goo blog サービス終了のお知らせ 

ロースクール留学(していた)日記

米国ロースクールLLM卒業生の日常→アメリカ駐在員の日常

ネットにつながらない生活ーWifiについて

2015-01-14 21:24:14 | アメリカ生活関連

※写真はDC某所の銅像。この二人はチェスの対戦をしているはずだったが、チェス盤が持ち去られてしまった。

携帯電話が壊れたせいで写真がほとんど読みだせず、こんな写真ばかりしか残っていないんですが、せっかくなので投稿します(笑
加えて、ネットの使えない状況になってしまったので、Free Wifi等を探してしのぐ日々です…。いまのご時世なんでもネットで手続きができる分、逆にネットが使えないと非常に不便です。(もっとも、SSNを持っていない外国人はオンラインで手続きができないこともしばしばなのですが…)


さて、日本でも近時話題に上っていたらしいのですが、アメリカでもFree Wifiの危険性についてよくTVでニュースが組まれていました。いろいろな手口があるらしいのですが、一番基本的なのはそれっぽいWifi名(例:Starbucks wifi)にして、正当なWifiと誤認させてつながせるもの。しばしばアメリカ人は覗き見ることができてしまう場所でPCを操作したり、個人情報を大声で電話で話したりしていますが、こういった情報の防衛に意識が低いのでしょうか、こんな手口でもかなり引っかかるみたいです。(あるいはどうせ政府が覗き見ているから気にしていないんでしょうか)


そのほか、Wifi関連でおもしろかったのは、とある百貨店のWifiはアマゾンにつながらないようになっていました。おそらく小売店で実際の商品を確かめて、そのあとにアマゾンで買うという行為が少なくないからなんだと思いますが興味深い対策ですね。

あとは半分ジョークなんだと思いますが、アパートの隣人がうるさくてしょうがないときに(かつ直接注意に行ってトラブルに巻き込まれたくない時に)、Wifi名で注意するっていうソリューションも何かの記事で見かけました(例:Be quiet plz #101!!!)。

では。

異文化理解について

2015-01-14 21:23:55 | ロースクール・法務・法律・仕事ネタ関連
海外生活の目的のひとつに「異文化理解」というものがあげられることが多いと思います。そして、あまり違和感なく「そうだよね」と受け入れられているキーワードかと思います。ただ、じゃあ具体的に何をもって異文化理解をしたことになると、とても説明が難しいところです。

とりあえず文化というものに関してWikipediaの定義を拝借すると、
”・・・総じていうと人間が社会の成員として獲得する振る舞いに複合された総体のことである。社会組織(年齢別グループ、地域社会、血縁組織などを含む)ごとに固有の文化があるとされ、組織の成員になるということは、その文化を身につける(身体化)ということでもある。・・・もっとも文化は、次の意味で使われることが多い。
・ハイカルチャーのように洗練されたもの
・象徴的な思考や学習による信念やふるまいのパターン
・ある社会組織に共有されている価値観”
とのこと。とりあえずこんなもんかなーという定義な気がします。

さて、異文化理解というからには「異」文化なるものが存在することを前提として、その人たちを「自分の文化」との比較という観点で評価しなさいということなんだと思いますが、果たして「海外生活→異文化理解」という式は常に成り立つのでしょうか。成り立たせようと思ったら、どのような条件を満たすことが必要なんでしょうか。さらに言うと、「海外で外国人と交流すること」だけが異文化理解なんでしょうか。



★(異)文化理解が成り立つための条件
パッと思いつきで書いてみると
・ステップ0:異文化理解をしようというモチベーションとある程度のゴール感があり、自身の関心分野について以下のステップ1-4を回す心構えをしている。
・ステップ1:モノサシとしての自分の文化を認識している
・ステップ2:自分に接点のある相手方をモノサシで分析をし、差異を見出すことができる
・ステップ3:見つけた差異について、特定のグループに発現する行動様式であるとの抽象的/普遍的な評価ができる
・ステップ4:行動様式について、その行動様式を形成するにいたった背景事情を確認又は推察することができる(異文化モノサシの形成)
といったところでしょうか。

0.モチベーション
何事もそうですが、とくに考えなしに生きていると、とくに何も気づかずに生きていくことはよくあることです。46時中気を張って生きていくのも現実的ではありませんのでこれはこれでしょうがないのですが、たまに街中を歩いていて妙なものに遭遇しても「なんであれに気づかないの?」と指摘を受けたりしましたので、異文化理解を目的とするならば、やはりこういう心持ちは重要でしょう。もちろん、関心がない分野はこの限りではありません。

