耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

『稲作小言』~“船津伝次平”の「小農の薦め」

2008-02-21 08:58:01 | Weblog
 明治維新後の初代内務卿・大久保利通が東京駒場農学校(のちの東大農学部)教師に迎えた“船津伝次平”(1832~1898)に『稲作小言』という「遊説歌」がある。食糧問題が俎上にある現在、味わい深い内容だからやや長くなるが最後に掲げておく。

 NHKラジオ朝6時45分は土・日を除き『展望』という日替わり解説コーナーで、火曜日の解説者は“内橋克人”氏である。内橋さんの今週の話は「限界集落」(人口の50%が65歳以上の高齢者で冠婚葬祭など社会的共同生活の維持が困難になった集落)に視点をあてた「わが国で調達できない食糧は外国から買えばよい」と主張する“市場原理主義”学者や政治家への度重なる苦言で、彼らの主張に引き回された国策の結果、地域(とくに「中山間地域」)がいかに荒廃したかを「限界集落」の事例を挙げつつ改めて訴えていた。

 「毒入り餃子」問題が、異常に低いわが国の“食糧自給率”を見直す議論に発展すれば「怪我の功名」ともなろうが、「食の外国依存」の現状はそう簡単に是正できるものではなく、自給率を高めるにしても、もはやわが国農業自体が成立基盤をほぼ喪失してしまっていると言えなくもない。これが内橋さんらの主張を“アウトサイダー”とみなし、「新自由主義=市場原理主義」を標榜する人材を重用した小泉政治の帰結とみていい。

 さて、“船津伝次平”(当時46歳)だが、赴任した駒場農学校の農場には「泰西農場」(西洋農場)と「本邦農場」(日本農場)の二つがあって、両者を比較研究しつつ農業発展を目指していた。若い頃から農業技術の改良に熱心だった“船津伝次平”は、両者のよいところを混ぜ合わせた「混同農業」を教えていたが、外国視察から帰った井上馨商務大臣が欧米の大農法をわが国にも取り入れようと考え、新式の大農機具をアメリカから輸入し、まず駒場農学校で実用するように命じた。(新聞『農民』2004.6.7参照)

 今日の状況を髣髴させる事態が起きたのである。“船津伝次平”はこれに反対して辞表を提出、駒場農学校を去る。「日本は耕地が少ないうえ、山国で高いところから低いところまであり、しかも気候の変化が激しいという欧米とは違った土地と気候である。だから日本の農業は、大農法に向いていない」というのが持論で、狭い土地をていねいに耕し、できるだけ多くの収穫をあげるのが日本の農業だと確信していた。井上薫の「大農論」に反対してつくったのが『稲作小言』だという。

 船津家の保有田畑は、“伝次平”が37歳(1969:慶応3)の時、田一反九畝、畑八反七畝十四歩で、100年前の先祖とほとんど変わりなかった。この時の家族構成は“伝次平”夫婦と母、子ども三人、馬一匹という関東農村の典型的な「小農経営」だったという。船津家の「家訓」が「田畑は多く所有すべからず、又多く作るべからず」で、地主化、特に寄生地主化を避け、養蚕を軸とした商業的農業を志していた。

 “伝次平”は、幼くして父から算術・俳諧を学んだというから、船津家にはそうした素養が受け継がれていたのだろう。(“伝次平”の俳号は「冬扇」で≪駒場野や ひらき残りに 轡虫≫の句がある。)成人した“伝次平”は「関流和算」の皆伝を受け、漢学、暦学などを学び、のちに寺小屋を開いて近郷の子弟に教えている。「明治の改暦」(1873:明治6)で太陰暦から太陽暦に変わった時、『太陽暦耕作一覧』を作って農家に配った。

 “船津伝次平”の思想に「天性を率いる」という言葉がある。人間の生業としての農業は自然任せではなく、自然をよく知り、自然をコントロールしてこそ成り立つ、というのだ。一つのエピソードをみてみよう。

