●禅については。
「禅」単体で無く「禅と茶」とのつながりをじぶんの身にどう感じるかを体験したく思い、いろいろと探してはいるが、なんだか最近「茶禅一味」は、嘘っぽい、まがい物の考えではないか?、ばかやロー、かっこつけるな、茶やって悟れるか?と思う気持ちが大きくなってきている。
「てめーにはないからほしくてほざいたんか?」今現在の私には、まだ理解できません。
そのうち解るかも、ずーと解らんかも・・・たのしみです。
居合いもやっていますが「剣禅一味」についても同じく解らん。人を切るだけなのにね、今の時代にいわれるのだら解ります。剣は、「自分の我を切るもの」の考え方もあるのだから。
以上「道」のつくもンは精神が入り、日本文化を作る土台となってはいるが、そのうち、「広告道」なんて言い出すやつが出てきたりして。
●教えとは、
主に学校などで、、知る事、教える事とは、知識を得ること、伝える事ばかりではなく、身を持って動くことだと思う。
覚えるには、其れが本当に楽しくなければ覚える気もしない。面白ければ、黙っていても自分で進む。自分自身が考え、もひとつ深く考え、質問する事で更に良く深く身につく事なのではないか。
教える立場の人は、「知っているとこんな楽しさがあるのだよ!」と、その楽しさの種類をいろんなやり方で伝える事が「お し え る」という事なんだろう。
●宗教の教えとは。
今の宗教に興味を抱く人は、困った人、悩んでいる人、助けを求めている人などマイナーな時だけに、自分の逃げ道としての宗教で、自分から求めていく人ばかりだ。幸せな人も教えを感じるのもイイノではないか。
●教えは、やさしい言葉で。
教えは、語れば語るほど真が無くなる。語り過ぎは、押し付けとなり、自分の自我を膨らませるだけである。知識人は、言葉を創り過ぎる。だから其の言葉を更に説明しなければならない。その内何を言っているのかさえ解らなくなる。貴女達のお利口さは、解っておりますから御安心を。其の道の専門家は、専門知識を持ち、専門用語を使う。それは其の世界の符号と成り非常に便利な記号の働きをする。しかし此れは、一般の人には解らん事である。気を付けよう、気を付けよう。
●「知識の種」を植えよう
誰かから「知識の種」をもらったら、それはもう貴方のもの。それをどう育てていくのかが問題になる。日が当たり、肥えた土地で育てた物と何も手をかけない種では、実りに差が出来るのは、当たり前。
立派に根を張り風雨に耐え、やがて大きな完熟した実を沢山つける。
さあァ食べよう。甘露の味を味わおう。大切に食べよう。一人占めは辞めて周りの人にも分けてあげよう。それでもまだ残るから。
最後に其の種を植えよう。次にくる人々の為に。
知る喜び・創り育てる喜び・使用する喜び・人の為に分け与える喜びを味わう事ができるでしょう。