goo blog サービス終了のお知らせ 

月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

258.三木市口吉川町蓮華寺鬼踊り(月刊「祭」2020.2月3号)

2020-02-16 21:51:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●伝・法道仙人開基の三木市口吉川町蓮華寺の鬼踊り
 三木市にも他の播州各地域同様、法道仙人開基と伝わる寺院がいくつかあります。そのうちの一つが、口吉川町蓮華寺です。二月のはじめの日曜日には鬼踊りが行われます。

↑鬼踊り前の本堂。年々参拝者が増えているように思います。



↑鬼さんが踊る前には、お坊さんの読経がありますが、迫力あるアコーディオン読経でした。


↑本堂から鬼が現れました



↑灯籠に火を灯します。

↑まずは開山の法道仙人の前で踊ります。



↑小鬼のおどりと、、

↑大人の鬼のおどりが交互に行われます。
鬼は各踊りのおわりにに松明をばらして投げます。それを門の上に飾ると厄除けになるといわれ、参拝者はこぞって拾います。管理人はとれず、友人のK君に一つもらいました^_^ おおきにです。
 

↑上の鬼花??も、踊りの後は降りてきて、枝を取り合います。五円玉がついた花をとり、財布に入れておくといいそうです。これも、管理人はとれず、残念ながらこれも、そして餅もKくんのお裾分けをいただきました。



↑最後はお面かぶりでパチリ。後厄のやくよけになったかもしれません。

●少し祭りの名著紹介と少しばかりの変化
この鬼踊りについては、小山(現在は藤原)喜美子氏が「オニを迎え祭る人々」(御影史学会)2006で、興味深い指摘をしています。ざっくり言うと、①蓮華寺含む播磨地域鬼は追われるものでなく、悪いものを追い払う役割を持つこと ②決まった家の者が鬼役をつとめること ③小鬼は親鬼が踊る前に場を清める役割があること などを述べていらっしゃいます。
 管理人の要約は頼りないので、兵庫県立図書館や三木市立図書館、姫路市立図書館に置いてありますので、手に取ってみてください。

 さて、②決まった家の者が鬼役をつとめることが、小山氏の著作でも指摘されていました。たしかに、管理人がこの鬼踊りを見始めた2011年から2013年頃はその通り、鬼役を務める方の名字はほとんどかわらなかったことを記憶しています。しかし、今年見ると鬼役の方の名字にはさまざまな名前がありました。もしかしたら、最近は鬼役を務める方も変化してきているのかもしれません。


256.三木市口吉川町蓮華寺のミニ琵琶湖(月刊「祭」2020.2月1号)

2020-02-04 20:42:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

●三木市口吉川町蓮華寺
 鬼踊りなどで知られる蓮華寺は、播州一円に数多くのこる法道仙人開基と伝わる寺院です。法道仙人(参考はもちろん、Wiキpディア)は6世紀から7世紀に生きていたとされる天竺の仙人とのことです。残念ながら、この時代のものは残っていませんが、下のように鬼踊りのときは、まずは法道仙人の前で踊ってから、本堂での踊りが始まります。










●西国三十三箇所めぐりを寺院の中に
 そんな法道仙人開基の寺院として、最も古くから名を残しているのが、法華山一乗寺です。今手元に資料がないので、はっきりしたことは言えませんが、11世紀か12世紀くらいの資料にはその名を残していた、、、はずです。そんな法道仙人が開基したと言われる、一乗寺も名を連ねているのが、西国三十三箇所の観音霊場です。
 西国中を巡って、三十三箇所の寺院を訪れるのが理想ですがそう簡単なものではありません。そこで、寺院の中に三十三箇所の観音の小さな石仏を建てることで、境内で三十三箇所めぐりができる寺院がいくつか見られます。
 また、小野市の浄土寺では四国の八十八箇所がその境内でまわれることになっています。
 三木市の蓮華寺も、三十三箇所の観音さんが境内に安置され、境内一周で西国三十三箇所参りができるようになっています。




●そして琵琶湖も、、
 面白いのは、下の写真の西国三十番の宝厳寺です。




 実は宝厳寺は琵琶湖に浮かぶ竹生島の寺院ですが、それを表すかのように見事に池の上に浮かんでいます。
 厳島は観音さんだけでなく、日本三大弁天のうちの一つの弁天さんもいらっしゃいます。神社では、境内の池が弁天池と言われ、その中に弁天さんを祀らることがよくあります。この場合だと広島の弁天さんにみたててるのか、琵琶湖の弁天さんに見立てているのか、あるいは一般的な弁天さんをまつっているのかは分かりません。
 しかし、蓮華寺の場合、三十番竹生島と書いているので、この池を琵琶湖に見立てていることがわかります。





