付録に映像DVDが付いた『琵琶法師~<異界>を語る人びと』(兵藤裕己著/岩波新書)を読んだ。まず、DVDをみて驚いたのだが、最後の琵琶法師といわれる熊本県在住だった山鹿良之(やましかよしゆき・1901~96)の存在である。映像は1989年に収録した演題「俊徳丸」の一部(全七段の中から三段の一部=俊徳丸の継母のおすわが、清水寺に丑の刻参りをし、楠の大木に俊徳丸のひな形(わら人形)をはりつけ、七夜のあいだ呪い釘を打つくだり=20分)で、ただすごいとしか言いようのないものだ。私の母が趣味で琵琶の弾き語りをしていたことは前に書いたし、現代琵琶演奏者の代表格・上原まりさんについても思い出を記したが、20年前に古来から伝承されてきた琵琶法師(座頭・盲僧)が実在したとはついぞ知らなかった。この琵琶法師のもとに十年あまりかよったという著者が書いている。
<山鹿良之は、1996年6月に他界した。九州に残存した琵琶弾きの座頭・盲僧のなかでも、その放浪芸的な活動実態といい、全貌を把握しがたいほどの段物の膨大な伝承量といい、山鹿はまさに日本最後の琵琶法師だった。…
琵琶の弾き語りのみを収入源とした山鹿は、常人の想像を絶する生活苦のなかで、三人の配偶者と死別し、一人は失踪し(四人の配偶者のうち、三人は、同業者仲間として知りあった盲目の三味線弾き、瞽女(ごぜ)である)、五人の子どもを亡くすという悲運にみまわれた。…>
私の父(1886年生れ)や母(1896年生れ)より若い本物の琵琶法師がこの九州に存在し、地神祭(じしんさい)や荒神祓(こうじんばら)いなどの民間の宗教儀礼と密接に結びつき、ときには病人治療や占いにもたずさわりつつ食うや食わずの日常を生き延びていたのだ。著者は驚きをもって記す。
<山鹿良之は、80歳をこえてからも五十種類ちかい段物をつねに用意していた。一段物の「小野小町」「道成寺」「石童丸」、二段物の「一の谷」「あぜかけ姫」のほかは、すべて四段から十段以上におよぶ中・長編物である。一段は約40分から60分あまり、かりにそのすべての伝承を字起こししたら、平家物語の何倍・何十倍の分量になるか。少なくとも昭和初期くらいまでさかのぼっても、すでに山鹿良之ほどの膨大な伝承者はいなかったのである。>
まさに「異能者」である。盲目だから頭の中の引き出しにしまいこみ、その時どきに演目を引き出して語るわけだ。
<物語を語るとは、不断に複数化してゆく主体である。その声も、たとえば、琵琶法師の芳一が安徳天皇の墓前で語っていたように、現実の聴衆よりも以前に見えない存在へむけて発せられる。そんな複数化した主体によるモノローグのような語りの声を聴衆は傍聴しているのであり、語られる世界と聴衆とのはざまにあって、盲目の琵琶法師は、たしかにあの世とこの世の媒介者である。>(同書著者)
ここに出てくる「芳一」とは、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の著書『怪談』の冒頭に出てくる「耳なし芳一」のことである。よく知られている物語だが、ついでにこの著者の要約を引用しておこう。
所は長門の国の赤間が関、源平の壇ノ浦合戦の古戦場である。そこに阿弥陀寺(現在の赤間神宮)という寺があり、そこに芳一(ほういち)という盲目の琵琶法師が住んでいた。芳一は平家物語の弾き語りが得意で、なかでも壇ノ浦の段は「鬼神も涙を流す」と言われるほどの名手だった。
<在る夜、住職が法事で出かけ、芳一が一人で縁先に出て琵琶を弾いていると、深夜になって、こちらに近づいてくる足音が聞こえる。足音は芳一のまえで止まると、きびしく叱りつけるような声が芳一の名を呼んだ。
目のみえない芳一はぎょっとしたが、どなたかと尋ねると、声のぬしは侍らしく、自分はある高貴な方にお仕えする者だが、そのお方がこのほど当地に滞在し、芳一の琵琶のうわさを聞いて、ぜひ召しだしたいのだという。
