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宗葉の、チョイト思う事。言いたい事。

意見のあわない方は、御容赦。

●茶の湯の理想

2013-04-26 11:51:18 | 茶の湯

茶の湯の理想
茶の理想とするものは何か、と問われた時、「他界観念的な遊戯性」にあると答えたい。茶は、「隠居の場における清遊」と定義した古人もいる。要するに、現実の社会にありながらも、次元の高い精神の遊びを実現しようとする努力である、という意味に理解されるべきだと考える。現実からの逃避といった低俗な解釈は避けられるべきであって、茶の湯の形式をとおして、高雅な精神的自由の世界を演出しようとする努力である。  
 「茶の精神」  千 玄室より


茶の湯は爺さんになってからのものだ身を以て思われる。而して、若者は、その時がくるまでしっかりと修行しなければならない。と私(宗葉)は思うのだが?

●空海の書と茶道

2013-04-19 09:45:06 | 茶の湯
お茶室の床には墨蹟を掛ける風習がありますが、それには書家による書ではなく、禅僧の書で悟りを開いた方の物でなければならない。空海の書に対する思いは書だけではなく、茶道の心法にまで見透かされた物を感じます。

「空海と書」
空海は、書は、私たち人間を包み込む万物を反映させなければならないと考えていたようです。それは、もともと字が人の心が万物に感動して創りだされたものであるからです。

空海にとって、「書の極意は、心を万物に注ぎ、心にまかせ、万物をかたどること」であって、正しく美しいだけでは立派な書にはならないのです。

つまり、彼は書によって、この宇宙の秘密を顕在化させ、それを解明しようとしていたともいえます。

この文章は空海の書について興味を持ち調べておりましたらぶち当たったものですが、元になる所の出典が解りません。NHKのBSで見ていた時の内要もこんな所でした。
書の極意を点前と置き換えても納得するものがありますよね。

●茶の享受

2013-02-11 11:52:02 | 茶の湯
千 玄室書「茶の精神」より抜粋
茶の風習の享受の仕方は、中国人的な、つまり陸羽の茶の哲学の、そのままの移植と考えねばならない。
中国の文人達が、茶に託した夢や描いた世界は、幽潔といい、仙気といい、茶を飲む事によって到達する超脱的な世界とか、世間的な心気を洗い落して、他界的世界に遊ばんとする努力と夢は、実は中国人固有の世界観とでも言ってよい。行為的な現実的な、不自由で窮屈で貧弱で制約の多い世界を飛び越えて、行為によらずして、自由自在の境涯に果てしなく飛翔しようとする努力は、中国文化の本質的な特徴でもある。単に行為的な現実の世界から逃避して、それ以外の別のところに空想的世界を夢幻するのではなくして、むしろ、行為的努力によって実現される現実の世界よりも、むしろ、自己の欲望を行為化する事を最小限にくい止め、それを造形化する事によって形作られた世界の方がむしろ優位であり、究極的であるべきだ、とする古来よりの中国人の思潮が、根底にあったと言うべきであろう。

この文を読むの当たって私は老子の道教から禅宗までの思想の移り変わりと、茶道の中に形など見える物から、心という抽象的な感覚を盛り込んだ我が国の茶祖達のオリジナル性と、庶民の日常世界にまで落し込んだ利休の茶道の世界の下克上があったればこそ、今日に続いているものと思われる。
今の時を生きている我々は、其の環境によりどんなお茶の世界を作り出して行けば良いのか、共に頑張って生きたいもんです。