謝辞:鬼踊りに誘ってくれたk君、ご家族、その友人に感謝。楽しかったです^_^



252.「初詣でどこ行く?」のカルチャーショック(月刊「祭」2019.1月3号)

2020-01-06 21:34:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●案外違う正月の習慣
 自分の中では当たり前な正月の習慣は地方や時代によって随分と違うものだと感じることがあります。もちの形や味付け、おせち料理からお年玉の渡す相手もらえる相手まで。
 その中で管理人がうけた一番のカルチャーショック、といっても実はテレビなどでは目の当たりにしていたのですが、初詣でです。テレビでよく見たのが明治神宮への初詣ででした。


●目から鱗の言葉「初詣でどこ行くん?」そしてさらに聞いたびっくりの言葉
 管理人は新年会などで青年団の友達と会った時は、こう聞いたり聞かれたりしました。「初詣でいつ行った?」この時は「どこ」とは聞かれません。行くところは、屋台が宮入りする大宮八幡宮だと決まっています。なので、夜中の12時に行ったのか、朝日が出てから行ったのかの話題になります。



 ところが、大学で京都に出て聞いたり話題にした言葉は「初詣でどこ行く?」でした。耳にする言葉が、八坂神社、北野天満宮、日吉大社、平安神宮などなど名だたる大きな神社でした。
 「あれ?すんどるとこちゃうやん、おばあちゃんとこ?」
と聞くと、ちがうとのこと。
 その時、自分たちのように氏神さんへお参りする人ばかりではないと改めて知りました。三木を離れて、三木の当たり前を見ると必ずしもそれは、当たり前ではないことに気づきました。
 そして、屋台によって祭がイベント化されていると指摘されたりすることもありますが、氏神さんへの信仰心は意外と祭してへん人らよりは高いようにも感じました。屋台やだんじりは、初詣でを名のある神社でなく、地元の氏神さんにお誘いしているという役割もあるようです。





 


250.本朝高僧大名名言-一休宗純の正月の名歌など-(月刊「祭」2020.1月1号)

2020-01-02 23:38:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
新年があけました。今年1回目は一休さんの正月の名歌など、高僧と大名の名言(と伝わるもの)を紹介します。

●一休さんの正月の名歌と時世の言葉
「正月は(門松は)冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」
 本来ならめでたいはずの正月ですが、死に近づいているという意味ではめでたくないということみたいです。一休さんらしいとんちのきいた歌ですが本当に一休さんのうたなのかどうか真偽の程は定かではないそうです(参考サイト)
 たしかに今よく見る一里塚などは江戸時代以降のものがほとんどです。一休さんの時代に一里塚がはたしてどこまで身近なものだったのかがわかれば、歌の作者の真偽もわかるのかもしれません。
 いずれにせよ、今の時を大切にしたくなる短歌とも言えそうですね。

 さて、この一休さん時世の言葉、管理人は数ある時世の言葉の中でも、この言葉が一番好きです。たしか、偉人の時世の言葉を集めた本でも一休さんのこの言葉が、トリをかざっていました。

「死にとうない」

この世を去る人の本音でしょう。そうおもいながらこの世を去った人や動物は多々いるはずです。

●伝教大師最澄の名言
 これを見たのは2003年です。アメリカがイラクへの攻撃を決め、日本も自衛隊の後方支援を決めた時でした。当時は仏教界はこぞってアメリカのイラク攻撃に反対しているようにみえました。
 京都の寺院の前では宗派をあげて反対する旨の文章を掲げていました。我が母校の龍谷大学では、当時の学長であり管理人の指導教授でもあった僧籍の先生が、おそらく台本とはことなる言葉として、世界への寛容な目を持つことの大切さや暴力にうったえないことの必要性を熱く語ってくれました。
 そして、その時、天台宗の総本山である比叡山延暦寺が『伝教大師御遺戒』の文章を引用した冊子を発行していました。巻頭に書かれていたその言葉は下のようなものでした。

