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月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

338.加西市の日原大工?の作品とその傾向(月刊「祭御宅」2021.5月7号

2021-05-16 15:23:19 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

 管理人が三木市吉川町若宮神社御先だんじり(屋台)の調査を依頼されたときに、祭とは関係ない周辺事項の調査(要するにオマケ)として提出したものをもとにして、この記事を作成しました。なお、日原大工の作品が加西市のどこにあるかは、全て、よかわ歴史サークル「吉川町の歴史 吉川の宮大工(日原大工)』から知りました。

 加西市上万願寺の東光寺と、三木市吉川の東光寺の二つの東光寺がこの記事では出てきますが、ここでは(加西市)東光寺、(吉川)東光寺と区別をつけることにします。

●日原大工

 三木市吉川町大沢を拠点に活動していた宮大工です。江戸時代の作品が三木市内だけでなく、近畿一帯に残っています。また、大沢は若宮神社の筆頭座ともいわれる大澤座の拠点です。日原大工の末裔の方にお話しをお伺いしたところ、宮座には入っていなかったそうですが、地元の若宮神社の楼門を作るなど、若宮神社の祭にも何らかの影響力を有していたと思われますが、管理人の調査では分かりませんでした。

●吉川近隣の日原大工の作品

 新しいもので18世紀で、19世紀のものは市内では見つけることが出来ませんでした。管理人が見いだした傾向では、欄干の擬宝珠に時代ごとに特徴がありました。ざっくり言うと、時代が古いほど葱の花のがくのようなものがついており、時代が下るほどがくのような物はなく、金具がついたものが多くなっています。

A(吉川)東光寺鐘楼堂 藤原朝臣日原左衛門尉光政 享保3年(1718)

B 淡河八幡神社本殿 棟梁大沢日原武兵衛 宝暦2年(1752)

●加西市の日原性の大工の作品

 (加西市)東光寺本堂 文化十一年(1814)、若一神社拝殿 天保十五年(1844)、下万願寺町八幡神社覆屋 安政四年(1857)、磯崎神社天保六年(1835)、千山寺本堂 文化四年(1807)と、加西市内で日原の名字をもつ建物は19世紀以降のものに限られていました。では、その作品はどのような特徴があるのでしょうか。

A 欄干

(加西市)東光寺本堂 文化十一年(1814)


下万願寺町八幡神社覆屋 安政四年(1857)


千山寺本堂 文化四年(1807)

上記の欄干を見ると、三木市内の18世紀までの丸い柱ではなく、四角柱の柱に角ばった擬宝珠が削り出されているという特徴がありました。

B 彫刻

そして、日原性の大工の作品かどうかは分からないのですが、同じ境内の別の建物は下のような彫刻のある建物が見られました。

千山寺 


磯前神社随神門


編集後記

 日原大工そのものについて知りたければ、現・三木市文化財保護審議委員会委員を務めていらっしゃる藤田均氏らを中心とする よかわ歴史サークル「吉川町の歴史 吉川の宮大工(日原大工)』2014 をご覧ください。三木市立図書館の吉川分館で見ることが出来ます。

 


328.鯉から龍へ。好まれた地域と説話の生まれた背景(月刊「祭」2021.3月2号)

2021-03-26 15:33:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
今回は鯉の滝登りについてのお話です。
物語の出典やその解説は、他サイトにおんぶに抱っこです^_^;

●鯉の滝登り刺繍が好まれた地域
 この屋台は昭和初期に彫師・井波の川原啓秀、大工、縫師は共に淡路の人で、それぞれ柏木福平、梶内近一という錚々たる顔ぶれで製作されました。鯉の布団締めは当然、梶内近一によって作られたものです。


↑東這田屋台とその布団締め

 この図柄は、どうやら淡路や讃岐(香川県)で好まれた図柄だったようです。下の写真は香川県高松市牟礼町宮北落合太鼓台の布団締めで、鯉の滝登りがモチーフになっています。

↑高松市牟礼町宮北落合太鼓台の布団締め
観音寺太鼓台研究グループ(代表・尾﨑明男)『太鼓台文化の歴史』(ヴォックス)2011より

 さらに、その元をたどると人形浄瑠璃がさかんだった淡路、農村歌舞伎が盛んだった讃岐(香川県)などでは、その衣装としても好まれていたことが伺えます。

↑淡路人形浄瑠璃資料館(南あわじ市中央公民館図書館2階)
の人形浄瑠璃衣装

●鯉の滝登りの出典
 鯉が滝を上り切ると龍になるという、立身出世の象徴として用いられる図柄ですが、その出典はどのようなものだったのでしょうか? 
 こちらのサイトによると、「太平御覧」という書物(宋の時代、977-983頃成立、ウィキぺd●ア)に以下のような文章があるとのことです。

