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宗葉の、チョイト思う事。言いたい事。

意見のあわない方は、御容赦。

●茶事について!思う事

2016-04-18 20:49:15 | 茶の湯
茶会について!思う事。
先日久々に我が家にて客を迎えての茶会を開いた。
茶会というより11時開始とうい事で、昼の食事を出すという事で茶事と言われる物になるだろう。
・・・がしかし、我が家は、茶室に非ずで、ましてや露地や蹲いなども無く、とてもお茶会・茶事に客を呼ぶという代物ではない。
洋室の居間に20センチほど上げ、置炉を設置した畳のコーナーを設けた息子と2人での手作りのもので、茶室とは呼べず茶所と称している。
茶道に身を置いている者として、客を招き、お茶を飲み、楽しい時間を過ごす最低の茶会とは、どんな茶会だろうか、どうするかを考える事も楽しいのではないだろうか?
茶会、茶事の事を考えるにあたって何がそもそも、お茶との関わりを持ち、何をする事が私の求めているお茶になるかを考えるには丁度良い機会となる。
忙しい時間を割いて、我が家までわざわざ来て頂いて、ただ茶を飲んで、饅頭食って、飯食って、世間話に花を添えて、
帰ってもらってもそれなりの満足感は客、亭主ともに得られる物だが、果たしてそれで良いのだろうか?
人は分相応に自分を見つめ、それでいてどんな茶会をやるのかをしっかりと定め、実行に移さなければならない。
お茶の世界を思うに、気の合った客を呼び、やはり何かしらの自慢をし、喜んで客に帰って頂き、
自分も満足を覚える物であってほしい茶会を催す事が出来れば、最高である。
数少ない茶事などに呼ばれ、色々と思うところを考えるに、場所に関しては我が家での茶会であれば何ともしようが無い。
見た目にも奇麗に整頓し清潔感を出す事ぐらい。招く客については、人選に苦慮する。これはその時その時の内要にあった顔合わせに楽しさをを加える。
今回は蕎麦好きの客と、会の世話役としていつもお世話になっている方を、気軽な恰好で来て頂くよう図った。
道具に関しては茶会を一番盛り上げる事の出来る材料ではあるが、分相応で思うには、今の経済状態、年金生活者では、これと言って、
人に見せられるような道具とも無く、借金してまで求める気持はさらさらない。
ただ将来的には道具を自作し、見て頂こうとは計画している。客に喜んでもらうには、道具の他には何があるだろうか?食事も一つだろう。
京都などで、お客を招待する場合、我が北海道には無い「仕出しの文化」がある。我が力では、せいぜい茶会弁当をデパートで買って来るかではあるが、
これが結構お腹一杯になるもんで、お茶を飲む時は何故か美味くない。そんな訳で、寄り付きで口をさっぱりして頂いてから、茶所に席入りし、
蕎麦饅頭を頂いてから濃茶手前に入る。その後寄り付に戻って頂き、食事の用意をし、今一度手を清めてから席に付座布団を敷く。
今回の食事は、以前文化センターの受講生だった方がおそば屋を開店したので、稽古には来られなくなったが、
蕎麦茶会を店の休みに来て頂いて開こうと計画し、当日何を出すかを事前に打ち合わせをする。
その結果、向う付として、卵焼き(我が家に来てから焼く)に紅白の板蒲鉾にたらの芽のミソ和え。
本膳は更級蕎麦、十割蕎麦、桜の葉の塩漬けを刻んだ三色盛りとし、薬味を山葵やからし大根でいただく。
お酒を出すことを前もって伝えておき、自家用車を使用する事無く来て頂いたので、札幌では不便をかけてしまう。
昔の茶室は「市中の山居」と言われていたが本当にそうだな〜〜と、思い知らされた。
お酒は桜を意識し、「花キザクラ」と名のあった物を飲んだがイマイチで、名前にこだわってはいかんと後悔する。
通常は亭主は影で食するが、お客を呼んで話題に入らない事に何故か違和感を感じていた私としては、膳を持ち出し一緒に蕎麦を頂き、
膳を用意してくれた方も一緒に囲身、蕎麦についてのうんちくを大いに語ってもらう。(本人は無口のため、大いにとはならず)
時間を置いて薄茶に入るが、今までお詰めをしていただいた女性に変わって、我が制作の立礼にて点てて頂く。
食事を受け持ってくれた方が薄茶席に参加してもらい私も席を同じくする。
菓子はお干菓子で手順は遠州流独自の重ね茶碗点法で行う。我が流派では、一段落して番茶(今回は蕎麦茶)と水菓子を盆にのせ、
道具の箱書きなどをご披露し、最後のもてなしを行う。我が家では道具の披露は無いが、玄関より見送る。
帰りの坂を歩いて景色を見ながら下るのも、風情の一つ。時間は三時間半ぐらいで、その後の片付けを一人で済ませたのが六時半。
二階を上がったり下がったりの二日間。モウダメ〜〜〜〜〜ッ!

●大久保喬樹  「岡倉天心 茶の本」より

2015-05-25 11:52:20 | 茶の湯
NHKテレビテキスト
大久保喬樹 「岡倉天心 茶の本」より

残念な事に現代においてもなお世界中のあちこちで戦争や紛争が起こっています。
そうした対立を、武力で解決するのではなく、むしろ当事者が一堂に会して、「一杯の茶を飲む」事によって解決する。
武器を置き、身分の上下を無くし、集まった全員参加で、一期一会の場をつくりあげる茶の文化は、
争いの続く現代の私達にとっても大きな示唆を与えてくれるものだと言えるでしよう。

もう一つの可能性は、「自然との共生」という考え方です。
産業革命から私達は人間中心主義の原理のもと、一方的に自然を支配、利用しようとし、結果として、
甚大な環境破壊を引き起こしてきました。
その反省から、人と自然の関係を見直し、これまでの一方的な関係から対等、
調和的な関係に組み替えようと言う事が生まれたのが、エコロジー思想や、環境保護運動などです。
天心が伝統的東洋思想の基本として説いたのが、まさにこの人間と自然の関係でした。
こうして、百年前の「茶の本」が説いた他者との共生、自然との共生という思想は、
これからの時代においていよいよ私達に進むべき道を示唆しているといえないでしょうか。

私もデザイン専門学校の生徒に2時間の講演を依頼され、そのテーマーに「茶の本」を取り上げた事がある。
デザイナーも自分のやりたいデザインをするだけでなく、
それを使用する方が使いやすいか、便利なのか、使う人の身になっての茶人の心を例に挙げて話した事を思い出す。

●茶の湯者になる為に

2015-04-12 17:02:54 | 茶の湯
豊かな日常を目指す
茶の湯者になる為の心得?



