【タイ山岳民族の村に暮らす】

チェンマイ南西200キロ。オムコイの地でカレン族の嫁と綴る“泣き笑い異文化体験記”

【哀しき満月祭】

2007年07月29日 | アジア回帰
 朝7時に起き出して、散歩に出た。

 宿の前を流れる川を渡って坂道を登っていくと、パーイの町が一望できる。

 観光化された市街地の印象とは異なり、日本の里山に近い穏やかな山並みと緑濃い森に囲まれたこじんまりとした高原の町である。

 観光用バンガローの密集した川沿いから少し離れれば、田植えのすんだばかりの水田が緑鮮やかに広がっている。

 道の途中で、「いのちのまつり」「満月祭」と日本語で書かれた看板を見つけた。

 訊くと日本人が土地を借りてコミュニティのようなものを作っており、いわばアースデイのような催しを行っているのだとか。

 ボブ・マーレーのようなもしゃもしゃ頭の日本人を何人か見かけたけれど、こんなところにきてまでヘアースタイルを統一することもあるまいと感じて、そそくさと踵を返した。

 ふと見上げると、山の中腹に寺が見える。

 高いところに弱い私は、さっそく坂道を登りにかかる。

 途中から道は石段に代わり、息を切らせて登りつめるとこじんまりとした寺にたどり着いた。

 見ると、本堂にはびっしりと人が詰め掛けて僧の説教を聴いている。

 僧の前には、寄進物が山を成している。

「そうか、おとといベンが話していた安居日が今日なのかもしれないな」

 “安居日”とは、雨季に際して僧侶が3ヶ月ほど寺にこもって修行を始める日のことで、村人たちはこの修行を支えるべく寺に詣でて金品を寄進するのである。

 英語を話す村人の説明によれば、今日はまた満月の日にも当たっていて、村人たちは月に4回ある満月の日にも欠かさず寺に詣でるのだという。

 ベンが宗教行事をさぼってチェンマイにやってきて、村から弾劾されることになった日は、もしかしたらこの“満月日”であったのかもしれない。

        *

 汗びっしょりになって宿に戻ると、携帯電話がベンからの3度の着信を表示している。

 おととい、パーイに着くころに電話すると言っていたのだが結局電話はなく、昨日こちらから数度電話を入れたのだが、やはり応答も返信もなかった。

 おそらく疲れが激しくて電話できなかったのだろうが、今朝は少し楽になったのだろうか。

 一度目の電話には応答がなく、シャワーを浴びて再度かけなおすと、やっと舌足らずの甘えたような「ハロー」が聞こえた。

 だが、元気がない。

「ベン、どうした?大丈夫か?」

「うん、大丈夫。ちょっと疲れているけど。朝、何度か電話したんだよ」

「ああ、すまん。お寺に行ってたんだ。こんなに朝早く電話くれると思わなかったから、携帯持たずに出たんだ」

「お寺に行ったの?偉い、偉い(笑)」

「村の人がいっぱいお参りしてたから聞いてみたら、今日が安居日だって」

「そうだよ。キヨシ、明日の朝もお参りに行ってね。そうすれば、きっといいことがあるから」

「分かった。ベンは今日お参りに行けるのか?」

「分からない。叔母に話したんだけど、ちょっと考えてみるって」

「行けなくても、問題ないよ。俺がベンの分もお祈りしてきたから」

「ありがとう」

 ベンは、すでに自分ひとりでは行動できない体になってしまったようだ。

「明日、本当に北京に行くのか?何時の飛行機?」

「分からない。叔母がすべてを手配して、私はほとんど横になっている。叔母が可哀想。家族も可哀想。わたし、早く働いて家族を楽にしてやりたい」

「気持ちは分かるけど、今は自分の治療に専念するんだ。必要なら、手術も受けるべきだよ」

「でも、ドクターは手術の成功率は50%だって言うの。だから、薬をたくさん飲んで、腫瘍が小さくなればその方が体のためにはいいらしい」

「・・・」

「キヨシ、ラーから電話があった?」

「ああ、何度もかかってくるよ。自分もパーイに来たいって」

 実は、あまりにも頻繁に電話がかかってくるので、私もついに根負けして2~3日ならマッサージビジネス視察に付き合ってもいいと返答をしたところだった。

 もちろん、「友達としてなら」という条件つきの上ではあるのだが、病気のベンに余計な心配はかけたくない。

「でも、心配ないよ。もう、すべてが終わったんだから」

「わたしね、キヨシには素敵なタイ人女性を見つけて幸せになってほしいの。だって、カレン族はお酒も飲むしタバコも吸うでしょう。それに、わたしやキヨシに嘘もついたし・・・」

「ベン、俺はキミと一緒に幸せになりたいんだ。分かっているだろう?」

「分かっているよ、いっぱい分かっているよ。でも、ベンはあと何年生きるのかも分からない。そのうち、天国に行くんだよ」

「天国じゃないだろ、日本に行くんだろう?日本に桜を見に行くんだろう?」

「うん、行きたいよ。でも、とても疲れていけそうにもないよ・・・。わたしね、きれいになりたい」

「ベン、キミはきれいだよ」

「ありがとう。でもね、今のベンはきれいじゃないの。化粧品だって持っていない。ねえ、覚えているでしょう?わたしの誕生日にあなたがプレゼントしてくれた美容マッサージのこと」

「ああ、覚えているよ」

「わたしね、あのマッサージをもう一度受けたいの。あれから、ちょうど半年経ったから。あのマッサージのあと、わたし、とてもきれいだったでしょ」

 確かに、ひどい肌荒れが治まり、ひどく気にしていた目じりのしわも消えてしまっていたっけ。

「分かった。じゃあ、今日にでもチェンマイに戻っておいで」

「駄目。戻れない。とっても疲れてしまって・・・」

 そんな弱音を吐くなよ。

 明日は、北京まで行かなくちゃいけないんだぞ。

 北京から日本に電話をくれれば、俺は北京に会いに行くって約束したじゃないか。

「キヨシ、ありがとう。北京から絶対電話するね」

「北京の電話番号を教えてくれ。こちらからもかけるよ」

「わたし、なにも知らないの。叔母が帰ったら、尋ねてみるね」

「分かった。とにかく、頑張ってご飯を食べて、しっかり薬を飲むんだよ」

「わかった。ありがとう。バイバイ」

 電話が切れたとたん、言いようのない寂寞が心を覆う。

 なんてこったい!

 ベンはまだ、28歳だぜ!

     *

 あと3時間もすれば、ラーがパーイにやってくる。

 いま、私に向かって「愛している」と言ってくれるのは、世界中にこの女ただひとりしかいない。

 だが、私の心を占めているのはベンの行く末だけである。

 私は、どんな顔をしてラーとともに満月祭の夜を過ごせばいいのだろうか。

 

 
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