どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

出かける

2016-11-21 01:00:36 | 日記

 

今日は昼に少し雨が降った。おかげで時間が少し中途半端になってしまった。そこでななっくに移転したCafe 302に行くことにする。本当は演劇を見てから行く予定だったのだが、どうしたことか昼の雨が効いたのか、当日券が意外と高かったことに気がついたためか突然やる気を失せたというのはある。それでいてCafe 302へのお土産のシュトーレンもどきは焼きあがっているし、和三盆のラムシロップもできている。後日と思って作っていたのだが、まあいい機会だ。

 

 

Cafe 302の福井氏だが、本質的に彼は貴族だ。フランクな装いでそれが見えない。店の内装から食器から全て見せないようにしつつ決めるところの決め方がうまい。コーヒーの味は他店と比べてはいけない。ここのコーヒーは彼の人生なのであって、人生は比べられるののではない。だから味については言わない。スペシャリティコーヒーを扱うのも彼の人生上の理由であって、スペシャリティコーヒーだからというわけではない。

ただね、ちょっと薄いよ。でもこの濃度は万人うけだ。

ケーキに関しては、完璧なはずだ。作っている人を知っているから確実に言える。ただそういった人を引っ張ってこれるのも彼だからこそだ。

カフェというのは結局人だと思う。福井という人がスペシャリティなのであって、福井を楽しむ店だと思う。そう厨房でなんか音が散々しても福井だよな、そう思う店だ。そして遅くなってごめんなさいとか言われると、許してしまうのが福井の魔法だ。

時間を飲みに行く。

 

 

さすがに店の面積が16倍に大きくなったので、てんてこ舞いのようだった。一人の営業なので客席誘導ができないようだ。ななっくのエレベーター前なのでいろんなお客さんが見える。エレベーターのドアが開いたときに大柄な男性が彼女を後ろから抱きしめていた。そのまま出ていったのだが彼女はどうでもいい感じだ。しばらくして戻って来ると、男性は上半身ジャージ一枚のようだ。みぞおちまの下まででファスナーを下げていた。寒くないのだろうか。ファンデーションを塗ったような綺麗な小麦色だった。男性のセックスアピールが何かむなしく見えてきた頃、彼はファスナーを首元まで上げた。

お客さんが来るたび、私を見つめているような変な気になっていた。私以外は全部女性で綺麗な人ばかりだった。それがなんで私を見るのか。後ろに今日のケーキを書いた黒板があるからだった。気がついたら、少し迷惑だったなと感じる。

綺麗なお客さんが来た。席を探しているようだったが、福井氏が出て来て少しお待たせしますが、という話をしたとき彼女は私に気がついた。

「服を着ているの初めて見た」そう総合プールでよく会う人なのだ。特に夏の飛び込み台で。親子全員裸でしか見たことがないという変な関係。子供が全時代的にえらく元気でとても可愛い。お父さんはほっこりなのだが何故か無茶する傾向にある。お母さんは健康美人、そういった印象だった。私も服を着た彼女を見たのは初めてだった。少し面食らった。こんなに色っぽかったか。

そう、福井氏はモテるのだよ。

 

 

中津川にダイサギが居着いて少し驚いているのだがアオサギまでいた。

話は全く変わるが、エスタブリッシュメントという用語を、既得権益と訳して書くことはなかったと思う。「社会的に確立した体制・制度」やそれを代表する「支配階級」というのが正しい認識だ。社会的に確立した体制・制度という意味では大学卒業や大学院卒業だと思う。それに伴う支配階級は基本的に知的階級でお金持ちというのが私の認識だ。ただこの言葉を日本に当てはめるとそういった階級はあるのかどうかよくわからなくなるのだ。

日本に当てはめると旧帝大卒になるのかということになる。ただそれでは少し弱い。日本のエスタブリッシュメントはアメリカほど知的ではない。正確に言えば知行一致を是とする日本では、知的遊戯を許容できないのだ。お金持ちと知的階級が分離している国も滅多にないのが日本だ。

だいたい知はいらないとされているのが、日本なのだ。

その上で、エスタブリシュメントの翻訳は既得権益なのだろうが、とても狭い話になっている。既得権益を守るだけではエスタブリッシュメントの資格はないのだよ。そのために知から全てを動員するのがエスタブリッシュメントであって、発展させないと彼らは価値がなくなるのだよ。狭いパイを奪い合うイメージではないのだよ。

トランプ氏の家族は、確実にエリートでエスタブリッシュだ。

 

 

内閣官房参与の浜田宏一氏のインタビューが日本経済新聞に載って、色々批判があるようだ。

ニューズウイークにいい記事があった。

だが批判する人は、学説に忠実なのかもしれないが、25年前の金融自由化の議論をすっかり忘れているようだ。ただ忘れていけないのは、金融自由化のときに国ができる金融政策は限られているということだ。そこには政府の財政政策がないと難しいというのは当時からわかっていたはずだ。

単純ではないと予測されていた自由金利の世界で政府が関与できる範囲はかなり予測されていた。政府の信用で大規模に行わない限り決してうまくいかないというのがメインだった。ところがそこがちぐはぐになってしまった。財政均衡派と積極金融という形だった。だがそこに金融政策が翻弄された可能性がある。どちらがどちらかかはなんとも言えない。ただバブルの処理は史上最悪の手だったと思う。牛の角を曲げればいい話が、餌とうんこと草の連関を断ち切ってしまったのだ。引き締めすぎたのだ。日本人のケチっぷりが最悪を生んだのだ。

バブル崩壊は、実は今のトランプ現象と大差ないのかもしれない。あの総量規制は民意が生んだものだったからだ。