6月28日、随筆家で月刊誌『酒』編集長をしていた“佐々木久子”さんが亡くなった。78歳(一部報道では81歳)だった。一家は広島で被爆し、ご本人も被爆者だった。大工の棟梁の家に生まれ、大家族の中で育った“佐々木久子”さんは、浮世の人間ドラマをいやというほど体験する。戦前には妾を囲ったりしていた被爆者の父が、戦後5年経ってどす黒い血を吐いて死ぬ。それ以来、母とずっと一緒に暮らすことになる彼女の人生はどんなものだったか。
1997年頃だったろうか、東京・有楽町の「よみうりホール」で『南無の会』年次総会があったが、特別講師として“佐々木久子”さんが招かれていた。話の内容は多岐に渡っていて、和服姿の小柄な体で、マイクを持って舞台を右に左に歩き回り、巧みな話術で魅了し、笑いを誘ったのを思い出す。その時買った著書『わたしの放浪記』(法蔵館)をもとに、“佐々木久子”さんを偲ぶことにする。
1955(昭和30)年2月、何の当てもなく東京へ出て来た彼女は、4月、朝日新聞の求人欄で「趣味の雑誌」編集記者募集という三行広告を見つける。採用先の兜町の株式新聞社に行ってみると、採用は一人なのに百人くらい並んでいる。こりゃあ、ダメだ、と思ったが、面接では大きな声で言いたいことを喋った。体重は38キロだが、耳も口も眼も大きく、声も人一倍大きい。社長の小玉哲郎氏(故人)は、
「あの娘はよく働くぞ」
と、反対の重役が多かったのに採用してくれた。
入社してわかった仕事は、酒をこよなく愛する小玉社長の趣味道楽の雑誌『酒』の編集記者。数年前、二年間に4冊出して休刊していたのを復刊するというのだ。
作家火野葦平と早稲田で同期だった上司の編集担当重役に連れられ、毎晩のように飲み歩く。それがきっかけで、火野葦平をはじめ尾崎士郎、檀一雄、江戸川乱歩、丹羽文雄、河上徹太郎、吉田健一ら錚々たる作家たちの知遇を得る。コップ酒一杯と冷や奴半丁を肴に有名作家たちの談論に啓発され、大そうな「耳年増」になった。
ところが、雑誌『酒』は売れず、復刊一周年記念号を発刊して休刊。困り果てていた時、火野葦平が、
「俺が生きている限り原稿を書き続けてやるから、チャコ(注:久子の愛称)が引き受けてやりなさい」
と励まされ、小玉社長に相談し株式新聞社から独立して雑誌『酒』の自主発行を始める。
『酒』1965(昭和40)年新年特別号附録として「文壇酒徒番付」が出されているが、「呼び出し」“佐々木久子”の名のほか総勢128名の文壇人が載っていて、東西の三役には次の顔ぶれがある。この番付を見るだけでも、“佐々木久子”さんの人柄が偲べるだろう。
東 西
・横綱 井上 靖 河上徹太郎
・大関 高橋義孝 檀 一雄
・関脇 永井龍男 吉行淳之介
・小結 山口 瞳 梶山季之
さて、“佐々木久子”さんが仏教集会の講師として呼ばれたのはなぜか、深い理由があった。1901(明治34)年生れの母の里は裕福な分限者(ぶげんしゃ)で聡明な人だったが、17歳で大工の棟梁に嫁ぐ。実家が熱心な浄土真宗の信者で、母もその影響を受けて育った。夫をはじめ口煩い姑のもとで、幸い父方も浄土真宗の熱心な門徒だったがため、「嫁いびり」の逃げ場を信仰に求め、一重(ひとえ)に親鸞聖人を信じ、ひたすら聞法し、「正信偈」をあげて念仏を称えていた。
雑誌『酒』の自主編集発行を始めた年に母と妹を呼び寄せ、母は魚が水を得たように、遅まきの青春を謳歌するように遊びはじめる。市川雷蔵をこよなく愛して映画にかよい、先代貴乃花をひいきにテレビの相撲放送にかじりついていた。そして文楽、歌舞伎の鑑賞、毎月築地本願寺へのお参り。しかし、市川雷蔵が死に、貴乃花が引退すると映画館にも行かず相撲放送も見なくなった。そして父の33回忌を迎えた広島のお寺でのこと。
