ほりのすけ国史 (わがくに)の祖国大日本の歴史講義配信

皇紀2679年 世界最高世界最古の皇室を持つ祖国

太閤の後編 室町時代以降

2019年09月23日 | 太閤の後編 室町時代以降
太閤の後編 室町時代以降

豊太閤

しかし近世以降、
「太閤」といえば関白を

甥の豊臣秀次に譲った後の
豊臣秀吉公のことを指すこと

が専らで
このことから
「大師は弘法に奪われ、
太閤は秀吉に奪わる」という格言までできるほどだった。

秀吉のことを史家はその姓
から豊太閤(ほうたいこう)
と呼ぶことが多い。

その秀吉が行った全国規模の検地は古くから太閤検地と呼ばれている。

また秀吉が大坂城を築いて天下に号令した大坂の地は
やがて江戸時代になると「天下の台所」と呼ばれるまでの経済発展を遂げたが、

地元大阪では今日でも
その最大の貢献者である秀吉を敬愛して「太閤はん」と呼び親しんでいる。


太閤(たいこう)摂政または関白の職を子弟に譲った人の歴史の前編

2019年09月23日 | 太閤(たいこう)摂政または関白の職を子弟に譲った人の歴史の前編
太閤(たいこう)
正式名称太閤下は、
摂政または関白の職を子弟に譲った人物を指します。

敬称は「殿下」であり、
呼びかけの場合は

「太閤殿下」となる。

摂政・関白を子弟に譲った者が「太閤」と呼ばれた例は平安時代からあった。

例えば藤原道長は後一条天皇陛下の
摂政を息子より頼通に譲り、
続いて任じられた太政大臣の職も辞任した後は
「太閤」と呼ばれていた。


鎌倉時代の関白
二条良美

は弟の
一条実経
に関白の地位を譲った後に
引き続き内覧に任じられたことから
「太閤」の名乗りを用いた。

その子孫である
二条良基
は13年にわたって
関白を務めた。

直接の血縁関係にない他家
の当主が関白になった後も
「太閤」を名乗って内覧
として権勢を振った。

その後3度も摂関に再任された。

後編に続く