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月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

294.スマート狛犬(狛獅子)三選(月刊「祭」2020.7月4号)

2020-07-31 06:36:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●神社の前の狛犬、狛獅子と門前の守護者
 ウィキpディア京都国立博物物館の解説によると、角があるのが犬でないのが獅子だそうです。起源としては、インドで仏像の前にライオン像を置いたことに由来するそうです。
 しかし、日本では多くが寺院ではなく、神社の前に狛犬や獅子が置かれるようになりました。寺院では東大寺南大門などにはありますが、その門前を守るのは仁王像や四天王が主流となっています。







 現在は明治期の神仏分離政策の影響で、神社の楼門は仁王像や四天王像のかわりに随身像が置かれるようになりました。一方で仏像の守護者に起源を持つと思われる狛犬や獅子は、神仏分離策の影響もなく、現在も神さんたちを守り続けています。今回は、その狛犬、狛獅子の中でもスマートなものを見ていきます。

●スマートな狛犬、狛獅子
三木市平田 大歳神社
 大宮八幡宮に祭の2日目のみ宮入する平田屋台のお膝元の神社です。台座もシャープにえぐれており、前足が直線的です。




↑吽の狛犬、ツノがある

↑阿の狛獅子、ツノがない。

↑願主に子供中の文字。今の若者にあたる。

三木市鳥町 住吉神社
 かつては屋台もあったそうですが、現在は運行されていません。屋台の部品でも残っていないかと思って神社を訪れました。
 吽の方がツノなしの狛獅子にも見えますが、微妙に膨らみがあります。



↑阿の狛獅子、ツノがない。

↑吽の狛犬? やや微妙に膨らみがある。

●狛犬?擬宝珠つき狛獅子?
広島市安佐南区長楽寺 新宮神社
 写真と共に見ていきましょう。


↑新宮神社は急な石段の上にあります。


↑拝殿前の狛獅子はそこまでスマートではありません。


↑「奉献」が左から書かれていることから、近年のものだと思われます。


↑阿のほうにはツノがあります。狛犬でしょうか。


↑吽のほうは、擬宝珠がついています。
 擬宝珠をツノと見なすのであれば、狛犬だし、擬宝珠は擬宝珠、ツノではないと考えるのであれば擬宝珠つき狛獅子となります。謎のまま今回は終わろうとおもったのですが、千葉県流山市でもみつけたので続きます。

千葉県流山市 香取大神宮の狛犬、狛獅子

↑香取大神宮


↑吽の方にはツノ、狛犬です。

↑阿の方には玉のような物が。

 広島市新宮神社のものとは、阿吽が逆ですが、ツノと玉のペアであることは共通します。しかし、香取大神宮のものは、玉ではあってもツノと考えることはできません。
 となると、広島市新宮神社のものもツノ・狛犬と玉(擬宝珠)・狛獅子のペアであると考えることができるでしょう。

お詫び:
執筆当初、狛犬と狛獅子を逆に書いていました。Tさんのご教示により、気づきました。
誤 狛犬(ツノなし)、狛獅子(ツノあり)
正 狛犬(ツノあり)、狛獅子(ツノなし)

 
 

291.三年峠シリーズ③都の三年坂伝承のルーツ(月刊「祭」2020.7月1号)

2020-07-06 09:10:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
日韓両国の小学三年生が学ぶ三年峠
 村の境の三年峠で転ぶと三年しか生きられないという伝説をもとにした、「三年とうげ・삼년고개(サンニョンコゲ)」は、日韓の小学三年生が国語の教材として学んでいます。
 大筋のストーリーは、
「おじいさんが三年峠で転んで不安がる。お見舞いに来た少年が、だったら二回ころべば六年、三回ころべば九年生きられるとアドバイスして、おわじいさんが笑顔で転びまくる」
といったものです。
 同様の伝説は日本各地に残っています。今回は都編です。
 
●京都東山産寧坂・三年坂
 京都市東山の清水寺に行く道すがらにその坂はあります。産寧坂・三年坂などと書かれ、子安塔の子安観音でお産が寧か(やすらか)であること・産寧を祈ったことが由来とする説、清水寺の本尊の観音菩薩に願い、かなったらお礼するという再念を意味するという説が、その地名の由来として語られています。
 そして、転ぶと三年で死ぬという三年坂伝承。今わかっている範囲で、転ぶと三年で死ぬという伝承が記された最も古いものがここの三年坂で、18世紀前半に書かれた『都名所車』という文献でそれを見ることができます(参考文献①)。
 そこで、原文がこちらに載っている(リンク先44/91)ので見ていきましょう。
「清水ハ大同二年に建立、此坂は明る大同三年に出来せし故に三年坂と云」
清水寺が大同二年にできたのに対し、坂が翌大同三年にできたことによるものとしています。
 そして、続いて、
「世のならハしに、此坂にてころぶ人三年の内に死するといへり」
と転ぶと三年で死ぬという伝承があったことを書いています。そして実際に転んだ人の言動も記されています。
「七十斗(ばかり)の禅門ころびしかバ往来の人あはれびていゝしや(?いとしや?)三年の内に死するてあらんといへば此老人につこと笑ひ明日をも知らぬ命なるに先(まづ)二年は心やすし(この論文の5頁表5参考文献②)といへり」
 明日を知れぬ我が身が、とりあえず二年は安心だと笑ったと言っています。禅門・禅のお坊さんならではの心の持ち方が伺えます。では、このような大同三年坂、三年寿命坂伝承はどのようにして生まれたのでしょうか。
 
