宗葉の、チョイト思う事。言いたい事。

意見のあわない方は、御容赦。

創られしもの

2006-04-22 16:08:02 | 私の言いたい事
●「つくられしもの」とは、
お点前(当流派は、お点法と表す)の作法の違いの動作や、道具の好みなどは、流祖個人のモノであり、また極端にいえば、侘び・寂・きれい寂びなども、個人によって変化する。人によったり、その作られる時の環境でなったり、時代により変化するものは、「つくられしもの」であり、元の素ではない。本の基に立ち返って、もう一度垢を取って出直すのも新しいジャンプとなるのではないか。話は飛ぶが、お釈迦様、キリスト様、チョット違うが、利休さん自分自身で書き残した物がなく、後にお弟子さんによる伝書・・、此れも「つくられしもの」となるのか。

屁理屈大好き

2006-04-22 16:02:48 | 私の言いたい事
●「屁理屈」について
文字で表すとなんと汚い言葉なんだろう。禅宗の教えの中に「無門関」という公案があるがこれなどは理屈、屁理屈の極みではないか?
裏を読み、更にひねって読み返す。今自分は何を感じているのか解らなくなる。もっと普通に語ってくれた方が分りやすいのではないかと思うくらいだ。他のとらえ方をされる可能性がある言葉だけの難しさを、例え話に置き換えて伝える事により、情景が浮かび、言葉だけよりも深くか?早くか?簡単にか?理解されやすいからなのか。しかし、今の私では理解する事が出来ないもっと深い意味が隠されているのだろうな~とは、思う。時間がたったらまた読み返そう。


●数奇者は理屈、駄洒落好きが多い。
小さな例えかも知れないが、薄茶器に上下両方に浅い面取りをしてをしている「ふぶき」という中次がある。「吹雪の為に咫尺を弁せず」といい、吹雪の為見分けがつかない、転じて、天地の判断がつかない。という意味を持つと同時に文字も「雪吹」とひっくり返っている。ここまでくると、「まいった!」と言わざるをえない。まだまだ、茶道の中には、見えない、わか~んない、モノが隠されているのではないだろうか?実に、ユーモアたっぷりではないか。日本人には、ユーモアがない、たらん、なんて良く聞くが、こんな高尚なもんは何処にもないだろうし、狂言、川柳だって実に日常に潤いを持たせるものがあったではないか。富国強兵の軍国主義が壊したのだろう。
屁理屈も一定の線をこえれば「能」の肥やしになる。
茶事・茶会のテーマーに茶掛けや道具の取り合わせで、その日の亭主の伝えたい事をそれとなく表し、客に理解される事を、心待ちにしている。其れなども言葉にすると「へりくつ」なものの表現があるのではないか。


茶人とは

2006-04-22 15:51:38 | 茶の湯
●茶人は「いいとこ取り文化」の人。
茶人は、あくまでも茶人なのだ。禅宗を元にして成り立ってはいるが禅師ではない。陰陽五行の易学の影響も大きいが、陰陽師ではない。お点前の中で、柄杓の扱いは弓道から来ていると聞くし、動きの中ではまさしく武道の形をも感じさせられる無だのない動き、目線の配り、呼吸など武道そのものではあるが、剣聖ではない。能や、和歌、道具にいたってもその道での生業を建てている者ではない。まして、解説者でもない。全てレベルの高い所で茶の湯に最も適した「自分の形に表す」事のできる、小心者が理解する所を超えた徹底的な心を持つ真人なのだ。
だから、いろんな分野での「創造性なる物」への貢献が出来ているのではないだろうか。


教えるとは

2006-04-22 13:38:01 | 私の言いたい事
●禅については。
「禅」単体で無く「禅と茶」とのつながりをじぶんの身にどう感じるかを体験したく思い、いろいろと探してはいるが、なんだか最近「茶禅一味」は、嘘っぽい、まがい物の考えではないか?、ばかやロー、かっこつけるな、茶やって悟れるか?と思う気持ちが大きくなってきている。
「てめーにはないからほしくてほざいたんか?」今現在の私には、まだ理解できません。
そのうち解るかも、ずーと解らんかも・・・たのしみです。
居合いもやっていますが「剣禅一味」についても同じく解らん。人を切るだけなのにね、今の時代にいわれるのだら解ります。剣は、「自分の我を切るもの」の考え方もあるのだから。
以上「道」のつくもンは精神が入り、日本文化を作る土台となってはいるが、そのうち、「広告道」なんて言い出すやつが出てきたりして。


