4月13日(日)は、実家の用事で再び新潟に帰省しました。ここ1ヶ月で、3回目の帰省でした。
新潟へ3週間前に久々に帰ったときは、上越国境は、白銀の世界。そして麓では、フキノトウ・ツクシが芽を出し、そして水芭蕉が可憐に咲いている時期でした。
今回、雨の東京を後に、新幹線で新潟に向かい、いつものトンネルを抜けると、そこは春の日差しの中、様々な植物の花開く、まさに春爛漫の世界でした。
このトンネルを隔てて、太平洋側と日本海側の天候が大きく変わることを、経験した人は多いことでしょう。
多くの物語に、壁の穴や、地面の穴や、タンスの引出や、どこでもドアや、そうしたものを抜けると、別世界が広がるといったモチーフが多いですが、このトンネルはまさにその実在版といって良いと思います。
私は、新幹線で新潟まで行って、新津へ戻るのとほぼ同じ時間なので、長岡でローカル電車に乗り換えました。のんびりとしたローカル電車の車窓から、故郷の春を楽しみました。
こんなに寂れた駅だったろうか? 過ぎ行く駅舎は、東京で過ごしていると、全くレトロそのものです。
満開の桜に包まれるように建つ、何十年か前の駅舎が、忽然と時空を越えて私の目の前に現れたような、そんな思いに囚われる駅舎を幾つか通過しました。
雪国の動植物は、雪が解け、冬の鉛色の雲に覆われた空から解放されると、一気に活動を開始するように見えます。
車窓から見ると、桜と梅と椿と菜の花が一緒になって、競うように咲いています。
こうして足早に本格的な春がやってきて、たぶん連休の頃には、田植えが始まるのでしょう。
子供の頃、見慣れていたはずの、どこまでも続く田んぼを、車窓から改めて眺めていると、新鮮な驚きと共に、「新潟は日本の穀倉地帯だったんだ」と強く感じます。
それでも、よく見ると昔見た田園風景と少し違っているのに気づきます。
それは、田んぼの周りに必ずあった「はざぎ」(稲架木)が少なくなっているのです。
「はざぎ」とは、田んぼの周りに並木として植えてあって、その木を支柱にして、横縄を何段にも張り、そこに稲をかけて乾燥させるための木々のことです。
今では、天日乾燥のお米があるとすれば、農家がご自宅で食べるものくらいでしょう。たぶんそれはとってもおいしいはずです。そんなお米を食べてみたいものです。
田んぼの仕事も、機械化され、稲も人口乾燥して出荷するご時世では、「はざぎ」も越後の過去の風物詩となってしまいました。
私は、「はざぎ」というと、私が尊敬する日本画家の横山操の「越路十景」を想い出します。その絵は、墨の濃淡で描かれた雪の西蒲原郡の風景です。冬の日本海まで続いている雪野原に、はざぎが寒々と、じっと冬の寒さに耐えているような日本画です。何とも言えない郷愁を漂わせていてる絵です。
横山操の「越路十景」
実家に戻ると、母が趣味で育てている山野草も、幾つか花を咲かせていました。
昨年体調をこわして入院していたときに、お見舞いにいただいたデンドロビウムを、今年見事に咲かせました。後ろの額は、文化勲章洋画家の小山敬三「心外真無法」です
母は、とても研究熱心で、市役所を退職後に始めた山野草も、玄人がビックリするくらい、上手に育てていました。
貴重なトガクシショウマの花
シラネアオイの花
このソテツは、20年以上前に、宮崎に旅行の折に種を拾い、そこから育て、今ではずいぶんと大きくなりました
バイカカラマツの花
以前は、私の自宅にあったものを、新潟に移植したキンカン
ユキヤナギの花
以前は、もっともっと多くの山野草があったのですが、体調がすぐれない昨今は、多くを人にあげてしまって、わずかばかりとなりました。
午前中には教室に出るために、翌日の月曜朝早く実家を出て、新津駅に向かいました。駅では、多くの高校生が、列車の乗降で、大変な込みようでした。
ベンチで新潟行きの列車を待っていると、遠くから汽車の汽笛が聞こえたように思いました。耳を澄まして注意していると、確かにだんだん近づいてくる汽車の汽笛が再び聞こえました。
磐越西線に、SLが復活しているのを知っていましたので、お~ラッキー!とばかり、早速携帯のカメラを準備しました。
しかし近づいてくる筈の汽車が一向に現れません。
「な、なあんだ!」恥ずかしや!