その1 よく遊べ
    ムダな時間が大切。何をやってもムダにはならない。本気で遊べ。


その2 尊敬する先輩を持ち、真似から入る
    自分が羨ましいと思える人を目指す。


その3 いろんな茶会に出て客としての経験をつめ
    早い時期により多くの失敗を体験する事。失敗の中に楽しさがある。


その4 指先・腕・身体を使うが、最後は心で動かす
    指先にもう一つの「脳」が存在する。 


その5 絶えず「メモ」し、常に意見を述べる
    理論的な【文字の人】や金銭や効率等の【数字の人】だけでなく、
    良いもの、美しい物を見抜く「目の人」になれ。


その6 単に手順の説明のような茶会・茶事を行うな
    自分が亭主だったり客側だったりの立場で考える。
   

その7 道具に魂を振り回されるな
    発想を広げるには、見たものをメモし、自分の考えを相手に話す。


その8 感動を創り出す事こそ大切
    自分で問題を拾ってくる。その問題の大きさがどこかで縁となる。


その9 既成の問題意識は役に立たない
    自分の中で完全に消化し、自分ならどう表現するかを考える。


その10 失敗を怖れるな
     満足すればそこで進歩は止まる。今いる自分は、明日の自分では無い。


その11 天狗になるな 


番外編 何にでも疑問を持つ事 「何故コウなんだろう、どうしてなんだ?」と初めに、意見有り。
自分の意志を強く持ち、自分の美の意識を強く持たなければならない手先で行なう事が重要。


 

●T氏の茶会

2015-03-24 09:58:39 | 茶の湯
お茶の仲間が和室に炉を切って茶室とした。
そのお披露目としての茶会を行うという事で招待を受けた。元々はふた月前にする予定だったが、本人の足に菌が入り正座する事が出来なく成り延期するはめになった。
一旦盛り上がったやる気も、全てをチャラに戻しての再出発。前の状態にまで持って行く事は大変だったと想像する。
T氏は私のカルチャー教室での初めからの受講者で、60代半ばの現役でスタートしたが、真面目に自宅での稽古を欠かす事がない努力の結果で、
準師範を受けるまでになった。去年本部での灰型作りの講習に出席し、炭と同時に気持に火がついたみたいだ。
今は70半ばになったので、後何年出来るだろうと計算する事が出来ると、チト焦るようだ。
茶事の先輩である仲間に色々とアドバイスを受けまくり、灰作りからスタート。やはりお茶をやったからには炭で湯を沸かす事を経験したく成るものらしい。

今日の客は4人。男性は別室で着替えを済ませ、寄り付きで桜湯を頂き、茶室に移動し、席入。そろってから銘々に挨拶を受け、炉の炭手前が始まる。
炭斗を持ち出し、灰器を置いた後、炉中の拝見をし、見事な種炭の起こりを見せてもらった。炭の臭いと、香の臭いが鼻に心地よい刺激を与える。
気密性の高い住宅の為、炭の中毒にならないよう換気口やら窓やら、部屋の襖まで開けての炭手前。
種炭を起こすのには苦労したようで、何回かの模擬までやったそうで、奥さんも一役買った模様。旦那の道楽に付合うのも大変だろうと思う。
これだけで今日のお茶会は成功!客も亭主もそう感じたのではないか。
会席は仕出しの幕の内弁当に汁物を付けたもので、お酒もセンスの良い燗鍋や、酒器が出たがなんせ車で来た者や、体調による禁酒で、
亭主の気持を汲み取るところまで行かなく済まなかったと反省!
寄り付きに戻り濃茶に床や飾り付けをした茶室へと移動。道具は釜といい、亭主の性格を表しているように、派手な所無く落ち着いた感じの物で、茶碗など拝見する。
釜から湯気が濛々と立ち上り電熱器での稽古とは違う本物の感を受けた。今一度席を外し、薄茶の棚使用に模様替え。点法は前押しの高取による重ね茶碗。
亭主も疲れが出て来たようで袴を踏む回数も多く成る。正客の私も足の限界が来て椅子に腰掛けての作法となり誠に申し訳なかったが、勘弁して下さい。
名残の拝見を済ませ茶室披露の茶事を無事済ませる事になる。全てが終わってからのコーヒーがおいしかった~~~。

茶道具も何年にも渡り少しずつ貯めて、とうとう茶事を行うまで揃える事が出来たようだ。
灰もあく抜きから始め、炭手前の道具やら手前やらで、やる事なす事70歳を過ぎてからの経験で、それを実行する意気込みには感服する。
知らなかった茶道の面白みを知った歓びに、心から浸っているようだ。少々の間違いなんてたかが知れている。
湯が沸けば良いし、お茶が美味しく飲めればそれで良い。茶事、茶会に出て何故か気疲れをしまうようなものは困ったものだ。
おおにして他の流派に参加するとそうなる。
客側に手順、点前の知識がなければならないようなお茶会には、おもてなしも強制させられていて、お茶会というよりイベント参加みたいな感じになってしまうが、
今回の茶事では亭主、客とも常日頃から稽古も一緒の時が多く、気心の知れた本当のお茶の仲間という、これぞ私の求めている「お茶」の世界ではないだろうか。