●もっと茶の湯を楽しむには

2012-02-22 12:02:43 | 茶の湯
心葉会作品展について

心葉会の皆さんはお点前の稽古や、昨年の目標でもありました茶事との出逢いを通して、茶道とは何だろうとその人なりの経験により、より深い所を感じ取られている事と思います。これらの事は「これが正解」という結論としての答えは出るものでもなく、やればやった所からまた疑問を感じ、悩み、求め、追い続け、変化して行かなければならない「道」としての宿命を感じられます。それには日々続けて行く努力しか無いと思います。
私もこの道に足を突っ込んで10年になり、個人としての思い悩む所も多々ありますが、社中を持ち、心葉会も会員25名もなる大きな会に発展し、何処に出ても引けを取らない物に成りつつある事を思うに、今一度、「素・元・基」に振り返って「茶の湯の楽しみ」とは何だろうか?また、何処にあるのだろうか?と考えておりました。
茶の湯は、大きく分けると「点前・道具・心」の三辺から成り立つ三角形で形成され、それぞれに影響され構成されていて、その核になる所に「個人(自分自身)」があるのではないだろうか。
お点前に関しては我々は小堀遠州を祖とする「遠州流茶道」を学び、お点前、作法を日々稽古に励んでおります。お道具は遠州流の「奇麗寂び」から粋な好み物を受け、心は禅宗から大いなる影響を頂いております。釣りに例えれば、釣り方は教わった。竿は品粗だけれど手に入れた。無心で釣る楽しみも味わう事が出来た。後は、その人の持って生まれた好みと、今まで生きて来た経験とが左右されてくる。海か川か、餌か疑似餌か要するに「こだわりだ!」
茶の湯の中の「核」の部分を貴方に変えたらまた違う茶の道を楽しむ事が出来るのではないだろうか?そんなこんなで自分の思う所の物を発表してみたら面白いのではないかと結論に達しました。8月に作品展開催を目指して頑張ろう!

●男の茶・女の茶

2010-12-06 23:26:25 | 茶の湯

茶の道に男と女の違いは有るのだろうか。結論的には「ある」である。
それでは何処が違うのだろうか?茶道創設期を振り返ってみて見ると(実際は無理では有るが様々な茶書により少しは理解する事が出来るのではないか)遊びの茶から禅の教えを取り入れ、「道」の道を歩み始めた茶道。初期には圧倒的に男の物だったと思われるが、時代をへて女性が多くかかわって来て明治以降から逆転の時代となり、現在はみての通り。難しい事は解らんが、自分が茶の道を伝えていく過程においてやはり違いが見えてくる。
●男性側
理屈っぽい。
自分のやりたい事ががはっきりしている。
やる、やらないの判断が早い。
道具から入る凝り性。
自分が正しいとの思い込みが強い。
動く人と動かない人の差が大きい
集中力はある
いろんな所に興味を引き目がいく
反逆的な所が顔を出す
楽しむ所を見つける
創造性がある
細かい所、深い部分にこだわる
禅の教えに興味を持つ

●女性側
全体的に平均化されている
理論、理屈には弱い
いろんな物に興味が行き過ぎる
集中力が薄い
自分より上の立場の人に弱い
盲目的に指示する
お点前中心
守りに入る
雑さが目立つ
団体的行動に適している
頼み事ではない教えには弱い


纏めてみますと男性の方がお茶を道には合っている所が多く有るように思われますが、
女性の足りない部分は「可愛らしさ」「美しさ」「柔らかさ」で十分に補っていると思われる。

●見つけた~

2010-11-11 21:28:53 | 茶の湯
茶道の世界に「和敬清寂」という言葉があり、茶会の床等に掛かっているが他に、茶道を語るには切っても切れない代表的な「詫び」と「寂び」が良く使われてる。どちらの意味も、その人の立場、立場で解釈の違いが出て理解しづらい物がある。凡人の少ない経験からは、どうしても頭で理解しようとする働きが生まれ直覚的な判断に迷う事が多い。
それではこれらの意味を漢字一文字に置き換え、もっと身近な言葉で、言っている事の内容も解りやすい物は何か無いかな~と考えていた。
ジャジャジャジャ~ン、お待ちどうさん。苦節10年とは言わないが出ました。知りたい?それは「■」です。茶の湯の「心・技・体」の何処に当てはめてもお点前、道具(日本の美)、組み合わせ、に於いても、十分に使われても可笑しくはない「■」だと思う。
今まで「おもてなし、おもてなしの心」とよく使われ大衆化された言葉だが「何が?どんな?」という所で具体的なイメージが湧かなかったがこの言葉に置き換えてみると凡夫の私にも少しは理解できる。
それは、つつしむ、つつしみぶかい、つつましいの、心を表す立心偏に真人、真実、真理の真を従えた[慎]の文字である。
俺が、俺がの世界、自分にご褒美、金使って太り、又金使って痩せる。
殺伐とした世の中、ここらで、ちっとはこの文字「慎み」を見直してみよう。

辞書より、「慎ましい」の意味を拾ってみる。
1、遠慮深く物静か
2、控えめ
3、出しゃばらない
4、礼儀正しくしとやか
5、隅々まで行き届いた心
6、謙虚な気持ちでいる事