辛氏三秦記曰、河津一名龍門……大魚?集門下數千、不得上、上則爲龍。
辛氏の「三秦記」が言うには、(黄)河の一名龍門と呼ばれる滝の下に大魚が集まるが、なかなか上れないが、上りきれば龍になる

という意味で、ここでは魚が鯉かどうかは分かりません。しかし、昔の絵図の魚を見る限り、髭があるなどやはり鯉であることが多いとのことです。

●鯉の滝登りの説話が生まれた理由
 中国の『山海経(紀元前四世紀から三世紀に成立らしいバイwikiぺdia)』では、
「龍、鱗蟲之長」とあります(参考 周正律「漢代における龍の属性の多様化について」『東アジア文化交渉研究8』2015)。
龍は鱗がある動物・鱗蟲の長とされており、鯉を含む魚はその鱗蟲に属する事になります。昔の中国の動物の分類の考え方が、魚が龍になるという説話を生んだと言えるでしょう。

編集後記
 播磨国明石郡小寺のめでたき門出を迎えた若き友たちに、この拙文を捧ぐ。







320.京大探訪-①十勝史はなぜ経済学部に?②神社が現れた!?(月刊「祭」2020.1月3号)

2021-01-26 19:14:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-


①十勝史はなぜ経済学部に?
  昨年の1月、酒井章太郎「十勝史」(帯広町)1907という本を求めて、京都大学を訪れました。この本を手に取るのは実に14年ぶりのことでした。この研究で使った本で他にも何か書いていないか確かめるためでした。
 検索すると一番近いところで京都大学にしかありません。希少本で「十勝史」という「歴史書」なので史学系、人文科学系にあるのが、マツオタ本を探していたときのパターンでした。が、なんと所蔵しているのは経済学部
 今から15年前の管理人も、ホンマにあるんやろかという疑いの気持ちでいっぱいでしたが、本当にあって驚いたのを覚えています。書いている内容を確認、コピーをとりました。

 そして、裏表紙を見たときに経済学部にある理由がわかりました。












↑「三井徳宝」「保険代理」 「卸」「小売所」などなど。三井徳宝という企業の広告です。本の後も数十ページにわたっておそらくスポンサーと思われる帯広のお店の広告が掲載されていました。
 現在では公共事業としておこなわれることが多い地域史の編纂ですが、民間でスポンサーと共同で発行したものもあるという資料です。本そのものが当時の経済の資料となるということで、経済学部に置いてあるようです。


②神社が現れた?

 昨年1月9日訪れると小さなお宮さんが、、














 センター神社、合格祈願でした。
 どこぞのマツオタ月刊誌のボンクラ管理人は、センター試験の申し込みを忘れたということもここの神さんはお見通しかもしれません。バチがあたらないように、そして、頭だけではなく心もいい人が京都大学に受かるようにお祈りしてきました。



316.大村のキリシタン②破壊→弾圧→折衝(月刊「祭」2020.12月4号)

2020-12-13 18:11:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

●キリシタン大名の神社仏閣の破壊
 種子島への鉄砲伝来、ザビエルの来日などを経て、キリスト教が日本に広まりつつありました。大村純忠も永禄六年(1563)に洗礼を受け、日本初のキリシタン大名となります。
 しかし、大村純忠がヨーロッパ諸国との交流で得たものは、厚い信仰だけではありませんでした。長崎港の開港などを経て、西洋諸国との貿易による経済的な豊かさも同時に手に入れることになります。一方、西洋諸国にとっても日本を他国同様征服する機会を狙っていたと言えるでしょう。
 こちらのサイトによると、宣教師コエリョが大村の民衆を教化し、やがて仏像を破壊するようになったとのことが、ルイスフロイスの「日本史」に書かれているとのことです。また、サイトの管理人さんが言うように、宣教師が止めている様子もないところを見ると、彼らの教唆と考えることもできるし、少なくとも黙認していたことは間違い無いようです。
 貿易と植民地化をきっかけに伝わった信仰の負の側面が垣間見れる出来事です。やがて、下の新約聖書の言葉にあるように「滅びと破壊」の憂き目にあう人が現れますが、皮肉な結果になります。