後日話しを聞いたのだが、2~3日は虚脱状態だったそうだ!ただT氏の偉いところは次は風炉の炭手前へと眼を向けているところ!!!!!!!!!!!.。

●大寄せの茶会 水屋での動き

2014-09-07 11:24:08 | 茶の湯
第1回 教授会  
平成26年8月31日(日曜日) TKP市ヶ谷カンファレンスセンター

●宗実家元講演
「茶会を催す亭主の心=客の心得」

1、茶会の主旨
「いつ」季節的にはいつでもOK
「なにお」道具をとおして
「どうする」 亭主と客との心を持ってのコミニュケ―シヨン

2、お茶会の種類
 イ:お茶事
  3~4、5人で案内状を送り、寄り付き等を設け4時間ほどの正式な流  
  れによってのもの
 ロ:少人数の茶会
  亭主のこだわりで招く(○○祝など目的を持っての茶会)
 ハ、中人数での茶会
  20~30人ぐらいで点心、濃茶、薄茶での茶会
 二、大寄せ
  200~300人以上で一会場でいろんな席を設ける楽しい茶会
 ホ、月釜
  同じ場所でのお茶会

3、役割について
 席主:大寄せでは最初の挨拶のみや、道具に付いての説明などわりと    
    自由な存在
 亭主:お点前をメインにするが伴頭などとタイミング合わせを大切に
 伴頭、半東:亭主の補佐で、掛け塾、花、主客、次客への運び、拝見
    道具の飾り
 お運び:大寄せ茶会などでは、席主の挨拶が終わればお菓子を出した 
    り、その後お茶を運ぶ
 水屋:茶碗を洗い暖める、菓子の用意、湯を沸かす、茶を入れ、点て
    る、戻って来た茶碗を洗う、
進行係:会場と水屋との運びをスムースにはかる役
案内役:席入への案内役で、前から順に椅子の数だけ詰めて案内する

(自分の役割を的確にはたし、美味しいお茶を頂いてもらう事を最大の歓び
  とする)

主客:この席中の客が何を一番興味を持っているのか、亭主がきょうの茶会  
   で言わんとする事を掴み問う
   注意として、茶碗に湯を注ぎ点てるときは話しを慎む
次客:亭主が質問するタイミングを外している時、次客から主客に促しても 
   良いが、亭主には話しかけないこと
お詰め:茶事など中立する時は最初に茶室を出て正客の履物を揃え腰掛けの  
    円座を用意し最後にもう一度茶室に入り、拝見し戸を閉め、円座へ  
    戻る   お茶事での器の下げる事が多いことから、気のきく人、 
    機転のきく人が望ましい


●「大寄せ茶会」椅子席を開催する際の裏方の働き

1、水屋部屋の設え
 イ、部屋の壁際に菓子の用意をするテーブルを設置
   盆に人数に見合った懐紙にお菓子をのせ、重ねておく
   客側に向けて持ち出し、お客に取ってもらう
 ロ、部屋の中央に横長のテーブル(会議テーブル4本分)にシーツを掛け
   ておく
 ハ、電器のコードや、敷物も縁に引っかからないようにテープではり付け
   ておくこと
 二、中央のテーブル上には、
   ・広い口の湯を沸かす入れ物を電気コンロやカセットのガスコンロ、
   ・茶を入れておく茶入(茶漉しは粉篩やボールで前日にこしておく)
   ・炉の柄杓(茶碗に湯を入れるときは二椀~三椀づつ)、
   ・茶匙(茶杓で何杯も入れるのではなく1回ですませ、時間短縮
   ・濃茶=4g  薄茶=2g  
   ・水を入れたタライは3個用意し順に洗う
   (最初のタライで、茶碗に水を少し汲み中をぬぐって水を捨て、次の
   タライで本ゆすぎ、もう少し奇麗にするのであればもう一タライを
   足すのも良い) 
   ・湯を入れるタライを用意 (手を火傷しない程度の湯) 
      ※お茶の世界では流水で茶碗を洗う事はしない
   ・手拭き、ティッシュ、布巾、蓋置き、ゴミぶくろ、雑巾、

2、お茶の出し方
 イ、濃茶の場合
   水屋の人に出し帛紗に乗せてもらい、1人1椀で持ち出し、客の前で
   正面に振り向けてから出す
 ロ、薄茶の場合
   2人ペアで組み前の方が1椀を持ち、次の方が盆に残りの長椅子の人
   数分をのせて出る
   薄茶は客の前で茶碗を正面に向けなくても良く、初めから客向けにし 
   て出て客に取ってもらう

3、戻り方
 茶碗の戻りは2椀目を客の方から重ねてもらう
 帰りは遠回りで戻る
 お盆はワキに抱えないこと

4、その他
 時間短縮で、替え茶碗を出すタイミングは中水の時に持って出る

●茶の美学より

2014-02-05 15:50:41 | 茶の湯
「茶の美学」 谷川徹三著 淡交社より ①

長闇堂記より  点前の上手、下手は茶の第一義でないことにもかかわらせているのであるが、本当の点前の上手とは、心のこもったものでなければならぬことをいっているので、
ひとりで茶を点てていると、つい点前がぞんざいになり、その癖が客をした際にもついでてしまって見苦しいことになると戒めているのである。

巧者の点前には少しも目立ったキワキワしいところがなく、それは一見日常生活の所作と違わないように見える。しかしその自然と目に立たぬ所作は、
日常生活の延長としてそうなっているのではない。長い間の修練によってそうなったものなのである。それは芸術を超えた自然であって、芸術以前の自然ではないのである。
だからそういう修練の無いものが、修練を積んだ人と同じように、そういう自然や自由を得られると思ったら間違う。
元来自然ということが、自然の自然より、人工を通した自然の方が一層自然に見えるのは、何もこういう場合だけにかぎらない。

遠州の点前について松屋久重が「茶の入様見事ナリ。汲出す所ハ静二て碗へあくる事きつし」(茶道四祖伝書)といっているが、こういう時間の秩序に従う緩急の度とマとは、
点前における全体の進行にわたった問題で、その緩急の度とマのその場その場に応じてよろしきにかなうことは、よい茶の絶対的条件である。
だからそのうまくいかないのをいつまでも茶が「なまる」といって嫌うのである。茶における舞踏的なものの本質はそういうところにある。