1.モノサシ
よく留学生へのアドバイスとして「日本の文化を学んでいったほうが良いよ」というものがあると思います。これは相手に日本を理解してもらうとか、自分を理解してもらうとか、そういった意味合いのほかに、モノサシとしての自分の文化が良くわかっていないと、異文化理解もおぼつかないということもあるのではないかと思います。これは別に日本では正月にもちを食べるとか、神社がそこら中にあるとか、そういった典型的な文化という話だけではなくて、ファッションだったり、漫画だったり、職場の様子だったり、政治や法制度だったり、自分の関心のある分野について理解を深めるということも含まれます。もっとも、卵と鶏の議論のように、自分が海外に行ってマイノリティになることで初めて自分の所属している文化の外縁が明確になってくるということもありますのでなかなか難しいのですが、やはり自分の物差しは意識しておくべきでしょう。

2.差異
実際に接した情報を分析するステップです。ここも意識して取り組まないとおろそかになるステップだと思います。なぜか。それはやはり21世紀のこの時代ですから、たいていの情報は目新しくないわけです。例えば、もしハロウィンでかぼちゃをくりぬくことを知らない人がいれば、ハロウィンの時期に加工されたかぼちゃ街中に並んでいることについて驚きをもって発見することができて、かつ記憶に強く刻まれると思いますが、そういったことをすでに知っていると、特にこれが異文化か!と感動し差異として認識することもあまりないのではないかと思います。もちろん巷の情報を自分の目で確認したというところにバリューはあると思いますが、これは異文化理解とはすこし異なる気もします。
他方で、ある程度相手の文化についての情報がないと、とてもチープな発見しかできません。悩ましいところです。
そのほかに考慮すべき点として、いわゆる先進国ですと(途上国はあてはまらないといいたいわけではありません)、普通に生活するだけでしたら、根本的には自分たちと同じような価値観と生活を共有していることも多いです。特殊なコミュニティルールがあるようなディープな世界には通常は入れませんので、そもそも見つけようと持っている差異なんてものが実はないかもしれません。これも自分自身の分析の細かさの単位というか精度によるとは思いますが。

3.評価
ここも悩ましいところです。文化というものが一個人の性格や習性を超えた、ある程度のコミュニティの総体としての振る舞いをさす概念ですので、例えばある友人Aから見聞きした話があったとしても、その人のコミュニティ全体に有意性をもって出現するものか判断は難しいわけです。これは例えば10人に話を聞いても当てにならないけど15人ならOKとかそういった話でもないですし、聞いてみる人の人選も注意が必要です。もちろん一個人が全知全能であることは不可能なんですが、一を聞いて十を語るような度を過ぎたグルーピングは場合によっては偏見みたいになるリスクもあるので悩ましいですね。

よく言われる異文化理解はここまでがスコープかと勝手に思っています。学生時代だったら、これでも貴重な経験と刺激になるし、「視野の広がり」として許されると思います。自分の所属するコミュニティの外にはこんな世界があったんだと。

4.理解
おそらく、ビジネスとして海外に行く場合はホントはここまで求められている・期待されていることが多いんじゃないかと思います。なぜかというと、0-3までは所詮「目に入ったものに気づきました」という情報認知のレベルですが、これはあくまでも「過去」の話で、そのときにその瞬間に得た知識や情報なだけです。一方で「今後」への一手としての派遣をしているほうとなると、「じゃあそれを踏まえて今後はどうするの」というところが本当の関心事となってくるかと思います。そこで異文化として認識したものについて、ある種の公式めいたものを見出す(理解)ことではじめて、応用力になるってことでしょう。

だからこそ、ネットやそのほかの手段で海外情報を集めることで済ますのではなくて、わざわざコストをかけて人間を現地に送っているわけです。海外生活で上記のプロセスを廻す訓練を日々繰り返すことで、やがて必然的に陳腐化することになる知識や情報ではなくて、ベーシックな処理能力としての、OSとしての能力が磨かれると期待していると思われます。今後どこかのタイミングで遭遇する可能性のある”異文化”は人種も国籍も性別も規模も中身も異なると思いますが、上記の訓練によって培われたOSが助けてくれる、ということかと思います。



最後に傍論ですが、上記のプロセスは別に外国人との間でだけで成立するものでもないと思っています。外国人と外国語で外国の中で交流しているとどうしても強く意識されますし、実際に上記のような理解力もおおいに要求されますが、実はコミュニティの単位の考え方次第では日本での日々の生活でも毎日同じプロセスが発生しているわけです。(だからこそ、急に外国に住んでも生きていけるわけです。)
だけども、そうしてみたときに、自分はどこまでまともに”異文化”理解に熱心だったかなというと反省すべきところがあるなと感じます。

以上、あまりまとまってませんし抽象的にしすぎた嫌いはありますが、自己反省を含めて、今後の方の参考に。