サバイバー日記

炎症性乳がんと告知されて6年間。多発転移しつつ、生きたサバイバーな日々の記録と家族の日記です。

日常に戻りすぎています・・・.

2008年05月28日 | カニ夫の生活
ブログの更新が滞ってきたのは,疲れが溜まっていると言うよりも,業務が溜まっているのです.

四十九日の法要の後,たまっている業務を何とかしなければと思い始める・.

別に知らなかったわけではないのですが,2月頃からサバイバーとの生活を優先していたため,4月半ばに現場に出ても,頭の中は臨戦モードでは無いのです.

学生からの質問やセミナー,実習課題の作成,グループ分け等々.

そろそろ気合いを入れないと前期が終わってしまう.

サバイバー日記を更新しながら,サバイバーの思いを聞いて頑張ろうと思うのですが,その暇もないようで・・・.

とりあえず7月ぐらいまでは業務に集中して,気合いを入れてブログを更新したいと思います.

時々気晴らしに書き込むかもしれませんが,ご心配なさらないでくださいね.

本日終了

2008年05月25日 | カニ夫一家
本日、サバイバーの四十九日の法要が無事終了いたしました。

カニ夫、娘、サバイバーの母、サバイバーの弟一家、友人にて勝光寺にて法要のあと、サバイバーの好きだった近くの中華料理屋さんで食事をしました。

そのあと、娘とサバイバーの母と3人で墓地を見に行きました。高速道路沿いでサバイバーの実家の近くで良く通る道沿いでした。あいにくの天気で白山は見えませんでしたが、晴れるとよく見える場所だと思います。ちなみに海にも近いです。

市外在住なので墓地の使用許可が出ると良いのですが、6月に入ってから時間を作って申請に行ってみたいと思います。

何となく疲れているのでブログも停滞気味ですが、時間を作れるように頑張りたいと思います。

何となく落ち着いてきて、忙しさが増してきたカニ夫でした。

サバイバー日記[26](メール配信)

2008年05月24日 | サバイバー日記(メール配信済み)
【サバイバー日記】26________「早く、早く、会いに行かねば…」:2003/02/20配信

2/10(月)娘は朝から保育園に行きたがらない。「○○ちゃんは、○○(娘)の事、嫌いって言った~!!!」って泣きながら嫌がる。もう、いい加減めんどくさくなった私は欠席する電話を入れるが園から折り返し電話が入る。「卒園に近いから登園させてください」との事で無理矢理引きずるように登園させた。あ~疲れた。今日は血液検査するのも遅くなった。病院から帰るともう午後だった。

2/11(火)建国記念日/卒園前の休日に「よいこのつどい」に出かける。親子遊びなどを学ぶ。そういえば、親子で遊ぶ事などあまりしないな…と反省する。

2/12(水)血液検査は異常なし。おとつい「○○ちゃんは、○○(娘)の事、嫌いって言った~!!!」って怒って泣いていたのに、今日は二人でお風呂に入って、ご飯も食べてのフルコースで遊んでいた。いったい、なんやったんやろう~?

2/13(木)昨年○ッコーを辞めた同僚が遊びに来た。これまた数年前に○ッコーを辞めた友人と合流し、「いちなか」でランチしながら三人で○ッコー談義する。バブルの一番忙しかった頃に仕事出来たのは幸せだったのかもしれないな~と思う。
闘病中の師匠の山本先生に春を告げる明るい黄色のボンボンがとってもかわいかったのでミモザのお花とチョコを送った。お元気なのだろうか?昨年の6月に会ったきりだが、お互いに病と闘っているので、カードに「私も頑張ります」と書いた。
娘はこのところなぜか?バレエのレッスンにやる気を出したようで、次のお姉さんクラスのレッスンも見学する意気込みだった。見学して帰ってくるともう7時もすぎていた。
夜の9時もとうに過ぎているというのに「あっ!!!明日は…」っと思い出した。
バレンタイン用のショコラマフィンとブラウニーを作らなければ・・・
私でも今までバレンタイン用の手作りのものなんか作った事がなかったのに娘にせかされて作るとは思いもしなかった。うちにあるオーブンも初めて使うのだ。ちょっぴり不安で爆発しないか?とビクビクしながらも、思いの外ふっくら、美味しく焼けたのだった。しかし、すっかりくたびれてしまう。
娘は好きな男の子にあげるためにハートにくり抜いてチョコペンで「すき」「LOVE」って書いていた。私の娘ではないような、その女の子らしさはいったい…?それを見たパパは、とっても不機嫌だった。

