したバド星人と禁断のスペル星人を、足して2で割ったような「新人類」が登場する・・・。

どうですか?わかります?

結局、このニューギニアの食人族と、最後のドロドロのメイクを施した新人類の描写が、被爆者団体から「被爆者を怪物扱いしている」と抗議され、1974年12月25日に東宝株式会社、株式会社東宝映画、東宝映像株式会社の連名で主要新聞紙上に「お詫び」が掲載された上で、抗議の対象となった場面はカットされて、それでも公開は継続されました。

その後この作品はTVで一度放映されたものの、ビデオ化もDVD化もされることなく、幻の作品となってしまいました。
実際は海外ではDVD化されており、私もとあるルートで購入いたしました。割と簡単に入手できたりする情報化時代ではあります。

今となっては東宝のこの処置が正しかったのか、単に臭いものには蓋的なありがちな話しとするべきなのか、私には判断できません。
しかしややヤコペッティ的な扇情さはあるにせよ、エンタティメントの世界で大真面目に環境問題に取り組んだ姿勢はもう少し高く評価されてもいいのでは無いか?と思ったりします。

コードは作曲と切っても切れない関係か?(最終回)

2009-10-09 00:06:24 | 音楽(全般)
ジャズを演奏するために考案され、今や軽音楽のみならずクラシックを演奏したり、アレンジしたりするにも必須とも言える「コード・ネーム(コード)」の知識。

しかしジャズから生まれた魔法の記号「コード」に縛られて自分の作曲や編曲に紆余曲折が生じたことも、ごく個人的な経験の範疇ですが書かなくてはいけないな。と考えています。

三月ウサギさんが開催された、「第3回オーケストラアレンジ勉強会」に参加した私に、思ってもみなかったコメントがgratinさんから来ました。

「全体的なつくりにやはりバンドアレンジのバックグラウンドを強く感じました。~中略~ベースもかなり動くのですが、それがアンサンブルに適するかどうかと問題」

低音パートにはルート音を鳴らさせておけばいい。と中途半端な認識であった私には、どうしていいのかまったくノーアイディアでした。

自分が得意とするジャズやポップスなどの軽音楽は「西洋(ヨーロッパ)音楽の範疇」に含まれます。そこで、この西洋(ヨーロッパ)の音楽の成り立ちをごくかいつまんだ考察ではありますが、考えていきたいと思いました。

初期バロックの時代に西洋、特にイタリアで「メロディー」と「低音=バス声部」を重視する音楽が現れました。

これはそんなに難しいことでは無いです。
初期バロックより前の時代、ルネサンスの音楽は「多声音楽」が発達したことは前回、説明させていただいたとおりです。しかし不快な響きが生じないように厳格なルールの下で音楽が創られていました。このルールが「対位法」特に「厳格対位法」と呼ばれるものです。
それに対して演奏者や聴衆の感情を直接的に表現するような旋律が好まれると、その旋律線を和声的に補助するために低音の動きが重要なパートとして楽譜に明確に書き込まれ、旋律と低音の声部を埋める和音が数字で表記されるようになります。「モノディー形式」と呼ばれる音楽スタイルですが、後にバロック音楽で一般に使われる「通奏低音」の原点のようなものと言っていいでしょうか。

ちなみに声楽を勉強されると必ず「イタリアン・ソング」を唄わされると思います。学習中はなかなか興味も持てないのですが、その曲集のいくつかはこの時代の物で、特に有名なところではカッチーニの「アマリリ」などがあります。

こうして「対位法」と「モノディー形式」は相互に技術的な交流をしながら発展します。「旋律」を重視しつつ、複数の声部が終止へ向けて解決して行く「カデンツァ」の考えが研究され、結果としてこの時代には多くの作曲家の作品で聴かれる声部の動きは、「古典派」音楽で昇華する「機能和声」に影響を与えたのです。

