宗葉の、チョイト思う事。言いたい事。

意見のあわない方は、御容赦。

心の茶室

2006-04-23 22:52:39 | 茶の湯
●茶室について
禅宗から見た茶道の茶室は、まさに道場である。今は、禅の心で茶をやろうと思う人も少ないし、利休の時代のように、戦場へ送る茶会を開く為の場でもない。まして、世渡りの為の手段の場でもない。
決壊により、俗世との隔たりとして、母なる体内とする。腹水の中に泳ぐ胎児のように、大きな何ものかに守られ、安心した静かなる心で、おごった装飾もない道具に囲まれ、松風の音も母の鼓動のように聞こえ、生きている実感を我が肢体に感じる。父と母から命をもらった様に、片手に真人の心、もう片方の手に道具を持ち、今、まさに新しく生まれ変わる。茶花が一輪で自然の恵みを表しているように、露地がなくても何かで変わりがつとめられれば、母の体内へ辿り着く事ができるだろう。客は生まれる胎児の後見人であり、茶を差し上げる事は、感謝の気持ちで点前をしなければならない。


●心の茶室 2
極端ではあるが、そこに茶室や道具がなくても「独り茶」であればお茶をいただいた事と同じ様に、心の落ち着きを感じる事が出来るのではないか。禅宗でいわれてる自我、我欲を捨て、捨て、捨ての自覚を持てば、心でお茶が点られるのではないだろうか。
惑わされるな!人はみんな自分自身の中に法を説き、他人に其れを押し付けて正当化する事を意識せずにする生き物なのだ。半径3メートルの世界より、いろいろと経験し、知識を増やし其の半径を∞にして、其れも正しい世界へと目を向けて正しき物をみきわめる「心の目」を育てよう。
物=道具=芸術品の流れがあるように、心にも芸術品が出来るのではないか。俗世に於いての茶道でも、今は其れは其れでかまわない。無駄となことは、この世にはないのだから。そこに真のお茶の心をひと茶尺ほど入れれば、現代の茶道も変わってくるだろう。


何のためのお茶なのか

2006-04-23 22:49:29 | 私の言いたい事
●誰に、どんなお茶を差し上げたいか。
心がどうの、道具がこうのと言ったとしても、所詮は、中産階級の一小市民で、特に緊張感のある生活を送っているわけでなく、それなりにハッピーな時間を過ごし、先祖からの受けついだ物もなく、ましてや名物ものを持っている分けはなく、茶室なんてはもってのほか。
私の今の生活は、恵まれている。少々体には難はあるが、自分の好きな事をやる時間と、蓄財はないが日々食べる為のお金があり、家族もまあまあだ。
自分のお茶の心を覗いてみたら、どんなお茶なんだろう?
誰の為に・・・勝ち組・負け組など勝負の世界で、不景気で、忙しなく、殺伐としている現代。その中で日々生活を余儀無く送らなければならない知人に、
どんなお茶・・・少しでもくつろげる時を味わって頂こうと思っている。
同派の茶会と、他流の中での茶会と、大勢の知らない人の大寄せの茶会と、自分だけの仲間を呼んでの茶会と、茶会の内容は異なるが、ただ楽しい時間に「ひたるお茶」を目指している。ルールに乗っ取り、ピーンと緊張のいとのはった茶会もいいが、楽しんで、みんな笑顔で帰る茶会もいいもんだ。その後、一人で飲むお茶の味は別もんだ。
仲間でも、会社の仲間、居合いの仲間、お茶の仲間が一つになると新鮮味がでて、自分の立場というモノを意識する面白さが出る。また、お茶を媒介に
新しい仲間として行く過程とその結果が、お互い満足していて面白い。まさに、コラボレーションの世界だ。


●私のお茶会
知らない者どうしが色々と話し合うのは楽しいもの。私の茶会には職種の違う人をあえて組ませ、お互いが自分の違う世界を見るチャンスで、知らなかった世界を知る面白さを楽しんでいます。今の若者の「合コン」ですかね。

禅宗の中に、無欲、無我、など、無、無、無で、此れじゃ発展というモノが
無くなるんじゃないかと思いますがそこは、よくしたモノ。
村田珠光の「心の文」に、「心」とは我慢、我執も含めた様々な欲望や意識がすべてです。そうした心を、必要な時には使い、不要な時には、捨てられるように、自由自在に使いこなせる人間でありたい、というのが珠光の結論でした。・・・(裏千家珠光を読むより)

なんか、今の時代「無」そのものがなんだか僧侶も研究者も本当に解っていたのだろうか?解らんから、自分に言い聞かせるがごとく無、無、無と多無しているのではないのか。
「無」という言葉そのものを、美化し過ぎてはいないだろうか。

私の茶の目的は、おいしくお茶を飲むことです。おいしいではありません。
流派とはあまりにもかけ離れた田舎点前です。私は、こんな感じで楽しんでいます。
貴方は誰に一番お茶を差し上げたいですか?。・・また「なぜ」?