月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

274.三木の久留美に粂さんが多い理由?-物を飛ばす仙人①-(月刊「祭」2020.5月1号)

2020-05-03 21:32:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●三木市久留美に多い粂姓
 田舎に行けば同じ苗字の家が、同じ村に集まっているという話をよく聞きます。三木市でも同様で、東這田のニ杉、口吉川の藤田、細川の常深などが知られています。
 そして、今回の粂は久留美に多い姓ということで、なぜ久留美に粂姓が多いかを考えていきます。

●「今昔物語集」の久米仙人
 12世紀頃までに出来たと思われる「(参考はもちろんWiきぺ●●)には、久米仙人の下のような話が残っています。ざっくり感は気にしないでください。
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 大和国吉野郡竜門寺で仙人になる修行に励むものの、同僚のあずみより遅れた久米という男。ですが、ようやく久米仙人となり様々な神通力を手に入れる。
 久米仙人が空を飛んでいると、吉野の河で洗濯をする美女のふくらはぎに見とれる。雑念が入ったことで、久米仙人は神通力を失い女の下に落ちてしまう。
 久米はその女と結婚ししばらく暮らしていると、大和国の高市に都を作るための労役に駆り出される。かつて仙人だったことが、役人に知られ、役人は戯れに用材を運ぶように頼んだ。久米は試しにやってみると七日七晩祈り続けると本当に材木が飛んで来た。
 天皇もそれを聞き喜び、免田と寺を寄進した。それが久米寺となった。
 後に薬師如来を弘法大師空海がこの寺に灌頂する。
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 三木の久留美に粂さん、粂田さんが多い理由はこの久米仙人によるものでしょうか?そこで、久留美の寺院である慈眼寺を見てみましょう。

●慈眼寺の開基者と八雲神社
 慈眼寺の開山者は、1762年頃成立したとされる「播磨鑑」では、大徹禅師の創建としています。大正十五年刊行の「美嚢郡志」では、赤松円心(1277-1350)の再興、大徹禅師を開山者として、開基者は法道仙人としています。
 法道仙人は6-7世紀に活躍したとされており、播州一帯の寺院でその開祖とされています。詳しくは稿を改めますが、鉢を飛ばして各地から托鉢したと伝わり、空鉢仙人とされています。また、牛頭天王とともに日本にやって来たとも伝わっています。
 

↑慈眼寺

 さて、牛頭天王と言えば、慈眼寺のすぐそばにある八雲神社の祭神も素戔嗚尊つまり、神仏分離以前は牛頭天王ということになります。文書での確認はまだしていませんが、おそらく八雲神社と慈眼寺も元々は一体だったと思われます。


↑八雲神社の中から久留美屋台を撮影


 神社、寺院ともに空に物を飛ばす仙人の伝承を受けていることから、久留美に粂さんが多いと言うには、すこし根拠が寂しすぎます。そこで、再び、久米寺の伝承を見てみましょう。

●もう一つの久米寺伝承
 ウィキpディアによると、『和州久米寺流記』には久米寺は来目皇子の開基が記されているとのことでした。国会図書館のデジタルコレクションで「大日本仏教全書」に収められた本文を見ることができます。また、宮内庁には、室町初期の写本があることから、それ以前の成立となると考えられます。
 「和州久米寺流記」には、興味深い内容がしるされていました。
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聖徳太子の弟の来目王子は元々目が見えなかった。
そこで薬師如来の寺=久米寺を創始したところ、たちまち両眼がみえるようになった。
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つまり久米寺は目が見えるようになる慈眼の伝承ということになります。となると慈眼寺がある久留美に、粂さん粂田さんが多い理由も納得できます。

●まとめ

①法道の慈眼寺開基伝承→同じく物を飛ばす伝承を持つ久米仙人を想起
②慈眼寺の寺名→来目王子の慈眼伝承を想起

上の2つの点が久留美に粂さんが多い理由?? かもしれません。

編集後記
 本来なら今日5月3日は久米寺で練供養が行われる日でした。未確認ですが、新型コロナ流行下では中止されたと思われます。一日も早い収束を願うばかりです。
 お世辞にも我が国のリーダーが機能しているとは言えません。経済活動の再開も視野に入れるならばなおさら、感染を広げない努力は、それぞれの場で知恵を絞らざるを得ないのが現状です。







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