現代の音楽であるジャズやロックなどで使われるコードや、その進行(コード・プログレッション)は機能和声から派生した、いや機能和声そのものと言えます。

少々無理やり感がありますが、こうして順を追って行くと

モノフォニックな音楽→ポリフォニックな音楽(旋法を使用して音数を制限)
→対位法とモノディー形式が相互に発展
→独奏(独唱)or合奏(合唱)&通奏低音の初期の協奏曲、オペラなど
→和声音楽(対位法を取り入れながら)が発展=交響曲や古典派以降のオペラなど

という流の中で、音楽はクラシカルな技法を簡素化しながら、ジャズ・ロック・ポップスなど、より多様化を進め、極論ですが誰もが気軽にコードを使って、音楽を創ったり演奏したりできるようになったことが理解できます。

ただ古典派音楽が基本は三和音であるのに対し、軽音楽は四和音(一般に7thコードと呼ばれるもの)や、場合によっては更に拡張された音(テンションとかトライアドなど)を含む和音が使われることが多いのが違いと言えば違いです。

受精からの細胞分裂を経た胎児が、母胎内で多用な形態への変化を繰り返しながら成長することを観察し、海生生物から陸生生物への進化の流を仮定していったのに似て、何が現在のポピュラーな音楽の成り立ちの元となり、何が寄与してきたのか?知識や理解の差は大なり小なりあれど、音楽の創作する過程でふと作業の手を止め、今まさに打ち込んでいるコードの積み上げ方は真に最良のものなのか?割り当てた音域での各楽器の役割(声部としての動きなど)は機能的であるか?持ちえる知識を動員して考える礎になるのではないでしょうか?

ヒトは未発達のサル

2009-10-07 00:05:15 | 古生物
恐竜と鳥の進化上の関係はおもしろいです。

「始祖鳥」より古い羽毛恐竜=1億6千万年前の化石、中国で発見
9月25日22時39分 時事通信および9月25日19時52分配信 毎日新聞から抜粋、要約

 中国遼寧省の1億6100万~1億5100万年前(ジュラ紀)の地層から、前脚のほか、後ろ脚にも羽毛が生えた小柄な恐竜の化石が見つかったと、同国の古脊椎(せきつい)動物古人類研究所などの研究チームが25日、英科学誌ネイチャー電子版に発表した。

 この化石は全長約50センチのトロオドン類の「アンキオルニス」で、当初は鳥類と考えられていた。
 恐竜は、鳥類の祖先と考えられているが、実際に発掘された羽毛を持つ恐竜化石は白亜紀前期(1億2500万年前ごろ)のものが中心。一方、最古の鳥類とされる始祖鳥の化石はジュラ紀後期(約1億5000万年前)の地層から発掘されており、恐竜から鳥類への進化の過程が議論されていた。

 前後の脚に風切り羽があり、羽はうちわのような左右対称形だった。鳥類や白亜紀の羽毛恐竜の羽は、先端に向かって細く、左右非対称で、飛行に適した形に進化している。

 今回の発見によって、最初に前後の脚に原始的な羽を持つ4翼の恐竜の中から、前脚の翼が発達して飛翔能力を身につけ、2翼の鳥類が進化したという説がより有力になったという。

 羽毛恐竜の全身骨格がそろった化石が、これほど古い地層から見つかるのは珍しい。これまで見つかった羽毛恐竜の化石は、始祖鳥より年代が新しい物が多く、進化の順番がはっきりしなかった。

 真鍋真・国立科学博物館研究主幹は「最古の鳥類の化石の方が、最古の羽毛恐竜より古いという、これまで指摘されてきた時間的なギャップを埋める化石だ。羽毛恐竜から鳥類への進化の過程が、より明らかになった」と話している。

===========================

鳥は恐竜から進化したことはほぼ間違い無いとして、どういった過程が進化の途上にあったのかは、推論→化石証拠→推論の繰り返しの段階で、まだまだ結論が出るのは相当の未来のことだという印象です。