あらがいがたい声の調子にうながされて、芳一はさっそく琵琶をかかえて声のぬしについていくと、どことも知れない広大な御殿のなかにはいり、高貴な方の御座所とおぼしい広間に案内された。お付きの老女の声で、「平家」を語り聞かせよとの君の御所望が伝えられ、「平家」のなかでもとりわけ壇ノ浦の合戦の一節を語るようにいわれる。
いわれるままに壇ノ浦の合戦の段を語っていると、周囲からは賞賛のささやきが聞こえたが、平家一門の入水のくだりになると、それまで熱心に聞きいっていた人びとのあいだから、はげしい嗚咽の声が聞こえてくる。そして語りおわると、老女から、これから七日のあいだ、毎夜ここに来て語るようにいわれ、またこのたびはお忍びのお出ましであるゆえ、けっして他言してはならないといわれる。
芳一は、つぎの夜も、むかえの者に連れられて出かけたが、この二度目の伺候中に、寺を留守にしたことが露見してしまう。朝になって寺に帰ってきた芳一は、住職にたしなめられるが、かたく口止めされているため事情を話さない。
三日目の夜、住職は、寺の者たちに命じて、寺を抜けだしてゆく芳一のあとをつけさせた。その夜は雨がふり、ひどく暗い晩であった。芳一はよほど足ばやに歩いたものか、寺の者たちはすがたをみうしなったが、阿弥陀時の墓地まで帰ってきたところで、安徳天皇の陵墓のまえで琵琶を弾いている芳一をみつける。芳一のまわりには、無数の灯火をともしたように鬼火が舞っていた。
力ずくで寺に連れもどされた芳一は、住職に問いただされて、いままでのいきさつを語る。ことの次第をさとった住職は、芳一に、このままでは平家の死霊にとり殺されるだろうといい、死霊が二度と芳一を連れだせないようにと、寺の者に命じて芳一を丸裸にし、からだじゅうに般若心経の経文を書きつけた。そしていつもの縁先に座らせると、むかえの者が来ても、けっして声をだしてはいけないといいきかせる。
はたしてその夜も、むかえの使いが来たが、芳一のからだには経文が書いてあるため、使いの者には芳一のすがたがみえない。名を呼んでも、芳一は息をころして身じろぎひとつしない。使いの者は、耳だけがふたつ宙に浮かんでいるのをみつけ、自分が役目をはたした証拠にと、その耳を引きちぎってもちかえった。芳一のからだに経文を書きつけた寺の者は、耳だけに書き忘れていたのだった。
この事件があったのち、かろうじて命が助かった芳一のもとへは、平家の死霊は二度とあらわれることがなかった。そして芳一が体験した不思議はしだいに語りひろめられ、かれの名は琵琶の名手としてひろく知られるようになった。>
付録DVDで「俊徳丸」を語る琵琶法師山鹿良之はこの芳一を髣髴させ、私をたちまち異界へと誘う。本人と何度も対面した著者の兵藤裕己は「異界からのざわめきのような琵琶の響きと語りの声が、ことばによって構築・編成されたこの世界に亀裂を入れ、人としてあることの根源的な哀感に私たちを向きあわせる」と、正鵠を射た評を下している。
なお、本書の評は省略するが、項立てのみ記せば以下のとおりである。
・序章 二人の琵琶法師
・第一章 琵琶法師はどこから来たか――平安期の記録から
・第二章 平家物語のはじまり――怨霊と動乱の時代
・第三章 語り手とはだれか――琵琶法師という存在
・第四章 権力のなかの芸能民――鎌倉から室町期へ
・第五章 消えゆく琵琶法師――近世以降のすがた
ついでに、芳一が平家の死霊に語ったとされる『平家物語』巻第十一の十「先帝御入水の事」から安徳帝入水の場面を引いておく。
<主上、あはれなる御有様にて、「そもそも尼前(あまぜ)、われをばいづちへ具して行かんとはするぞ」と仰せければ、二位殿、幼(いとけな)き君に向ひ参らせ、涙をはらはらと流いて、「君は未だ知し召され候はずや。先世の十善戒行の御力によつて、今萬乗の主(あるじ)とは生れさせ給へども、悪縁に引かれて、御運已に盡きさせ給ひ候ひぬ。先づ、東に向はせ給ひて、伊勢大神宮に御暇(おんいとま)申させおはしまし、その後、西に向はせ給ひて、西方浄土の来迎(らいがう)に預(あづか)らんと誓はせおはしまして、御念佛候ふべし。この國は粟散邊土(ぞくさんへんど)と申して、ものうき境にて候。あの波の下にこそ、極楽浄土とてめでたき都の候。それへ具し参らせ候ふぞ」と、様々に慰め参らせしかば、山鳩色の御衣(ぎょい)に鬟結(びんづらゆ)はせ給ひて、御涙におぼれ、小(ちひさ)う美しき御手を合せ、先づ東に向はせ給ひて、伊勢大神宮・正八幡宮に、御暇申させおはしまし、その後西に向はせ給ひて、御念佛ありしかば、二位殿、やがて抱き参らせて、「波の底にも都の候ふぞ」と慰め参らせて、千尋(ちひろ)の底にぞ沈み給ふ。>(佐藤謙三校注『平家物語』/角川ソフィア文庫)
