戦前、「炭鉱で『朝鮮の人』への差別なかった…」
89歳元炭鉱社員が証言
戦前から戦後にかけ、世界遺産群の対象ではないが、福岡県福智町(旧田川郡方城町)の方城炭鉱に勤務していた福岡市在住の田中好子さん(89)が、産経新聞の取材に応じ、炭都として活気に満ちあふれた当時の様子を淡々と語った。(産経新聞九州総局 奥原慎平)
田中さんが炭鉱について話そうと思ったのは、韓国政府が炭鉱労働に関して朝鮮半島出身者の被害ばかりを強調し、「長崎市沖の端島炭坑(通称・軍艦島)など世界遺産群の登録に反対していることに違和感を覚えた」からだ。自らが経験を若い世代に語り継ぐ責任があると思ったという。
方城炭鉱は筑豊炭田の主力鉱として、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)の前身の三菱合資会社が明治35(1902)年に開鉱した。
田中さんは、福岡県直方南高等女学校(現県立筑豊高校)を卒業後、経理担当事務員として三菱鉱業方城炭鉱に就職した。炭鉱労働者の仕事量に応じて給与を計算し、会計係に回すのが主な仕事だった。
田中さんは、「過酷な労働環境だった分、実入りも多かった。朝鮮半島出身者も日本人に負けじと働いて稼いでおり、私の知る限り出身地による差別なんてなかった」と証言する。
戦前から戦後にかけ、世界遺産群の対象ではないが、福岡県福智町(旧田川郡方城町)の方城炭鉱に勤務していた福岡市在住の田中好子さん(89)が、産経新聞の取材に応じ、炭都として活気に満ちあふれた当時の様子を淡々と語った。(九州総局 奥原慎平)
田中さんが炭鉱について話そうと思ったのは、韓国政府が炭鉱労働に関して朝鮮半島出身者の被害ばかりを強調し、「長崎市沖の端島炭坑(通称・軍艦島)など世界遺産群の登録に反対していることに違和感を覚えた」からだ。自らが経験を若い世代に語り継ぐ責任があると思ったという。
方城炭鉱は筑豊炭田の主力鉱として、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)の前身の三菱合資会社が明治35(1902)年に開鉱した。
田中さんは、福岡県直方南高等女学校(現県立筑豊高校)を卒業後、経理担当事務員として三菱鉱業方城炭鉱に就職した。炭鉱労働者の仕事量に応じて給与を計算し、会計係に回すのが主な仕事だった。
田中さんは、「過酷な労働環境だった分、実入りも多かった。朝鮮半島出身者も日本人に負けじと働いて稼いでおり、私の知る限り出身地による差別なんてなかった」と証言する。
当時、炭鉱での石炭採掘は、富国強兵を目指す日本のエネルギー政策の生命線だ。事故が起これば採掘量の減少につながるため、会社側は「爆発事故には最も神経を尖らせ、安全対策を徹底していた」と話す。
「韓国政府は、日本が世界遺産に登録申請したら文句を言う。事故や病気による犠牲者は半島出身者だけではない。方城炭鉱には差別のない活気に満ちあふれた生活もあった。韓国政府はそうした面にも目を向けてほしい」
◇
方城炭鉱 直下型縦坑方式を採用した最新式の炭鉱。大正3年12月、日本史上最悪の炭鉱爆発事故が発生し、671人の犠牲者(会社発表)を数える大惨事が起きた。福岡県の調べだと、昭和19年1月現在、計3217人の朝鮮半島出身者が「徴用」「募集」の名の下で働いた。
◇
89歳元炭鉱社員が証言
戦前から戦後にかけ、世界遺産群の対象ではないが、福岡県福智町(旧田川郡方城町)の方城炭鉱に勤務していた福岡市在住の田中好子さん(89)が、産経新聞の取材に応じ、炭都として活気に満ちあふれた当時の様子を淡々と語った。(産経新聞九州総局 奥原慎平)
田中さんが炭鉱について話そうと思ったのは、韓国政府が炭鉱労働に関して朝鮮半島出身者の被害ばかりを強調し、「長崎市沖の端島炭坑(通称・軍艦島)など世界遺産群の登録に反対していることに違和感を覚えた」からだ。自らが経験を若い世代に語り継ぐ責任があると思ったという。
方城炭鉱は筑豊炭田の主力鉱として、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)の前身の三菱合資会社が明治35(1902)年に開鉱した。
田中さんは、福岡県直方南高等女学校(現県立筑豊高校)を卒業後、経理担当事務員として三菱鉱業方城炭鉱に就職した。炭鉱労働者の仕事量に応じて給与を計算し、会計係に回すのが主な仕事だった。
田中さんは、「過酷な労働環境だった分、実入りも多かった。朝鮮半島出身者も日本人に負けじと働いて稼いでおり、私の知る限り出身地による差別なんてなかった」と証言する。
戦前から戦後にかけ、世界遺産群の対象ではないが、福岡県福智町(旧田川郡方城町)の方城炭鉱に勤務していた福岡市在住の田中好子さん(89)が、産経新聞の取材に応じ、炭都として活気に満ちあふれた当時の様子を淡々と語った。(九州総局 奥原慎平)
田中さんが炭鉱について話そうと思ったのは、韓国政府が炭鉱労働に関して朝鮮半島出身者の被害ばかりを強調し、「長崎市沖の端島炭坑(通称・軍艦島)など世界遺産群の登録に反対していることに違和感を覚えた」からだ。自らが経験を若い世代に語り継ぐ責任があると思ったという。
方城炭鉱は筑豊炭田の主力鉱として、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)の前身の三菱合資会社が明治35(1902)年に開鉱した。
田中さんは、福岡県直方南高等女学校(現県立筑豊高校)を卒業後、経理担当事務員として三菱鉱業方城炭鉱に就職した。炭鉱労働者の仕事量に応じて給与を計算し、会計係に回すのが主な仕事だった。
田中さんは、「過酷な労働環境だった分、実入りも多かった。朝鮮半島出身者も日本人に負けじと働いて稼いでおり、私の知る限り出身地による差別なんてなかった」と証言する。
当時、炭鉱での石炭採掘は、富国強兵を目指す日本のエネルギー政策の生命線だ。事故が起これば採掘量の減少につながるため、会社側は「爆発事故には最も神経を尖らせ、安全対策を徹底していた」と話す。
「韓国政府は、日本が世界遺産に登録申請したら文句を言う。事故や病気による犠牲者は半島出身者だけではない。方城炭鉱には差別のない活気に満ちあふれた生活もあった。韓国政府はそうした面にも目を向けてほしい」
◇
方城炭鉱 直下型縦坑方式を採用した最新式の炭鉱。大正3年12月、日本史上最悪の炭鉱爆発事故が発生し、671人の犠牲者(会社発表)を数える大惨事が起きた。福岡県の調べだと、昭和19年1月現在、計3217人の朝鮮半島出身者が「徴用」「募集」の名の下で働いた。
◇