沖縄・伝統文化

沖縄の伝統行事や伝統芸能・民俗芸能などを紹介するブログです。
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北中城まつり(2日目)

2006-08-26 19:24:38 | 行事
北中城村の第21回北中城まつり、2日目の演目からいくつかご紹介します。この日もなかなかみることのできない民俗芸能が披露されました。

北中城村・熱田の「フェーヌシマ(南之島)」、もともとは南方の島から伝来した南洋踊りだといわれています。最初は男衆による手踊りですが、その後は棒踊りが始まります。ばさばさのシュロの繊維の被り物をつけた男四人が手には四尺程度の棍棒を持ち、打ち組みの体制から飛び跳ねたりする風変わりな踊りです。県内各地に同様の踊りが伝わっていて、たいていは頭に被り物をつけて飛び跳ねながら棒踊りをするところが共通点のようです。

画像は中城村・伊集の「打花鼓(ターファークー)」、もともとは那覇の久米で演じられていた中国人行列が伊集に伝わったものだということです。先頭の者が棒を持ち、後に続く中国風の衣装と弁髪姿の一団は、まるでスキップするかのように体を大きく左右にひねりながら行進します。きらびやかな衣装とクジャク羽の団扇を持った王様には長大な煙管を肩にかけた袖持ちの少年が付き従っています。中国の客家(ハッカ)にも「花鼓」または「打花鼓」と称する民俗芸能があるということですが、関連についてはわかりません。

行列が勢揃いするなか、最後に登場した太鼓打ちと拍子木打ちは、のけぞるような大げさなしぐさで太鼓と拍子木を叩きます。銅鑼打ちが「ワンシェー」と叫ぶと王様は「マンシャーレー」と声をあわせるようです。ここから地謡が始まり「ワンチン チャシンファー ファウティチャシンファー」という風に聞こえますが、もともと中国語だったためか意味はわかりません。

伊集の「打花鼓(ターファークー)」は、中国の王様風の一行が大道芸を観覧している様子を表現しているのだともいわれています。そのためか、行列一行が登場した後は、画像のように王様一行は奥手に陣取り、手前側では太鼓打ちと拍子木打ち、中国ジンバル打ちの三人が前後に大きく屈伸したり激しく飛び跳ねながらそれぞれの楽器を打ちならす道化風のパフォーマンスを披露します。この三人は王様一行が退場した後も演技を続けることから、彼らがいわゆる「花鼓隊」を表現しているのかもしれません。

北中城まつり(1日目)

2006-08-26 17:31:23 | 行事
沖縄本島中部・北中城村の第21回北中城まつりにいってきました。初日は地域に伝わる伝統芸能の舞台、普段なかなかお目にかかれない地域の民俗芸能をみることができました。開催場所は北中城村、組踊「執心鐘入」の主人公・中城若松ゆかりの若松公園の屋外ステージです。

沖縄市に伝わる「泡瀬のチョンダラー」、チョンダラーとは本土から渡ってきた門つけ芸人のことだと言われており、彼らが祝儀の場などで披露していた門つけ芸を演芸風にまとめたものが「泡瀬のチョンダラー」だとされています。はじめに若衆による団扇踊りや笠踊りなどが演じられますが、これは団扇踊りの場面です。
太鼓持ちのリズムは本土風であり、歌詞も例えば「八百八十や くんちんならびぬ 大般若経んならびぬ・・」などとなっているところから、念仏衆の面影が残っているようです。

「泡瀬のチョンダラー」の舞台から、馬舞者(うまめーさー)と太鼓持ちによって演じられる馬踊りの場面です。馬舞者(うまめーさー)二人が代わる代わる前へ出て口上を述べた後、今度は跳ねるように勢いよく下手へ下がります。馬舞者(うまめーさー)の口上は例えば、「うるくうどぅるかち かちぬはなかちみんぐわち わたんじゃーわたいくわてぃ ドーシドーヒャードー」という具合です。この口上を述べる場面は、八重山などに残されているいわゆるチョンギン(狂言)によく似ています。

「泡瀬のチョンダラー」、若衆が鳥を刺すしぐさを繰り返す鳥刺し舞といわれる踊りです。本土各地に見られる門つけ芸と同じ系統のようですが、かつては正月儀礼に王府でも演じられていたということです。「さんとぅりさーしぬみーさいのー ・・ガラサーぬるいーちょーるい・・」、あそこに留まっているのはカラスか、雀かと唄いながら鳥を刺すまねを繰り返します。

北中城村・島袋に伝わる「赤木名節(あかきなぶし)」、元々は奄美から伝わったということですが、男衆二人による踊りは空手の型の演舞を踊りに振り付けたもののようです。振りそのものは異なるようですが、伊江村にも同名の「アカキナ節」が伝わっており、なんらかの関連があるのかもしれません。