●野点に思う事2

2010-10-18 22:01:10 | 茶の湯
愛しい岩
野点で、場所により随分と捕らえ所の違いを感じる。作為的に作り出した庭や、自然そのままを利用した場所があるが、今回の野点で思った事がもう一つある。主催者側がお点前の席を自然の中で一つだけ苔の生えている一抱えもある大きな岩をメインに設えてくれ、客一同思う事はめいめいだが関心、感動した事には偽りは無かった。その場所から受ける全体的イメージは十分に満足される物が合ったが私にはそれ以上の「何か」を受ける事が合った。山は弥生時代に噴火し、その時飛んで来た岩の一つが、その後の時代の環境の変化にも生き残り、取り残されたままになり今回の野点の風景の一部と化していた。
茶道の中に「一期一会」という言葉が使われるが、この岩にそれを感じた。いやそれ以上の時間の長さと偶然性、この岩を選んだ者との関わり、ましてや、亭主、客側が茶の世界に踏み込んでいなければ、何の事も無い岩のままだったはず。見方を変えれば、この高さ1メートル足らずの岩は弥生時代から今まで我々が野点をするのをず~と待っていたのだと思うと、「一期一会」なんてものより大きな感動を受けたものだった。また今後何十年、何百年先に誰かが別の目的でこの岩を利用する事があるのではと思うと、愛おしさが増したものだった。

●野点に思う事

2010-10-14 15:56:27 | 茶の湯

最近、羊蹄山麓で野点を体験することが出来、以前から疑問に思っていたことに、何らかの解決の糸口を見いだすことが出来た。野点の道具組は普段より格のある物を使い、お点前も「真」により行う事と伝えられていたがどうも、いまいち腑に落ちない感じがあった。
羊蹄山麓の大自然にどっぷりと身を浸し、雲に見え隠れする頂上を仰ぎ見、スケールの大きさを体感すれば、最早、心静まり、幽玄の世界に入り込み、理論、理屈など、「糞っ食らえ」となる。寺の庭か、京都の箱庭みたいな風情の下での野点であれば道具組にも心血を注ぎ、点前も「真」が合うのではないだろうか。しかし今回の場における道具に関しては物として語らず・・・只、その役を果たすだけで良く、シンプルで自然身のある物がふさわしく思われる。またお点前は、「行」で行うのが適当ではないかと考えられた。此れが又別の所で催せば又違った考えに行き着く事にもなるだろう。昔から言い伝えられている事でも、場の持つ雰囲気をしっかりと捉えたならば、周りの環境により茶の取り組み方も変えてみても面白いのではないだろうか。

●やって見たいですか?

2010-06-26 00:39:46 | 茶の湯
この程度なら、誰でも出来る?

茶道において、お茶を入れるためには、作法、手順が必要となる。これをお点前、あるいは点法と呼ばれている。只、お茶を飲むだけなら茶碗に抹茶を入れ湯を注ぎ茶筅で撹拌すれば済む事。これだけでも美味しい茶を飲む事は出来る。其れなのになぜお茶を習い事の一つに入れるのか?
炉だ、風炉だ、薄茶だ、濃茶だ、炭だ、灰だ、春だ、秋だ、朝だ、晩だ、棚だ、板だ、台子だと道具が変われば手順も変わる。
流派にもよるがいったい幾つの手順があるのだろう。此れだけに留まらない。歩き方、立ち方、座り方、仕舞には飯の食い方まで規制を受ける。利休さんの時代は今より楽だったのではないか、なんせ400年以上の手垢が付いて現代人も大変だ!。
楽しむ為のお茶の世界を味わうにしてもここまでは、身を置かなければお茶の世界を覗き見した事にはならない。
やれ、日本の文化だ、それ、総合芸術だ!と行っても行っても出口の見えない場所に向かってどうして精進するのか?こんな世界、貴方はやって見たいですか????。

●茶の道を活かす

2010-04-23 16:37:01 | 茶の湯
貴方だから出来る茶会②

貴方は今何をしていますか? どういう状態に身を置いていますか? 貴方は何をされたら嬉しいですか? 
亭主として今の貴方だから出来る茶会。貴方が今出来る茶会のヒントがここにあります。しっかりと自分の足下を見て下さい。
茶会は拝見に出す道具が無くてもその一時を持つ事が大切なのではないだろうか。お孫さんのいる方なら、楽しい話をしながら飲むお茶、目に映るような気がします。親や子といただくお茶、心にしみる時間が持てるのではないでしょうか。
私は最早両親は他界してしまっているが、兄弟集まった時など仏壇の前で茶盆点てで思いで話をする茶の時間は又格別な時を感じます。
人それぞれの生活の中、自分に出来る茶会をみつけ、楽しんで下さい。