ふと思ったことは我々人類(ヒト)の進化についてです。

ヒトはサルの仲間です。ただサルからヒトが進化したというのは少し間違いで、例えばボルネオの森にいる類人猿のオランウータンを、今から数百万年とか数千万年放置したらヒトに進化するかと言えば、そんなことはありえないわけです。
簡単に言ってしまえば大昔にサルとヒトの共通の祖先がいて、ある種はヒトに。ある種はサルへの進化の道を選択して枝分かれした。ということです。

ところで以前にある進化に関する書籍で「ヒトはサルの幼形成熟(ネオテニー)である」という説を読んだことがあります。
幼形成熟とは動物が性的には成熟していながら、非生殖器官。つりはそもそもの体型とか、歯とかそういった部分が未成熟な状態を言います。有名なところではペットとしてよく飼われている「メキシコサラマンダー」の幼形成熟があります。俗にウーパールーパーと呼ばれるやつです。
但し飽くまで生物学的な定義であって、見た目が子供っぽい大人。というロリロリな方を指すわけではありません。

未来。例えば今から1億年後くらいの地球に、現在のヒトくらいの文明を持った生物が存在していたとして、彼らがヒトとオランウータンの化石を発見したらどう思うでしょうか?
骨の形状などは実によく似ていて共通する部分が多い。
しかし片方(オランウータン)はかなり大型の体型で、強い筋肉が付着していたであろうと推測できます。顎の骨などはがっしりと大きく、牙まではえています。骨盤は大きく広がり前肢は長く、背骨が大きく湾曲していることから、基本は4足で歩行していたと推測できます。
片や(ヒト)体型は小さく、顎の骨は狭く柔らかいものしか食べられなさそうな小さな歯。狭い骨盤にまっすぐの大腿骨が下に伸びており、大きな頭骨を支えるために背骨は不自然なS字カーブをしており、不安定な姿勢でヨタヨタと2足歩行をしていたように観察できます。
ヒトを見たこと無い生命体から見れば、ヒトの骨格は同時代に生きていたオランウータンに比べて、実に未発達で弱々しく、厳しい弱肉強食の自然界ではとても生きられないように観察されると思います。

また現在でも恐竜の皮膚痕や羽毛の印象が化石に残ることがありますが、もしヒトの皮膚痕やオランウータンの体毛の印象が化石で発見されると、ヒトはオランウータンのように気温や雨などの外部環境から身を守るための体毛も殆ど無く、皮膚もペラペラであるためにやはり弱い生き物であったと推測することでしょう。

更にはその化石の発見される数もそれを裏づけそうです。

一般に自然界では捕食動物に比べて被捕食側、つまり食べられる側は食べる側よりも繁殖する数が多いのが一般です。恐竜時代でもモンゴルのプロトケラトプスや、北米のエドモントサウルスなどの草食恐竜は、多くの化石が発掘されています。

ヒトはご存知のとおりこの地球上には大量に生存しており、これに対してオランウータンなどは絶滅の危機に瀕しているほどで、当然化石の発掘量はヒトが圧倒することでしょう。そこから未来の知的生命は
「同時期の地層から発見された大型の化石に対して、小型の生物は外敵から身を守るための防御手段や、攻撃手段は特に持たず、常に捕食生物からの攻撃という危険にさらされていた。そこで大量に繁殖し群れで行動することを生きるための術としたのであろう。」
と推論をたてるのかもしれませんね。まぁ実際、群れるの好きですしね・・・。

実際はその後のより綿密な調査の蓄積で、この小型の生物の頭骨の大きさから大型の他の似た生物に比べてより知能が高かったこと。特に頭部の前の部分が非常に発達していたことや、2足歩行を徹底することで高度に発達した前肢をうまく使い、いろいろな道具や工作物を器用に生み出し、巨大な構築物やより複雑な使用目的を持った道具を創り出していたことが判明していき、この同時代の他の生物に比べてかなり脆弱と思われる生物は、かわりに高い知能と道具を使う能力で他の生物との差別化を図り、高度な文明を維持していた。という結論が出るかもしれません。