2/14(金)聖バレンタインデー
娘は朝、保育園にラッピングしたブラウニーを持って行った。
今日はタキソテール※1の投与日だった。
今回で術後6回目で3クール終わった事になる。
昨年勤めていた向○高校の時の教え子が働いていて、「一度、来てくれ」と言っていた「たけし」で美大の仲間達と飲む。教え子はすっかり腰も低くなっていて見違えている。社会に出て、立派になっているのを見るのは嬉しいもんだなあ~と思う。

ちなみに 「和食の革命児割烹たけし」

お店の詳細ページURL:
http://gourmet.yahoo.co.jp/gourmet/restaurant/Hokuriku/Hokuriku/guide/0101/U0002014517.html

お店の地図のURL:
http://map.yahoo.co.jp/cgi-bin/ploc?nl=36.33.28.58&el=136.39.07.87&icon=mark_loc&l=1&cat=cat03

一風変わった食器に割烹だけど折衷の盛りつけだった。久し振りに飲んだビールが美味しかった。

2/15(土)血液検査するが白血球は3300で注射なし

2/16(日)北陸○けぼの会の主催の乳ガンの患者会に参加した。午後は金大のK先生の「かしこい患者とは」という患者と医師とのコミニュケーションについて学ぶ。その後、○たば乳腺クリニックのT先生「乳ガンの最新治療」の講演会だった。カペシタビン※4などの最新の抗ガン剤治療とアリミデックスなどのホルモン治療について聞く。T先生には私の治療について放射線の有効性とホルモン治療の選択について質問した。今のままの治療で良いのではないかという事だった。しかし、講演会の後の質問コーナーで「再発したら、駄目ですね・・・」とあっさりと答える。おい、おい、では、再発した人にはもう治療の手だては無いのか?駄目なのか?と言いたくなる。ここには再発した人だっていっぱいいるんだぞ!!この先生は金沢でも評判の乳ガンの名医として名高いのだが、こんな無神経な先生には診てもらわなくて正解だと思った。ちなみに北陸三県で、○けぼの会の顧問になっている乳腺の専門医はこのT医師と私の執刀医のK医師だけである。

2/17(月)このところ金沢も春めいて来て、本当に良い天気だ。
日春展も描かねばと思いながら、ついつい重い腰が上がらない。
昨年の夏から闘病中の山本先生の奥様から手紙も届く。悲しい事に先生は手紙も書けない、食事も出来ない状態らしい。早く、早く、会いに行かねばと思う。

2/18(火)血液検査で白血球2800だったので念のためにノイトロジン※2の注射をした。おとついの○けぼの会で会った同じ炎症性乳ガンの方の再発の様子をI医師に話した。その方は、リンパ節を取らなかったせいか?リンパ節に術後一年半で局所再発したので、来週に再手術だそうだ。しかし、私の知識でもリンパ節の再発の場合、手術しても予後には変わりはないとは思うのだが、それはそれで化学療法も放射線もホルモン治療もした上での再発なので、他の治療と言っても、手だてがないのだろう。I医師も同じ意見で、再発してもどうにもならないと言っていた。しかし、私の場合は予後には変わらないとは知っていたけど、結果的にはリンパ節にも転移していたので郭清してごっそり取っておいて正解だったのかもしれない。たぶん放射線も再発のための治療に取っておいているのではないかと思う。
「サバイバーさんも再発しやすいからね。治療を続けないと(再発する)ね」って念を押された。わかっているのにな~そんな念を押さなくても…ちょっと立ち上がれなくなる。肩こりがひどいので帰りにリハビリ室に寄ってパパにリハビリしてもらうがいっこうに納まらない。うちに帰ってからお昼食べてからお布団に潜り込む。白血球が低いのと再発の不安がない交ぜになって身体がだる~く感じる。