<母は記憶力の抜群の人で、肉親縁者の忌日をよくおぼえていて準備をする人だった。だのに、肝腎の亭主である父の33回忌はコロリと忘れていた。
今思えば、その頃から“頭がいたい、頭が痛い”といいつづけるようになり、市販の頭痛薬を常用するようになっていた。
さて、33回忌のことである。お経を上げてもらい、お斎(とき)を出し、一杯飲み始めた。
「久子や、今日は誰の33回忌かい?」
と、唐突にいう。
―ええッ? お母さん、何いうてるの、お父さんのよ、あんたの連れ合いじゃないの。
「いいや、わしには連れ合いはおらんよ」
と頑(かたくな)にいう。
もう完璧に父のことはわすれているのである。…>
“佐々木久子”さんは、「テレビに挨拶したらボケのはじまり」といい、80歳を過ぎた母親も、テレビと現実の見分けがつかなくなって、テレビの出演者に「まあ、コンニチハ! お元気ですか?」と挨拶しだした。ここから、常人ではなくなった母親とのすさまじい格闘が始まる。
<私は懊悩し気が狂いそうになった。旅先にいても一目散に帰ってくる。当時の私は、やせたし、殺気立ってもいた。
“人間は二度童子(わらし)に戻る”という。
ほんとうに頑是ない赤ん坊に戻ったような母をみていると、私の心にムラムラと殺意がわく。
この手で母を殺して私も死のう。そうすればラクになれる。そう心にきめた私は、鬼になった。鏡は見ていないが、目は吊り上がり、口はさけ、、頭にはツノが生えていたにちがいない。
出刃包丁を手にする。
ボケていても母は、私の殺意が伝わるのか両手を合わせて「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えている。
その念仏を聞いて、私はハッと正気に戻った。
出刃を投げ出して母にしがみつき、
“ごめん、お母さん、ごめん”
と大声をあげて泣いて許しを乞うた。
「久子、わたしを殺してくれ、どうして、わたしはこんなになったのかのォ……」 と母も泣いていう。母は正気に戻っているのだ。…>
その母は1983(昭和58)年8月1日、蝉しぐれの中を旅立つ。奇しくもその日は実母の祥月命日で、82年の生涯、一年半のボケ人生だった。母との別れをしめくくるように、“佐々木久子”さんは書いている。
<母は痴呆症になって死んだが、ボケていても毎朝「正信偈」をあげて念仏をとなえた。でも、わが母ながら浅ましいまでの所行をする。私は憎悪し、あげく鬼と化して、母を殺そう、と思った。
親鸞聖人のおっしゃる「悪人正機」である。私自身の中にひそむ“悪”を自分ではっきりと凝視して、私は自力では救われない悪人であることを思い知らされた。 両手を合わせて仏さまに合掌することの素晴らしさを、たたき込むように教えてくれた両親、なのにこの手で母を殺そうとした私は、自我を捨ててゼロで生きるより手はないのである。母が「結婚するだけが女の幸せではない」といいつづけたのも、私の本性を見抜いていたからだろうと思う。
ここまでくるのに実に多くの人たちの酒縁と仏縁に支えられた。なんとかお返ししなければならない。ここに至って、はじめて私は、自分に出会ったというべきだろう。>
未婚を通した“佐々木久子”さんだが、本書に「遅すぎた人との邂逅」という切ない一文がある。相手は出版界のリーダー的存在で、もちろん家庭のある人だった。
<その人は、あと一年保(も)つか保たないか、といわれていた。
吹雪まじりの寒い日であった。
山陰へ出かけることになったので、お逢いしたい、とお便りを出した。
なかなか返事が来ない。おかしいな? と案じていたら、その人らしくもない乱れた走り書きのような手紙がとどいた。
文面によると、一月の終わりに急遽入院、手術をしたばかりで、今は、お目にかかれない。四月、花が咲く頃には退院できると思うので、その頃に……とある。