●茶の道を活かす

2010-04-14 18:22:34 | 茶の湯
茶道のお点前を覚えたら次は何をしたら良いか ①

時間をかけ風炉・炉の基本の点前を身につけたなら、今度は人前で点前を披露する事。幼い子でもピアノを習えば発表会で弾くではないか。同じ事。指導者が催す茶会に参加し、大勢の人前での点前で自分の腕を試し、実力をつける。
次には自分が亭主に成り自分の実力に合った茶会を開く。始めは、お茶とお菓子だけの茶会で良いのではないか?それこそ「お茶、しよう!」の感じで気の合った仲間との一服。話題も気の張った物でなく、趣味や思い出話や時には上役の悪口に至るまで気軽な時間を過ごす楽しみを味わおう。
それから少しグレードアップさせ、食事付きの茶会。会席、懐石を出す茶事とまで行かなくても、幕の内弁当や話題の駅弁などで、新しく手にした道具(見立て)、仲間の寄り合い(俳句の会)で、○○祝い事(誕生日)で、友とのコラボ(蕎うち)などアイデアに困らないぐらいの茶会を開くチャンスはある物だ。人に見せて恥じない道具がない、茶室が無い、金が無い、無い、無いばかり言っていたら何時までたっても出来ないもんだ。印刷物や動画で目にする茶会にこだわっては駄目。あれは見せる物として表現された世界。我ら一般庶民地に足をつけ見栄を張らずアイデアだけが勝負の見せ所。是も又茶道に精神に見合ったおもてなしが出来るのではないか。最近耳にする事の無くなった言葉「お呼ばれ」。是こそ茶道の心と思える。
ただ間違っても会費などを取る茶会などに成らないように。高い会費を払い窮屈な場所で道具の自慢話を聞く似非茶事に落ち入らないように。

●先生ってどんな顔

2010-03-26 15:37:06 | 茶の湯
お茶を教える立場の者、属にいうお茶の先生。

「守・破・離」の世界からの考えからでは、せめて20年は茶の道での修行が必要ではないだろうか。お点前なら真台子までの技術の習得、それに茶の湯の常識は当たり前で、道具類全般、露地・茶室、茶花、菓子、茶掛の禅語、茶事の作法、料理、茶の歴史、などの知識と理解が備わって先生となれる資格があるのではないか。ここまでなら根性悪い者でも先生には成れる。・・・が、「茶人」ではない。知識を振りかざし、知らない者を下に見て自分だけを大きく見せる者は茶人ではない。経験だけに頼っている者は茶人ではない。人に自慢できる道具を揃え、これ見よがしに語る者もまた茶人とは呼ばない。自分は動かず、指図するだけの自分を顧みる事の無い者は茶の湯者とは呼ばない。最後に茶の道守一の者も茶道であっても、茶人ではない。
私の思う茶人とは、是までの事にプラスする事の「心の持ち人」だと思っている。人に限らずあらゆる物への優しさから生まれる自然に出てくる自信と品格を備えた「ヒト」威張らず、声高く主張せず、微笑み、目立たず、要するに世間一般の「出来た人」が茶人と呼ばれる。
な~て、私もまたまた、他人を誹謗中傷してしまった。いけない事と知りながら、どうにも止まらないこの毒舌、語れば語るほど語りに落ちる我が身。「偉そうにお前はどうなんだ!」と問いつめられたら、無理、無理、天地神明に誓って茶人になるのは無理。
私の目指している先生とは、逆説の見本となり、点前者を映し、受け取る「鏡」となることで、その鏡を曇らせないように感性を磨き続ける事。