2/19(水)すっかり、春らしい陽気に和室の掛け軸も「鶴と松」から「櫻に軍鶏」に変え、私の子供の頃からだから、すっかりくたびれてしまっている御雛様を出す。お昼ご飯食べたら、疲れがどっと出て、爆睡してしまった。起きたらもう夕方でびっくりする。あわてて娘を迎えに行く。

2/20(木)活性化リンパ球※3の投与日で病院に行く。今回で5回目であと1回で1クールが終わる。だいたい6回1クールで治療が終わるのだが、(私の場合あと手術の時の癌組織を使っている/CLT療法)治療効果を確かめるための血液と次回の点滴の培養用の採血そして通常の西HP.の採血あわせて8本(30㎜×8)取られる。
なかなか血管が細くて手の静脈からは無理なので、今日も四人がかりで足の動脈から採血して、その後活性化リンパ球の点滴をした。
採血の結果、白血球は4800で注射はなし。ヘモグロビン値11.7でちょっと貧血気味だった。栄養状態もあんなに食べているのに良くない。なぜだろう?昨日から身体もだるいのはやはり貧血のせいか?
それなのに、今日はたくさん血を抜かれ、吸血鬼に血を吸われた人みたいに生気も抜かれたようだ。疲れた顔を見て、夕ご飯作るの嫌だろうとパパが「ホットハウス」のカレーを食べに連れてってくれた。お豆のカレーは、まったりしていて美味しい。トマトスープもピリ辛で美味しかった。

※1/タキソテール=タキサン系の抗ガン剤の一種、吐き気、悪心、骨髄抑制などの副作用は他の抗ガン剤より比較的軽い(術前のアドレアシンは副作用が強いとされる)

※2/ノイトロジン=白血球が落ちた時に使う免疫活性剤で皮下に注射する(白血球の平常値4000~7000なので3000以下に白血球が落ちるとウィルスなどに抵抗力がなく軽い風邪でも肺炎になったりして重篤になってしまうため)

※3/活性化リンパ球=活性化リンパ球療法という免疫治療のひとつ。完全寛解(治癒)部分寛解、不変(癌が大きくならない状態)あわせて奏効率28%くらいではあるが、第四の癌治療の選択肢として期待されている。しかし、大学の研究機関とか治験程度の患者しか扱っていないので、自由診療の横浜のクリニックはかなりの高額な治療だが、末期の患者や進行癌の代替治療の一つになっている。

※4/カペシタビン=抗ガン剤の一種、現在アメリカでは乳ガンの標準治療剤のひとつになっているが、日本ではまだ認可されていない。肺ガンのイレッサの副作用で厚生省がびびって今年の3月認可予定がずれこんで12月末になるのではないかと言われているくらいお粗末な日本の抗ガン剤事情だ。

※5/アリミデックス=アロマターゼ阻害剤でホルモン治療薬のひとつ。身体の脂肪組織や副腎や卵巣に存在し、男性ホルモンをエストロゲンに変換する酵素を抑える。
抗エストロゲン剤のタモキシフェン(ノルバテックス)より子宮体がんを起こす危険性もなく、奏功率も高いので閉経後は第一選択薬となる。しかし、閉経前の患者に対する治験の結果はまだわからない。現在は閉経前のホルモン治療は、LH-RHアゴニスト(リュープリン、ゾラテックス)が第一選択となる。