 <赤城山に草刈に行ったある日、大きな石の周りの草がよく成長しているのを見て、太陽の熱で温められた石が草の発育をよくしたことに気づいた。これを農業に応用し、石と石の間にナスの種をまき、「石苗間(いしなえま)」を考案し、全国に広めた。>(新聞『農民』)

 自然をあなどってはいけないが、従来の手加減、目分量、心覚えの農業ではなく、自然界の法則性や自らの経験から学びとり、数理を応用した農業のやり方を開発し、指導した。その基本が「小農主義」だったと言えるだろう。


 以前にも何回か書いたが、近年、耕作放棄地はますます拡大しつつある。放棄地の一角を借りてわずかばかりの畑作に取り組んでいるが、いったん荒れた畑をスコップで掘り返し、作付けするのも容易ではない。つい先日、世界遺産に登録されているフィリピンの「棚田」が荒れている様子をNHKが放送していたが、それも「市場原理主義」がもたらしたグローバル化の結果らしい。今に至って、わが国は「大農経営」を奨励し、農地売買の規制緩和を目論んでいるらしいが、破滅的農政を導いてきた政界・官僚・農協は一体何を考えているのか、この国の将来は暗いというしかない。「昔百姓」の人たちが“船津伝次平”の業績を再評価しているというのも頷ける。

 追記:“伝次平”の「農法」を実践している人がいて、先日NHKでも紹介していましたが、『リベラル21』で詳しく紹介されていたのでリンクさせていただきました。

 「無農薬・有機米を人力で…」:http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-257.html


『稲作小言』(チョボクレではやす)

 <ヤレヤレ皆様 しばらく御耳を 拝借しますよ わたしと申すは ずーっと昔の その又むかしの 神代の時代に 豊蘆原より あらわれ出まして それより日本に 広まりましたる 御米であります (省略) 飯にはもちろん 酒でも寿しでも 菓子でも味噌でも 御米で作れば 味(あじわ)いよろしく 紙すくのりにも 布張るのりにも 調法致して 無類のものなり (省略) 精(しら)げる時分に いでたる粉糠(ぬか)は 牛馬の食料 風呂場に有用 肥料に要用 沢庵漬にも 最も必用 糠味噌漬にも これ又同様 その又茎藁 飢饉の食料 製紙の材料 縄・蓑・筵に 俵にかますに わらじに脚絆に (省略) そのほか効用 枚挙につくせず 貴重の貴重の 無類のものなり 然るに此のごろ 御米を廃して 肉食世界に 改良しなさる 御説もきいたが 肉食世界を 拒むじゃなけれど 獣類何ほど 繁殖なすとも 値段が高くちゃ 下等の人民 食うことかなわず 肉食するには 現今一日 四五十銭ほど 要するなるべし 米なら三銭 四銭でたくさん 穀類作れば 一反二反の わずかな田地の 収穫ものでも 一戸の家内の 四人や五人は 年中食して 余りがあります 牛馬を一頭 そだてて見なさい 一町二町の 草ではたるまい ある人申すに 数年原野に 放牧するには 一頭飼育に 六七町余の 地面を要すと ヤレヤレ皆様 よくききなされよ 六七町余に 一頭ぐらいを 飼うよなことでは 三千八百 余万の人民 匂いをかぐには 足りるであろうが 食うにたるまい 足らざるときには 肉類輸入し つまりは必ず 御国の損まう 近年御米が 豊作つづきで やすねであれども やすねであるとて 棄てはいけない 充分はげんで 智力をつくして 赤米青米 腹白しいなは 少しもなくして 光沢味い 最も宜しき 日本固有の 上等種類を 多分に作りて 俵になすまで 手ぬけのなきよに 御注意なされて ドシドシ輸出し 外国一般 そのよきあじわい 十分しらしめ 肉食世界も 米食世界に 変ずるようにと 尽力するこそ 農家の職分 (省略) 皆様はげんで 勉強しなされ 皆様はげんで 勉強なされば 御金はどっさり 日本に充満 日本に充満 (新聞「農民」2004年6月21付より)


 「船津伝次平の墓」:http://www.manabi.pref.gunma.jp/bunkazai/m614280.htm


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