「怨(うらみ)をもって怨み(うらみ)に報ずれば怨み(うらみ)止まず
徳をもって怨み(うらみ)に報ずれば即ち怨み(うらみ)止む」

●別所長治公時世の句、二種類の歌
有名なほう
 三木の英雄別所長治公が、秀吉の城攻めにあい降伏し御自害なされた時の御歌は、大きく二種類のものが伝わっています。
 その一つは、若き青年君主が名君たる根拠ともなる有名なこの歌です。ちなみにこの心意気は各屋台の青年団長に受け継がれているように感じるのは、三木人の贔屓目でしょうか。
「今はただ 恨みもあらじ もろびとの
 命にかはる 我が身と思へば」
残念ながら、それでも秀吉は城内の人間を皆殺しにしたという説も出ています。ですが、この歌は広く歌われ、後世長治公や別所家は一つの「ブランド」として認識され、末裔と伝わる家は数多く残っています。
 また、この歌は武人の鏡として、軍人たちにも好まれていたそうです。

あまり知られていないほう
 江戸時代の地誌『播磨鑑』などには上の「今はただ-」ではなく、下のような歌が残っています。
 
 ながはると よばれきことは いつわりよ
 二十五年の 短き春に

 数え年25歳でこの世を去らねばならなかった長治公の切ない心情を歌ったものです。二十五年という短い春(生きている時間)を自らの「ながはる」という名は偽りだと嘆いています。
 この歌を潔くないものとして嫌うのは簡単ですが、若くしてこの世を去らねばならないのであれば、当然の心境でしょう。

●「今はただ-」を学ぶべき人、「長治と-」を味わうべき人

「今はただ-」は世界に比類なき名歌です。この心意気を日本を含め世界中の為政者たちは学ぶべきでしょう。
 しかし、今の若い人たちには、ぜひ、「長治と-」の歌を味わって欲しいものです。生きたくても生きられなかった人の無念に思いを馳せて欲しいところです。

 でも、日本を含めた多くの社会で、「今はただ-」を学ぶべき人が若者にそれをおしつけているように見えるのは気のせいでしょうか。


 

249.禁教と信仰の折衝-長崎県大村市日蓮宗本経寺より-(月刊「祭」2019.12月12号)

2019-12-30 15:31:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●日本最初のキリシタン大名大村藩主・大村純忠
 今回も長崎県大村市・旧大村藩のお話です。大村の戦国時代末期の領主大村純忠は、日本最初のキリシタン大名と言われ、領民の多くがキリシタンを信仰していました。しかし、秀吉の天下統一や江戸幕府の発足を経てキリシタン禁教への圧力は厳しくなり、純忠の子で初代大村藩主となった大村喜前(よしあき)は加藤清正の勧めもあり、日蓮宗に改宗しました。その時に建てられたのが、本経寺です(本経寺案内板より)。
 では、いくら禁教政策をひいたとはいえ、そう容易く信仰の灯を消すことができたのでしょうか。そこには、公式の文書には記されにくかった現場ならではの折衝があったと見受けられます。
 そのために、日蓮宗を大村家に勧めた加藤清正が治めた熊本藩の事情を見ていきます。
 

↑本経寺の仁王門

↑朱塗りの、仁王像左側

↑朱塗りの仁王像右側

↑本経寺本堂

●戦国末期より江戸初期の熊本藩の事情
 加藤清正が熊本を治める前は、共に朝鮮半島に出兵した小西行長が熊本の領主として君臨していました。小西行長もクリスチャン大名であったものの、関ヶ原の戦いで西軍に味方したことにより、加藤清正に領地を譲ることになります。しかし、熊本もまたクリスチャンの領民が多く清正も頭を悩ませたことでしょう。
 清正自身は熱心な日蓮宗の信者でした。その日蓮宗では妙見信仰もさかんであり、妙見堂に使われたのがなぜか、竹矢筈十字紋と呼ばれる紋です。能勢妙見ももともとはキリシタン信仰の根強い地域で「いやいや法華」とよばれていたようですが、そこでも十字紋が使われています(参考サイト)。
 熊本においても、能勢においても、そして大村においても、信仰の根強いクリスチャンをすぐに改宗させるのは難しかったのだと思われます。そこで日蓮宗に十字紋を用い、形だけ改宗させたのが実情なのではないでしょうか。