サバイバー日記[25](メール配信)

2008年05月21日 | サバイバー日記(メール配信済み)
【サバイバー日記】25________「いつまで…」:2003/02/10配信

1/27(月)生協のグループ活動費を使って、今日は国際ホテルでランチする予定だった。主催の方が家族中でインフルエンザでダウンしたため、それならと食事券のチケットを出し合ってランチを食べた。そうゆうところがいかにも生協仲間らしい。日頃の生協のトラックの前の立ち話がホテルに変わっただけであるが、おしゃべりも白熱してすっかりオバサンと化していた。注文したパスタランチにはデザートバイキングなどもついていて、ついついすべてのケーキを食べ尽くしたくなる。う~、いけない、いけない…

1/28(火)採血するも白血球は平常値だったので、ノイトロジンなし。でも、インフルエンザがかなり流行っている様子だ。外に出かけるのも気合いが入る。

1/29(水)
昨日夜半から、ひどい大雪で交通機能がストップ状態。パパはおにぎりもって、朝7時に出かけていった。それでも一時間はかかったらしい。車で外に出られない状態なので、昨日からコンコンと咳をするようになった娘を休ませた。でも、実はずる休みなんだ。だって、インフルエンザも先週から園で猛威を奮っていて、溶連菌も併発して赤くお腹が腫れる子供もいる始末…家族中でインフルエンザで大変だと園のママさんからメールが入ってくる。ほんと、保育園が一番危険地帯だもん。というわけで、娘と二人でお家にこもったのだが、お家の中で二人きりだったので私に飽きたのか?二時間かけて疲れて帰ってきたパパにスリスリする娘だった。

1/30(木)
いつまでも降り続けている雪が朝から凍って、道路は凍結している。今日も気合いを入れてパパは出勤して行った。でも、午前の勤務だけなので、パパと母とジャスコに快気祝いのお買い物に出かけた。快気祝いの手続きに時間がかかり、また、帰路は大渋滞に巻き込まれてしまった。おかげで娘のバレエのレッスンの時間に遅刻してしまった。パパは「自分だったら怒るよな~」と言っていたが、娘に「ママのせいで遅れて、ゴメンね」と言うと「いいよ~!!いいよ~!!」と妙にあっけない。

1/31(金)今年、3回目のタキソテール投与日だった。I医師は学会で不在なので、超!!無口なW医師だった。看護婦泣かせのおしゃべり好きなI医師がいないとやっぱり寂しい。でも、診察の時間が長引くので、看護婦さん達にはかなりの不評らしいが、そういえば診察時間は長いかもしれない。抗ガン剤をしていると「先に帰るわ」とパパが早退して帰ってしまった。ついにサバイバー家もインフルエンザか?

2/1(土)風邪でダウンしているパパを後目に病院に行く。採血したが、白血球は3300でノイトロジンなし。午前中は娘を預かってもらおうと思ったが、母は同窓会にいそいそと出かけて行った。

2/2(日)パパは朝からぐったりしているので、元気な娘を連れて、近くの道路工事中の坂を利用して雪だるまを作ったり、ソリして遊んだ。

2/3(月)今日もパパは休み。採血したら、やっぱり疲れているのか?2700になっていたので、ノイトロジンの注射。
自宅に帰ったら横浜のクリニックからメールが入っていた。いろんな誤解があろうが、患者に勘違いさせるメールは疲れてしまう。しかも、そちらの勘違いと片付けさせられるには頭に来たので「心外だ!!」と書いたら、大慌てでメールが帰ってきた。午後、母が38.5℃も熱が出たというので近くの病院に連れて行く。帰りに、 JTBに寄る。3/6に、横浜の再診のスケジュールが決まったので、ついでにディズニーランドのホテルに予約した。いろんなパンフレットがあって、どれが良いパックツアーが迷う。あ~終わった、終わった、と帰ってくる途中、母が入院したと知らせがあった。急いで、入院の準備をしに、母のアパートに行く。入院荷物を届けてK病院から帰って、夕食を作っていたら、「ママ、大変やろ~」と洗濯物を取り込んで、たたんで、ちゃんとタンスにしまってくれていた。親がやらせるのではなく自分で考えてお手伝いが出来るようになったのか~子供の可能性はそんなところから芽吹くのかもしれない。