山村流家元三世舞扇斎吾斗という女師匠の芸談の中より  「振りの上でイッチ苦労しますのは、腰の据え方でっしゃろな。
それに肩、手の先、足の使い様、目の動き・・・・・こないなわざがきっちり肚に入る迄には、えらい修行がいりまんねん。・・・・・けど、このわざの上よりなにより、心がむずかしゅうおます。
無暗に思い入れをしてはいけまへん。舞は心がいっち大事でおますが、ピカピカ心をみせてはあきまへん。振りもそうだす。
からだでだけ振りをみせるのでは芸が卑しゅうなりますさかい、この心と振りとが一つに解け合うというんでしゃろか、この修行がでけまへんでは、舞をまうとはいえしまへん。」
ここに日本の伝統芸術の伝統の根深さがある。茶の点前にもこの伝統が生きているので、この言葉はそのまま茶の点前にあてはまる。

●茶味より  ②

2014-01-22 19:05:10 | 茶の湯
茶味 奥田正造著  より②
親鸞上人は「いづれの法か行無くして証を得るや」の一語にある。一文不知の身になってと仰せられたのは知に徹せられたのである。徹した知は必ず行を伴う。
(途中略)即ち行だけではなく行持でなければならぬ。之即ち悟後の修行であって、お催しにあづかる事を喜びつつ精進行持するのである。
茶道の修行も亦之に似たものがある。即ち簡易な点前が行持せられなければならぬ。例えば平手前の7万偏を志すべきである。時には水指の運び出し運び下げばかりでもよろしい。
その七万遍に徹すれば必ず一境地に達する。
利休の時代には後の世のように手前に多くの種類を分かち、それぞれに型を規定するということなく、また懸物なども同じ物を常に繰り返し用いていた。
不言庵のお茶の稽古もひたすらに簡易行をくりかさしむる所に心を注いでいるか、之によって十分に謙虚な落付いた、そして万変に酬作して乱れざる態度や気持を養いうるように思う。

確かにお茶の点前が上手になるには繰り返しの稽古が物を言う所となるが、それだけでは茶の求めているもう一つの所に欠ける。
お茶に身を置く者としての嫌らしい高慢な者に成らないように、互いに気をつけましょう。

●茶味より①

2014-01-13 18:30:11 | 茶の湯
「茶味」奥田正造著より  ①
されば珍汁佳肴を以て招き給うは、如何にもして我を円満歓喜の世界に遊ばしめんとする主人の親切で、これに対しては只感謝あるのみである。
この客にはこの器を、この馳走をと、力一杯心を入れて選んで出された主人の気持を、ひたすらに喜ばねばならない。主人はまたその気持を汲み取ってくれる客の客ぶりを喜ぶべきである。
さるをあら探しをしたり、値踏をしたり、誇ったり、羨んだり、劣敗感や優越感の煩悩に目を曇らすのは飛んでもない脱線である。仏心の交わりいずこにありやである。

道元禅師の「八代人覚」より、
八代人覚とは、仏たらんとする者の覚知すべき八箇条である。一には小欲。二には知足。三には楽寂静(ごうじゃくじょう)四には勤精進、精しゅうして雑(まじ)えず、進みて間(ひま)なし。
五には不亡念又正念ともいう、法を守って失わず。六には修禅定、法に住して乱れず。七には修智慧、即ち聞思修証。八には不戯論、無用の分別を遠離す。是である。
初期の茶道に於いて古聖が覗った所も悉く慈にあった。古の茶道はこの精神を実践体得せんが為に行われたのである。この精神を忘れて形の上の技だけでは、その到りうる心境にはかぎりがある。
之を手だてとして真の生活を味得するの働き、
即ち所謂道念を養い得ずんばお茶は遂に一の閑葛藤(かんかつとう)にすぎない。真のお茶は濁世に安住し、三毒流転の中に無垢清浄の境を照らし出す燈火を、尤も手近に教える手段である。
建物や器物に苦労するよりは随処に境を開く我が心をねり、我が身そのものをこの中に働く道器とすることに精進すべきである。

●ドラッカーの「マネジメント」より

2013-12-09 16:25:19 | 茶の湯
組織構造は、組織の中の人間や組織単位のかんしんを、努力ではなく成果に向けさせなければならない。成果こそ、全ての活動の目的である。専門家や能吏としてではなくマネジャーとして行動する者の数、管理の技能や専門的な能力によってでなく成果や業績によって評価される者の数を可能な限り増やさなければならない。成果より努力が重要であり、職人的な技能それ自体が目的であるかのごとき錯覚を生んでは成らない。仕事のためではなく成果のために働き、贅肉ではなく力をつけ、過去ではなく未来のために働く能力と意欲を生み出さなければならない。
ドラッカー「マネジメント」より
私は以前に(もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら)という岩崎夏海の本を読んだ時、職業柄ドラッカーのマネジメント等は知識として読んではいたが、退職後に茶道に身を寄せ教える立場にもなり、この本を読むと何とお茶の世界にすんなりと入ってくるところが多いのには二度ビックリ!
茶の湯は手前だけでなく、それを素に茶会を開くことこそ成果となると
常ずね言っていることだがまさに正しかったのだと、思い知らされたものだった。私のお茶の先輩である堀内さんも利休とドラッカーのつながりを語っておりました。500年以上も前に茶道を通してマネジメントの考えをすでに言い表している。我が国の文化をもう1度振り返って見ては・・・・。

●新渡戸稲造「武士道」より

2013-12-05 19:43:27 | 茶の湯
「武士道」第6章の「礼」の中に書かれている、茶道の部分を私なりに興味を持った処を抜粋。


何かをなさんとする時は、それをなすに最善の道があるに違いない。しかして最善の道は最も経済的であると同時に最も優美なる道である。(中略)茶の湯の作法は、茶碗、茶杓、茶巾等を取り扱うに、
一定の方式を定めている。初心の者にはそれは退屈に見える。しかし間もなく、定められたるその方式が結局時間と労力とを最も省くものであること、換言すれば力の最も経済的なる最も優美なことを発見する。

小笠原流宗家(小笠原清務)の述べたる言葉によれば、礼道の要は心を練るに有り。礼をもって端座すれば狂人剣を取りて向うとも害を加うること能わず」と言うにある。換言すれば、絶えず正しき作法を修ることにより、
人の身体の全ての部分及び機能に完全なる秩序を生じ、身体と環境とが完く調和して肉体に対する精神の支配を表現するに至ると言うのである。