現在の鳥と恐竜の進化の関係を検証している段階は、上述で仮定したヒトとオランウータンなどの類人猿との関係と似ているのかもしれません。いつか鳥と恐竜の共通の祖先の化石が発見され、進化の過程もより明確に特定できる日が来ることでしょう。

コードは作曲と切っても切れない関係か?(5)

2009-10-05 00:04:49 | 音楽(全般)
ジャズを演奏するために考案され、今や軽音楽のみならずクラシックを演奏したり、アレンジしたりするにも必須とも言える「コード・ネーム(コード)」の知識。

しかしジャズから生まれた魔法の記号「コード」に縛られて自分の作曲や編曲に紆余曲折が生じたことも、ごく個人的な経験の範疇ですが書かなくてはいけないな。と考えています。

オケ曲を創ったことも無い私でしたが、三月ウサギさんが開催された、「第3回オーケストラアレンジ勉強会」に参加し、根拠の無い自信でアレンジを行い「こんなもんだ」と思って投稿した私に思ってもみなかったコメントがgratinさんから来ました。

「全体的なつくりにやはりバンドアレンジのバックグラウンドを強く感じました。~中略~ベースもかなり動くのですが、それがアンサンブルに適するかどうかと問題」

しかしながら大して勉強もしていない私にはこれをどう解決したらよいか?まったくノー・アイディアな中、ここは一つ西洋音楽の成り立ちを順番に理解していくのが実は早道なのでは?という考えにたどりつきました。

ジャズやポップスなどの軽音楽は、西洋(ヨーロッパ)音楽の範疇に含まれることには、どなたも異論も違和感も無いものと思います。

そこで、この西洋(ヨーロッパ)の音楽の成り立ちをごくかいつまんだ考察ではありますが、考えていきたいと思いました。

以前にも似たようなことを書かせていただいていて少しくどくなってしまいますが、音楽は恐らく人間の祈りや、自分たちの先祖の言い伝えなどを語っていたものに抑揚がついていき、やがて民族として心地よいと認識できる音の高低や音の長さが標準化したのでは無いかと思います。この段階の音楽が所謂「単声音楽(モノフォニー)」と呼ばれる音楽です。
10年ほど前でしょうか?癒しブームに乗ってヨーロッパの古い単声音楽である「グレゴリオ聖歌」のCDがベストセラーになりました。
これを聴かれた方にはモノフォニックな音楽とはどんな物か感覚的にわかる方も多いと思います。

やがて祈りにしても物語にしても、単独の声=声部≒旋律だけでは単調で、伝えられる情報が少ないと考えたのでしょう。複数の声を一つの音楽の中で使うことが考えられます。これが「多声音楽(ポリフォニー)」の始まりですが、この段階では使う音の数を限定することで、不快な響きが発生しない工夫がされています。つまり旋法の考え方ですが、このあたりはすでに何度か書かせていただいている上に、今回の本旨では無いので省略させてください。

この「複数の声部を持った音楽」という発想が、ハーモニーとなり現在のコードへと繋がっていくわけですが、その前に重要な過程としまして初期バロックの時代に「メロディー」と「低音=バス声部」を重視する音楽が現れたことが挙げられます。

つづく・・・

「表現の自由」は「解釈する自由」でもあると思う

2009-10-03 00:06:08 | 映画
うーむ・・・。クリエイターとしてどうかと思うが・・・。

『カムイ外伝』崔監督がブチ切れ!「ちゃんと観ろ!」と名指しで評論家に宣戦布告
10月2日10時11分配信 シネマトゥデイ

 映画『カムイ外伝』を朝日新聞紙上で「仕立てが大味」と評した映画評論家に対して、同作の崔洋一監督が「売られたケンカは買う!」と中日新聞で反論した。

 映画『カムイ外伝』でカムイは、忍びの世界から抜け出し、“抜け忍”として逃亡生活を続ける過程で小さな集落にたどり着く。カムイは漁師の半兵衛の家に身を寄せるうち、娘のサヤカがカムイに憧れをいだき、何かとカムイを気遣いはじめる。しかし、サヤカに想いを寄せ、サヤカの父、半兵衛からも容認されている漁師の吉人がその様子に激しく嫉妬し、さまざまな愛憎が交錯しだす。