●教えとは、
主に学校などで、、知る事、教える事とは、知識を得ること、伝える事ばかりではなく、身を持って動くことだと思う。
覚えるには、其れが本当に楽しくなければ覚える気もしない。面白ければ、黙っていても自分で進む。自分自身が考え、もひとつ深く考え、質問する事で更に良く深く身につく事なのではないか。
教える立場の人は、「知っているとこんな楽しさがあるのだよ!」と、その楽しさの種類をいろんなやり方で伝える事が「お し え る」という事なんだろう。


●宗教の教えとは。
今の宗教に興味を抱く人は、困った人、悩んでいる人、助けを求めている人などマイナーな時だけに、自分の逃げ道としての宗教で、自分から求めていく人ばかりだ。幸せな人も教えを感じるのもイイノではないか。

●教えは、やさしい言葉で。
教えは、語れば語るほど真が無くなる。語り過ぎは、押し付けとなり、自分の自我を膨らませるだけである。知識人は、言葉を創り過ぎる。だから其の言葉を更に説明しなければならない。その内何を言っているのかさえ解らなくなる。貴女達のお利口さは、解っておりますから御安心を。其の道の専門家は、専門知識を持ち、専門用語を使う。それは其の世界の符号と成り非常に便利な記号の働きをする。しかし此れは、一般の人には解らん事である。気を付けよう、気を付けよう。


●「知識の種」を植えよう
誰かから「知識の種」をもらったら、それはもう貴方のもの。それをどう育てていくのかが問題になる。日が当たり、肥えた土地で育てた物と何も手をかけない種では、実りに差が出来るのは、当たり前。
立派に根を張り風雨に耐え、やがて大きな完熟した実を沢山つける。
さあァ食べよう。甘露の味を味わおう。大切に食べよう。一人占めは辞めて周りの人にも分けてあげよう。それでもまだ残るから。
最後に其の種を植えよう。次にくる人々の為に。
知る喜び・創り育てる喜び・使用する喜び・人の為に分け与える喜びを味わう事ができるでしょう。




私の茶会

2006-04-22 13:34:49 | 茶の湯
●最近の道具茶会に思う事。
村田朱光から明治、昭和の時代へと、そのとき時に、合ったものを受け継がれてきたが、今一度、元へ戻って見るのもいいかな~と思う。
その結果、男の茶道塾を道新文化センターへ講座を持とうと企画中。
今の茶道はお点前・道具がメインで、家元中心の茶道ではないだろうか。
そうでは無く、おのおの各自が、今までの生きて来た中での身に着いているものを活用して、お茶に取り入れ自分自身の「茶の湯」を楽しむ事も大事ではないか。此れだけでは「ただの時間つぶし」にとらえられるので、そこに「へそ」となる茶の心である「禅」らしき事を取り入れ、少しでも何かに役立つ時間を持つ。
これが私のやりたい「茶の道」で、誰が先生かなど、関係ない世界です。

悟りにも段があっても良いんじゃない。

2006-04-22 10:28:12 | 私の言いたい事
●サトリの段階
初段 「なるほど、ワカッタ!」・・・頭で理解したこと

弐段 「ヤッター△※♤*♢!!」・・・感動の中にまだ原因がある事を
                  感じる
参段 「ガーン!」「ナンダこれは、」・・・肌に、「絶対なる物」を
                   感じる時。
四段 「ただ、涙」・・・部分的悟りで、身と心を別々にする。

五段 「 無 」・・・・大悟したことで、自己の心、身、口を捨てる
    
           ここまではまだ自分の身の事である

師範 「 ? 」・・・・無償の行為

最近チョットへん

2006-04-22 10:20:42 | 私の言いたい事
●人の「身」になって物事を進めよ。
自分が解っていれば、皆んなが理解していると思ったら大間違いだ。
偉い人、頭の良い人、人の上に立つ人、金持ち、そして、解ったつもりでいる人、特に気をつけよう。


●世の中の見方。
自分の趣味からもう一度、世の中見直してみようぜ。
本当に好きな事は、半歩進んだ考え方ができる何かがある。その目で他の事を置き換えて見ると、また違う事が感じるのではないか?其れが面白いという事なのだ。自分の中での異文化交流、コラボレーションだ。