<山鹿良之は、1996年6月に他界した。九州に残存した琵琶弾きの座頭・盲僧のなかでも、その放浪芸的な活動実態といい、全貌を把握しがたいほどの段物の膨大な伝承量といい、山鹿はまさに日本最後の琵琶法師だった。…
琵琶の弾き語りのみを収入源とした山鹿は、常人の想像を絶する生活苦のなかで、三人の配偶者と死別し、一人は失踪し(四人の配偶者のうち、三人は、同業者仲間として知りあった盲目の三味線弾き、瞽女(ごぜ)である)、五人の子どもを亡くすという悲運にみまわれた。…>
私の父(1886年生れ)や母(1896年生れ)より若い本物の琵琶法師がこの九州に存在し、地神祭(じしんさい)や荒神祓(こうじんばら)いなどの民間の宗教儀礼と密接に結びつき、ときには病人治療や占いにもたずさわりつつ食うや食わずの日常を生き延びていたのだ。著者は驚きをもって記す。
<山鹿良之は、80歳をこえてからも五十種類ちかい段物をつねに用意していた。一段物の「小野小町」「道成寺」「石童丸」、二段物の「一の谷」「あぜかけ姫」のほかは、すべて四段から十段以上におよぶ中・長編物である。一段は約40分から60分あまり、かりにそのすべての伝承を字起こししたら、平家物語の何倍・何十倍の分量になるか。少なくとも昭和初期くらいまでさかのぼっても、すでに山鹿良之ほどの膨大な伝承者はいなかったのである。>
まさに「異能者」である。盲目だから頭の中の引き出しにしまいこみ、その時どきに演目を引き出して語るわけだ。
<物語を語るとは、不断に複数化してゆく主体である。その声も、たとえば、琵琶法師の芳一が安徳天皇の墓前で語っていたように、現実の聴衆よりも以前に見えない存在へむけて発せられる。そんな複数化した主体によるモノローグのような語りの声を聴衆は傍聴しているのであり、語られる世界と聴衆とのはざまにあって、盲目の琵琶法師は、たしかにあの世とこの世の媒介者である。>(同書著者)
ここに出てくる「芳一」とは、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の著書『怪談』の冒頭に出てくる「耳なし芳一」のことである。よく知られている物語だが、ついでにこの著者の要約を引用しておこう。
所は長門の国の赤間が関、源平の壇ノ浦合戦の古戦場である。そこに阿弥陀寺(現在の赤間神宮)という寺があり、そこに芳一(ほういち)という盲目の琵琶法師が住んでいた。芳一は平家物語の弾き語りが得意で、なかでも壇ノ浦の段は「鬼神も涙を流す」と言われるほどの名手だった。
<在る夜、住職が法事で出かけ、芳一が一人で縁先に出て琵琶を弾いていると、深夜になって、こちらに近づいてくる足音が聞こえる。足音は芳一のまえで止まると、きびしく叱りつけるような声が芳一の名を呼んだ。
目のみえない芳一はぎょっとしたが、どなたかと尋ねると、声のぬしは侍らしく、自分はある高貴な方にお仕えする者だが、そのお方がこのほど当地に滞在し、芳一の琵琶のうわさを聞いて、ぜひ召しだしたいのだという。
あらがいがたい声の調子にうながされて、芳一はさっそく琵琶をかかえて声のぬしについていくと、どことも知れない広大な御殿のなかにはいり、高貴な方の御座所とおぼしい広間に案内された。お付きの老女の声で、「平家」を語り聞かせよとの君の御所望が伝えられ、「平家」のなかでもとりわけ壇ノ浦の合戦の一節を語るようにいわれる。
いわれるままに壇ノ浦の合戦の段を語っていると、周囲からは賞賛のささやきが聞こえたが、平家一門の入水のくだりになると、それまで熱心に聞きいっていた人びとのあいだから、はげしい嗚咽の声が聞こえてくる。そして語りおわると、老女から、これから七日のあいだ、毎夜ここに来て語るようにいわれ、またこのたびはお忍びのお出ましであるゆえ、けっして他言してはならないといわれる。