 
 
●六道珍皇寺の迎え鐘
 清水三年坂伝承の初出である『都名所車』に、伝承の元だと思われそうなものが六道珍皇寺に関する記述に見られました(原文がこちらに載っている(リンク先41/91)。
 
あの世への入り口
『都名所車』で、
「弘法大師の開基にしてはか地なり」
との記述で始まる六道珍皇寺は、都の墓(はか)地として知られていました。そして、小野篁(たかむら)は、この寺の中の井戸から冥界に下り、夜は閻魔大王の補佐をしたとつたわっています。現在も寺域内に閻魔像と篁像が安置されています。
 つまり、都から山に至る道に墓があり、そこに閻魔を配置することで、あの世への入り口を表しているとも考えられ、この点では、太山寺付近の例とも共通します。
とは言え、三年坂の伝説の元になるとはこれだけでは言いにくいと思われます。しかし、この寺にはもう一つ興味深い伝承が残っています。
 
迎え鐘
 同じく『都名所車』の伝承を見ていきましょう。
「毎年七月九日十日◯灵(霊)をむかひにゆくとて此寺のかねをつきて槇をもとめてくる去によつて俗にむかひかねといへり。もと此かねハ慶俊惣社のゐたまふかねなり。慶俊入唐したまふ時留守居の僧にいひしハ--(中略)--三年が内は地中にうつみて◯べからづとて入唐せり。しかるに留守居の僧まちかねてしゅろうにかけて是をつく。そのひびき唐に聞へて慶俊にとろき嘆きたまふ。このかね教へのごとく三年待てつくならば六時おのづから出へきにいかばかりおしき◯也」
と、迎え鐘とよばれるものがあり、
①死者を呼びもどすものとしてつかわれている。
②もとは、三年間地中に埋めれば、六時の時を自ずから知らせてくれるはずのものだった(けど留守の僧が三年待たずにうったのでそれはかなわなかった)。
伝承があったことがわかります。
 六波羅珍皇寺のウェブページによると、鎌倉時代ごろに成立した『古事談』に②の三年地中鐘伝承(国史研究会『国史叢書 古事談、続古事談、江談抄』(国史研究会)大正三年、リンク先のコマ90/240)ではすでに残っていました。
 
●六道珍皇寺の伝承から三年坂伝承への変化
 
A小野篁の冥界伝承
 小野篁の冥界伝承も平安末期成立と思われる『今昔物語集』などに残っているとのことです(管理人が持っている文庫本ではけつらくしていました。)。
 
B三年鐘伝承
 これも上述のとおり、鎌倉期まで遡れます。
 
C迎え鐘伝承
 これは、ABほど古いものではなく、A小野篁の冥界伝承から冥界への行き来が連想されたことに、B三年鐘伝承の鐘が唐まで聞こえることから、冥界までも聞こえるものと連想されたことが加わって、遠くまで聞こえる冥界との行き来を可能にする鐘としての伝承ができたと思われます。
 
D三年坂伝承
 六道珍皇寺の冥界との行き来の伝承と、三年間の伝承が引き継がれて、清水寺の三年坂伝承ができたものと思われます。
 
参考文献:
①黒川麻美「日韓教科書教材に関する比較研究 : 民話「三年峠」に着目して」
『広島大学大学院教育学研究科紀要. 第一部, 学習開発関連領域64』2015
②黒川麻美「民話「三年峠」の教材化をめぐる史的考察 : 植民地期朝鮮・日本・韓国の通時的検討を通して
『国語科教育 79(0), 31-38,』 2016(全国大学国語教育学会)
 
 
編集後記
 東の都では、カイロより賄賂に等しい卒業資格をえた都知事が当選しました。三年坂で転ぶような俗信では冥途への旅路は実現されまん。しかし、コロナ禍中の都の舵取りを小池氏に任せることで、多くの人の三年以内の冥途への旅路が決まったように思えます。
 