茶の湯の要義たる心の平静、感情の明澄、挙止の物静かさは、疑いも無く正しき感情の第一要件である。騒がしき群衆の姿ならびに音響より遮断せられたる小さき室の周到なる清らかさそれ自体が、
人の思いを誘って俗世を脱せしめる。清楚なる室内には西洋の客間にある無数の絵画骨董品のごとくに人の注意を眩惑するものもなく、「掛物」は色彩の美よりもむしろ構図の優雅さに吾人の注意を惹く。
(中略)茶の湯に連なる人々は、茶室の静寂境に入るに先立ち、彼らの刀と共に戦場の凶暴、政治の顧慮を置き去って、室内に平和と友情とを見出したのである。

茶の湯は礼法以上のものである。それは芸術である。それは律動的なる動作をば韻律(リズム)となす詩である。それは精神修養の実行方式である。茶の湯の最大の価値はこの最後に挙げた点に存する。
(中略)礼儀はたとい挙動に優美を与えるに過ぎずとしても、大いに裨益(ひえきー役に立つこと)するところがある。しかるにその職能は此れに止まらない。礼儀は仁愛と謙遜の動機より発し、
他人の感じに対するやさしき感情によって動くものであるから、常に同情の優美なる表現である。礼の吾人に要求するところは、泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ぶことである。


この本は1900年ごろの新渡戸稲造により書かれた物で「武士道」というタイトルからは想像出来ないものだ。新渡戸自身がクリスチャンでありその目を通して武士道というものを深く見て
東洋、西洋の名をなした人達の言葉からも取り上げ、日本の文化・思想を解き明かしている。

※「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」この言葉は、「葉隠」(はがくれ)はと言う江戸時代中期(1716年ごろ)に出された書物の中にある。

●野点について

2013-10-07 23:13:31 | 茶の湯
今回野点をするにことにより、私なりに頭の整理をする事が出来た。野点籠と一般に言われいますが、
大きく別けて「御所籠」と「野点籠」に別けられる。御所籠は仕服に入った茶碗や、茶杓などの道具を仕込み、そのまま持ち出し、お点前を続ける道具ではあるが、高価ではあるが大変美しく、座敷にも使用されます。
遠州流にはこの点前は無いと思っておりましたが、今月の月刊遠州の写真に弘前で茶会をやっている写真が出ておりました。ただノッパラでやる野趣溢れる物ではないように思われる。
もう一つの野点籠の方は道具を持ち運びする事を主にしたもので、色々なオリジナル性のある製品が有り、自分なりに探す事が楽しくなる。お点前は、遠州流での「盆点て」で十分だと思う。
自分に合ったやり方を見つけ、道具に出合う事へも楽しさを見つけるものと思われます。

●茶会散歩

2013-08-04 19:50:46 | 茶の湯
○○氏の茶会に呼ばれて・・・「宗葉の茶会散歩」

男の茶道塾の○○氏より二回目の茶会への招待を受ける。

準師範の許状を春に受け、新しいお点前の長板での点法の美しさに心を惹かれ、捨坐に於いて日々稽古に励んでおり、それに伴う道具を何かと自分に合ったものを探していたので、私が道具屋さんから薦められ、取り置きしていた皆具を譲り受けての披露をかね、その他にも購入したものの中から夏のお点前に相応しい物での取り合わせを披露したいとのこと。
茶会前日の捨坐で長板での茶碗披きを特訓。特に飾り火箸の扱いに苦慮。
客は前回の××さんは仕事が出番のため欠席、??さんは法事のためこれまた出席ならず。よって私が正客、△△氏が次客、□□娘がお詰めというメンバーとなり7月30日(日曜日)沢田宅1時集合となる。
□□さんは、マイカーで直接向かう事になり、△△さんと12時50分、地下鉄28丁目駅で待ち合わせ、真っ直ぐ○○宅へ向かう。
途中白い恋人の菓子工房へ入る為の車による渋滞にあったが案外スムーズにパジェロ・ミニは走り、国道から右折れする目印の「ゆ」の字の看板をもう少しで見落とすところだったが、着物への着替えをするため12時半に伺う予定より15分程早めに着いた。1時からのお茶会で、どうも飯を食うチャンスを外してしまったため腹が減ってきた。
がしかし、日頃の行いがいい為か、運の神がおにぎり持ってやってきた。
事実は△△さんがおにぎりを二個所持しているという事で一個お裾分けいただきくことにした。○○宅の裏側に大きな公園が在るのでピクニックよろしく美味しくぱくつく。子供達の野球の催しをやっているようでお母さん達が忙しくジュースを配っていたが、近場に水飲み場やトイレも有りなかなか良い公園だった。食後迷う事無く到着。
奥さんの出迎えを受け2皆に着替えに上がる。・・・と、今日の亭主が着物に着替え中!何故か? 前日にお孫さんが来ていてお茶会の用意は朝から初めたのこと。お疲れさまでした。
それにしても着物への着替えは熱いもんだ。着終わったとたんに汗をかいていてもう脱ぎたい感じ。△△さんに続き下の階に寄せ付けに用意されている場で前日に決めていた水屋料を渡し着席。□□さんから少し遅れると連絡はあったが15分遅れで、なかなか雰囲気のある白っぽい着物と、花柄を糸の違いで刺繍したセンスある姿で無事到着。(夏のボーナス叩いたんでないか)