  富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。 

●秀吉のキリシタン弾圧
 やがて秀吉は、信長以来のキリシタン保護の方針を改め、弾圧の方に舵を切り始めます。その中の最初の殉教者とされるのが、ペトロ・バチウスタ司祭をはじめとする二十六聖人です。
 東彼杵町の案内板によると、見せしめのために堺より陸路を1日8里馬かあるいは徒歩でゆっくりと行幸させ、九州に渡り、大村の東彼杵から長崎に船でわたらせました。


↑26聖人の乗船場のあと
↑26聖人の乗船場のあとの解説板

↑26聖人の乗船場のあとより海を見ると美しい夕日が

 そのあとは処刑となります。植民地化の下心のツケを払ったのは、純粋な信者だつたのは皮肉な話です。
 一方このような処刑を敢行した秀吉も、天下を取ったのも束の間、大阪夏冬の陣を経て子孫は途絶えます。

 ところで秀吉は幼名を日吉丸というそうですが、これは、比叡山延暦寺の麓にある延暦寺の鎮守の社である日吉大社に由来します。その延暦寺創建者である伝教大師最澄は「御遺戒」でこのようなことを述べたと伝わっています。

怨をもって怨に報ぜば 怨止まず

怨をもって怨に封じてしまった秀吉の未来もまた最後は悲しいものになってしまったようです。

●その後のキリシタン
 禁教は江戸幕府にもうけつがれ、やがて、島原の乱など激しい弾圧劇が繰り広げられます。が、やがては、「黙認」するようになったところもあったのではないかということを、こちらの記事に書いています。
 結局は貿易のあれこれなどの利害に反しなければ、日本は宗教的に寛容な土地柄ということなのでしょう。


 

315.大村のキリシタン①大名の花押 (月刊「祭」2020.12月3号)

2020-12-12 13:07:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
 クリスマスも近いということで、キリスト教の話題です。長崎県の大村市歴史資料館の展示を主に参考にして「大村のキリシタン」という題名で、二回に分けて書いていきます。今回は大村純忠の花押についてです。

①キリシタン大名の花押
 大村の君主で、日本初のキリシタン大名として知られているのが大村純忠です。

大村純忠の書状
 大村市の歴史資料館に展示されたものや解説を見ると、その書状にもキリシタンらしさが出ていることがわかります。

国内向けの書状
 まず国内向けの書状です。とはいうものの見たいで書状の名前も内容もメモし忘れてわかりません😭🙇 内容は見る人がみたらキリシタンだとわかるものだそうです。
 その書状の出し主は大村純忠ですが、そこには大村理専と書かれていました。これは、大村市歴史資料館の開設によると、「出家」することでもらった「法名」だそうです。年号も元号を使っていました。表立ってキリシタンだとは言うのが難しかったことが伺えます。

イエズス会あて、天正遣欧少年使節団にたくした書状
 一方、天正遣欧少年使節団の一員で大村純忠の甥の千々石(ちぢわ)ミゲルに持たせたイエズス会にあてた書状では、「千五百八十二年」と西暦が使われていました。

双方に使われた花押

 

 そして興味深いのがその花押です。国内向けのもの、使節団のもの双方に使われました。どことなく、ヨーロッパ感がでているでしょうか??
 そして、最も注目すべきは中心の文様です。「×」印。これは、45度回転させると、十字架になります。俺はキリシタンだ! 強い信仰をもった純忠の意思が表れているようです。



編集後記
 次回は大村のキリシタン2回目。ちょいシリアスな内容になりそうです。




311.「だんじりなし」のだんじり「系」伝承-長崎県東彼杵坂本浮立の成立譚-(月刊「祭」2020.11月3号)

2020-11-30 13:58:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
 ●長崎県東彼杵町坂本浮立
 長崎県東彼杵町には坂本浮立と呼ばれる伝統芸能があります。見出し画像(長崎県教育委員会、東彼杵町教育委員会『長崎県指定無形民俗文化財「坂本浮立」s53.h7復刻)や下の映像を見る通り、太鼓を主体とした芸能です。




