私が毎日乗降する駅構内で、新しい防犯カメラを設置する工事をしていました。PC遠隔操作事件の片山被告を追い詰めた一つが、防犯カメラの映像でした。また、2005年栃木県旧今市市で起きた吉田有希ちゃん殺害事件が、やはり防犯カメラの解析が決め手となって、容疑者が逮捕されたことが最近報道されました。このように多くの犯罪捜査に、防犯カメラの映像が役立っていることは周知の事実です。
犯罪が起きると、もっと防犯カメラの性能を高め、その設置数を増やすべきだといった意見は、当然のように出てきます。このような世論を追い風として、これから2020年東京オリンピックに向けて、防犯という観点から、より多くの性能の良い防犯カメラが、各所に設置されることになるはずです。
防犯カメラは、極めて少人数の犯罪者のために、また稀に起こる犯罪の実態解明のために、ますます膨大な情報を蓄積することになります。防犯カメラの性能と、その情報を管理するコンピュータのハード・ソフトの進化は、ますます加速するでしょう。ここから得られる情報を、仮に行政が一元的に管理するようになるなら、映像から個人の顔を識別して特定し、その個人の行動を逐一チェックすることも可能となるでしょう。
そんなことになれば、個人的生活や私的活動が、国家により管理される時代が来るかもしれません。一方、悪法中の悪法・治安維持法を連想させる特定秘密保護法案が成立し、12月に施行されます。また、解釈改憲という手法により、憲法の実質的な改正が、国民投票(国民の意志)を経ること無く、政府の恣意で行われる時代の趨勢が気になります。
極めて強い力を持つ国家権力を、現在の日本国憲法を拠り所として、その憲法の制限下に置くという考え方が、いわば立憲主義です。憲法は、国家権力の暴走を防ぎ、国民の生命と財産と自由を守る砦であったはずです。その砦が、解釈改憲という悪魔的手法で、やすやすと攻略されるとは、驚きです。一線を越えた解釈改憲という「パンドラの箱」を開けてしまえば、国家権力は際限なく暴走することが可能となります。
そんな国家権力が、防犯カメラの情報を自由に操作すれば、SFで描かれる夢物語のような恐ろしい管理社会が、近未来に現実となる可能性も、あながち夢想とは言えません。
最近私は、カイコの幼虫を飼育し、繭まで育てました。カイコは、人間の関与無くして、生きることができない、完全に家畜化された昆虫です。カイコは、人間と共生していると感じているのか、とてもフレンドリーに振る舞います。孵化してから、寝ずに桑の葉を食べ続け、驚くほどのスピードで成長し、一生懸命に繭玉を作ります。本来の養蚕であれば、その後、自分(カイコ)の擁護者であると信じていた人間に裏切られ、熱湯の中に投入されて、必死で紡いだ生糸を人間に献上して、死ぬ運命にあります。
「防犯カメラ」の増設に対して、私は反対ではありません。しかし、「防犯カメラ」の活用の意義を認識するだけではなく、国家が国民の情報を管理活用する上での歯止めをしっかりと作り上げる必要があるでしょう。
国家と国民が、人間とカイコの関係にならないことが大切です。
画像は、最近公園に咲いていたシロツメクサとタチアオイ。
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意思の無い大衆が女王のための命を賭けて社会を守るような話でした。
確か、ワイヤードの初代編集長、ケビンケリーが書いたベストセラー、分厚い本でした。30年ほど前の本だったのでは。
恐ろしい本です。そのほかたくさんありました。私も通産省の報告書に書きました。
「未来学者の蜂社会の予想」、この元々の見解が具体的に何なのか知りませんが、およそどういうことか理解できます。人類が地球上に生存し続ける事ができるなら、その社会状況は問題ではないという考え方もあります。
社会のあり方を考える前に、オーバーテクノロジーによる人類絶滅の危機のほうが、緊急のテーマとなりつつあるようです。
もう少し勉強して、この問題についてブログで綴りたいと思っています。
しかし、良い妥協点を設定できますか。設定し実施できる人がいますか。未来学者の蜂社会の予想を覆せますか。
できるとしたら、義務教育、先生の過半数が、学校も塾も併せてですが、覆す手段を信じて実行できるでしょうか。
かなり悲観的になってしまいますが、私は自分で信じている創造性の開発を義務教育で教える努力だけはしたいと考えています。
場すらないのですから、効果は全く予想できません。ですから実践なし、具体論もできず、失礼します。