●これからは、凡夫の時代。
最近世の中ヘン。バカばっかり。俺も偉そうな事は言えないが、上に立って引っ張る者の程度の低さにびっくりだ!これからは、凡夫の出る幕だ。
しっかり目ひんむいてやっていこう。自分の今やっている事を活かして、其れを土台にしていこう。  


●素直さの大事さ。
ものごと、素の素から、元に戻って、素直に考えよう。


●今の時代、何となくガサガサしている。
時間もそう、人の付き合いも同じ、何でだろうこれは、教養のなさが原因しているのではないか。
昔の人は、俳句や、芝居など本当に庶民でも普通に生活に入っていた。
今の人は、その事には、金をかけカルチャー等に通い、お勉強として捉え知識としており、生きた智慧として、活かしていない。
教養は、「おまんまの足しに成らないもの」だ。西洋では、教養のバロメーターは、クラシック音楽だそうだ。

自分の知ることには限界がある

2006-04-22 00:15:09 | 私の言いたい事
●自分の知ることには限界がある。
知るという事は「オワリ」のないこと。いくら学んでも「ここまで学ぶと到達した」というゴールがないこと。人間生きて行くには、一つの物だけでなく世の中のありとあらゆる物を学ばなければならない。それから、自分の好きな道に関しては、より深く学んで行かなければならない。
“学ぶ”という事が知識を得るという事に限定すると、いつまでたっても終わることがない。此れでは世の中進歩も発展もありャしない。学んだ知識は形にして、「ある物」にしなければならない。生涯学習という言葉に踊らされ、ただ、ただ、学ぶという事が目的となっていたり、自分だけの楽しみを求めている老人が多すぎる。知らなかった事を知るという事は楽しいものだが、若者はこれではいけないのだ。
知識を得る。それを活かし形にする。また知識を得る。更に形にかえる。このように限界のない知識を追い続けるのでなく、何処かで形となる物に変えて行かなければならない。同じ内容をくり返し練る事でさらに、一歩階が上がるものなのだ。
「学」(まなぶ)とはこの知識を得ることと、形にする二つの働きによって出来る物なのだ。
形になることには、外へ出すことなのだ。発表するということは、最終的に伝えることではないだろうか。知ったことは、伝えること。此れが完成形である。こうすることにより、小さな知識でも活かすことが出来、次へのステップとなる。
「受けた物はお返ししよう」この考え方も、私の生き方の一つになるかも知れない。

[へぇ~」と「ほぉ~」

2006-04-22 00:00:06 | 私の言いたい事
●「へぇ~」と「ほぉ~」
此れはため息に非ず。何なのか? 
自分の頭の中から自然に発せられる感動・感嘆の譜である。中でも自分もそうであるが、相手に言わせたい「ほぉ~」である。
「へぇ~」は、一応納得の気持ちは感じられるが、心が入っていない。ましてや、人を小馬鹿にした響きが何処かに潜んでいる。それに比べ「ほぉ~」の方は、なんと耳に心地よい響きではないか。は、ひ、ふ、へ、ほの中の感情を表現する「はぁ~」疑問、「ひぃー」悲鳴、「ふぅー」溜息、「へぇ~」と「ほぉ~」は同じ頷きでも大きな差がある。「へぇ~」の方は、相手にいい包まれというか、説得されて出て来た「へぇ~」であり、「ほぉ~」は相手に頭を下げんばかりの悟りに近い、目からウロコが落ちた「大納得」の
Hoooooo~!である。
自分の意見や、言葉に限らず伝えるには、相手に押し付けない。相手を説得してはならない。自分の事を解ってもらいたい気持ちが強くなり、あせってついついやってしまう。「へぇ~」から「ほぉ~」は、近いけれども遠いもの、相手に納得してもらう事を意識して行こうではないか。お釈迦さんの
「むやみに討論するな」という事は、「へぇ~」と「ほぉ~」のちがいだったのか。「へぇ~」には、敵を生む事もあるが「ほぉ~」には、敵さえも見方にしてしまうオーラがある。「へぇ~」は頭の言葉で「ほぉ~」は心の言葉といっても言い過ぎではない。
私の生き方として、すべての「基」を「ほぉ~」の精神で貫きたいものである。茶道におけるお点前や、道具に関しても「へぇ~」より「ほぉ~」を大切に。
また、「へぇ~」も「ほぉ~」も、言葉に頼らず行為の「業」が加わればより強くパワーを出す事ができる。