 この芸能の起源として、おおよそ次のような内容が伝わっています。東彼杵町の歴史民俗資料館の展示を参考にしました。
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 万治三年(1660)佐賀県藤津郡岩井川内の三根恵市左衛門秋次が「外山流一伝記」の巻物とともに坂本郷の岩崎十兵衛 山口五郎兵衛に伝えたのが始まり

巻物のおおよその内容は下のようなもの
仲哀天皇は百済新羅国が八つの顔を持つ獅隣という悪鬼を先頭に九州に攻め込んできた。天皇は討伐するも獅隣の首のおこす悪風で病気、死亡。
神功皇后に「三韓征伐」の遺言をのこす
神功皇后は天照に「異邦に勝ちて帰朝せば神楽略して囃子仕えるべし」と御願をたて出陣。

戦勝して凱旋し、御願成就で神楽を略した囃子を奉納したのがはじまり、坂本神楽浮立の由来となる
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 坂本浮立は神功皇后の三韓遠征にまつわる芸能が起源と言えます。


●では「車楽(だんじり)」の起源譚は??
 題名では、坂本浮立の成立譚は「だんじり系伝承」としています。そこで、あらためて何度もこすっただんじり成立伝承を見てみましょう。
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 浜松歌国(1776〜1827)の「摂陽奇観」には
「河内国古市郡応神天皇陵、誉田祭、卯月八日にも出る。これは神功皇后三韓退治の御時、磯良の神、住吉の神など船にて舞いたまふをまねびけるとぞ。(中略)およそ上代の遺風なるべし、これ車楽(だんじり)のはじまりと誉田の村民はいふなり」
 とあり、車楽(だんじり)は船の上で行われた「芸能」が起源だということが伝わっています。車楽という書いて「だんじり」と呼ぶ言葉は車両の上での芸能を意味していたようです。
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 このとおり、「だんじり」は何らかの芸能を意味していたことになるというのが、前回の記事のないようですが、『摂陽奇観』の内容を見ると、こちらは、「神功皇后三韓退治の御時、磯良の神、住吉の神など船にて舞いたまふをまねびける」とあり、道中、凱旋の違いはあれど、神功皇后三韓遠征に由来した芸能であることは共通しています。
 こうしてみると長崎県東彼杵町の坂本浮立は、だんじりのないだんじり系伝承と言えるでしょう。
 しかし、多くの人に理解しやすく分類するのであれば、「三韓遠征による芸能成立譚」という分類の中に、「誉田八幡車楽(だんじり)成立譚」も「坂本浮立成立譚」も入ると考えるのが無難です。


310.由来不明なのに火事避けのお堂?(月刊「祭」2020.11月2号)

2020-11-20 08:27:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●火除けのお堂?
 愛宕神社など火事避けを願う神社が見られますが、火除けの「お堂」も見られました。それを今回は紹介します。

●熊本県菊池市泗水町永の菅原神社前の観音堂
 熊本県菊池市泗水町永の菅原神社の真向かいにその観音堂があります。菅原神社の御祭神はもちろん菅原道真さん。その前のお堂ということは、道真さんの本地仏である可能性が高いはずです。



↑菅原神社本殿か拝殿の梅鉢紋。


●言われも分からない。でも火除けのお堂

↑神社の真向かいにあるお堂


↑七番札所 永村観音堂の文字


 お堂には観音堂とあり、御本尊の頭を見ると十面。+本体の顔で11のお顔。十一面観音さんが御本尊で、道真さんの本地仏としてよく挙げられている仏さんです。十一面観音が菅原神社の真向かいにあるのも意味があることだと言えそうです。
 しかし、この観音さんにまつわる伝承はよく分かりませんでした。でもやっぱりこのお堂は火除けのお堂です。は、それは何故でしょうか??







よーく見ると、「防火水槽」の文字。
お堂には、人が集まるためのスペースができます。消防制度の整備が進むに伴い、そのスペースに防火水槽を設ける町や村もおそらく近代以降でてきたようです。
まさしく、火除けのお堂でした。



●見慣れたこのお堂も
 三木市本町(明石町五か町の大日町)も、一段高いお堂になっているのは、中に防火水槽があるからです。




302.現代の神基習合(月刊「祭」2020.9月4号)

2020-09-30 17:32:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
今回は前置き長め、写真を見せてすぐ結論(というかオチ)という構成です。

