先日のディープ・パープルのコンサートの興奮も冷めやらぬ日々ですが、ちょっと気持ちを落ち着かせるためにクラシックの名曲をBGMにして読書などしていました・・・そうしたら・・・。
普段はなにげなく聴いている音楽だったんですが、今日その曲の持つ例えようも無い美しさとそれに相反する深遠な恐怖感に思わず息を呑んでしまいました。
その曲は シューベルト作曲 交響曲第八番「未完成」
CDの演奏者は ギュンター・ヴァント指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
クラシックには一般に名曲と呼ばれる「運命」「田園」「新世界より」「四季」「悲愴」「合唱(第九)」などなど「超有名な題名」のついたものが多くありますが、コアなクラシックのファンの一部(もしかしてかなりの人が)は「そんな通俗的な!」などと通ぶって小バカにしているそれらの曲が実は途方も無く芸術的価値の高いものであることが多いのです。
シューベルトの「未完成」はおそらくクラシックファンならずとも一度はその曲名を聞いたことがあるでしょう。交響曲の標準的形式である4~5楽章制の完結をみない、たった2つの楽章だけのこの交響曲はその外見によって「未完成」とされていますが、実際に聴いてみるとその完成度には「もうこれで十分」といった満足感があります。
で、この超名曲、2つの楽章とも基本はゆったりとした3拍子でけっしてコケオドシ的な仕掛けがあるわけでも、耳をつんざくような強音や燃えるようなリズムがあるわけでもないのに本当にすごいんです。
音楽の表情は途方も無く美しいのですが、そりゃ聴けば聴くほど恐ろしい美しさなのです。
オープニングの地の底でうごめき、湧き出てくるような不気味な低音(バス)の旋律。これが恐ろしさの原点です。印象的なイントロなのにフっと消えてしまいます。そして映画の本編が始まるかのようにオーボエのはかなげな第一テーマが現れます。そしてホルンのロングトーンの橋渡しのあとチェロの穏やかで優美な第二テーマになります。
第一テーマはマイナー(短調)、第二はメジャー(長調)ですがともに冬の日差しのように弱々しい明るさです。聴き手はこの二つのテーマ(主題といいます)の入れ替わり立ち代りに気分を翻弄されていきます。穏やかな気持ちでいたら急に曇り空の下に置かれたり、まどろもうとしたら急に起こされたり・・・でも絶えず鈍い光だけは空から降り注がれています。
主題の表情も絶望的に見えたり、希望がかすかに見えてきたりと絶えず変化しています。
美しい瞬間に心を許していたその時、イントロの不気味な恐怖がパワーアップして大きく目の前に現れます。この時の恐ろしさは、仕掛けを張り巡らせて作られたものによる怖さの上をゆくものです。
この世界の主人公はオレ様だと言わんばかりにおおいかぶさってとどめを刺そうとするこの低音のメロディーが今までの全てを否定して抹殺するのです。ベートーベンなど先人が好んで構築したハッピーエンドや歓喜での完結はシューベルトにおいては聴けないどころか、どこか胡散臭くさえ思えるのです。
脱線しますが僕はハリウッド映画によくみられる終りのハッピーさが嫌いです。家族愛を異常に強調したり、主人公が自己中心的だったり、アメリカの力によって世界は救われたとか臆面も無く言ってみたり・・・まぁ、そういうまやかしがシューベルトのこの音楽には一切無くて、時には聴く者を絶望の淵にまで追いやってさっさと消えていくのです。
第2楽章はほのかに明るい表情をもってどこか落ち着いた感じで続くのですが、平穏な音楽も安心していると時折アレっと思うほど落ち込んだりもします。
シューベルトはベートーベンのように「二元論」を信じなかったのです。つまり、一般的に違うもの、例えば明るさと暗さ、喜びと悲しみといったペアなんて嘘っぱちだと思っていたフシがあるのです。だから彼の音楽ではそういう対立するものが微妙につながったり溶け合ったりしています。
二元論というものはとっても便利な思考パターンではありますが、反面多くのものを切り捨てる暴力的な荒々しい手段でもあります。何事であれ、そんなに簡単に白黒をつけられるものではないでしょう。
以前にこのブログで書きましたが(2/26 今、一番嫌いな言葉:「勝ち組・負け組」)そうそう相反する二つのものだけで世界は表現できませんね。
「未完成」の中でシューベルトはそんな対立する世界をいくつかの「主題(メロディー)」というものに置き換えて、混沌を表現し静寂を喧騒から引き出しながら音楽を諦めにもにた天国の世界へと推し進めました。
結果、第二楽章の終り(全曲の締めくくり)は勝利や希望や喜びのない静かな明るさ、穏やかさに包まれています。この表情はすでにこの世の物ではありません。安らかな死人の表情です。
ここに及んで聴き手はあらゆる困難も喜びも苦悩も闘いも死の中で消滅することを悟るのです。
どろどろとした不気味な始まりから最後の天国的な静けさへと到達していくプロセスはすべてが停止する死への憧れを描いたとも言えるのです。
僕は読書のBGMとしてこの音楽を選び静かな時間を過ごそうと思ったのですが、いつのまにか本は手元を離れ、音楽と真正面から向き合ってしまいました。
あまたあるクラシックの曲のなかにはもっと写実的な恐怖、あるいは平安の表現がなされたものがありますが、シューベルトの「未完成」のようにそっと近づいてそっと離れていく恐ろしくも美しい表情をもった音楽はそうそうあるものではありません。
この曲の結末が歓喜ではなく安らかな死が全てを終わらせる、と言っていることに気付いて僕は美しい恐怖というものを体感したのでした。
普段はなにげなく聴いている音楽だったんですが、今日その曲の持つ例えようも無い美しさとそれに相反する深遠な恐怖感に思わず息を呑んでしまいました。