芦屋立つ 百合咲く小池の 一里塚
冥土行きと 刻まれたるかな

283.三年峠シリーズ②の2-神戸市の苦集滅道(くかめち)はなぜ三回坂になったか(月刊「祭」6月3号)

2020-06-14 11:17:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

●悟り・解脱と西方浄土信仰との習合
 話題沸騰(自称)のこちらの記事で、神戸市西区の太山寺近くの墓地に通じる道が、悟りに至る道を意味する苦集滅道(くかめち)と呼ばれ、転ぶと寿命が縮むという伝承が生まれたのは、悟り・解脱と極楽往生・死を同一視することによるものだと書きました。
 やがて、その伝承は変化して「三回転ぶと死ぬ」というものに変わったとも書きました。ですが、そこに疑問が残ります。
 なぜ、三回転ぶと死ぬという伝承に変化したのでしょうか。この道が太山寺門前にあり、ここの埋け墓は元々太山寺内にあったものということから、太山寺の信仰を手がかりに考えていきます。





●「三」身山太山寺の三身への五体投地?
 まず目につくのが、三身山という山号です。ということで、三身をウィキってみました。仏の三種類(法身、報身、応身)の身のあり方とのことで、三種類の身にはそれぞれ毘盧舎那仏、釈迦牟尼仏、阿弥陀仏が当てられているようです。
 しかし、太山寺には釈迦堂に釈迦牟尼仏、常行堂に阿弥陀仏はいらっしゃいます。また、三重仏塔の中心には大日如来がいらっしゃり、密教では大日如来と毘盧舎那仏(仏塔ではなく如来とも呼べるはずですが、語感で仏とした)は、同体とも考えられているようです。
 また、日本を含め仏教信仰圏各地では五体投地と呼ばれる全身を地につけて礼拝する方法があります。転ぶことで、結果的に五体投地となり、三回転んで三身である大日如来(毘盧舎那仏)、釈迦牟尼仏、阿弥陀仏を礼拝して、悟りを開く、解脱する=あの世に行くという伝説が生まれたと考えられそうです。

●あるいは太山寺地主三所権現への五体投地?
 「三身」とは関係ないのかも知れませんが、太山寺では前回でも紹介した享和三年(1803)「播磨名所巡覧図絵」では「地主三所権現」として「薬師、釈迦、(阿)弥陀」を挙げています。




↑「播州名所巡覧図絵に描かれた大山寺(太山寺)」昭和四十九年柳原書店発行のものより。
この記事もこの本を参考にしました。

 「地主三所権現」として挙げられている、阿弥陀、釈迦はそれぞれの建物があり、薬師は太山寺の御本尊となっています。
 そして、太山寺は天台宗に属しており、総本山は比叡山延暦寺です。延暦寺の麓には、比叡山の地主神である日吉大社があります。現在は七神が主祭神として鎮座していますが、もともとは大比叡(西本宮)、小比叡(東本宮)、聖真子(宇佐宮)の三神だったそうです。その三神にはそれぞれ本地仏があてられています。文化十二年(1815)「近江名所図会」では、大比叡は釈迦、小比叡は薬師、聖真子は阿弥陀となっていて、太山寺の「地主三所権現」と一致します。「権現」は、仏が神として現れた仮の姿をさしたり、そうなりうる本地仏をさしたりしています。となると、太山寺の「地主三所権現」は「日吉山王」を表すと思われます。


↑日吉大社東本宮(旧称・小比叡、本地仏・薬師)


↑日吉大社宇佐宮(旧称・聖真子、本地仏・阿弥陀)


↑日吉大社西本宮(旧称・大比叡、本地仏・釈迦)

 寿命縮小伝承が「三回転倒死亡伝承」に変わった理由も、地主三所権現への五体投地が成仏につながるという思想からきたものとも考えられます。また、確認できる文献は見つけていませんが、太山寺においては三所権現=三身であったのかも知れません。
 いずれにせよ、太山寺門前の墓地への道が「転ぶと寿命が縮まる」伝承が「三回転ぶと死ぬ」という伝承に変化したのは、三身、あるいは三所権現、あるいはその両方への五体投地での成仏が連想されて変化したものと思われます。




 


280.三年峠シリーズ②-神戸の三◯坂-(月刊「祭」2020.5月7号)

2020-05-31 20:14:06 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●日韓両国の小学三年生が学ぶ三年峠
 村の境の三年峠で転ぶと三年しか生きられないという伝説をもとにした、「三年とうげ・삼년고개(サンニョンコゲ)」は、日韓の小学三年生が国語の教材として学んでいます。
 大筋のストーリーは、
「おじいさんが三年峠で転んで不安がる。お見舞いに来た少年が、だったら二回ころべば六年、三回ころべば九年生きられるとアドバイスして、おじいさんが笑顔で転びまくる」
といったものです。