●本経寺の十字
 本経寺で妙見堂を見つけることができなかったのですが、大村家の墓所には至るところに十字が見られました。

クルス灯籠
 禁教を厳しく履行した大村純長の七男大村次郎太の墓所ですが、灯篭の窓が十字です。大村純長は郡崩れ事件で、隠れキリシタンのいたことをすぐ幕府に報告し、仏教への改宗とキリシタンの取り締まりを強化して、改易やお取り潰しを逃れています。一方でキリシタンは斬首されるなどの憂き目を見ることになりました。しかしながら、一方的な改宗の強制だけでは、領民が納得しなかったのだと思われます。
 本経寺ではデザインがかわいいからとしていますが、あきらかな十字架です。藩の面目=仏教への、改宗という既成事実、領民の思い=信仰の継続という相反する要望の折衝点が、寺院の中の十字紋だったと言えるのでしょう。このような十字と思われるものは他にも見られました。





柵の十字
 柵には太くてわかりにくいですが、十字がならんでいました。





●笠塔婆も??
 笠塔婆と呼ばれる仏塔もともすれば、十字にみえるかも。。知れません。。。



御霊屋の背後には、、
 御霊屋の背後は、「柱」を模したものですが、十字に見えます。とくに、

↑御霊屋この背後は。。。


↑背後は十字に見える柱。石の板が三枚使われているので、三間にすれば、中心に十字が来ることはありません。あえて二間にして十字を中心に持って来ているようです。

↑こちらも十字が中心に来ています。一間でよさそうなものですが、なぜかニ間とっています。

手水
 上から見るとやはり十字でした。



●大村の禁教
 大村の禁教は熾烈を極めたものでした。しかし、恐怖だけでは領民は納得しなかったのかも知れません。藩を存続させたい大村家、信仰を存続させたい領民。双方の利害の折衝点が日蓮宗寺院の中の十字だったのだと管理人は考えています。



248.長崎県大村市墓の文化と土神(月刊「祭」2019.12月11号)

2019-12-25 14:36:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●長崎県大村市の石文化
 管理人が見たのは大村市の鈴田峠付近ですが、一つの特徴がありました。それが金文字です。最近のものとみられる墓や石碑の多くが金色で文字が書かれていました。



●墓の土神
 墓の多くもまた、金色の文字でしたが、赤などで書かれている文字もありました。



それが墓地の左側に書かれていた「土神」です。このサイトによると、長崎の唐人屋敷の土神と関係あるそうです。リンク先の方は大村市内でみつけられなかったとありましたが、諫早市に近い鈴田峠の専念寺ではたくさんの墓に土神と書いてある石も建てられていました。


その由来についてはこちらにありました。土地の神様から場所を借りて墓を建てているという考え方だそうです。

長崎市内の唐人屋敷にも土神(ドジン、ツチガミ)さんは祀られており、これも同じ考えが根底にあると言われています。




245.長崎県大村市鈴田峠石「押し」の理由(月刊「祭」2019.12月8号)

2019-12-18 22:46:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

●長崎県大村市鈴田峠は石「押し」
 長崎県大村市の鈴田峠道の駅の案内板を見ると、付近の名所は、「石」のものが非常に多いです。管理人はこのうちの藩境石を探したのですが見つけることができませんでした。
 



●石はよく使われていました。
 案内板にあるものの他にも石で作られた、ほこらやお堂はよく見られました。1メートルの高さ、幅、奥行きにいたるくらいの大きなものがよく見られました。では、なぜこのようなものがよく見られるのでしょうか。






●石を使った村づくり
 鈴田峠のあたりは山あいの地域で、川と道に沿うように山の中腹から麓に村落が作られています。
 田んぼもありますが、斜面に作られる棚田が主体でした。このような山の斜面に田や畑、家を作るので、石垣が組まれることも多いようです。このような石の常用が、石を使った信仰物が盛んに作られるきっかけになったと思われます。













242.大村市中里大神宮社-神社の竹と石-(月刊「祭」2019.12.5号)

2019-12-14 15:56:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●竹にさしましょう
 今回紹介する長崎県大村市の大神宮神社(アクセスなど)沿革は後で述べるとして早速建物を見ると、注連縄の下に気になる?ものがあります。