伴頭役の奥さんがおしぼりと桜の花の塩漬けを仕込んだ茶碗を持ち出し、お詰めが瓶掛の鉄瓶に蝉結びをし、湯を入れめいめいに振る舞う。水中花よろしく奇麗に咲き、今日の茶会の雰囲気を大いに盛り上げる演出となる。
寄り付きの飾り付けは画賛の色紙で「和心」の文字に2匹のカエルの絵が書かれており、心葉会の心や△△さんの宗名である宗心の「心」が入っているところに、亭主の気持を汲み取る事が出来た。(勝手に汲み取っているのかもしれない)台の上に薄茶の茶碗の箱書きと茶杓の筒と、赤の堆朱の菱形の盆に色絵の香炉を飾ってあった。また特に目立ったのは煙草盆、遠州好みの桑の木の遠州紋の透かし彫り、友人よりの贈り物とか?火入には火が入ってなく、火消しには水も入っていない状態だったが、この火を入れるという事のエネルギーを使う事は私にとっても大変な事だった。余裕を茶会から感じるそんな場に持って行きたいものだ。
寄り付きには当日のお茶のテーマーを表す場でもあり、亭主としてはどんな茶会にしたら良いかを考えるきっかけともなる。主客としては、「和」を中心に和気あいあいの心に重点を置き、カエルちゃんの楽しさも大事にして行こうと思う。
出来れば、香炉も出ていたので、お香を焚いて頂きたかった。香の臭いは茶会が始まる前の緊張にもなるし、また緊張をほぐす役割もあるように思われる。

亭主の挨拶があり、1時半、いよいよ席入りとなる。
茶室の躙り口よろしく戸が少し開いている場所から主客の順に床の間の拝見。
床には、画賛で青楓と流水に二本の杭が描かれており、書は天山なにがしと記されていたが、イマイチ内容がつかみきれない自分の学の無さを知る。
何で杭が二本なんだろうと気になったのを思い出す。花入は白竹の若干大きめの籠で、あじさいをメインに入れ、他の花ととても調和していて、空間のある活け方に清々しさを感じた。また炭手前省略の印として香合が金を散らした紙敷き紙に置かれていたが床の間の明かりが暗く見えにくく、残念な思いをした。
次に点前座を拝見する。今日のお点前は長板使用の茶碗の披露のようである。
皆具は○○氏にも気に入ってもらい今回の披露となった高麗物で書き落しの絵柄と色、少し大きめで、十分に主張して晴の日を迎えたような輝きを見た。そちらの方に気が行っていたのか、茶碗の披露の茶碗の記憶が薄い!これはチト主客としては失格かな~~。また飾り火箸は良い物を手に入れた事を知っていたにもかかわらず、暗過ぎて模様までは見えなかった。風炉は切り合わせの朝鮮風炉であったが、自分としてはあまり好きな物ではなかったのだが長板に置いたところは、そんなに違和感は感じられなかった。食わず嫌いだったのかなとこれまた反省し、席に着く。
遠州流の主客の席は炭手前のときは炉に一番近いとこらで、濃茶のときは茶碗を取りやすいところに変わるルールがあるが、今回の席というか私の好きなところというか、床の間を背にしたくないし、亭主の点前も見たいので主客の我がままで席に着く。亭主が想像としていた位置で無く亭主には迷惑を掛けてしまったと思う。御免なさい。

ついに茶会本番。奥さんが縁高を持って登場す。オッ!見事な斜め歩き、
お裏をされていただけあって、なかなか感じの良い優しさを感じさせる仕草には我が心葉会にはいないな~と思いつつ、○○さんへの内助の功にはチョピリ羨ましさを感じた。もちろん△△さんの奥さんも素晴らしい方です。
我が奥さんはまるっきりお茶に興味無し。亭主の趣味に合わせるより、中年女子会とお買い物、飲み会の方が好きみたい。マァいいか!
菓子器は黒字に金色を施したストライブの模様が入りモダンな感じ。器の中は薄グリーンのこの季節にピッタリの色合いで紫陽花の花を感じさす菓子で、美味しく三人で頂いた。
いよいよ真打ち登場!茶道口が開き、挨拶をすませ、茶入を持って部屋に入ってきたが、何故かまぶしいのだ!金箔を散りばめたグリーン色の地紋のある底のふくらみのある物で、茶入というよりは茶器と呼ぶに相応しい物だった。建水を所定の位置に置き「どうぞお楽に」の声がかかり、軸、花入れ、花、菓子について問い合わせる。
軸に関して亭主は何を勘違いしたのか寄り付きの軸を説明しだした。花入やその他の道具の説明もすませたが、やはり会話をしながらのお点前は、○○さんほど茶会を開いているにもかかわらず難しさがあるもんだ、楽しい茶会ではそれも愛嬌と思われる。間違いの無いお点前は茶坊主の点前で、私が求めているお茶の世界ではない。出帛紗を出し忘れて点前に見入っていたが、□□さんの用意しているのを見てハット我に戻る。□□さん有りがとさん。そうこうして、三人点てでの濃茶が出たが、私の座った位置が伴頭さんが運ぶにはやりづらい位置だったので、私から茶碗を取りに行ったが、出しゃばった行為に取られなければ良いが、奥さんすみませんでした。
練りが固めだったので早めに次客に回したが、何故か△△さん普段と違い何時も稽古ではやった事の無い手さばきで、私の出し帛紗を持って行ってしまうわで、返して~~~と声が出てしまう。あと中水のタイミングがなんか変だったかなーと記憶している。茶碗の指洗いの後、道具の運びは全てお詰めの方に運んで頂いた。申し訳ない。
茶碗の拝見を申し出た後、茶碗が手元に運ばれじっくりと見ると外見は井戸形で茶溜まりのところが萩焼の琵琶色になっていて此れはゆすいでみなければ解らない景色だ。濃茶での茶碗は高麗物に代表されるように外側と内側はあまりも雰囲気が違う物は無いので楽しくないが、今回はオォー!と思ったもんだ。高台の作りもチョッと変わっていて楽しめた。
その後、茶入、仕服、茶杓の拝見を申し出たが、その時「手取りまして拝見」という言葉を亭主に向け言ったかが記憶に無い。どうしたもんか?困ったもんである。お仕舞いの手順が進み道具を客畳に戻し亭主の説明を受けたが、どの道具にかんしても作家などの固有名詞はな~~~んにも頭に残っていないのだ。元々私は誰が制作したかなどには興味は無く、その物がどれだけ美しい物かに気が行ってしまうので、せっかく○○さんが暗記した茶杓の名前のいわれである和歌を教えて頂いたのに失礼しました。
(今日のお道具に関しては最後に○○氏からの会記をお借りして載せますのでご参考まで)
水次は省略で、濃茶を終わり席を改めるため寄り付きへ戻る。
手順からは外れるが、濃茶の点前のはじめに席主としての挨拶にこだわっていたが、個人的には寄り付きから茶室に案内する時に挨拶をした方が良いと思う。正式な茶室でもないし、亭主が顔見知りであるのであればその方が親しみがあって座に和みが出ると思う。また思いついたところと言えば茶道口を開けるとそのバックに蝉をあしらった竹籠を飾り紫陽花の花が客から見る事が出来て、心なじむ感じがしたのは私だけではないだろう。
自分の部屋の作りなど、今更どうしょうもない部分をどのように手を入れ、客に楽しんでもらうかが茶の湯の精神として重要なところだと思い知らされたところである。(ご本人あまり意識していなかったみたい。しかし自然に出来たのならばなおさらに脱帽!この「気付き」の感覚をお大事に!)

