作曲を趣味にしておきながらきちんと勉強をしたことがありません。
実は高校生になるまでジャズやロックでピアニストやギタリストが演奏するソロが、アドリブと呼ばれる即興であることを知りませんでした(恥。あんな複雑な曲をよくポンポンと弾けるよな~。とかのんきなことを考えていたとです。
なんにしてもそれからはいろいろなレコードを聴き、音楽関係の雑誌や理論書、平凡社の百科事典まで読んでそれなりに、ただしあくまで独学で勉強しました。
やはりよく読んだ物と言いますか実質それしか無かったのですが、「バークリー式」のコードの上にスケールを紐付けるように乗っけて、その範囲でフレーズを展開していく方法を解説した物を最も参考にしました。
大学生になってサークルに入ってみると周りでこの考え方を理解している人間は殆ど皆無で、結果的に私はビッグバンドを始め多くのバンドでプレイする経験ができました。
反面、後輩にはエラそうに「このスケールを全キーで弾ける(吹ける)ようにして!」と指導し、その段階で挫折する後輩は「これを理解して自由にハンドリングできなければジャズはあきらめだよ」なんてイヤな先輩でした。もちろん根拠の無い言い分では無いわけですが、言われた方はたいていガックリするかムカついたかどちらかでした。
初歩的な楽典は一応は勉強しましたが、音楽活動の基本にしていたのはこの「バークリー式」の理論でした。作曲や編曲もアドリブの延長みたいに始めた感じです。
で本題ですが、バークリー式の理論って本当に理論なんでしょうか?
何でこんなことを言うかと申しますと、前述のとおり学生時代に後輩にスケールとコードの関係を説明したり、あるいは自分が勉強をしたりする際に、トップ・レベルのプレイヤー(自分だとバップならバド・パウエル、モードならチック・コリアやハービー・ハンコック)なんかのアドリブを耳コピして分析をしたんですが、どう解釈してもありえない音がいっぱいで、正直「ちゃんと考えて弾いてる?」と本人に確認したい気分になります。一応わかったような顔で後輩に講釈をしますが、例えばG7のコードを使っている小節でそれがドミナントだとして、代理コードのD♭7で解釈してそこに乗っけるスケールとして、シンプルにD♭ミクソリディアンを対応させている。とします。採譜するとそうなっているようなのですがそこにC音が出てきて、D♭のイオアニアンかリディアンのようにも解釈できるわけです。後輩は素直なんで疑問を指摘してきますが、逆にこっちが聞きたいくらいになっているので、「経過的に使うことで新主流派らしさが出ている部分」とか適当にごまかしたもんです。
これが更にラムゼイ・ルイスとか初期のハービーのようにファンクの世界になると、メジャー7thコードの上でばんばんミクソリディアンや全然関係無いペンタとかが満載で、もうホントなんも考えて無いんじゃないか?と疑りたくなります。もはや理論では無く黒人特有のブルージーさ、ファンキーさが自然に表現されている。とか適当にしか分析のしようが無い世界で、時々は自分のアドリブにこの音使いを試すのですがこれがどうにもカッコ悪くて、「やっぱセンスの問題か・・・」で片付けるしか無いものです。
そういった諸々の経験から私が行き着いた結論は、「バークリー式は理論では無くて、先人のアドリブに対するアプローチと言うかアイディアに理屈をつけたものだ」と言うことです。
これはそれがいいとか悪いとかの問題では無く、結局ジャズはアドリブを聴かせる音楽ですから、そのためのアイディアのストックが物を言うわけで、それを殊勝な方がまとめたものは極めて実践的で有用な武器です。そしてこれが何故か理論と呼ばれているわけです。
それなりに理屈をつけて集約したもののどこが理論じゃ無いんだ?と言うご意見があれば、他の音楽の理論、例えば「対位法」のようなモノフォニーからポリフォニーへの変革の要求に応えるために、あるべき音列の体系化から始まって徐々に自由度を増していったようなものこそが理論であって、「こういう考え方もあります。こうもできます。でも時には理屈付けは不可能な使われ方もあります」と言うのは、ベースにはできても理論と呼ぶのは少し抵抗があるように思います。
もちろんアドリブを取ったりジャズらしいアレンジをするためには、もはや避けて通るのは遠回りになる。という認識は私にもありますので、学ぶあるいは覚える意義が無いわけでは無いことは強調しておきます。
あまりあれもこれも使って勉強しても時間ばかり要します。私が使って「こりゃ使えるな」と感じた書籍です。かなり古い本ですが現在でも十分通用する「わかりやすい」テキストだと思います。