 実は似た伝承は、日本にもいくつか残っています。今回はなんと神戸版!三◯坂について。前回、有名どころとあまり知られていない所を書くと言いましたが、今回は、前者のみ書くことにします。


●なんと神戸市内に三◯坂⁉︎
 播磨地域の伝承や祭歴史を扱った雑誌である『郷土誌』(郷土志社)の昭和26年(1951)発刊の16号に興味深い記事が残っています。森俊秀による「伊川谷伝説集」の記事の一部を引用します。
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三回転ぶと死ぬ坂(前開上)
この付近は両墓制*で、今は埋け墓もダント墓も此処にあるが、昔はダント墓*だけがここにあり、埋け墓*は明治になつてから太山寺から移つた。村から墓地へ通じる坂で三回転倒すると、必ず死ぬと今でも老人たちはいつている。
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  この坂は一度転んだら三年で死ぬと言う三年坂ではなく、三回坂 (管理人造語)とも言うべき伝承です。
 この伝承がつたわる前開上は下の地図で示した前開のうち、「前開上」はバス停留所の「前開上」と「前開」の位置関係から、太山寺がある前開の東側をさすと思われます。

↑朱色線が前開の範囲。Googleマップより

 管理人が車を走らせたところ、仁王門より西側、十王堂の近くに墓へ続く坂道がありました。看板には前開上と前開中の墓地だということが、分かり埋め墓も見られたことから、この坂道が三回坂(管理人造語)とも言うべき坂であったと思われます。

●三回坂(管理人造語)伝承のもと
 では三回坂(管理人造語)とも言うべき伝承はどのようにして成立したのでしょうか。そのヒントは、享和三年(1803)出版の「播州名所巡覧図絵」の「大山寺(太山寺)」の記述の後にありました。

↑「播州名所巡覧図絵に描かれた大山寺(太山寺)」昭和四十九年柳原書店発行のものより。
この記事もこの本を参考にしました。

「播州名所巡覧図絵」の記述と三回坂
 「苦集滅道(くかめち)二王門より一丁過ての坂なり。◯俗伝に云、若此坂に倒れなば、命みぢかしとて、片袖をさき爰(そこ?ここ?)に捨て、身がわりとす。故に、たが袖坂ともいふ。」
 と「播州名所巡覧図絵」には、書かれています。苦集滅道(くかめち)という坂が二王門(仁王門)より一丁(約100メートル)過ぎたところに坂があり、倒れたら寿命が短くなるという「俗伝」があったと記録されています。
 転ぶと寿命が短くなるというのは三回坂(管理人造語)伝承とも共通しています。そして、苦集滅道(くめかち)の位置として、「二王門より一丁過ての坂」としていますが、先述の三回坂(管理人造語)とも言うべき墓地の坂も仁王門より約一丁、100mほどのところにありました。苦集滅道(くかめち)と三回坂(管理人造語)は同じ坂道を指しており、伝承が「一回転ぶと寿命が縮む」という猶予はないけどペナルティが小さいものから、「三回転ぶと死ぬ」という猶予はあるけどペナルティが大きいものに伝承がマイナーチェンジしたと考えられます。



↑仁王門前の地図 google mapより



↑坂の麓から墓地を、見上げる





↑仁王門


●苦集滅道(くかめち)はなぜ寿命を縮める伝承になったのか
 苦集滅道とはもともと仏教用語で、仏教がとく(四つの基本的な真理・四諦)を表すそうです。
苦・・生存が苦であるという真理
集・・尽きない欲望が苦を生むという真理
滅・・欲望がつきた状態が理想の境地であるという真理、苦滅諦
道・・苦しみの消滅に至る道の真理。解脱・悟りへの道

「苦集滅道」を四字熟語としてとらえると、「欲望を滅して解脱・悟りへ至る道」とも言えるでしょう。この「解脱・悟り」が「死」につながるのは、太山寺の死後は阿弥陀仏の西方浄土に行けるという浄土信仰によるものが大きいと思われます。
 哲学的な悟りは、現世でも得られるともいわれているようです。しかし、一般の民衆にとっての悟り・特に輪廻転生からの解脱は死後、極楽浄土へ行くことを指していたとも言えるでしょう。太山寺では阿弥陀仏おつきの二十五菩薩が来迎し極楽浄土へいざなう様子を表す練り供養が江戸時代から行われています。
 さらに、喜多慶治『兵庫県民俗芸能誌』(錦正社)によると、阿弥陀仏配下の二十五菩薩の来迎だけでなく、提婆達多が荒々しく邪魔をして、釈迦がそれを諭す場面もあったとのことです。これも、単なる西方浄土への誘いだけでなく、悟りに至った釈迦本人が出てくるところからも、釈迦の「悟り」と「西方浄土への」旅立ちが同じものとして考えられた祭を行っていたとも言えるでしょう。