 このくだりを9月11日付けの朝日新聞紙上にて映画評論家の秋山登氏が「(略)仕立てが大味なのが気になる。カムイがサヤカに熱をあげる青年がいるのに気づかない不用意ぶりは解せない(略)」と評したのが事の発端だ。

 これに対し10月1日付けの中日新聞で崔監督は、「秋山さん、本当に映画を観ていたのですか」と映画評論家にいきなり真っ向から挑戦的。崔監督は「カムイと(サヤカを含む)半兵衛一家の夕餉を感情むき出しに覗き込む吉人に、苦渋と違和感の表情を見せるカムイの芝居を明らかに見落としている」と指摘し、「カムイの孤独がさっぱり伝わってこない」との評に、「勘違いしている」とばっさり。崔監督はカムイと同じ抜け忍のスガルとの体を張った対決に、カムイの孤独との戦いを描いたのを読み取っていない秋山氏を非難した。

 しかも、このコラムの最後には、映画配給会社や宣伝に携わる人たちに影響力を持つ秋山氏ではあるがその判断が本当に正しいのか、ともとれる書き方で結んであり、かなり挑発的な内容になっている。崔監督の怒りはこれで収まってはおらず、秋山氏に言いたいことは、次回のコラムに持ち越すらしい。

======================

私はこの映画、未見だし原作が凄すぎてどうせロクでも無い映画・・・ゲフンゲフン。

それはともかく、わざわざは観ないだろうと公開前から思っていました。ですから崔監督がおっしゃることが、ごく普通に集中して鑑賞した際に観客に伝わるレベルなのか?相当、深く鑑賞しないと汲み取れないほど奥深いのかはわかりかねますが、一つ言えることは「一旦、作者の手を離れた作品はどう評価されようと致し方ないのでは無いか?」ということです。

私も素人ながら作品を創作し、極めて小規模ではありますが一般の方々にご鑑賞いただける環境におります。まぁ早い話が自作の音楽作品をE-Windというフォーラムでネット公開させていただいております。本当に鑑賞いただけるだけでもありがたいことでありますが、こんな素人作品ながらもいろいろなご意見やご指導もいただけ、自身の創作活動や感性を向上させる大きな糧となっております。

ただし、E-Windという限られた環境の中とは言え、感覚や理解できる音楽のジャンルもまちまちの、不特定多数の方々のご意見やご指導です。当然ながら作者の意図する物とは異なる視点や解釈の物もございます。
しかし、それは飽くまでそういうコメントをされた方では無く、それを伝えきれなかった自分の能力の問題であったり、逆にその視点や解釈が私にとっては新鮮で参考になる物であったり、とにかくクリエイター冥利につきる刺激的な事だと考えております。

それに比べてこの監督はどういうことでしょう?どれほどの創作過程での苦労や苦悩があったのか。どれほどディテールにこだわったのかはわかりませんが、作者の意図どおりに解釈しようが、まったく意図を理解できていなかろうが、それは鑑賞する側の自由であるはずですし、それが国民に保障された「表現の自由」の裏返しであると思います。「オレの言ってる事が全然わかっちゃいない!」と思うのももちろん個人の自由ですが、公の場で個人名を名指しで発言するなど言語道断です。同じ大人としてみっともないとしか思えないですね。
そもそもこの秋山登氏の新聞紙上での発言は「評論」であって、崔監督が同じく新聞紙上で発言した「売られたケンカ」でも何でも無い、まったく次元の違う話です。クリエイターが評論家や一般大衆の意見や評価を一々「喧嘩」扱いしていては、それこそ表現の自由不在の創作活動になってしまうと思いませんか?