2/4(火)朝、母の病院に足りない入院道具などを持って行く。インフルエンザが腎臓について、尿路感染を引き起こしていたらしい。しかし、「あれが足りない、これが足りない」と私にいろいろ言いつける母…「いつまで?(持って行けば良いの?)」
と聞くと、何かと言い訳を長々とした揚げ句に「今日中か明日でもいいけど…」と言う。インフルエンザが移るからと個室に入れられているのに、抗ガン剤治療中の私に移る事は考えないのか?とちょっと腹立たしくもある。でも、個室で話す相手もいなくて、よっぽど寂しいのだろうか?家に帰ってほっとしたら、昨日のクリニックの件が無性に腹がたってきた。これではイカンと思って、気分転換に北海道にいる友人に電話した。久し振りの声に安らぐ。まったく、母には疲れたなぁ~と重い腰を下ろすと、今度は、開けた冷蔵庫のドアの隙間に娘が指を挟んでいて、それを知らずにパパが閉めてしまい、大泣き…
はぁ~、次から次とやらかしてくれる。当番医が整形外科のドクターなので急いでN病院へ走る。一応、湿布して寝る。

2/5(水)昨日の指が心配なので、N病院でレントゲンを撮った。骨には異常なし。
園も休んだので、この際、入学式のお洋服を買いに名鉄エムザに行った。
まずは、地下の「ぶどうの木」でニョッキのランチで腹ごしらえ。それからいろいろ回って組曲で試着した。「どうしても、これでなきゃ駄目!!」と他のものも見ないので、そこでセレモニースーツを買う。私のスーツも探すのだが、なかなか思い通りのものがない。「ママ、これ着てみて~」と勧められたものを着て、娘の買ったスーツと合わせてみるが、なかなか決め手に欠ける。それにしても、あれだこれだとわぁわぁ言いながら親子で買い物出来るようになったのがとても嬉しい。楽しくて嬉しくて、すごく歩いて疲れたはずなのに、元気だった。
娘と笑いあいながらも、いつまでこんな日が続ける事が出来るのだろうか?と急に不安になって、涙がこぼれ落ちそうになる。

2/6(木)すったもんだいろいろあったクリニックからいつもの通り、活性化リンパ球が送られてきた。そう言えば、こんなに高額なものを送っておいて保険もかけていないし、送ったとも連絡もないし、着きましたか?とも確認もしないクリニックの対応はそれで良いのか?とふつふつと疑問が湧いてくる。病院とはそういうものなのか?会社勤めだった私には理解しがたい。いやいや、そんな事考えると免疫が下がっちゃうわ~といつも通りに投与した。採血したが、白血球は平常値でノイトロジンなし。

2/7(金)汗をかいたから、どうしても風呂に入らせろ~とドクターに迫って許可をもらった母は、「今日お風呂に入って熱が出なかったら退院だから、お風呂セットを持って来て~」と言う。だったら、風呂に入らず明日退院したら?と思うのは私だけではあるまい!!そういえば、リンパ球投与の後必ずだるく感じるのだが、今日はなんだか身体がだるい。木曜日、魚津にアルバイトしてきた疲れか?パパまたもやダウンで早退してきた。

2/8(土)今日も朝からパパダウンでお休みしていた。昨日のお風呂でも熱が上がらなかった母を午後に迎えに行った。昨日お風呂に無理に入っているはずの母はまたもや帰ってきたそうそううちの風呂に入りたいと宣う。寂しい病だ。