一息入れて薄茶の席入り。床の間の飾り付けが同じだったので、床の拝見を省略し、道具畳の拝見を行う。正式にはこんな作法は有りか否か?
濃茶とイメージを変え簡易的な飾り付けであった。水指は山水の絵付けで、夏のお点前にはピッタリで、茶室も明るくなりよく映えていた。
最初に奥さんがお菓子を持ち出され、ガラスの器にお饅頭が入っていて、蓋の取っ手がガラスのひさご。その後、黒の四方盆に盛られたお干菓子、更にみかんの皮?の砂糖漬けなど此れまた請った器で出てきた。四方盆は山中塗りのような継ぎ目の無いセンスの良い物で感心させられた。
こだわりの○○氏、面目躍如と言ったところか?よく探すワ!あまり道具にこだわって財産なくす事の無いように心配だが、彼の安く手に入れる技に此れまた感心する。
今こうして少し前の記憶をたどって書いてはいるが、いくら思い出そうとしても思い出せない、薄茶の正客の茶碗。次客まで手渡しで回しているにもかかわらず何も記憶に引っかかってこないし、手には、手取りの感触が無い。
茶碗が私の琴線に引っかからない程度のものだったのか、寄り付きに茶碗の箱書きがあり、名のある作品に違いないのだが、どんな作品だったかは、何も無い。何故なんだろう?解明する価値はあるのだろう。
茶会も、無事進み薄茶器は金輪寺あつかい。本体はガラスで水の流れの模様が描かれているのだが、お茶をすくった後が透けて見え、模様と重なり全体の美しさにマイナスになっていたと感じた。
蓋表に亭主の好きな川蝉の絵が黒色に描かれているため裏返しに置かなくても良いかと事前に打診があった。また、以前に抽選で当たった茶碗(梶間宗葉造)の披露を「自服」の時にやりたいと話しが出ていたので、ヤラセの感じはあるのだが、此れも茶会での経験として「アリ」かと思い乗った。
伴頭さんが各人に見合う茶碗を持っては来たがその中にあって私の作った作品は負けてはいないが勝ってもいない。
最後に道具に関して言い忘れがないかと振り返ると香合があった。床の間に飾られていた香合だが濃茶席では、床の暗さが災いして見えにくかったが、明るくなった薄茶席の名残の拝見でじっくりと味わう事が出来た。
団扇の型に蛍が描かれているのだが夕暮れの暗さを表現する手法が何とも粋なんだ! 杉の板目自体が埋もれ木の様に薄墨を塗った様に薄暗くなった自然木に蛍が飛んでいる語るに相応しい作品だった。
ここまで長々書いてみると、道具が出てきて、それの説明やら感じた事を書く事が茶会の流れになっている様に感じられた。 道具=茶会 昔からある茶会記になんで道具ばかりが記載されているものがこれほどまでに残っているのかが、わずかなりに解ってきたと思われる。
会記を読み取る事でその茶会の全体見え、また隠されている何かを推理する楽しみも、終わった後に思い出と残る。こんな長い文を書かなくても、単純明快に表現される手段を昔の茶人は持っていた事に今更ながら感心させられた。ここまでやってみて初めて解る。
読んでもらった人もお疲れとは思うが少しは理解されたのではないだろうか?
それでは自分の事に振り返ってみたらどんな茶会記になるのだろうか?
多分、道具の説明を占める割合は少なくなり、自分の素直な感情や気付いた事をしばらくはくどくどと書いていることだろう。私の奥さんは元コピーライターだったので文章にはうるさく、以前はチエックを受けていたが赤棒だらけになり、私の感覚が無くなってしまうので、止めてしまったので、読みにくいと思うがご勘弁願う。
また茶会の続きに戻ろう。伴頭役の奥さんが私用のため途中でフエイドアウト。モット聞きたい事(道楽亭主を持った妻の反抗について!など)があったのに残念だった。○○氏は袴の紐を切らし途中で履き替え。□□さんそれに気がついたようで、私はさっぱり、△△さんも無理だろう!
そんなこんなで茶会も終わり寄せ付けに戻り○○氏特性のこだわりの、自慢の、お茶より経験の長い、豆引き立てのコーヒーを頂く。私に出してくれた器は貴人仕様みたいな蓋付きコーヒーカップ。やっぱりこだわり人だった。水菓子にサクランボ。そしてしばしの談笑。楽しい四時間近くの時間を仲間同士で過ごす場を持たせてくれた○○ご夫婦に感謝!感謝!!
「茶の湯は人生の隠し味」正にその通りと考えを深める。

