「茶道心得十箇条」
1、美味しいお茶を点てるでは無く、美味しくお茶を点てること。
誰の為のお茶をたてるのか。お茶はただ呑むのでは無く、そののみ方に問題があるのである相手への思いやりの気持ちを大切にする「人との関係」であったり、「場所=茶室」であり,「時=季節・時間」であり、「道具」でもあり「環境」までもが含まれる。自分の健康にも気を使いコディションを整えてお点法することが、美味しくお茶をのみ、楽しむ事である。
2、禅の枠にこだわらず、日常生活に溶け込んだ活きた茶道を心掛ける。
お茶をしている時だけが茶人では無い。常日頃、今、自分が置かれている境遇に感謝し、世の中に自分なりのお返しをする事ではある。自分だけの楽しみや、和敬静寂の心で人の為になると思っていても、それはあくまでも自分サイドの身勝手となる事がある。相手が喜んで「待っていてくれる」ものを行う事。謙虚であれ、反省せよ。それが返って来る喜びとなる。
3、道具の「美」には、見た目だけで無く、使いやすく品が無ければならない。
心と行が常に一体となるように、鑑賞するだけや、使用するだけの道具としての見方では片手 落ちとなる。二つ合わさって「美の素」が生じる。その中に「不足の美」であると共に「ずらし」の美であり、画き過ぎず、余白などの空間を大切にした、手に馴染み、扱いやすいシンプルな物で、そこはかとない品格を備えていなければならない。
4、理と、業。対で一業
お茶に限らず、知があり、行いが生じる。稽古とはまた始めの知ヘ返る「段々の理」から、そ の繰り返しでコツを掴み、極意が生まれ、大悟する。業の部分の点法稽古では「ため」と「残心」と「間」を意識し、腹式呼吸をし、流れるような動作が肝要。しかし、茶を点る事とは、稽古に非ず。茶を入れ湯を汲み、点てる事を稽古と言い表わせば、相手に失礼になると思う。
5、その時のコンセプトに見合った、取り合わせを大切に。
真・行・草のお点法から、それに合った道具の取り合わせなどの約束事を身に付け、掛け軸から始まり、テーマに合った道具の取り合わせを楽しみ、また見立てなども個性の発揮するところとなる。ユーモアに溢れ、捻りやこだわり等にも心し、それにより、亭主と客との「一期一会」のやり取りを楽しむことができる。
6、人も、道具も差別してはいけない。
名のない「モノ」にも何処か良い所はあるはずだ。そこを見つけ出す目利きの目を養う事が肝 心だ。道具は、その与えられた目的を果たす事が第一であり、真の美しさであるはずが、箱書きなどのお墨付や、いわれなど別の付加価値がついてしまう。道具は産まれる時から稽古用などと価値付けをされて来た物では無い。ましてや人間の差別等は問題外である。
7、お点法は、それぞれの流派の「型」であっても、「好み」はそれぞれ。
過去のモノを全て否定するので無く、伝承されている物は大切にしよう。しかしそれは、それ として過去の保存だけにこだわる事なく、創造的精神が溌溂といま現在に生きずいていて、作意をを以て創作すれば、一皮剥けた茶の楽しみを味わう事ができるのではないだろうか。茶道には精神性が取り入れられ、「○○流」と決めつけられるような小さな文化では無い。
8、「型」の文化と「いいとこ取り」文化
日本文化の基礎となる「型」・「わく」文化は、その中での自由さや、創造性を大切にした文化であって、和歌等の文字数の決められている中 で いかに大きく遊ぶかである。また型の文化 には、繰り返しの訓練により質を上げて行く良さがある。茶人は、僧侶、職人でも無い。まして歌人や能楽師でもない。全ての中から良い所だけを取り上げ、造り出す天才人である。
9、古典に遊ぶ
禅の教えが凝縮されている禅語や、日本の美の基礎となる考え方を書いている徒然草や、古今 和歌集などの歌など、古典の知識を持つ事は良いが、それに溺れて、ただ知っているというだけの知識バカになってはいけない。簡単に調べて解る物は、低い知識であり、自慢するほどの物では無い。知識は活かして智慧とし、創造し、行動し、次へ伝える事が肝心なのだと思う。
10、これら全てを捨てよう。
物にとらわれる事なく全てを捨て、ただ坐して、仏に茶を献じ、相手に呈茶し、最後に自分も
のむ。ただ、ただひたすらに茶筅を振る事。それでも真の茶道からは外れる事は無い。