「マッキーのつれづれ日記」

進学教室の主宰が、豊富な経験を基に、教育や受験必勝法を伝授。また、時事問題・趣味の山登り・美術鑑賞などについて綴る。

マッキーの随想:「脳死後の女性が出産」というニュースで思ったこと

2016年06月14日 | 時事随想



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 今日は、AFP通信の以下のニュースを読んで感じたことを綴ります。

 『ポルトガルで7日、4か月近く脳死状態だった妊婦から健康な赤ちゃんが生まれた。「2350グラムの男の子の赤ちゃんが帝王切開で生まれた。妊娠32週目で合併症はない」とリスボン(Lisbon)市内の病院が声明を発表した。』

 先月も、同じAFP通信によるニュースで、『脳死に陥ったポーランド人女性が、55日間の延命治療後に子どもを出産した』といった内容が報道されました。こうしたニュースを読んで、「人の死とはいったい何なんだろう」と考えさせられたのは、私だけではないでしょう。

 多くの人が認識し、そして現代
医学においても、「脳死」が「人の死」であると一般的に解釈されています。無論のこと、医療技術の進歩により、生死の境界が不明瞭となり、断定的な判定基準を決めることが難しく、様々な異論があることも事実です。かつては、「自発呼吸の停止・心拍の停止・瞳孔が開く」という三つの条件が、死の判定に用いられてきました。ところが、臓器移植の技術が進歩した現代では、より新鮮な臓器を移植する必要が出てきました。そこで脳死をもって人の死であるという解釈がなされるようになったようです。

 中高年であれば、札幌医科大学の「和田心臓移植事件」を記憶している方は多いはずです。臓器移植が一般的な医療となった現代では考えられない、センセーショナルな話題として、賛否両論が日本中に渦巻きました。医療と倫理、死の判定・・・その時に突きつけられた課題は、未だに論争のテーマとなっています。

 ところで、「脳死」と「植物状態」を混同して理解している方もいるようです。「植物状態」は、脳幹の機能が残っているので、自ら呼吸できる場合が多く、回復する可能性があります。それに対して、「脳死」は、脳全体の機能が失われた状態であり、脳幹が機能せずに不可逆的な状態と言えます。

 現在では、自らの臓器提供の意思を示すために、臓器提供意思表示カード(ドナーカード)を持つ人も相当数に上ります。その場合でも、脳死判定後ではなく、心臓が停止した後に、臓器を提供してもよいという意思表示をすることも可能です。脳死が人の死と理性的に理解しても、心臓が動いている状態を死と受け入れ難い感情が働くからだと思います。脳死状態でも、薬剤や人工呼吸器を使用して、心臓を動かし続けることができます。それは、人間が死んだと判定された後も、体の細胞を生かし、心臓を動かし続けることが可能な医療行為があるからです。

 今回の二つの事例では、母親は「植物人間」ではなく「脳死」と判定されましたが、医療機器により胎児と母親の体を構成する細胞や臓器を生かし続けた結果、出産できたのでしょう。一方は4か月近く、そして他方は55日間、人の死と判定されている「脳死状態」で、胎児を生かし続ける母体を維持したことになります。出産後は、いずれも母体に付けられた医療機器は外され、母親のすべての体の機能は停止しました。

 ニュースの記事では、「脳死判定後に、長期間の延命治療をして、子どもを出産した」という文面になっています。しかし、
「脳死後」の「延命治療」という文面は、妥当な表記ではありません。なぜなら、脳死判定後に体を構成する臓器や細胞を、医療機器で生かし続ける状態を「延命」・「生きている」と理解するなら、「脳死」は「人の死」と定義することができないからです。

 「脳死」という状態を考える時、以上のことをまず理解していることは重要です。けれども、今日綴りたかったことは、実はそうした医療問題を取り上げることではありません。何らかの理由で「死」を宣告された母親が、今までは生まれるはずもない赤ちゃんを産んだことに、私が純粋に感動したことをまとめてみたかったのです。母親と胎児は一蓮托生の関係ですので、母親の死は即胎児の死と直結します。そこに、医療行為が介在して、奇跡のような出来事が可能となったのです。

 母親の脳死から数えて、死者があの世へ旅立つ期間の四十九日を越えた後に、子供を出産する不思議。現代医療は、驚くスピードで死生観さえも変えつつあるようです。末期医療における延命治療は、人間の自然な死を越えて体の細胞を生かし続けることができる現代医学の問題点を、私たちに考えさせます。高齢になれば、尊厳死も現実の課題として考えなければならない時代となりました。

 今回生まれた二人の赤ちゃんの母親は、天国から天使の眼差しで、我が子の誕生を見つめていたに違いありません。けれども、生まれた赤ちゃんは、その大きな瞳で自分の母親を見つめることは叶いませんでした。その無念を乗り越えて、母親の分も健やかに幸福に生きてほしいと、私は心から願わずにはいられません。


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