この汽車の汽笛は、ホームの放送をする前に、注意を促すためにまず録音した汽笛を流し、その後構内放送をするためのものだったのでした。
以前にもお話ししたように、新津は鉄道の町でした。子供の頃は、国鉄の機関区や操車場があり、「トーマス」ではないですが、至る所、汽車が盛んに煙を吐いて、右往左往していました。
うさぎ追いし かの山 小鮒釣りし かの川
夢は今も めぐりて 忘れがたき ふるさと
いつまでも、美しい故郷であって欲しいと、願わずにはいられません。
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新潟へ3週間前に久々に帰ったときは、上越国境は、白銀の世界。そして麓では、フキノトウ・ツクシが芽を出し、そして水芭蕉が可憐に咲いている時期でした。
今回、雨の東京を後に、新幹線で新潟に向かい、いつものトンネルを抜けると、そこは春の日差しの中、様々な植物の花開く、まさに春爛漫の世界でした。
このトンネルを隔てて、太平洋側と日本海側の天候が大きく変わることを、経験した人は多いことでしょう。
多くの物語に、壁の穴や、地面の穴や、タンスの引出や、どこでもドアや、そうしたものを抜けると、別世界が広がるといったモチーフが多いですが、このトンネルはまさにその実在版といって良いと思います。
私は、新幹線で新潟まで行って、新津へ戻るのとほぼ同じ時間なので、長岡でローカル電車に乗り換えました。のんびりとしたローカル電車の車窓から、故郷の春を楽しみました。
こんなに寂れた駅だったろうか? 過ぎ行く駅舎は、東京で過ごしていると、全くレトロそのものです。
満開の桜に包まれるように建つ、何十年か前の駅舎が、忽然と時空を越えて私の目の前に現れたような、そんな思いに囚われる駅舎を幾つか通過しました。
雪国の動植物は、雪が解け、冬の鉛色の雲に覆われた空から解放されると、一気に活動を開始するように見えます。
車窓から見ると、桜と梅と椿と菜の花が一緒になって、競うように咲いています。
こうして足早に本格的な春がやってきて、たぶん連休の頃には、田植えが始まるのでしょう。
子供の頃、見慣れていたはずの、どこまでも続く田んぼを、車窓から改めて眺めていると、新鮮な驚きと共に、「新潟は日本の穀倉地帯だったんだ」と強く感じます。
それでも、よく見ると昔見た田園風景と少し違っているのに気づきます。
それは、田んぼの周りに必ずあった「はざぎ」(稲架木)が少なくなっているのです。
「はざぎ」とは、田んぼの周りに並木として植えてあって、その木を支柱にして、横縄を何段にも張り、そこに稲をかけて乾燥させるための木々のことです。
今では、天日乾燥のお米があるとすれば、農家がご自宅で食べるものくらいでしょう。たぶんそれはとってもおいしいはずです。そんなお米を食べてみたいものです。
田んぼの仕事も、機械化され、稲も人口乾燥して出荷するご時世では、「はざぎ」も越後の過去の風物詩となってしまいました。
私は、「はざぎ」というと、私が尊敬する日本画家の横山操の「越路十景」を想い出します。その絵は、墨の濃淡で描かれた雪の西蒲原郡の風景です。冬の日本海まで続いている雪野原に、はざぎが寒々と、じっと冬の寒さに耐えているような日本画です。何とも言えない郷愁を漂わせていてる絵です。
横山操の「越路十景」
実家に戻ると、母が趣味で育てている山野草も、幾つか花を咲かせていました。
昨年体調をこわして入院していたときに、お見舞いにいただいたデンドロビウムを、今年見事に咲かせました。後ろの額は、文化勲章洋画家の小山敬三「心外真無法」です
母は、とても研究熱心で、市役所を退職後に始めた山野草も、玄人がビックリするくらい、上手に育てていました。
貴重なトガクシショウマの花
シラネアオイの花
このソテツは、20年以上前に、宮崎に旅行の折に種を拾い、そこから育て、今ではずいぶんと大きくなりました
バイカカラマツの花
以前は、私の自宅にあったものを、新潟に移植したキンカン
ユキヤナギの花
以前は、もっともっと多くの山野草があったのですが、体調がすぐれない昨今は、多くを人にあげてしまって、わずかばかりとなりました。
午前中には教室に出るために、翌日の月曜朝早く実家を出て、新津駅に向かいました。駅では、多くの高校生が、列車の乗降で、大変な込みようでした。
ベンチで新潟行きの列車を待っていると、遠くから汽車の汽笛が聞こえたように思いました。耳を澄まして注意していると、確かにだんだん近づいてくる汽車の汽笛が再び聞こえました。
磐越西線に、SLが復活しているのを知っていましたので、お~ラッキー!とばかり、早速携帯のカメラを準備しました。
しかし近づいてくる筈の汽車が一向に現れません。
「な、なあんだ!」恥ずかしや!
この汽車の汽笛は、ホームの放送をする前に、注意を促すためにまず録音した汽笛を流し、その後構内放送をするためのものだったのでした。
以前にもお話ししたように、新津は鉄道の町でした。子供の頃は、国鉄の機関区や操車場があり、「トーマス」ではないですが、至る所、汽車が盛んに煙を吐いて、右往左往していました。
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夢は今も めぐりて 忘れがたき ふるさと
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