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宗葉の、チョイト思う事。言いたい事。

意見のあわない方は、御容赦。

茶道の種類

2010-03-10 21:14:51 | 茶の湯
いろいろ茶の道はありますが、貴方ならどの道を選びますか。1、は無いでしょうがネ。

1、家元茶
  伝統にのっとり文化の継承を目的とした茶会

2、式典茶道
  神社、仏閣に於ける献茶、結婚式や、通夜で仏に送る茶会

3、社交茶
  茶道流派で行う大寄せの茶会

4、イベント茶
  商業ベースに乗った茶会

5、お道具茶
  茶入、茶碗、賭塾など名物ものを披露する事を目的とした茶会
  
6、修養茶
  禅を基本にし、気功、瞑想により、精神を鍛える「道」的茶道

7、語る茶
  日本文化、芸術、社会情勢、茶道そのものを語り合う茶会

8、道楽茶
  派手な茶事を催し、酒と料理と自慢話を中心にした茶会

9、ボランティア茶
  老人クラブ、学校で行う茶会

10、ファミリー茶
  誕生日や、両親へ、子供へ、孫に点てるお茶

11、お稽古茶
  仲間内や個人の稽古のために行う茶会

12、茶室披露の茶
  茶室まで大げさでなくてもそれなりの場が出来たときに行う茶会

こんなの作ってみました

2009-12-10 10:16:09 | 茶の湯
これは何でしょう


これは何かと申しますと、茶道具の台目棚であります。茶道の楽しみの一つに道具の制作があります。自分でデザインし、鋸とトンカチをふるい腰を痛め、手に豆を作りながらの作業。できた時の喜びは何にも増してのものを感じます。この世にたった一つのもの。見てくれはそれなりだが、それを使ってのお手前は、至福の一時を肌で感じます。「男の茶道塾」での心として続けていきたいものです。

●茶により変えよう、変わる事

2008-10-13 15:53:10 | 茶の湯
1、企画を起てる力がつく
なぜ、いつ、どのようなお茶を点るのか? コンセプトを立て、季節・時間帯や自然など
を取り入れた自分らしい茶会を催すことで、「企画力」が身に付き実行する力もつく。

2、構成力を養う力
水屋仕事は、一つ一つの作業の役割を持っている。それを無駄なくつなぎ合わせることに
より全体を見通し、組み上げていく「構成力」が身につく。また管理する能力も付く。

3、ハプニングが起こった時に動じない心
茶杓を落した、茶をこぼしたなど、茶の湯には失敗が付き物。そんな些細な事にも動揺せ
ず続ける事が失敗を恐れない「度胸」をつける糧となる。失敗も後の楽しみに変わるもの。
  
4、人や物のバランス
相手の事ばかりや自分の事だけを思うなど一方的な考えで無く、人と人や人と物、物と物、
全てにおいて、「MONO」の間の関係は片寄らないという「バランスのとれた感覚」が大切。

5、本気の付き合い
褒め合うだけでも、けなし合うだけでも発展は無い。今日では仕事仲間、友人、親子、
夫婦の間、ましてや世の中に対しても甘い風潮がある。別に嫌われても良いじゃ無いか!

6、本質を見つけるための戻る力
本当は何がしたかったのかというのは途中で見失ってしまうものだ。手段をその事への
「目的・目標」と、取り違え間違えてしまう。あせらず振り出しへ戻る勇気も必要だ。 

7、美しく、無駄のない動きが身に付く
美しい動きとは「心」で思い目標を持ち、「目」で見て的を捕らえること。それに続き「身・
足・手」の自然な動きとなる。動きにはそれぞれに「序」「破」「急」がある事を忘れずに。

8、物の美しさと大切さを知る
物は人に目で見て手に取って体感されそれぞれに与えられた役割を知る。その「こころ」を
持つ物ほど美しい形が産まれる。美しさを理解する程、愛おしく大切に扱うようになる。

9、創る喜びは疑う力
道具は無ければ作ればいい。考えが合わなければ合うよう変えればいい。創ってダメなら
創り直せばいい。創意工夫は「どうして」「なぜ」という疑問から考え出した物の中にある。

10、自分の無力を知り、基本に忠実に
茶は自己の無力さを知り反省する事の繰り返し。十を知りまた元の一に戻る。お点法も生
き方も基本に帰る繰り返し。 さあ!ここから「再出発」だ! 楽しい人生が待ってる!