↑練り供養終わりの様子

「悟りへの道はあの世への道」というイメージの強い地域は、おそらく日本では多く、太山寺周辺もおそらく例外ではなかったと思われます。それを表すかのように、苦集滅道(くかめち)・三回坂(管理人造語)の入り口にはあの世への関所とも言える十王堂が残っています。十王のうちの一人は有名な閻魔大王で、今も堂内にその像は残っています。


↑苦集滅道(くかめち)・三回坂(管理人造語)近くの十王堂。

↑十王堂内部の地蔵菩薩と閻魔大王。他の九王は見られなかった。

 
 苦集滅道(くめかち)という悟りへの道が、死の世界への道と認識されることになり、「一回転べば寿命が縮む」、「三回転ぶと死ぬ」などの伝承が生まれたと考えられます




*両墓制、埋け墓、ダント墓
墓をお参り用の墓と埋葬用の墓に分けるもの。ネットの辞書などでは、前者を詣り墓、後者を埋め墓などとしています。ここの言葉では埋け墓=埋め墓と思われます。残るダント墓が詣り墓となると思われますが、ダントは寺の信者を意味する「檀徒」と解するのが妥当でしょう。



278.三年峠シリーズ①-嗚呼、あと三年の命、岡山県久米郡、和歌山城下でも-(月刊「祭」2020.5月5号)

2020-05-25 22:37:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●日韓両国の小学三年生が学ぶ三年峠
 村の境の三年峠で転ぶと三年しか生きられないという伝説をもとにした、「三年とうげ・삼년고개(サンニョンコゲ)」は、日韓の小学三年生が国語の教材として学んでいます。
 大筋のストーリーは、
「おじいさんが三年峠で転んで不安がる。お見舞いに来た少年が、だったら二回ころべば六年、三回ころべば九年生きられるとアドバイスして、おじいさんが笑顔で転びまくる」
といったものです。

 実は似た伝承は、日本にもいくつか残っています。今回はそれを紹介します。なお、和歌山の事例はこの文章を参考にしました。ほかの参考文献は適宜あげていきます。

●岡山県久米郡の護法祭
 毎年、八月十五日、久米郡美咲町両山寺では、護法祭と呼ばれる行事が夜に施行されます。この中でゴーサマと呼ばれる神仏の依代となった人がトランス状態に入り境内を動きまわります。
 その中で、触れられた人は三年以内に死んでしまうといいます(ゲストハウスたびのあしあとのスタッフの方のご教示)。
 八月十四日(旧暦七月十四日前後)は死者の魂を呼び寄せるお盆の儀礼の一環とも言えるでしょう。Wikiぺdiaによると、護法善神がゴーサマ役の人に乗り移るとのことで、両山寺だけでなく、近隣の寺院でも同様の儀礼が行われていたようです。
 寺院というのはそういうものかもしれませんが、この世とあの世がつながる時に三年寿命伝承が伝わるのは興味深い点と言えるでしょう。
 
↑朝日新聞のYouTube映像より

●和歌山城下の三年坂
 和歌山城と県立美術館通りの間に三年坂という坂があります。ここにも転ぶと三年で死ぬという伝承があるようです。ニュース和歌山(2019.07.27)の記事には、和歌山市立博物館学芸員さんの話として、以下の内容を紹介しています。
 『紀街の詠(ながめ)』という1796年の書物には、女たらしの折助はその坂で声を夜毎にかけていた。ある夜、同じように声をかけていたが、急用を思い出し、坂を行こうとしたときに、提灯の火が消え転んでしまった。それを見た作者が「坂でころんでさんねん(残念)」と表現している。残念がいつのころからか三年になったのでは
「紀街の詠」たる書物の所在は、管理人はまだ探せていません。
 ウィキpディアによると、元和五年(1619)から寛文七年(1667)年の紀州藩主である徳川頼宣によって作られた坂だそうです。


↑iPhone8のアプリの地図

次号では、わりと有名な三年寿命伝承と意外な三年寿命伝承を紹介します。

参考文献:
黒川麻美「日韓教科書教材に関する比較研究 : 民話「三年峠」に着目して」
『広島大学大学院教育学研究科紀要. 第一部, 学習開発関連領域64』2015

 

277.東大寺二月堂aquaとり??(月刊「祭」2020.5月4号)

2020-05-23 16:59:09 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●東大寺お水取り
 奈良の東大寺で春の訪れを告げる行事の一つが、東大寺の修二会です。その途中でおこなわれるお水取りは、二月堂内でおこなわれる行で使われる御香水を取りにいく行事です。

↑二月堂


↑水を取るための井戸が中にある「閼伽(あか)井屋」

●閼伽(あか)井屋はaqua井?