↑注連縄の下には榊らしきものが立てられていますが、竹の筒に入れられています。

↑大神宮神社のすぐ隣の小さな神社も。。

↑中を見るとやっぱり竹の筒で御幣が立てられています。

 神社を考える上では末端のことかもしれませんが、ちょっとしたらアイデアだし、もしかしたら、一つの文化を掲載する事象かも!?知れません^_^

●先祖と幕府の狭間で
-キリシタンの名残!?-







 今回紹介するのは、長崎県大村市大里の大神宮神社(アクセス等)です。元々は古松大権現と呼ばれていたそうです。江戸期には天正二年(1573)のキリシタン社寺焼討ちによって破壊されたそうです。その後寛永十三年(1636)藩主大村純信によって復興されたとのことです。純信自体は幕府と共に徹底してキリシタン弾圧を行ったそうです。
 ですが、大村氏の開祖である純忠はキリシタン大名として知られていました。これらの名残は見られないのでしょうか。
 
 ところで、先程紹介した大神宮は明治期に別の場所から移してきたものです。それ以外にも下の写真のような石のほこらがありました。こちらが古松大権現の名残に見えます。





↑扉を見ると×の模様がのこっています。これらは、一説に十字架を表すものとも言われています。

 神社を復興した純信。そして、キリシタン弾圧をするなど禁教後もこの地を納めた大村氏。しかし、大村氏の威光を示すためには開祖が信仰した十字架が必要だったのかも知れません。



 
 
 

241.鬼瓦!? の金色部位は福の神??(月刊「祭」2019.12.5号)

2019-12-13 15:20:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●鬼瓦とは?? 
 鬼瓦とはなんでしょうか? 他者様のサイトですがこちらを見れば一目瞭然です。元は瓦の端に鬼の顔を置くことで、悪いものが鬼を恐れてやってこないことを祈るためのものだと思われます。しかし、鬼瓦とは名ばかりの悪いものを払うというより、福を呼び込むようなもの、そして一族の繁栄を望むと思われるものが、日本各地(といっても訪れたのは西側の三箇所)で見られました。
 そして、金色に着色されているものもあったので、それらを紹介します。

●長崎県大村市

↑梅鉢の紋でした。

↑梅鉢の鬼瓦のあった家のきのかべは横に板が渡されています。この工法は北前船に通じるものだそうです。だからといって、金色の鬼瓦も北前船とともに伝わった!!というのは、早計です。

●京都府峰山町



↑おそらくエビスさんでしょう。。

↑金色ではありませんが、家紋らしきものが彫られています。

●岡山県真庭市
 三浦氏が関わったとされるとある寺院です。



↑やはり、三浦氏らしく三の家紋が金色に輝いています。


↑近隣の民家には上のような、老人の顔がきんいろにいろづけされていました。長崎県大村市のものと同じエビスさんか??とも思ったのですが、ちがうようです。
 それは、下の金色でない瓦が教えてくれました。
 

↑打ち出の小槌です。この辺り一体は老人の顔とこの打ち出の小槌がかなり多く、やはり同じく服を呼び込むことが願われていると思われます。そして、打ち手の小槌をもつ福の神は大黒さまということになります。



240.長崎大村市の成田山(月刊「祭」2019.12月4号)

2019-12-12 12:39:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●全国の成田山
 全国には「成田山」が数多く存在します。「成田山」は交通安全を祈り、車を持ち込んだ信者がいたことから、全国的に交通安全祈願の寺院として認識されています。
 管理人は縁あって、長崎県大村市と関わることが多くなりそうなのですが、その大村市にも成田山はありました。

●成田山長大寺
 長崎県大村市の国道34号線ぞいに長大寺はあります。縁あってこの地に建てられたとのことです。



↑西国の観音霊場の観音も。







↑御不動産が山の上にいらっしゃいます。

このような「成田山」がなぜこの地に建てられたのでしょうか。

●長大寺の立地(参考:ウィキ●ディア)
 長大寺は、下の地図に見られる位置に位置しています。この地はかつて長崎街道が通っていた地だそうです。そして、現在も大村市と諫早市、長崎市を結ぶ重要な交通の要所となっています。
 さらに、1951年の大村空港の発足から、世界初の埋め立て空港・長崎空港ができました。長崎空港は地方空港にしては珍しく中国などへの国際版も有していました。より、空港がある大村から諫早、長崎に通じる国道34号線の重要度も増して来ました。
 江戸時代の長崎街道から、現在の空港-都市道と性質は進化しています。ただ、長大寺がある大村市と諫早市の境目は交通の守護「成田山」の立地にふさわしいものと言えるでしょう。




謝辞
 突然現れた見ず知らずの私に対し、さまざまなご厚意をたまわった成田山長大寺関係者の方に御礼申し上げます。