塩屋湾・ウンガミ

2006-08-14 13:24:50 | 行事
今年はユンジチ(閏年)、早くも大宜味村の伝統行事「ウンガミ」が行われる季節になりました。海を祭る行事・ウンガミは、国の重要無形民俗文化財で、お盆明けの最初の亥の日に行われますが、ユンジチの今年は旧暦七月が二度やってくるため、例年よりも早めに行われました。かなり古い伝統行事だとされていて、国頭村や今帰仁・古宇利島にもウンジャミと呼ばれる海神祭が残されています。なかでも古宇利島と塩屋とは古くから関わりがあったともいわれています。

「田港(たんな)」山中の神アシャギで禊ぎをすませて神格化したノロと神人の一行が田港集落へ降りてきました。先導役のシマンホーと呼ばれる神人たちは太鼓とイルカを捕る二股銛を持っています。集落の人々は伏し拝んでノロ一行を迎えます。

隣の集落「屋古(やふ)」、芭蕉の葉が敷かれた神アシャギの庭で屋古集落の旧家から供物をうけたノロは、祝福の祈りを捧げてから御神酒の杯とお餅を授けます。

「屋古(やふ)」神アシャギの庭の中心には木柱が立てられ、その上には荒縄と藁で編まれたクムーといわれる網のような日覆いがかけられています。
柱の回りに座るシマンホーを囲んで大弓を持った神人たちが「ヨンコイ」と唱えると同時に大弓を左上に突き上げながら時計回りに回ります。世果報(ゆがふ)を願う儀式だといわれており、亥の日に行われることからも弓矢で猪などを狩る様子を表しているのではないかという説もあります。

屋古の浜辺から神人を乗せたハーリー舟は、神人の激励をうけながらもの凄い勢いで対岸の塩屋浜へ漕ぎ渡ります。塩屋浜で腰まで海に浸かって太鼓を叩きながら応援する女たちと到着したハーリー舟の漕ぎ手の男たちが櫂を叩いたり、水を掛け合って互いに喜びあっているところです。

一方、ハーリー舟とは別に屋古から駕籠で陸路をやってきたノロと神人の一行は、塩屋の拝所前のガジュマル木の下に吊した太鼓を叩きながらウムイという古謡を唄うように唱えます。ノロが太鼓を叩きながら独特の節回しで「・・スクムイ スクダキ・・ヌル・・ヌンジカキティ・・」と最初の節を唱えると神人たちがみんなでそれに唱和します。ウシデークの音取(にーとぅい)の古い形なのかもしれません。


平敷屋エイサー

2006-08-08 18:53:33 | 行事
お盆の最終日(ウークイ)、沖縄市やうるま市などの沖縄本島中部では伝統的なエイサーが行われます。もともとは門付け芸人の念仏踊りから広まったといわれているエイサーですが、今では次第に派手な装束とパフォーマンスも多く見られるようになりました。そうしたなかでも比較的伝統的なスタイルを残しているといわれる勝連半島・平敷屋のエイサーをご紹介します。伝統的なエイサーは先祖供養のためにお盆の最終日に行われ、たいていは夕暮れ時を待って地域の拝所などで奉納演舞をした後、集落を練り歩くシママーイが始まります。また、盆踊りとは異なって見物客も一緒になって踊ることはありません。

平敷屋区に夕闇迫るころ、エイサー隊が集落の拝所前広場に到着しましたが、演舞が始まる前に「さんらー」と「まーちゃー」と称する白塗りに荒縄帯という異形のチョンダラー(京太郎)が登場し、舞いながら前ぶれの口上を述べます。「唄や三線 テークぼんみかち できらしば すりてぃ めんそり ぐしんかさり」という丁寧な口調からして、先祖の霊に呼びかける供養儀式の名残のようでもあります。

エイサーの演舞が始まると大きな酒瓶を担いだ「ハントーカタミヤー」がエイサー隊の周りを踊りながらまわります。そもそもは、エイサー供養のお礼として家々から酒をもらってまわる習俗があったといわれています。「一合やぁ片荷うぶさぬ 二合やぁうたびみそーり かみてぃみぐやびら (一合では片方が重くて天秤棒のバランスが悪い だから酒は二合ください 担いで廻ります)」とピーラルラー(別名さうえん節)にも唄われています。

平敷屋のエイサー本隊は、白黒衣装の念仏僧姿で片面小太鼓のパーランクーを叩きながら踊ります。派手な装束も動きもありませんが、もともとの念仏踊りに近い姿ともいわれています。

パーランクーの念仏踊りだけでなく、指笛を吹いたり囃したりする異形のチョンダラーの一団も一緒に踊っています。薄暗い闇のなかに浮かび上がる白塗りと奇異な衣装が特徴ですが、あの世の者たちの姿を表しているのかもしれません。

ひととおりのエイサー演舞が終わった後、チョンダラー姿の男が登場し、こっけい踊りのような芸を披露しているところです。派手めな装束に旅芸人風の笠をかぶり、身につけた太鼓を叩きながらおどけたしぐさで踊ります。チョンダラーの門つけ芸の名残りなのかもしれません。