●これでも茶会

2008-04-12 15:26:51 | 茶の湯
待ち合いから露地を通って躙り口より茶室に入る。な~んて言われても私の周りにはそんな所はない。茶の本なりを読んでも、あまりにもかけ離れている。道具にしても、人に見せれるような物なんかは一つも持っていない。魚も裁けないし料理も作れない。お菓子も作れず、また茶人の絶対的な道具である茶室なんてとんでもない。自宅には畳の部屋すら無いのだ。花は、行き付けの花屋から、まして茶会に呼んだ人様から会費をいただいて催す茶会。これじゃ~「心」や、「おもてなし」をと、幾ら語っても「チト」違うんでないかい。

●茶道の知識に、絶対はない。

2008-04-12 15:25:33 | 茶の湯
茶杓などに使われる「銘」に「旅立ち」という言葉があるが、これは昔からの表現では、死んだ人を送る言葉である。これを知らないと客に不快を与えてしまう事になる。生菓子を入れる縁高は下の部分から取る。懐石の順序は飯をいただいて汁を吸う等、お茶の世界には、未だに残っている常識など知っていなければ恥をかく。これは、永年から来る知識の積み重ねでしかない。現在は自由主義で、自己主張する人が多いが、自分の持つ教養、知性、常識だけで批判をし、自分のレベルで価値付けする間違いをする人が多いのでは無いか。長い歴史の中で、茶道の世界も色々あって、400年の垢がつき、変化しここまで来た。人が決めた事柄。それじゃ!他の人が変えても文句はないはず。茶の世界には、絶対的正解はないのだから。

●茶席での会話

2008-04-12 15:24:20 | 茶の湯
客全員が、会話を楽しむ人ばかりでは無い。会話を苦手とする人もいる。茶席での経験をつみ、会話することに少しづつ馴れ、無理無く茶会を楽しめば良いのでは無いか。道具の作家や、作品の善し悪しを語るのではなく、ウイットに満ちた会話を楽しむ。茶人特有の屁理屈、駄洒落を取り入れるなどして、「なる程!」の世界に浸る。是こそ価値ある会話である。


●点前での会話

2008-04-12 15:23:38 | 茶の湯
点前中の話し掛けにも「気」を動じる事無く、平然と点前が出来なければ未熟者と思われる。客が何時、何を話しかけてくるか解らんから、聞く耳をしっかり立てておく事。しかし、本当に是で良いのか、こんな自分勝手な客は無礼だし、失礼このうえない。お茶は静かにのむ物だと思う。その場、その時間にはどっぷり漬かり、茶の気を充分に味わう。出席者などは後で違う場所で、COFFEEなど飲みながら話し合うなどして、その場でぴーぴー聞かず、頭だけでなく、体全体で味わった方がよい。私は是を「浸る」と呼ぶ。初めは体で、次の段階で頭で理解し、二度美味しい茶会になる。

●道具組

2008-04-12 15:22:52 | 茶の湯
道具の取り合せは、本当に楽しい物である。濃茶か薄茶か、テーマを決め、それにあった道具を選ぶ、しかし、選ぶ品数が少ないと選ぶ楽しさも無くなる。こうしたくとも、こうならず、それが凡人の茶の世界。しかし、何処かで手を打ち、取り合せするか、物がなければ知恵を出し、どんな茶会にするかが、茶会を催す楽しみの一つ。道具の組み合わせより、オリジナルな道具そのものを考えたり、自分にあった茶室を設計するだけだが、どんなに楽しいか。今まで、台目棚、その他、風炉用長板、冷茶点前、茶杓、蓋置、是なんぞは、ステンドガラス制だ。自分でできる物を、自分で見つければ良い。その方法を見つけた時は、新しい茶道の楽しみ方だ。まさに「無一物即無尽蔵」

●茶会での会話

2008-04-12 15:22:05 | 茶の湯
茶会での会話はうるさすぎる。心静かに茶をのみたいだけ。何でもカンでも聞けば良いもんでもない。亭主に質問ばかり、これは何、これは誰の、これは、これはと、さすがに値段は聞かないが心中では聞きたいのがやまやまか?どうせ聞いてもその場だけ、○○焼きの○○作と言っても、店の売り場にお金を持って行けば、手に入る物ばかり、手取ったり、見たりした物を、自分の心で、自分の言葉で素直に会話した方が良いのではないだろうか。客の知ったかぶりはもとより、亭主の自慢話もやり切れない。ソンナに語りたければ、後でやれ。亭主だって学校でのテストじゃないんだから、何でも質問すれば良いもんじゃない。遠慮無く聞いて、亭主が知らなかった時はどうする。もしかしたら亭主に恥をかかせる事だってあるんじゃないか。相手を思いやっての互いの会話である。道具会では無く、茶会である。自分の感じた物を素直に語る会話の方が楽しさが増すと思えるんだが。