●お茶をやりた~いと思ったら

2010-03-26 11:35:57 | 茶の湯
茶の湯を始めるにあたり

お茶を始めたくなるのは人それぞれで、ここでは省くが、始めたいと決心がついたら、次にどう行動するかという段階になる。私も最初は漠然としていて、良く解らない事だらけだった。どこに行ったら解るのか、誰に聞いたら良いのか、情報収集も行き当たりばったり。イエローページ、茶道具屋さんからの紹介、いろんな文化センターの告知、知人からの紹介などなど、しかしここで問題になるのが「流派」である。
「流派」といわれても一体幾つあるのか、大きな団体からの物や、お弟子さん数人で宗家を名乗っているモノを入れるとかなりの数になるのではないだろうか。何処でもいい、何れも同じと思たら大違いです。後で簡単に切り替えてしまえる物ではない。しかし最近はそう重く捉える事もなくなってきているようだ。だが商品だったら、気に入らなかったり、自分の思っていた物と違ったら返品などの手もあるが、モノ一つ買うにもそれなりの情報を持って購入するだろう。それと同じくネットや、雑誌などで知り得た情報をもとにまず、体験していただきたい。本当に自分に合った流派なのかどうか、また地方であれば限られた流派しか無い事も事実。
次ぎにくる問題は、貴方が直接指導を受ける先生。是からのお茶に関わる長い年月を過ごしていかなければならなく、貴方の是からに少なからず影響を与える事もある。その先生がどのような考えの元、茶道を行っているのかを知る事も大切な事と思う。
また、仲間の存在は大きいなものです。今までの生活環境と違った場所での人との出会い、是から切磋琢磨して大きく伸ばしていく自分を作り出す仲間たち。
「流派」「先生」「仲間」この3つの事に巡り会うのも貴方の「運」という事しか私には言えない。
どうか良いご縁に巡り会いますように。

●茶道と意識 修正分

2010-03-24 02:05:15 | 茶の湯
茶の湯お点法時「意識/動作/呼吸の心得」

茶道を始めるにあたり点前というルールがある。要するに手順なのだが、是が道具の違いや茶の種類、点てる相手にも変えていく数限りない手法である。しかし、手順は多く歳月をかけ覚えていかなければならないが、意識は然に非ず。基本中の基本である風炉でも、炉からでも薄茶の通常の点前から「意識(イメージ)」を心がけるのが上達の根源となる。俗にいうところの奥義、悟り、秘伝と言われている物につながって行くのではないだろうか。よって、これらの意識を十分に活かし、動きと呼吸を同時に認識し、茶の湯の点前に取り入れなければならない。

1、稽古であっても稽古ではない
  手順の稽古でも、割り稽古ならいざ知らず、点てたお茶を相手に差し上
  げるという事はもはや稽古の範疇には入らない。薄茶であればお客の好
  み、時間や季節など飲む状況により点て方も変わる。自分の味にこだわ
  る事無く稽古感覚をなくそう。濃茶に関しては如何に美味しく点てるか
  のみを念頭に「気」を練る心がけで練り上げよう。

2、道具を持って道具と思わず
  消耗品の茶巾、茶筅、柄杓は別にして(これらの道具は常に新しい物に 
  価値を見る)、建水、蓋置など、その物自体を清めない道具の扱いと、 
  茶碗、茶入・茶器、茶杓など拝見に出す道具類のお点前時の「清め」の 
  扱いは、自然と違っていて当然だと思う。また、釜や水指の蓋を清める 
  動きもお道具ソノモノというより、その中の水や湯の「気」を沈めてい
  る行いであるのではないだろうか、従って、拭いているのではない。

3、「清める」動作
  茶碗、茶入・茶器、茶杓の清めはその物自体の清めの中に、自分の魂の
  浄化を道具に置き換え、意味づけているのではないか。くれぐれも粗末
  に扱う事無く、心を入れゆっくりとした動作で行う事。小さければ小心
  者、大きかったらはったり屋、貴方はドッチ。
  
4、初めの一歩
  襖を開ける、道具を持って立ち上がり下座足で前へ歩を進める。これ 
  全てが始めの一歩となる。襖を開けるときは、相手にこれから開けると 
  いう事を知らせる合図、道具を持ち立ち上がる時はいよいよ茶の湯を行 
  う事の意識を相手にも伝えるが、息を吸い自分の体の中にへも意識づけ 
  る。歩を進める、特に敷居を踏み越える時は結界を超える感で相手の世 
  界へ踏み出す覚悟がいる。始めの一歩は、後の一歩とつながっている事 
  を忘れないように。

5、意識を前に持たない事
  頭でイメージして次はどうする、次は、次は、と先走りの感覚で物事を 
  捉えないように、過ぎてきた事を思い、足下を見て「今の今」を大切に
  しなければならない。それには、自然に手が動くまでの稽古量が必要に 
  なる事は、当たり前。

6、頭を軽く、心を遊ばし、パワーを丹田に置く
  正座をする事は背筋を伸ばし、体の形が△になる事。頭はあれこれ思い 
  煩う事無く、中心の心は、薄茶であれば、相手を思い、濃茶ならば、茶 
  を点てる事だけに集中し、下っ腹にチョッと力を入れるだけ。肩の力を 
  抜き、体全体を柔らかく、笑顔で点てたお茶は値ある一服だろう。