かつて「ショー・ガール」がラジー賞を総なめにした際、それでも堂々と授与式に出席し苦笑しながらコメントしたポール・バーホーベン監督。あるいは「キャット・ウーマン」で同じくラジー賞を授与され、アカデミー賞受賞の時と同じコメントをしてみせたハル・ベリー。
同じクリエイター、アーティストであるにも関わらず、これほどの精神的余裕の差が現れてしまうのは・・・?

それともキレて見せることで逆に宣伝効果を狙っているのでしょうか?

何にしても困ったおっちゃんっすねぇ。「月はどっちに出ている」は割りと良くできてたのに・・・。

コードは作曲と切っても切れない関係か?(4)

2009-10-02 00:03:08 | 音楽(全般)
ジャズを演奏するために考案され、今や軽音楽のみならずクラシックを演奏したり、アレンジしたりするにも必須とも言える「コード・ネーム(コード)」の知識。

しかしジャズから生まれた魔法の記号「コード」に縛られて自分の作曲や編曲に紆余曲折が生じたことも、ごく個人的な経験の範疇ですが書かなくてはいけないな。と考えています。

ごく最近まではジャズの「アドリブ=即興での作曲行為」を応用する方法が、作曲・編曲の方法としては唯一無二だと考えていた私は、三月ウサギさんが開催された、「第3回オーケストラアレンジ勉強会」に参加したことで考え方を変えなくてはいけなくなりました。

元々クラシックは好きでマーラーとか聴いてましたし、ブラバンやビッグバンドの経験もあるので
「やってみれば何とかなるだろう」
という根拠の無い自負があったのはある意味良かったと思っています。
金管も煌びやかなアレンジが出来上がり、こんなもんだと思って投稿した私に思ってもみなかったコメントが来ました。モティーフの作者gratinさんのコメントでした。

「全体的なつくりにやはりバンドアレンジのバックグラウンドを強く感じました。~中略~ベースもかなり動くのですが、それがアンサンブルに適するかどうかと問題」

あまりにコードを使った演奏、アレンジ、作曲に慣れすぎていた私は、最低音はコードのルートをあてはめておけばいいと先入観を持っていたのでした。実際、そういう使われ方も多いことは多いのですが、軽音楽のバンドのように「音域=パート」という考えはオケにはあてはまりません。オケは「弦パート」「木管パート」といった具合に「音色で分類」し、その音色の音域での混ぜ方が重視されるものですが、それが理解できていなかったのです。

他の参加者さんはそこはあまり重視したコメントはされていませんでしたが、目からウロコだった私はもう気になって仕方ありません。
そこでクラシックのオケ曲のスコアを少し読んでみることにしました。大きく分けると低音パートが全体を和声的に支えている「オルガン的」な部分もあれば、旋律的に動いている部分もあります。

これが同じオケ編成でもハンス・ジマーなどに代表される「サントラ・オケ」だと、実にバンド的な響きを持っています。低音はシンセサイザーやピアノ、打楽器にまかせてしまい、弦や管はユニゾンとかごく薄くハモった状態で旋律を奏でたり、すこしリズミカルなリフを奏でたりする程度だったりします。まさにバンド・アンサンブル的なアレンジが施されています。

結局、私のその段階のオケ・アレンジは、楽器をどっさりと豪華に重ねている点はクラシックの後期ロマン派的で、低音声部でルート音が素直に動いている点はサントラ・オケのようであったわけで、そこをわかって配分しているならともかく、実に勘だけで作業していた中途半端なものであることがわかってきました。

しかしながら大して勉強もしていない私にはこれをどう解決したらよいか?まったくノー・アイディアでした。

つづく・・・