男の茶道塾について

2007-05-23 11:16:02 | 茶の湯
男の茶道塾を道新文化センターに講座を開いて早4ヵ月になる。途中新規募集もあり今は12名で構成されている。年齢的にはリタイヤ組みが多いが、30代もいて何とかバランスを保っている。
月2回の稽古なので一回休むと自宅で練習をしていない限りゼロに近くなる。年令に合わせて忘れることや、覚える手順も理解しにくいことはあたりまえ。焦らず楽しんでもらいたい。今は袱紗裁きの割稽古を行なっているが、予想に反して楽しんでいるようだ。今までやったことの無いものへの挑戦、また少しづつ覚えて行く喜びを味わっているみたい。この後もっと面倒な茶巾絞りへとお点前が進むと挫折する人がでてくるかな~と、心配する。自分の頭の悪さを身を持って教えられる第一回目。
そんなこんなで、男の茶道塾はお点前中心ではなく茶道の「業」と平行に「理」の部分を意識しなければならず、私の茶道の中では、重要な部分と考えているが、皆さんそれ所でない感じである。やはり二つのことを同時に進めるのは無理なのか?
デザイナーの場合は以前だったら技術と考え方は手の部分の習得をする間が長かったので理論も追い付いて行くことが出来たが、今はコンピューターですぐ書けてしまい、理論が追い付かない淋しさがある。
年を重ねると今まで経験していないことに挑戦をすることは、若さを保つ秘訣となると、いつか、耳にしたがホントにそうだと思う。・・・がエネルギーを持っていて初めて言えることと思う。
こころ止めればそこで終わり、進歩もない。焦らずぽつぽつと歩み続けよう。みんなで。

定員オーバー

2006-12-26 16:05:53 | 茶の湯
1月から道新文化センターに開設する「男の茶道塾」が思っていたより反響がよく募集人数をオーバーしてしまいました。はじめは、開設できる最低人数を確保できるか心配でしたが、蓋を開ければ、なんのこと10名の定員を超えてしまいました。
元気一杯の小母様方に少しは男も「やるときはやる」所を見せる事ができれば良いのだが・・・。
年令層は、60歳を超えた方が8割以上で、「男の茶道塾」というよりは「ジッチヤンのお茶の時間」と、タイトルを変更した方がいいかもしれん。
しかし、加齢も人間生きていくための武器となる。この年だからできる事もある。今までの経験を生かして、それに茶道の「目」を付け加えて、これまでと違う思考で自分を変化させる面白さを味わっていこう。今の時代は、第2の人生なんてもんでなく、第3の人生までやって逝かなければ、(行かなければ)、もったいない。
お茶をやりました。やっておりますじゃ「して無いのも同じこと」それを、日々の生活に、個人それぞれに違う生活に「何を取り入れたか、どう変わったかが」茶道の心得と思うし、新しい「男の茶道塾」の目指す所と感じる。                                 月に二回の稽古だけどお点前だけで無く、目的を一つにした仲間と和を持って静かな時間を美味しいお茶で過ごすのも、また、いいのかも。ひとさまざま。

茶道心得十箇条

2006-09-06 12:19:25 | 茶の湯
「茶道心得十箇条」
   
1、美味しいお茶を点てるでは無く、美味しくお茶を点てること。
  誰の為のお茶をたてるのか。お茶はただ呑むのでは無く、そののみ方に問題があるのである相手への思いやりの気持ちを大切にする「人との関係」であったり、「場所=茶室」であり,「時=季節・時間」であり、「道具」でもあり「環境」までもが含まれる。自分の健康にも気を使いコディションを整えてお点法することが、美味しくお茶をのみ、楽しむ事である。

2、禅の枠にこだわらず、日常生活に溶け込んだ活きた茶道を心掛ける。
  お茶をしている時だけが茶人では無い。常日頃、今、自分が置かれている境遇に感謝し、世の中に自分なりのお返しをする事ではある。自分だけの楽しみや、和敬静寂の心で人の為になると思っていても、それはあくまでも自分サイドの身勝手となる事がある。相手が喜んで「待っていてくれる」ものを行う事。謙虚であれ、反省せよ。それが返って来る喜びとなる。