  その御香水を取りに行く建物が閼伽(あか)井屋と呼ばれる建物です。よって御香水も閼伽(あか)水と呼ばれます。そこで、短絡的にこう考えました。「閼伽(あか)はaquaだ!」

 と思って、ウィkpディアやこのサイトによると、元々はサンスクリット語のarga (価値)という意味だそうです。水と共に使われることが多い言葉であること、日本の音ではrが脱落している(漢訳時点でも?)ことがその要因と考えられそうです。

 西洋の文化とのつながりを語ろうとした安易な目論見は見事に打ち砕かれました。



●若狭鵜の瀬のお水送り

 下の写真は福井県小浜市の遠敷(おにゅう)にある神宮寺です。ここでは、お水送りたる行事が行われます。これは、釣りに興じて若狭の遠敷明神が東大寺への参列が遅れたお詫びに、毎年東大寺に御香水を送ることになったという伝承を元にして行われています。

↑神宮寺

↑鵜の瀬の給水所↓


●神聖な水

 若狭のお水送り、奈良のお水取りという壮大な水をめぐる儀礼を見ると、単なる儀礼の道具という範疇を水は超えているように見えます。水を神聖視する思想は、西洋の聖水文化とも共通しているといえます。 

 しかし、「遅刻したそのお詫び」という伝承は多神教の大らかさを感じさせるものにも思えます。






275.チサン→ッタン(月刊「祭」2020.5月2号)

2020-05-15 20:56:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●大日如来さまをなんと呼ぶ?


 世界一の屋台を擁する明石町は、五カ町に分かれています。明石町、杣宮、清水、宮前、そして、管理人の住む大日。大日町はその名の通り、大日如来堂があることに由来します。かつては毎年8月28日、現在は8月の最終土曜日に縁日が行われております。
 しかし、この縁日を我々は「縁日」とは呼びません。我々はこう呼びます。
「ダイニッタン」
これは、「大日さん」が訛った物だと思われます。大日如来の愛称が「ダイニッタン」となり、今では縁日、さらに明石町五カ町のうち、大日町に所属している人も最近では指すようになってきました。

●播州弁?チサン→ッタンへの発音の変化
 これを、播州弁というべきか、三木弁というべきかは分かりませんが、管理人在住地域一帯ではチサンが訛ってッタンと発音することがよくあります。基本は、名前の「ち」+尊称「さん」です。「ち」の前に二音以上、少なくとも一音あるとこの変化が起きることが多くなります。

例 
◯◯内さん→◯◯ウッタン
◯◯一さん→◯◯イッタン
◯◯キチさん→◯◯キッタン 
◯◯ハチ(パチ)さん→◯◯ハッ(パッ)タン
◯◯シチさん→◯◯シッタン

 身近な「チサン」の方をッタンと呼ぶと三木弁?播州弁?の使い手に一歩近づきます。では、チサン→ッタンの変化はどのようにして起こるのでしょうか?

★チサン→ッタンの変化を発音の素人が妄想で解説
(イ)いつもの日本語でタラタラと
①チもサも共に舌を歯の裏につけて発音する。
②歯の裏に舌をつけてi音でチ、また歯の裏に舌をつけてa音でサと言うのが本来の形
歯の裏に舌をつけながら、i音とa音のために口の形を変えるのが面倒くさい。
④口の形は後のa音のみ残り、チのi音は脱落する。
⑤チの舌を歯の裏につける動きと、サの舌を歯の裏につける動きが連続し、同一系統の子音ができ、促音化する。
⑥ッサン→ッツァン→タン

(ロ)ローマ字でウチサン→ウッタンを
①uchisanのchとsは舌を歯の裏につける音。
②uchisanのiが脱落
③uchsanのchが子音のみになり、小さいッぽい発音になる。
④小さいッとサが重なりサがタぽくなってくる。

(ハ)ハングルでウチサン→ウッタン
①우치산•uchisanの치•chiと사•as は共に歯の裏に舌をつける音
②歯の裏に舌をつけて子音をいちいち言うのが面倒になり、ㅣ•I が脱落
 우치산•uchisan→웇산(욷싼•utsan*)→
욷싼•utsanのㅆが욷のㄷにつられてㄸ•ttに変化。욷딴•utttan

 とある言語学者の方に教えていただいたところによると、発音はより楽できるものに変化するそうです。チサン→ッタンもより楽に発音するための変化だったのかもしれません。

●チの後歯の裏に舌をつける音が続くと
チの後に歯の裏に舌をつける音が続くと、サでなくともチが小さなツに変化することが三木ではよくあります。
  大日町(だいにちちょう)も最初のチは小さいッになり、ダイニッチョウと発音します。