その人は、八年前には胃を手術なさっている。そして三年前には最愛の奥様を子宮がんで亡くされていた。…>
初めて逢ったのは33年前、京都で行われた大手書店の集いの席。それから雑誌『酒』を毎月二十冊売り捌いてくれるようになり、ただそれだけのつき合いが10年余つづく。ある春の宵、銀座のバーで飲んだあと車で送ってくれた彼が、「めぐり逢うのが遅すぎたなあ……」とつぶやくようにいって、そっと手を握る。そして奥さんの一周忌がすんで逢った時、彼は「三周忌がすんだら来てくれないかなあ」とつぶやくようにいう。そして三周忌がすんで再び病魔に襲われ、余命半年か一年と告げられたのだ。
<退院されて二ヵ月、柔道で鍛えられただけに、足腰はしっかりしておられる。 京都の行きつけの店でお逢いした。
「こんなザマで、あなたとはやっぱり縁がなかったな」と酒盃を重ねながら静かにおっしゃった。
私は涙がこぼれそうになるのを必死でこらえながら、
―奥様がお迎えに見えたのかもしれないわね。仲のよい夫婦は、先に逝った方が呼ぶといいますから……。
と明るい声でいった。
「そうだな、女房が死んだとき“我や先 人や先なり 秋の風”と弔電を打ってくれたけど、今度は、私が先に逝って、あんたを呼ぶのかな」と、その人はやさしく微笑んでいる。…
遇い難い世で、はからずもめぐり逢う縁をもっても、結ばれるとは限らない。…
「具会一処(くえいっしょ)」(『阿弥陀経』)という。
その人も、阿弥陀如来の他力本願を信じることのできる御同朋(おんどうぼう)である。
翌朝、御本山へお詣りした。私の両親も広島のお寺から分骨して、御本山へ納骨してある。あの人の奥様も一処である。もう生きてはお逢いできないのかもわからない。無量の想いをこめて手を合わせた。
別れぎわ、「いい仕事をしてください」と、その人はいった。私より十歳年上で特攻隊の生き残りである。
自分では救われない己の業(ごう)の深さを思い知らされた京都での邂逅(かいこう)であった。
短夜や 病む君と酌む 古都かなし 柳女>
1997年頃だったろうか、東京・有楽町の「よみうりホール」で『南無の会』年次総会があったが、特別講師として“佐々木久子”さんが招かれていた。話の内容は多岐に渡っていて、和服姿の小柄な体で、マイクを持って舞台を右に左に歩き回り、巧みな話術で魅了し、笑いを誘ったのを思い出す。その時買った著書『わたしの放浪記』(法蔵館)をもとに、“佐々木久子”さんを偲ぶことにする。
1955(昭和30)年2月、何の当てもなく東京へ出て来た彼女は、4月、朝日新聞の求人欄で「趣味の雑誌」編集記者募集という三行広告を見つける。採用先の兜町の株式新聞社に行ってみると、採用は一人なのに百人くらい並んでいる。こりゃあ、ダメだ、と思ったが、面接では大きな声で言いたいことを喋った。体重は38キロだが、耳も口も眼も大きく、声も人一倍大きい。社長の小玉哲郎氏(故人)は、
「あの娘はよく働くぞ」
と、反対の重役が多かったのに採用してくれた。
入社してわかった仕事は、酒をこよなく愛する小玉社長の趣味道楽の雑誌『酒』の編集記者。数年前、二年間に4冊出して休刊していたのを復刊するというのだ。
作家火野葦平と早稲田で同期だった上司の編集担当重役に連れられ、毎晩のように飲み歩く。それがきっかけで、火野葦平をはじめ尾崎士郎、檀一雄、江戸川乱歩、丹羽文雄、河上徹太郎、吉田健一ら錚々たる作家たちの知遇を得る。コップ酒一杯と冷や奴半丁を肴に有名作家たちの談論に啓発され、大そうな「耳年増」になった。
ところが、雑誌『酒』は売れず、復刊一周年記念号を発刊して休刊。困り果てていた時、火野葦平が、