3、道具の「美」には、見た目だけで無く、使いやすく品が無ければならない。
  心と行が常に一体となるように、鑑賞するだけや、使用するだけの道具としての見方では片手  落ちとなる。二つ合わさって「美の素」が生じる。その中に「不足の美」であると共に「ずらし」の美であり、画き過ぎず、余白などの空間を大切にした、手に馴染み、扱いやすいシンプルな物で、そこはかとない品格を備えていなければならない。

4、理と、業。対で一業
  お茶に限らず、知があり、行いが生じる。稽古とはまた始めの知ヘ返る「段々の理」から、そ  の繰り返しでコツを掴み、極意が生まれ、大悟する。業の部分の点法稽古では「ため」と「残心」と「間」を意識し、腹式呼吸をし、流れるような動作が肝要。しかし、茶を点る事とは、稽古に非ず。茶を入れ湯を汲み、点てる事を稽古と言い表わせば、相手に失礼になると思う。

5、その時のコンセプトに見合った、取り合わせを大切に。
  真・行・草のお点法から、それに合った道具の取り合わせなどの約束事を身に付け、掛け軸から始まり、テーマに合った道具の取り合わせを楽しみ、また見立てなども個性の発揮するところとなる。ユーモアに溢れ、捻りやこだわり等にも心し、それにより、亭主と客との「一期一会」のやり取りを楽しむことができる。

6、人も、道具も差別してはいけない。
  名のない「モノ」にも何処か良い所はあるはずだ。そこを見つけ出す目利きの目を養う事が肝  心だ。道具は、その与えられた目的を果たす事が第一であり、真の美しさであるはずが、箱書きなどのお墨付や、いわれなど別の付加価値がついてしまう。道具は産まれる時から稽古用などと価値付けをされて来た物では無い。ましてや人間の差別等は問題外である。

7、お点法は、それぞれの流派の「型」であっても、「好み」はそれぞれ。
  過去のモノを全て否定するので無く、伝承されている物は大切にしよう。しかしそれは、それ  として過去の保存だけにこだわる事なく、創造的精神が溌溂といま現在に生きずいていて、作意をを以て創作すれば、一皮剥けた茶の楽しみを味わう事ができるのではないだろうか。茶道には精神性が取り入れられ、「○○流」と決めつけられるような小さな文化では無い。

8、「型」の文化と「いいとこ取り」文化
  日本文化の基礎となる「型」・「わく」文化は、その中での自由さや、創造性を大切にした文化であって、和歌等の文字数の決められている中 で いかに大きく遊ぶかである。また型の文化 には、繰り返しの訓練により質を上げて行く良さがある。茶人は、僧侶、職人でも無い。まして歌人や能楽師でもない。全ての中から良い所だけを取り上げ、造り出す天才人である。

9、古典に遊ぶ
  禅の教えが凝縮されている禅語や、日本の美の基礎となる考え方を書いている徒然草や、古今  和歌集などの歌など、古典の知識を持つ事は良いが、それに溺れて、ただ知っているというだけの知識バカになってはいけない。簡単に調べて解る物は、低い知識であり、自慢するほどの物では無い。知識は活かして智慧とし、創造し、行動し、次へ伝える事が肝心なのだと思う。

10、これら全てを捨てよう。
   物にとらわれる事なく全てを捨て、ただ坐して、仏に茶を献じ、相手に呈茶し、最後に自分も
  のむ。ただ、ただひたすらに茶筅を振る事。それでも真の茶道からは外れる事は無い。








喫茶去

2006-06-20 23:32:00 | 茶の湯
他流派の茶会へ出る事があり、お茶を頂いたのですが、以前からどうも気になっている事があります。
それはお茶を頂く作法ですが、その時は、一声かけて自分の流派の作法で飲むといわれ、そうは行っていますが、どうもその場の流れを壊してしまっている気がしてなりません。お茶をたてる側と頂く方では趣旨の違いが大きいのでは無いでしょうか。各流派を超えたお茶をのむ側の作法を統一する事については、皆さんはどう思いますか?私の仲間は、話は解るが、絶対無理といっています。ごもっともです。でも、大寄せの茶会での、とらわらない自由さで考えてみるのも面白いかも知れません。流派の違いは、点前の形の違いより、何を持って「道」とするかが大きいな問題で、襖の開ける手は右が最初か左が先か、袱紗を右につけるか左につけるか、柄杓の持ち方も指を真すぐ伸ばすか、自然に曲げるか、置き柄杓も手を開くか指を丸めるか、各流派の違いを知ってゆくと、滑稽さを感じます。しかしその中には、型の美しさや、別のとらえ方があるのは、否定はしません。お茶を通じて何を世に伝えるかをもっと各流派の違いを我々に伝授してほしいものす。