●キリスト教との習合
 このブログの読者のみなさんの多くが、神仏習合という言葉を聞いたことがあると思います。仏さんと神さんが一緒に祀られたり、この神さんの正体はなになに仏さんやといったりすることだと理解すればいいでしょうか。
 近年では多くの神主さんやお坊さんもその歴史を抵抗なく受け入れているように見えます。しかし、一方でかつて禁教の対象となったキリスト教に関しては、仏教や神道にそれらが取り入れられていたという言説に対して、やや慎重な姿勢が見られるように感じることが、管理人にはあります。
 とはいえ、クリスマスやハロウィン、西暦の導入など、禁教・鎖国があけキリスト教文化を受け入れて百年を越す日本では、無意識のうちにキリスト教も取り入れているようです。

●キリスト生誕二千を機につくられた? 鳥居
 下の画像は、埼玉県春日部市西金野井の香取神社の鳥居です。近年建てられた鳥居でその由来が書いてあります。








由来には「区画整理事業の実施を記念し」とありますが、その前置きに「西暦二千年を迎え」とあります。神道鳥居建立の契機に何気なく使われている「キリスト生誕二千年」を意味する「西暦二千年」。無意識のうちにキリスト教もまた、日本人の内に入ってきているようです。

 

298.仏教語からできた名詞(月刊「祭」2020.8月4号)

2020-08-14 03:38:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●仏教国日本??
 管理人の母方の家は曹洞宗(南無釈迦牟尼仏と唱える)で、そのご住職さんは、日本という国は仏教国だとおっしゃっていました。確かに、ググると国民の7割が仏教信者であり、同時に神道の信者でもあるようです。
 実際に、自分の家が属している宗派やお寺のお坊さんにたのんで葬式をあげてもらい、七五三、正月、子どもが生まれた時などは神社にお参りするという人はかなりの数に上ることでしょう。これらは日本が長い間、神仏習合国、あるいは本地垂迹国であったことによると思われます。本地垂迹は仏さんが真の姿、神さんは仮の姿という考え方で、こちらの方が主流の歴史がやはり長いことを考えると、日本が仏教国という言葉も肯けます。そんな仏教国日本には、仏教語が名詞化したものがいくつかあるので、それを紹介します。

●説教
 本来はお坊さんがお弟子さんや信者さんに経典や仏教の教えを説くという意味であったと思われます。お坊さんが経典や仏教の教えを説いているように見えることから、一般の人が仏教や経典にも関係ないことを教えたり注意したりする様も、「説教する」と言われるようになったと思われます。



●仁王立ち
 仁王立ちと言われると、ずっしりと立って下を見下ろすイメージがあります。これは、寺院の山門などで置かれる大きな仁王像が人々を睨み下ろしている様相に似ていることからきています。Googleで画像検索すると腕を組んだり、手を腰にやるなど左右対象の画像が多いですが、実物は左右非対称のポーズをとっていることがほとんどです。
 また、仁王像は口を開いた阿形と口を閉じた吽形の二体一組となるのが常ですが、「仁王立ち」の場合は口をへの字に閉じた吽形のイラストがググると目立ちます。


↑長崎県大村市本経寺の仁王像 阿形


 長崎県大村市本経寺の仁王像 吽形








↑「仁王立ち、イラスト」でググると左右対象ポーズ、口をへの字に閉じた吽形が目立ちます。

●阿弥陀如来の後光からできた言葉
 西方浄土、極楽浄土の如来として日本で親しまれてきたのが阿弥陀如来です。念仏と言えば、「ナンマンダブ・南無阿弥陀仏」と連想する日本人は多いことでしょう。そして、西方浄土の阿弥陀如来から連想されるのは西日を背にした姿でした。それはまさしく背中に後光をまとったように見えたことでしょう。
 例えば兵庫県小野市浄土寺の浄土堂には阿弥陀如来が東向き、つまり西側を背に鎮座していました。そして旧暦三月十五日の来迎会という阿弥陀さんが西から間になるさまを表す儀式の日ごろになると、ちょうど真後ろに日が沈むようになっており、中の阿弥陀如来像(撮影禁止)は西日を受けて、さながら後光をまとっているように見えたものと思われます。

↑兵庫県小野市浄土寺浄土堂
 中には阿弥陀如来が鎮座する




↑兵庫県小野市浄土寺浄土堂裏の旧暦三月十五日(2009.04.09)の落日


 このような西日とのかんけいで後光と言えば阿弥陀を連想する人が日本では多くなったと考えられます。そして、阿弥陀如来像でも後光が象られたものが多く作られました。そして、この放射状に伸びた後光が「アミダ◯◯」という言葉を生み出していきます。