●編集後記に変えて、ダイニッチョウ、オトシマチ
 我らがダイニッチョウは昔は明石町五カ町の中でも人口が少ない方でした。屋台を担いでいても「ダイニッチョウ」が担いでいるところが傾き始めて、屋台が落ちることが多かったのか、「ダイニッチョウしっかりしてくださーい」とよく言われていたのを子ども心に覚えています。一方で昔は明石町屋台もよく落とすので「オトシマチ」と呼ばれたりもしました。
 そんな「オトシマチ」も落とさないように様々な努力を重ね、階段でも落とす姿はほとんど見られなくなりました。そうなってくるとよく落としていたかつての時代が懐かしく思えるのは、管理人も年を取ったからなのかもしれません。






274.三木の久留美に粂さんが多い理由?-物を飛ばす仙人①-(月刊「祭」2020.5月1号)

2020-05-03 21:32:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●三木市久留美に多い粂姓
 田舎に行けば同じ苗字の家が、同じ村に集まっているという話をよく聞きます。三木市でも同様で、東這田のニ杉、口吉川の藤田、細川の常深などが知られています。
 そして、今回の粂は久留美に多い姓ということで、なぜ久留美に粂姓が多いかを考えていきます。

●「今昔物語集」の久米仙人
 12世紀頃までに出来たと思われる「(参考はもちろんWiきぺ●●)には、久米仙人の下のような話が残っています。ざっくり感は気にしないでください。
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 大和国吉野郡竜門寺で仙人になる修行に励むものの、同僚のあずみより遅れた久米という男。ですが、ようやく久米仙人となり様々な神通力を手に入れる。
 久米仙人が空を飛んでいると、吉野の河で洗濯をする美女のふくらはぎに見とれる。雑念が入ったことで、久米仙人は神通力を失い女の下に落ちてしまう。
 久米はその女と結婚ししばらく暮らしていると、大和国の高市に都を作るための労役に駆り出される。かつて仙人だったことが、役人に知られ、役人は戯れに用材を運ぶように頼んだ。久米は試しにやってみると七日七晩祈り続けると本当に材木が飛んで来た。
 天皇もそれを聞き喜び、免田と寺を寄進した。それが久米寺となった。
 後に薬師如来を弘法大師空海がこの寺に灌頂する。
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 三木の久留美に粂さん、粂田さんが多い理由はこの久米仙人によるものでしょうか?そこで、久留美の寺院である慈眼寺を見てみましょう。

●慈眼寺の開基者と八雲神社
 慈眼寺の開山者は、1762年頃成立したとされる「播磨鑑」では、大徹禅師の創建としています。大正十五年刊行の「美嚢郡志」では、赤松円心(1277-1350)の再興、大徹禅師を開山者として、開基者は法道仙人としています。
 法道仙人は6-7世紀に活躍したとされており、播州一帯の寺院でその開祖とされています。詳しくは稿を改めますが、鉢を飛ばして各地から托鉢したと伝わり、空鉢仙人とされています。また、牛頭天王とともに日本にやって来たとも伝わっています。
 

↑慈眼寺

 さて、牛頭天王と言えば、慈眼寺のすぐそばにある八雲神社の祭神も素戔嗚尊つまり、神仏分離以前は牛頭天王ということになります。文書での確認はまだしていませんが、おそらく八雲神社と慈眼寺も元々は一体だったと思われます。


↑八雲神社の中から久留美屋台を撮影


 神社、寺院ともに空に物を飛ばす仙人の伝承を受けていることから、久留美に粂さんが多いと言うには、すこし根拠が寂しすぎます。そこで、再び、久米寺の伝承を見てみましょう。

●もう一つの久米寺伝承
 ウィキpディアによると、『和州久米寺流記』には久米寺は来目皇子の開基が記されているとのことでした。国会図書館のデジタルコレクションで「大日本仏教全書」に収められた本文を見ることができます。また、宮内庁には、室町初期の写本があることから、それ以前の成立となると考えられます。
 「和州久米寺流記」には、興味深い内容がしるされていました。
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聖徳太子の弟の来目王子は元々目が見えなかった。
そこで薬師如来の寺=久米寺を創始したところ、たちまち両眼がみえるようになった。
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つまり久米寺は目が見えるようになる慈眼の伝承ということになります。となると慈眼寺がある久留美に、粂さん粂田さんが多い理由も納得できます。

●まとめ

①法道の慈眼寺開基伝承→同じく物を飛ばす伝承を持つ久米仙人を想起
②慈眼寺の寺名→来目王子の慈眼伝承を想起

上の2つの点が久留美に粂さんが多い理由?? かもしれません。

編集後記
 本来なら今日5月3日は久米寺で練供養が行われる日でした。未確認ですが、新型コロナ流行下では中止されたと思われます。一日も早い収束を願うばかりです。
 お世辞にも我が国のリーダーが機能しているとは言えません。経済活動の再開も視野に入れるならばなおさら、感染を広げない努力は、それぞれの場で知恵を絞らざるを得ないのが現状です。