7、置くと取るの違い
  置くだけや取るだけの意識であれば、それはただの物としか取り扱われ 
  ないこと。そこに働く意識としては「取り上げる」『置き合わせる」と
  言う二つの運動がある。阿吽の呼吸でさらに深い体感を会得。

8、A点→B点への手の移動
  置けば取る、取ったら置く。この間には手の移動が行われる。無駄な動 
  きをせず、美しく移動するには、「序・破・急」の感覚が生まれる。
  AからBへの動きも、意識も切り替えのところ。この部分が「間」にな 
  り、点前者の個性となるように思う。

9、緊張感
  茶道具の扱いは単体での働きは無いのではないだろうか。水指・茶器・
  茶碗などの置き合わせ、炉、風炉と道具の会わせ、是らの位置する処は
  畳目一つとしてずらしては最早なんとだらけた事になってしまう。道具
  どうしの「間」の持つ緊張感は意識感覚の緊張で成り立っている。

10、「ずらし」の感覚
  日本文化の中によく見られる「ずらし」。モノであったり、感覚であっ 
  たり、早い話が演歌の演奏よりチョッと遅れて歌うテクニックだった 
  り、視覚的には茶室の窓や袱紗の寸法など、西欧のシンメトリーでない 
  ところに美を見つける日本人独特の感覚が「ずらす」という動作に現れ 
  てくる。茶道の中の意識の部分では「ん?」という「間」の取り方で、 
  出来るのではないだろうか。相手に今までの流れを止め、心に引っかか 
  りを作り、意識さす面白さを求める。

11、もとに「モドス」
  点前の中に道具を元の位置へもどしたり、使った分の水は釜に戻すとい
  う事がある。補充する事すなわち使い切ったら無くなるという想いと、 
  戻るという意味の中に戻ってそこから再出発するという前向きな考えが 
  ある。

12、「なぜ」「WHY」
  茶の湯はお点前の中に、なぜ、どうしてと思う事だらけ。え~と、とお
  思わず手順ばかりを追っていては上手くならないのだ。それぞれの動き 
  には、それぞれに合った訳があっての動作なのだ。それらを正しく理解 
  し、茶の湯文化の深さを知る。故人の茶書を読み、また別の支点から茶
  道を知る事によりますますお茶の面白さに打ち当たること請け合う。

13、行き目、戻り目
  日本舞踊を見ても目の役割は大きいもの。茶の動きでも同じ事。茶入れ
  を置き合わせる時まず最初に①意識をする(何をするかを脳から伝達)、
  ②置く所を見る(目玉だけを動かさない事)、③息を吐きながら体の移
  動(上半身を回転し、体を倒す)、④腕を伸ばす(置く場所に届かない
  分を伸ばす)、⑤物を置く(ト!の感覚で置き合わせ、しっかり目で確
  かめる)、⑥息を吸いながらゆっくりと手を引く(目線はモノを見たま
  ま心をそこに残し体はそのままにして手を引く)、⑦体を起こし目線を
  外し次の動作へ。

14、呼吸、動作、意識を同時に行う
  これら3つをバラバラに行っては意味が無い。同時に行う事により、よ 
  り深い茶の道を味わう事が出来るのではないだろうか。意識を根とした 
  動きからは茶の湯が変わる。動作の熟練はそれなりの時間はかかるが、 
  意識の持ちようは即出来る事。この方が上達が早いし、無駄な努力はし 
  ないに越した事は無い。
  


礼の種類について

2010-03-18 09:39:16 | 茶の湯
座礼の種類
礼にもいろいろTPOがあるもんだ。茶道の流派にも礼一つ、襖の開け方一つ違うものだ。その違いは身分制度から出た作法。
どれが正しいか、間違っているかの判断はせず、「これもありか~」にとどめる程にしたい。

1、手を膝に置いたまま、 頭だけを下げるいわゆる会釈
2、体全体を倒し、手が自然に膝から下り手の先が畳に付く。肘が曲がらない60度の深さ。
3、背筋を伸ばし、首を前に垂れないように肘を曲げ、2、より深く45度の体制を保つ。男性の手の位置は膝前で膝の空きは拳2つ分、女性は体の前で拳1つ開ける。
4、さらに深く体を倒し、畳に掌をつける。
5、背中が畳と平行になるほど傾け、掌と、肘両方が畳に付く礼
6、額が畳に付くまで平身低頭。ここまできたら礼とは云われないのでは無いか。

※礼をする時は腹式呼吸で、息を吐きながら、そこでちょっと止め、間を作り、 息を吸いながら直る。相手より先に頭を上げない。