↑太山寺常行堂の阿弥陀如来。後光が放射状に伸びています。

アミダクジ

↑今現在のあみだくじ

 今日使われているあみだくじは、上のように梯子状のくじになっています。これでは、おおよそ阿弥陀如来の後光とは似ても似つきません。阿弥陀堂でよく行われた富くじの類かなと管理人は考えましたが違うようでした。
 Wi◯ぺdiaによると、室町時代頃からこのくじはみられましたが、梯子状ではなく放射状に描かれていたので、それが阿弥陀如来の後光に見えたので、「あみだくじ」と呼ばれるようになったようです。
 コトバンクの「あみだくじ」の記述や、その元になった『日本大百科全書』(小学館)1984(倉茂貞助が該当記事を執筆)では、江戸末期に流行し、一種の賭け事に使われていたことが書かれています。





 近年では日本を代表するお笑い芸人明石家さんまさんが扮したアミダババアたるキャラクターのテーマソング・あみだばばあの唄(桑田佳祐作詞作曲)で、「あみだくじーあみだくじー♪」と歌を歌いながら自分のくじをなぞまた思い出が管理人にはあります。



↑「アミダばばあの唄」でYouTube検索した結果。


↑目と耳をひいたタカサキユキコさんの編曲、演奏、歌唱。素敵な歌声とシンプルな楽器演奏で乱文で乱れた心を癒してください。

アミダ
 人力車にも通称「アミダ」と呼ばれる部位があります。ABCのどれだと思いますか?


 正解はAです。お客さんの頭上の雨よけ日焼けの屋根をかぶせたり被せなかったりするための開閉式の骨組みの開いた様子が阿弥陀如来の後光に似ていることからアミダと呼ばれたそうです(某人力車会社の方のご教示)


●観音扉(観音開き)
 2枚の扉の両端を軸に、中心の合わせ目が左右に開く、観音扉(ウィキpディアが簡潔に表現していたので参考にしました)。
観音様を祀る祠や厨子がこのような開き方をすることから、この両開きのものを観音扉と呼ぶようになったと思われます。
 お寺のお堂の場合、観音開きだけでなく、横に引くものもかなり数多くありました。あくまで個人的な憶測ですが、
人間が入れない扉・・・観音開き
すごく大きいとは言えない建物の扉・・・引き戸
相当大きな建物・・・観音開き
が多い気がします。

 
 また、「観音扉」は、神社にも多く見られました。

↑千葉県流山市神明神社内摂社の祠

↑兵庫県三田市西山神社

トラックの「カンノン」
 箱型トラックの荷台後ろの扉も、観音開きになることから、両サイドが羽のように上がって開く「ウイング」に対して、業界内では「カンノン」と呼んでいます。


↑トラック後部の両開きの扉はカンノンと呼ばれる。

●すぐ思い浮かべられる名詞化した仏教用語から見えること
 すぐ思い浮かべられる名詞化した仏教用語には、「観音、阿弥陀」が多いように思います。多くの日本人にとって、「ナンマンダブ・南無阿弥陀仏」などの念仏、西国三十三所や四国八十八ヶ所などの観音さんが、かなり馴染み深いものだったことが見えてきます。
 神さんの祠でも、左右それぞれまわりのドアが中央で合わさる形の扉は「観音扉」。神仏習合の名残はあちこちに残っているみたいですね。



295.神仏分離令先駆けの神号重視-千葉県流山市香取大神宮の庚申碑から-(月刊「祭」2020.8月1号)

2020-08-11 20:59:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

●祭オタクの間で必ず上がる神仏分離の話題
 祭りを見て歩き、古いものに触れるたびに話題に上るのが明治期に発せられた神仏分離令廃仏毀釈令です。これらは、発布されたその日からガラリと変わるというよりも、それに先駆けた動きが処処に見られるようです。
 今回は神仏分離に先駆けた動きを、千葉県流山市香取大神宮の庚申碑から読み取りたいと思います。