「俺が生きている限り原稿を書き続けてやるから、チャコ(注:久子の愛称)が引き受けてやりなさい」
と励まされ、小玉社長に相談し株式新聞社から独立して雑誌『酒』の自主発行を始める。
『酒』1965(昭和40)年新年特別号附録として「文壇酒徒番付」が出されているが、「呼び出し」“佐々木久子”の名のほか総勢128名の文壇人が載っていて、東西の三役には次の顔ぶれがある。この番付を見るだけでも、“佐々木久子”さんの人柄が偲べるだろう。
東 西
・横綱 井上 靖 河上徹太郎
・大関 高橋義孝 檀 一雄
・関脇 永井龍男 吉行淳之介
・小結 山口 瞳 梶山季之
さて、“佐々木久子”さんが仏教集会の講師として呼ばれたのはなぜか、深い理由があった。1901(明治34)年生れの母の里は裕福な分限者(ぶげんしゃ)で聡明な人だったが、17歳で大工の棟梁に嫁ぐ。実家が熱心な浄土真宗の信者で、母もその影響を受けて育った。夫をはじめ口煩い姑のもとで、幸い父方も浄土真宗の熱心な門徒だったがため、「嫁いびり」の逃げ場を信仰に求め、一重(ひとえ)に親鸞聖人を信じ、ひたすら聞法し、「正信偈」をあげて念仏を称えていた。
雑誌『酒』の自主編集発行を始めた年に母と妹を呼び寄せ、母は魚が水を得たように、遅まきの青春を謳歌するように遊びはじめる。市川雷蔵をこよなく愛して映画にかよい、先代貴乃花をひいきにテレビの相撲放送にかじりついていた。そして文楽、歌舞伎の鑑賞、毎月築地本願寺へのお参り。しかし、市川雷蔵が死に、貴乃花が引退すると映画館にも行かず相撲放送も見なくなった。そして父の33回忌を迎えた広島のお寺でのこと。
<母は記憶力の抜群の人で、肉親縁者の忌日をよくおぼえていて準備をする人だった。だのに、肝腎の亭主である父の33回忌はコロリと忘れていた。
今思えば、その頃から“頭がいたい、頭が痛い”といいつづけるようになり、市販の頭痛薬を常用するようになっていた。
さて、33回忌のことである。お経を上げてもらい、お斎(とき)を出し、一杯飲み始めた。
「久子や、今日は誰の33回忌かい?」
と、唐突にいう。
―ええッ? お母さん、何いうてるの、お父さんのよ、あんたの連れ合いじゃないの。
「いいや、わしには連れ合いはおらんよ」
と頑(かたくな)にいう。
もう完璧に父のことはわすれているのである。…>
“佐々木久子”さんは、「テレビに挨拶したらボケのはじまり」といい、80歳を過ぎた母親も、テレビと現実の見分けがつかなくなって、テレビの出演者に「まあ、コンニチハ! お元気ですか?」と挨拶しだした。ここから、常人ではなくなった母親とのすさまじい格闘が始まる。
<私は懊悩し気が狂いそうになった。旅先にいても一目散に帰ってくる。当時の私は、やせたし、殺気立ってもいた。
“人間は二度童子(わらし)に戻る”という。
ほんとうに頑是ない赤ん坊に戻ったような母をみていると、私の心にムラムラと殺意がわく。
この手で母を殺して私も死のう。そうすればラクになれる。そう心にきめた私は、鬼になった。鏡は見ていないが、目は吊り上がり、口はさけ、、頭にはツノが生えていたにちがいない。
出刃包丁を手にする。
ボケていても母は、私の殺意が伝わるのか両手を合わせて「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えている。
その念仏を聞いて、私はハッと正気に戻った。
出刃を投げ出して母にしがみつき、
“ごめん、お母さん、ごめん”
と大声をあげて泣いて許しを乞うた。
「久子、わたしを殺してくれ、どうして、わたしはこんなになったのかのォ……」 と母も泣いていう。母は正気に戻っているのだ。…>