私の茶道史

2006-04-24 09:53:00 | 茶の湯
●私の感じた茶史
現代の茶道は、久松真一が言うようにここまで「禅なる物」でなければならないのか?
禅僧により日本にはいり、僧によって飲まれていたお茶が、時の権力者や、知識人へとでてゆく。そこで婆娑羅と出会い、闘茶や、綺羅びやかで、何もそこには思想的な物はない「茶の湯」となる。そういう世の中であればあるほど、ついて行けない者が表れてくるものだ。此れはいつの時代でも同じではないだろうか?そんな「もやもや」とした所に、茶の湯の経験を持つ「いいとこのお坊っちゃん」が、其の時の反逆者とまではいえないが、反抗精神の強い一休禅師との出合いにより、若さと知識欲でそこを寝城とする若い教養人と熱にうかされた者のように、けんけんがくがくと討論しあい、段々と茶道の形が出来上がって行ったのではないだろうか。
歴史の司書には表れない「もやもや」の人達に賛同され、協力され、引き立てられたのではないか?
革命児でもないし、人間形成を狙ったのでもない、ただ素直にお茶が好きだった男が、「場」と「時」の動きにより、其の時代の流行と反対の力が働く振り子現象のように、堕落した物が大きければ大きいほど、段々と振り幅が大きくなり侘びの精神が生まれて来たのではないか。     
時代も戦国時代に入り、禅の教えを基としていた茶道が、いくさ、戦に明け暮れ、常に「死」と対面しなければならない武士のより所として、武家社会に取り入れられた。其の精神とは別に茶道の道具に付加価値を付け、場を設け、上手く利用した男が信長ではないだろうか。
茶人は折よく、上手くスポンサー・パトロンを見つけ茶道発展の夢を見つつ、台子のフォーマル点前に励んでいった。信長の死後、秀吉が最高権力者となるが、所詮生まれは「山ざる」、何処かにコンプレックスを持っていただろう。其の時代の教養として求めるには、此れだけ幅の広い、奥の深い茶道をおいて他にはなかったのではないだろうか。時の権力者は、茶道の今で言うカリスマの利休を身近に置く事により、自分の足りない部分を補い、誇っていたのではないだろうか。また利休も自分の成しつつある侘び・寂の茶道を完成し、茶道の支配者になる為には、秀吉と持ちつ、持たれつ、ギブアンドテイクの世界で、やっていたのではないだろうか。
しかし、純粋培養に近いタカだか茶人と、秀吉、家康などは戦国時代を命をかけて生き残り、人も、物も見る目も違う。我々凡夫が「どうの、こうの」と訳知り顔で語るレベルではない権力者とでは、何処かに噛み合わない物があったのだろう。ワンマンな天下人と、其れに従服している諸大名とでは、まるで違う人種なのだという事に、気を付けなければならなかったが、禅宗を身に付けている茶人として、最高権力者の汚さ醜さが見えてはいたが、ささやかながら、手を変え戦っていたのではないだろうか。
朝顔の件にしても普通は、ここまでやるか? 美の追求というより、他の者の犠牲により、生き残っているのが「アンタナンダ!」と嫌みをぶつけて戦っている利休を感じる。他のエピソードもこの目で見たら底に流れている闘志が、見えるのではないか。
利休の最後も、戦い疲れ、矢が折れ、「やけっぱち」でなく最後まで戦い、「相打ち」の心意気が見えてくるのは私だけだろうか。---利休は勝った!---
利休最後の歌には、禅宗の教えは生きているのだろうか。自分と、権力者、二人のための「戦いの茶」は、此れで幕となる。
利休の後の茶人は、茶道の「道」のための、形だけの「禅」を残し、形式を重んじた、我が身可愛さの「ヨイショの茶」となる。その後も、いろいろと茶人は変わるが、元から外れたリサイズ、リバイス、リサイクルの「道」としか感じられない。
其れでは、今の時代の茶道とは「なんなのか?」「どんなんだ!」と思う。
それは、もはや「○○○の茶」と一言では言えないない、色んなバリエーションがあり、□□□中心のお茶になって行くのではないだろうか。其のコンセプトは、平和であったり、癒しであったり、拝見であったりの個性を活かした創造性豊かな個人の茶道になって行くと感じられる。久松師ほどの茶道の落ち目を感じたくないのが本音だろう。
何でも飲み込み、咀嚼し、吐き出す。これが日本の地の「気」なのだ。