今回使用した道具類   (○○氏より資料提供)
●寄付
 軸「和心」 作:大徳寺派 瑞光院住職 前田宗源
 煙草盆/ 盆:桑遠州好み 火入:鉄釉四方火入 煙草入:駒巻莨入・
      桜拭き漆 香炉:鍋島焼       
●濃茶席  点法:長板 茶碗披き
 床/ 軸:画 青楓と流水 讃 「千山添翠色」足立泰道書
    香合:神代杉 蛍団扇型 作:加賀蒔絵師田中宗凌
    花入:三友籠  花:紫陽花・紫露花・他
 釜/朝鮮風炉切合 作:高橋敬典
 皆具/高麗粉青唐草文 掻落粉青沙器 作:李 貞夏
 飾火箸/利休好丁呂木象嵌
 茶入/玻璃茶入 金緑ちらし  作:中村章
 仕覆/荒磯
 茶杓/銘「睦」 作:大徳寺塔中 黄梅院住職 小林太玄師
 茶碗/釘彫り 伊羅保 作:長谷窯 加藤錦雄
 茶/紅心宗慶宗匠お好み「飛鳥の白」 詰め:小山園
 菓子/「沢辺の蛍」 帯広六花亭製
 菓子器/三段重箱「黒十草」
●薄茶席 点法:長板(略式飾り付け)
 煙草盆/盆:黒檀火入:太古窯(南区中丿沢)
 水指/「芋頭水指」染付近江八景絵(つまみに瀬田川の川海老表現)
     作:淡海膳所焼 陽淡園
 茶器/川蝉蒔絵硝子茶器」 作:佐々木麗峰
 茶碗/「絵高麗内印花文茶碗」 銘:「好日」 作:趙誠主 小堀卓巌箱書
    替:「高麗写 近海猫掻手茶碗」 作:一行窯 安田道雄
      「ラスター釉 銀彩茶碗」 作:蔵珍窯 小泉蔵珍
 蓋置/粉引「波に龍」 作:寺尾陶象
 建水/萩焼菊割建水 作:大野瑞峰
 茶/紅心宗慶宗匠お好み「清の森」 詰め:小山園
 菓子/撫子(寒氷) 観世水(有平)六花亭
    「とこよ」柚子そうめん:源 吉兆庵  梨万頭:柳月
 菓子器/輪島四方盆  七宝盆  硝子平水指見取り

最後に、
此れだけテーマーを決め、季節感を大切に道具立てをきめ、その日に体力も十分に温存し用意する事は大変エネルギーを使うもんだとお解りになると思う。
客側もこれらの道具を一度に披露され、体力的に不安を感じたところはあるが贅沢というモンか。まだまだ、慣れというところでは経験不足で、亭主の想いを十二分に把握していないところはある。
またいつか巡り会ってみたい道具に想いを込めて、ここらで終わらせて頂く。
                    

                    平成25年8月4日
                    遠州流札幌支部  家元師範代 
                    好学庵 梶間宗葉







●亭主と客の心得

2013-07-10 15:07:51 | 茶の湯
茶の席では、邪心や慢心や下心は身体の表面から簡単に見て取れる。
それだけでなく、心を込めたもてなしが、行き過ぎでわざとらしい演出になってしまったり、客を遠慮させてしまったり、単に亭主の自己満足になっていたり、という場面もある。
客の側でも、流れるような所作がかえって微妙な優越感を物語っていたりする場面がある。
一杯の茶を共有する事は、最終的には、亭主と客が出会うという事のひとつの表現であり、茶事を催す事の真の意味がある。
一見すると真心や善意に見えても、そこに微妙な偽善が働いていれば、それはやはり理想の出会いからは遠いものである。
深い余韻が残ること。「身体が知っている」という状態で後々まで残ること。
そんな茶事こそ、「一期一会」と呼ばれるにふさわしいのである。
黒川五郎著 「新しい茶道のすすめ」より抜粋

茶会が終わって「ホット」するようでは、余韻が感じられないし、
ましてや腹立てて帰ってくるものは最早や、茶の世界からははみ出しているものだろう。
それにしても最近「深~い」ものに会うことが少ないな~~~。

●茶道点前の上達について

2013-06-25 08:50:03 | 茶の湯
お茶の点前の場合も「身体が覚えている」知識へと変換されて行く。
稽古する人の身体は、最初、茶道具に繰り返し触れて、一定の「なじみの感覚」を獲得する必要がある。
自分の身体を通じて、いわば茶道具と対話を重ねるのである。道具を目で見て、手で触れて、型通りにそれを動かす事。
五感全てを動員しつつ、自分自身の身体性になじませてゆく。「なじみ」は身体知の第一歩である。なじめないものは、決して身に付かない。
身体化されないのである。ある動作が身に付き、身体が覚えている状態になる事は、知覚と行動とのあいだに直接的な回路が出来上がる事を意味する。
「感じて、考えて、動く」という継起的な回路ではなく、「感じる事=動く事」という同時的で直接的な回路が出来上がるのである。
茶道の場合も「次にすべき事は・・・・」と心の中で考えているうちは、手前が出来ている事にはならない。
知覚と行動との間に「表象」や「言語」や「思考」が介在しているうちは、「身体が覚えている」状態ではないのである。
黒川五郎著 新しい茶道のすすめ より(一部割愛)

私はこの文に触れ「作家」と「職人」の違いに似ていると思った。
作家にな職人のもっている「手が覚えている」状態に、自分の感覚や思考をどう取り入れてゆくかが重要な部分となるものだと思う。

●点前は人柄の鏡

2013-05-08 17:42:20 | 茶の湯
紹鴎の時代に至ると、精神的立場を強調して点前本位、動作本位のなろうとするのを排して、慎み深く怖じけぬ体を主旨としたのである。この思想は利休時代にも受け継がれ、「心入れの深さ」を動作に表現する事を、侘びを表現する点前であるとしたのである。
利休は禅的教養の深さにその根拠をもって、全て内向的に、無に徹する事に理想を高め、動作に託して、無我の境に入る事を、目的としたのである。茶人のうちに無が生きる時、技動作に無が生きる時、作法は形式でなく、最高の自由な相(スガタ)となるのである。
そこに至ってはじめて、相手を感動させ、茶の侘びを無言のうちに味わわしめる結果となって、真の動態の美が生まれるのである。茶を点てるという目的の動作が、枯れ切った中にもなお「しおらしさ」の初々しさが残るような美しさを通じて、相手を寂境に入らしめるのである。
真の美は不完全を心の中に完成さす人によって見出されると言われている。
動作は何処までも精神の表現であってみれば、心を磨く事によって、動作も枯槁な格調の高いものへと向上してゆき、手前を見れば人柄は全て判然するものである。

  千 玄室 「茶の精神」より抜粋

お茶を点てるにも、人様々である。その人の考えがあっての茶道なので一概に此れが良いとか悪いとかは、いい切れはしないのだと思う。
ただ「精神的なもの」を茶道に見つけたいと思っている方達には参考に
なるのではないかと取り上げました。