その母は1983(昭和58)年8月1日、蝉しぐれの中を旅立つ。奇しくもその日は実母の祥月命日で、82年の生涯、一年半のボケ人生だった。母との別れをしめくくるように、“佐々木久子”さんは書いている。
<母は痴呆症になって死んだが、ボケていても毎朝「正信偈」をあげて念仏をとなえた。でも、わが母ながら浅ましいまでの所行をする。私は憎悪し、あげく鬼と化して、母を殺そう、と思った。
親鸞聖人のおっしゃる「悪人正機」である。私自身の中にひそむ“悪”を自分ではっきりと凝視して、私は自力では救われない悪人であることを思い知らされた。 両手を合わせて仏さまに合掌することの素晴らしさを、たたき込むように教えてくれた両親、なのにこの手で母を殺そうとした私は、自我を捨ててゼロで生きるより手はないのである。母が「結婚するだけが女の幸せではない」といいつづけたのも、私の本性を見抜いていたからだろうと思う。
ここまでくるのに実に多くの人たちの酒縁と仏縁に支えられた。なんとかお返ししなければならない。ここに至って、はじめて私は、自分に出会ったというべきだろう。>
未婚を通した“佐々木久子”さんだが、本書に「遅すぎた人との邂逅」という切ない一文がある。相手は出版界のリーダー的存在で、もちろん家庭のある人だった。
<その人は、あと一年保(も)つか保たないか、といわれていた。
吹雪まじりの寒い日であった。
山陰へ出かけることになったので、お逢いしたい、とお便りを出した。
なかなか返事が来ない。おかしいな? と案じていたら、その人らしくもない乱れた走り書きのような手紙がとどいた。
文面によると、一月の終わりに急遽入院、手術をしたばかりで、今は、お目にかかれない。四月、花が咲く頃には退院できると思うので、その頃に……とある。
その人は、八年前には胃を手術なさっている。そして三年前には最愛の奥様を子宮がんで亡くされていた。…>
初めて逢ったのは33年前、京都で行われた大手書店の集いの席。それから雑誌『酒』を毎月二十冊売り捌いてくれるようになり、ただそれだけのつき合いが10年余つづく。ある春の宵、銀座のバーで飲んだあと車で送ってくれた彼が、「めぐり逢うのが遅すぎたなあ……」とつぶやくようにいって、そっと手を握る。そして奥さんの一周忌がすんで逢った時、彼は「三周忌がすんだら来てくれないかなあ」とつぶやくようにいう。そして三周忌がすんで再び病魔に襲われ、余命半年か一年と告げられたのだ。
<退院されて二ヵ月、柔道で鍛えられただけに、足腰はしっかりしておられる。 京都の行きつけの店でお逢いした。
「こんなザマで、あなたとはやっぱり縁がなかったな」と酒盃を重ねながら静かにおっしゃった。
私は涙がこぼれそうになるのを必死でこらえながら、
―奥様がお迎えに見えたのかもしれないわね。仲のよい夫婦は、先に逝った方が呼ぶといいますから……。
と明るい声でいった。
「そうだな、女房が死んだとき“我や先 人や先なり 秋の風”と弔電を打ってくれたけど、今度は、私が先に逝って、あんたを呼ぶのかな」と、その人はやさしく微笑んでいる。…
遇い難い世で、はからずもめぐり逢う縁をもっても、結ばれるとは限らない。…
「具会一処(くえいっしょ)」(『阿弥陀経』)という。
その人も、阿弥陀如来の他力本願を信じることのできる御同朋(おんどうぼう)である。
翌朝、御本山へお詣りした。私の両親も広島のお寺から分骨して、御本山へ納骨してある。あの人の奥様も一処である。もう生きてはお逢いできないのかもわからない。無量の想いをこめて手を合わせた。
別れぎわ、「いい仕事をしてください」と、その人はいった。私より十歳年上で特攻隊の生き残りである。
自分では救われない己の業(ごう)の深さを思い知らされた京都での邂逅(かいこう)であった。
短夜や 病む君と酌む 古都かなし 柳女>