261.ダボ-その意味と語源-(月刊「祭」2020.2月6号)

2020-02-22 01:50:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

●播州弁の代名詞「ダボ」
 関西弁の中でも荒いことで知られる播州弁。その中でも、東西南北で少しずつ言葉は違ってきます。例えば播州北部の加西市では、「〜だから〜」という意味で「〜やさけー〜」と言ったりしていました。
 しかし、播州弁でおそらく共通していて最も有名な言葉が「ダボ」です。「ダボ」という言葉は、播州の東隣の摂津の国だった神戸市長田区でも使われています。とはいえ、神戸市長田区では、「太陽」のアクセントがタにつくのに比べて、播州弁ではアクセントはイがやや強くなる程度で平易な抑揚になったり、長田区の子どもたちは播州弁の5W1hの疑問詞である「どい」はつかわなかったりするなど違いも見られます。
 とにもかくにも、今回は管理人もよく言われる「ダボ」について考えます。

●「ダボ」の使われ方、意味
 ダボは基本「アホ」と同じ使われ方をしていると思われます。つまり、元の意味は賢くない、という意味で使われているようです。
 そのまま単なる「賢くない」という意味で使われたり、はたまた「人として最低」という意味で吐き捨てられたりされます。一方で愛情や尊敬の念を含んだ親しみをこめたり、一本気な意思に降参したという意味で使われたりと肯定的に使われることも多々あります。
 管理人も祭の現場に行くとよく言われます^_^; 否定的意味で言われているのか、肯定的意味で言われているのかはノーコメントで^_^;

●ダボの語源
 では、曲学阿世でダボの語源を考えてみましょう。それはつまりドアホウがなまってできた言葉だと管理人は考えます。
 ここまで文章を書いてネットで「ダボ 語源」で検索してみました。出てきたサイトがこちらです。これによると韓国語語源説もあるようです。
 おそらく바보(パボ)が元になったと考えられているのでしょうか。たしかに播州人はザ行の発音がどうしてもダ行になる人が数多くいます。「全然」を「でんでん」と言うようにザ行の言葉をダ行で言う人が、かなりいることからも頷けるでしょう。
 また、ゾイ<5w1hの疑問詞>がドイに変化して定着したこと(播磨気質という本で見たはず)から播州人の「ダ行志向」という意味ではうなずきたくもなります。しかし、ザ行もダ行も舌を歯の裏につけることで発音できるという共通点があります。ところが、パ行は口を閉じてから発音する音で、舌を歯の裏にはつけません。また、播州人でパ行がダ行になりがちな傾向がある人(ポールをドール、パブをダブ)管理人の記憶では見たことがありません。なので、ダボの語源は바보(パボ)ではなさそうだというのが、管理人なりの結論です。

編集後記
 画像なしは寂しいので、足をすりむいた時の写真を掲載しました。昨年の魚吹八幡神社の祭で、大好きな丁(よろ)屋台を見つけ全速力ではしったら僅かの凹凸に躓き、派手にズッコケました。こういう行動はやはり「ダボ」と言わざるを得ないでしょう。。。
 



260.絵馬の下側(月刊「祭」2020.2月5号)

2020-02-18 22:07:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●神社や仏閣で見かける奉納絵馬
 絵馬と言えば、絵が描かれた木の板の裏側にそれぞれの願いを書いて願をかけるのが現在の主流と言えます。




↑京都市粟田神社の絵馬

 しかし、かつては大きな板にまさしく絵を描いて奉納するのが主なやり方でした。吉野裕子氏によると、もともとは生きた馬を奉じていたけど、それが馬を絵に描いて奉納するようになったとのことです。たしかに、神戸市西区の性海寺には絵に描いた馬・絵馬が奉納されています。

↑神戸市西区性海寺の絵馬

 そこから、馬の絵だけでなく、歌舞伎の場面、祭りの様子などさまざまな絵馬が奉納されるようになりました。その中で、どのようにしてこれらの絵馬が描かれていたのかに思いをはせることができる絵馬を見つけたので紹介します。

●加古川市養田大歳神社の絵馬
 大歳神社(アクセス等)は、かつては高砂神社の御旅所だった崎宮神社の御旅所だそうです。

そこに奉納されている絵馬が下の画像です。随分色落ちしています。そして、色落ちすることで、絵馬の製作過程が見えてきました。




拡大してみましょう。


↑1には白 2は?キ。 3は朱 4はシト
白と朱から、そこに着色すべき色を指定していた跡が伺えます。



↑白、ロウトなどの文字が見えます。

ロウトやシトとはどのような色だったのか謎が残ります。