その曲は シューベルト作曲 交響曲第八番「未完成」
CDの演奏者は ギュンター・ヴァント指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
クラシックには一般に名曲と呼ばれる「運命」「田園」「新世界より」「四季」「悲愴」「合唱(第九)」などなど「超有名な題名」のついたものが多くありますが、コアなクラシックのファンの一部(もしかしてかなりの人が)は「そんな通俗的な!」などと通ぶって小バカにしているそれらの曲が実は途方も無く芸術的価値の高いものであることが多いのです。
シューベルトの「未完成」はおそらくクラシックファンならずとも一度はその曲名を聞いたことがあるでしょう。交響曲の標準的形式である4~5楽章制の完結をみない、たった2つの楽章だけのこの交響曲はその外見によって「未完成」とされていますが、実際に聴いてみるとその完成度には「もうこれで十分」といった満足感があります。
で、この超名曲、2つの楽章とも基本はゆったりとした3拍子でけっしてコケオドシ的な仕掛けがあるわけでも、耳をつんざくような強音や燃えるようなリズムがあるわけでもないのに本当にすごいんです。
音楽の表情は途方も無く美しいのですが、そりゃ聴けば聴くほど恐ろしい美しさなのです。
オープニングの地の底でうごめき、湧き出てくるような不気味な低音(バス)の旋律。これが恐ろしさの原点です。印象的なイントロなのにフっと消えてしまいます。そして映画の本編が始まるかのようにオーボエのはかなげな第一テーマが現れます。そしてホルンのロングトーンの橋渡しのあとチェロの穏やかで優美な第二テーマになります。
第一テーマはマイナー(短調)、第二はメジャー(長調)ですがともに冬の日差しのように弱々しい明るさです。聴き手はこの二つのテーマ(主題といいます)の入れ替わり立ち代りに気分を翻弄されていきます。穏やかな気持ちでいたら急に曇り空の下に置かれたり、まどろもうとしたら急に起こされたり・・・でも絶えず鈍い光だけは空から降り注がれています。
主題の表情も絶望的に見えたり、希望がかすかに見えてきたりと絶えず変化しています。
美しい瞬間に心を許していたその時、イントロの不気味な恐怖がパワーアップして大きく目の前に現れます。この時の恐ろしさは、仕掛けを張り巡らせて作られたものによる怖さの上をゆくものです。
この世界の主人公はオレ様だと言わんばかりにおおいかぶさってとどめを刺そうとするこの低音のメロディーが今までの全てを否定して抹殺するのです。ベートーベンなど先人が好んで構築したハッピーエンドや歓喜での完結はシューベルトにおいては聴けないどころか、どこか胡散臭くさえ思えるのです。
脱線しますが僕はハリウッド映画によくみられる終りのハッピーさが嫌いです。家族愛を異常に強調したり、主人公が自己中心的だったり、アメリカの力によって世界は救われたとか臆面も無く言ってみたり・・・まぁ、そういうまやかしがシューベルトのこの音楽には一切無くて、時には聴く者を絶望の淵にまで追いやってさっさと消えていくのです。
第2楽章はほのかに明るい表情をもってどこか落ち着いた感じで続くのですが、平穏な音楽も安心していると時折アレっと思うほど落ち込んだりもします。
シューベルトはベートーベンのように「二元論」を信じなかったのです。つまり、一般的に違うもの、例えば明るさと暗さ、喜びと悲しみといったペアなんて嘘っぱちだと思っていたフシがあるのです。だから彼の音楽ではそういう対立するものが微妙につながったり溶け合ったりしています。
二元論というものはとっても便利な思考パターンではありますが、反面多くのものを切り捨てる暴力的な荒々しい手段でもあります。何事であれ、そんなに簡単に白黒をつけられるものではないでしょう。
以前にこのブログで書きましたが(2/26 今、一番嫌いな言葉:「勝ち組・負け組」)そうそう相反する二つのものだけで世界は表現できませんね。
「未完成」の中でシューベルトはそんな対立する世界をいくつかの「主題(メロディー)」というものに置き換えて、混沌を表現し静寂を喧騒から引き出しながら音楽を諦めにもにた天国の世界へと推し進めました。
結果、第二楽章の終り(全曲の締めくくり)は勝利や希望や喜びのない静かな明るさ、穏やかさに包まれています。この表情はすでにこの世の物ではありません。安らかな死人の表情です。
ここに及んで聴き手はあらゆる困難も喜びも苦悩も闘いも死の中で消滅することを悟るのです。
どろどろとした不気味な始まりから最後の天国的な静けさへと到達していくプロセスはすべてが停止する死への憧れを描いたとも言えるのです。
僕は読書のBGMとしてこの音楽を選び静かな時間を過ごそうと思ったのですが、いつのまにか本は手元を離れ、音楽と真正面から向き合ってしまいました。
あまたあるクラシックの曲のなかにはもっと写実的な恐怖、あるいは平安の表現がなされたものがありますが、シューベルトの「未完成」のようにそっと近づいてそっと離れていく恐ろしくも美しい表情をもった音楽はそうそうあるものではありません。
この曲の結末が歓喜ではなく安らかな死が全てを終わらせる、と言っていることに気付いて僕は美しい恐怖というものを体感したのでした。
いやあ、みかんせいについての五十嵐さんの考察、感動しました。ハリウッド映画の不自然なハッピーエンドには違和感がある。まさに同感。やはりあなたはなによりも自然体を愛する健全な心の人だと痛感しました。
ライブがんばってください。当日はお邪魔します。
久しぶりですね。
「未完成」の話題でハリウッド映画への違和感を言及することは余分だっただろうけど、予定調和みたいなものはクサいので嫌いなんです。