サバイバー日記

炎症性乳がんと告知されて6年間。多発転移しつつ、生きたサバイバーな日々の記録と家族の日記です。

遠くにゆく影

2008年02月23日 | アートワーク
   

   「遠くにゆく影」2000年 日春展 奨励賞


 私には 2002年まで師匠がいた。
しかし、私が乳ガンになった頃までである。
私が夏に乳ガンになって苦しかった頃、先生もアトリエから降りる自宅の階段
から踏み外されて首の骨を折るという大けがを負っていた。
2002年の夏は、師匠、弟子ともに入院していたのだ。

また、この絵は父が胃ガンで入院していた時、
父が亡くなる数日前までに奨励賞を頂いたものだ。
父は、新聞に載った私の顔写真を見て、ほんとに嬉しそうにしていた。
そんな粋な事をしてくれる師匠だった。
だから、私にとっては父との思い出もあるが、
師匠との思い出もとても深い絵なのだ。


その師匠というのは、京都の天満宮近くに住まわれていた山本朋克先生の事。
春になれば、天満宮の桜が舞い散る中、日春展のお礼に行ったり、
秋は仕事の合間に新幹線を乗り継いで京都に降り、絵を観て頂く。
車で高速をぶっとばして、先生に絵を観てもらった事もあったけ。
でも、その頃、金沢美大の講師をしていられたので、
ついでに私の自宅まで来てご指導して頂く事も多かった。
忙しい私にFAXで送れるようにFAXをつけたりもしてくれていた。
何より、先生が大好きだったのだ。

なのに、私の手術が終わればとか、日展が終わればとか…。
はたまた、先生の具合が良くなればとか…。
その時々で会うきっかけはあったのだろが、お見舞いに行けなかった。
怪我が怪我だけに人払いをしておられたからだ。


前年の日春展の指導までは元気そうにしておられた。
うちの近くのホテルの和食堂から見える
雪景色をご機嫌なお顔で見られておられた。

 それが、6年前の昨日、ぷっつりと断たれてしまった。
病床に伏せたまま、先生は亡くなられてしまったのだ。
夏に骨折なさってから、不自由な想いをされていたのに、
弟子のろくでなしの私はというと、
抗ガン剤の副作用でヘロヘロでお見舞いにも行けず仕舞いだった。

それから、ちょうど6年。
6年経ちました。先生。

約束は未だ果たせて居ませんが、私、頑張っています。
だから、もう少し、お待ち下さい。
約束が果たせるまで、

もう少し、もう少し…