●明神から大神宮へ
 香取大神宮は昔からそう呼ばれていたわけではないそうです。もともとは、創建と伝わる神護景曇二年(768)より経津主命と豊玉姫命を祀り桐斎殿と呼ばれ、やがて桐明神と呼ばれるようになったとのことです。もちろん創建年代をそのまま信じることはできませんが、香取大神宮の前の呼び名の前は桐明神と呼ばれていたことは確かです。
 その後、文政五年(1822)郷主藤原利之が領主らとともに官(幕府?朝廷?)に神号を香取大神宮に改めることを申し出て認められたとのことです。「香取」としたのは、香取神宮にも経津主命が祀られていることからだと思われます。この時点で郷主藤原利之や領主は、記紀神話に傾倒していたことが窺えます。
 そして、この大神宮号の取得が、当時行われていた庚申講のことが記された石にも現れていました。

↑香取大神宮



↑楼門中の随身像。仁王さんなどから神仏分離、廃仏毀釈を経て多くの神社の楼門が随身さんに変わりました。




●庚申碑の変化
 庚申待ちをした記録が記された石をここでは、庚申碑と呼ぶことにします。ひとまず庚申信仰について、大塚民俗学会『日本民俗事典』(弘文堂)昭和47年、このサイトウィキpediaを参考に書いていきます。

庚申待ち
 六十干支の庚申の日に行われる行事です。庚申の日の夜には、体内の三尸(上尸、中尸、下尸)の虫が人間の罪を天帝に告げ、天帝がその人間の寿命を縮めると道教では考えられており、それを防ぐために徹夜して見張るようになりました。
 仏教や神道とも習合し、仏教式ではよく「青面金剛」が祀られました。また庚申が申(さる)であること、「三」尸の虫から、青面金剛の使いは「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿とされました。

香取大神宮の庚申碑
 では、香取大神宮境内にある庚申碑を年代順にみていきます。


↑宮入り口左側の庚申碑 左からa,b,c,dとします。


↑宮入り口右側の庚申碑 左からe,f,gとします。

大神宮号取得前の庚申碑
 まずは、大神宮号取得前、桐明神と呼ばれていた時代のものを見ていきます。

f

↑f 青面金剛


↑f側面 天明二年(1782)

d

↑d奉十庚申□諸願成就門(所?)

↑d側面 文化九年(1812)

c

↑c青面金剛

↑c 側面 文化十三年(1816)

g

↑g これは年代が分かりませんでした。
 
 青面金剛という仏教色を前面に出しています。青面金剛が書かれていないdも梵字が見られます。これは、他の青面金剛なものと同じなので、これもまた青面金剛を祀ったものと考えられます。最も古いf以外は三猿が下部にしつらえてあります。では、香取大神宮という神号を文政五年(1822)取得した後の庚申碑はどう変わるのでしょうか。

大神宮号取得後の庚申碑
b

↑猿田彦大神

↑天保五年(1834)

e

↑e庚申 嘉永元年(1848)

a

↑猿田彦大神

↑安政七年(1860)

 大神宮号取得後のものは、青面金剛も梵字も全て消えました。その代わりに現れたのが、庚申の申(さる)や三猿の信仰から派生したと思われる、猿田彦大神の名です。大神宮号取得という記紀神話路線に香取大神宮が舵を切ってからは、庚申待ち行事も、青面金剛から猿田彦大神へと祀る神仏が変容したことが、庚申碑から分かりました。
 一方で庚申待ちという行事自体は残り、それな伴う猿の重視は猿田彦大神の名と共に強くなったのかもしれません。

●さらに古いものから消えたもの
 境内の中にはさらに古いものが残っていました。
 
謎の石
 一応謎の石としておきます。次に述べる同型のものには二十三「宵待」とあることからこれもまた庚申碑だと思われます。
 宝暦十三年(1763)のように十三を重視しているのが、興味深いところです。




二十三宵待
 こちらは寛政二年(1790)のものです。二十三宵待ちとしているところから、庚申碑だと思われます。




消えたと思われるもの
 この二つの庚申碑と思われるものは、建物型をしていますが、肝心の中身になるものが見受けられません。何か前に置かれていたのが、剥がされているようにも見えますし、剥がされてなくても何かを置くスペースがありそうです。そのヒントになるかもしれないものが、五百メートルほど南の神明神社の庚申碑にありました。
 こちらは、屋根はついていませんがそれぞれ上の宵待ち石に近い時代のものになっています。見ると六本の腕を持った青面金剛と思われる尊像が彫られています。もしかしたら、上の宵待ち石にもこのような尊像が彫られていたのかも知れません。



↑宝永元年(1704)

↑寛政元年(1789)