芳一は、つぎの夜も、むかえの者に連れられて出かけたが、この二度目の伺候中に、寺を留守にしたことが露見してしまう。朝になって寺に帰ってきた芳一は、住職にたしなめられるが、かたく口止めされているため事情を話さない。
三日目の夜、住職は、寺の者たちに命じて、寺を抜けだしてゆく芳一のあとをつけさせた。その夜は雨がふり、ひどく暗い晩であった。芳一はよほど足ばやに歩いたものか、寺の者たちはすがたをみうしなったが、阿弥陀時の墓地まで帰ってきたところで、安徳天皇の陵墓のまえで琵琶を弾いている芳一をみつける。芳一のまわりには、無数の灯火をともしたように鬼火が舞っていた。
力ずくで寺に連れもどされた芳一は、住職に問いただされて、いままでのいきさつを語る。ことの次第をさとった住職は、芳一に、このままでは平家の死霊にとり殺されるだろうといい、死霊が二度と芳一を連れだせないようにと、寺の者に命じて芳一を丸裸にし、からだじゅうに般若心経の経文を書きつけた。そしていつもの縁先に座らせると、むかえの者が来ても、けっして声をだしてはいけないといいきかせる。
はたしてその夜も、むかえの使いが来たが、芳一のからだには経文が書いてあるため、使いの者には芳一のすがたがみえない。名を呼んでも、芳一は息をころして身じろぎひとつしない。使いの者は、耳だけがふたつ宙に浮かんでいるのをみつけ、自分が役目をはたした証拠にと、その耳を引きちぎってもちかえった。芳一のからだに経文を書きつけた寺の者は、耳だけに書き忘れていたのだった。
この事件があったのち、かろうじて命が助かった芳一のもとへは、平家の死霊は二度とあらわれることがなかった。そして芳一が体験した不思議はしだいに語りひろめられ、かれの名は琵琶の名手としてひろく知られるようになった。>
付録DVDで「俊徳丸」を語る琵琶法師山鹿良之はこの芳一を髣髴させ、私をたちまち異界へと誘う。本人と何度も対面した著者の兵藤裕己は「異界からのざわめきのような琵琶の響きと語りの声が、ことばによって構築・編成されたこの世界に亀裂を入れ、人としてあることの根源的な哀感に私たちを向きあわせる」と、正鵠を射た評を下している。
なお、本書の評は省略するが、項立てのみ記せば以下のとおりである。
・序章 二人の琵琶法師
・第一章 琵琶法師はどこから来たか――平安期の記録から
・第二章 平家物語のはじまり――怨霊と動乱の時代
・第三章 語り手とはだれか――琵琶法師という存在
・第四章 権力のなかの芸能民――鎌倉から室町期へ
・第五章 消えゆく琵琶法師――近世以降のすがた
ついでに、芳一が平家の死霊に語ったとされる『平家物語』巻第十一の十「先帝御入水の事」から安徳帝入水の場面を引いておく。
<主上、あはれなる御有様にて、「そもそも尼前(あまぜ)、われをばいづちへ具して行かんとはするぞ」と仰せければ、二位殿、幼(いとけな)き君に向ひ参らせ、涙をはらはらと流いて、「君は未だ知し召され候はずや。先世の十善戒行の御力によつて、今萬乗の主(あるじ)とは生れさせ給へども、悪縁に引かれて、御運已に盡きさせ給ひ候ひぬ。先づ、東に向はせ給ひて、伊勢大神宮に御暇(おんいとま)申させおはしまし、その後、西に向はせ給ひて、西方浄土の来迎(らいがう)に預(あづか)らんと誓はせおはしまして、御念佛候ふべし。この國は粟散邊土(ぞくさんへんど)と申して、ものうき境にて候。あの波の下にこそ、極楽浄土とてめでたき都の候。それへ具し参らせ候ふぞ」と、様々に慰め参らせしかば、山鳩色の御衣(ぎょい)に鬟結(びんづらゆ)はせ給ひて、御涙におぼれ、小(ちひさ)う美しき御手を合せ、先づ東に向はせ給ひて、伊勢大神宮・正八幡宮に、御暇申させおはしまし、その後西に向はせ給ひて、御念佛ありしかば、二位殿、やがて抱き参らせて、「波の底にも都の候ふぞ」と慰め参らせて、千尋(ちひろ)の底にぞ沈み給ふ。>(佐藤謙三校注『平家物語』/角川ソフィア文庫)