2/9(日)園でもらった整理券を持って、「北國たのしい一年生大会」に出かけた。密かに二人分のお土産を間違えて貰ってしまったのでちょっとラッキー!!パパに迎えに来てもらって、帰りは名鉄エムザで水曜日にお取り置きしといたスーツを買いに行った。「買って良いよ~!!」って言ったのでおぉ今日はやけに気前が良いなあ~と思ったら、ワンピースの値段だけ見たらしく、帰りがけに駐車料金が3時間タダになったので「なんで?」と聞かれて、「ジャケットとあわせたら?????円以上になるから」と言うとビックリしてた。またまた、ラッキー(≧∀≦)/
パパはお気に入りの無印良品で、ミルクホイッパーなどキッチン用品などを買い物してた。夕食に「ぼてぢゅう」のお好み焼きにビールをつけて気が大きくなったパパは娘のリクエストで「ぶどうの木」のニョッキまで食べた。ラッキーだけど、ウッ~プッ!満腹!!帰ってからも、ミルクホイップしたココアに早速買ってきたバナナバームクーヘンを食べる私達…う~ん、いつまで食べるのか?


※タキソテール=タキサン系の抗ガン剤の一種、吐き気、悪心、骨髄抑制などの副作用は他の抗ガン剤より比較的軽い(術前のアドレアシンは副作用が強いとされる)

※ノイトロジン=白血球が落ちた時に使う免疫活性剤で皮下に注射する(白血球の平常値4000~7000なので3000以下に白血球が落ちるとウィルスなどに抵抗力がなく軽い風邪でも肺炎になったりして重篤になってしまうため)

※活性化リンパ球=活性化リンパ球療法という免疫治療のひとつ。完全寛解(治癒)部分寛解、不変(癌が大きくならない状態)あわせて奏効率28%くらいではあるが、第四の癌治療の選択肢として期待されている。しかし、大学の研究機関とか治験程度の患者しか扱っていないので、自由診療の横浜のクリニックはかなりの高額な治療だが、末期の患者や進行癌の有一の代替治療の一つになっている。


サバイバー日記[24](メール配信)

2008年05月21日 | サバイバー日記(メール配信済み)
【サバイバー日記】24________「オッパイありがとう」:2003/01/28配信

1/17(金)今年二回目のタキソテール投与日だった。帰りに「百万回生きたネコ」という絵本を探してたら偶然見つかった。何回死んでもいつも満足できなかったネコは百万回目にようやく自分の好きな生き方が出来て、満足したので二度と生き返らなかったという物語だ。
娘にも自分の人生に満足出来る生き方をしてもらいたいとこっそり買っておいた。娘にも、私にも、旦那にも・・・出来るのかな?

1/18(土)朝、血液検査、白血球2800でノイトロジンの注射を打つ。
近所の「衣や」で東京から来た大学の時の友人と宴会をした。
金沢は久し振りだからと香箱蟹を事前に注文しておいた。やはり旨い!
知り合って21年もの月日が経ってもいたって何も変わらない友人達に励まされる。大学時代の仲間とその思い出は私にとっても何事にも変えられないもので、みんなに出会えてホント良かったと思う。もし輪廻というものがあるのなら、生きている間に出会える人みんな、生まれる前から知り合っていたのかもしれないなあと思う。

1/19(日)久し振りに夜遅くまで飲んでいたので、ゆっくり起きて朝ご飯を作る。
昨日うちに泊まった友人達と昼は「たぬき寿司」に行く。やはり旨い!
彼らは「頑張って!!」と握手し、それぞれ元の生活に戻って行った。

1/20(月)昨日、寝る前に娘が机の角に思い切り頭をぶつけて大出血してしまったので、念のため病院に行く。私が大丈夫だからと言っても「治るまで、保育園に行かない!」って言っていたのに、ドクターから「えらかったね~、もう大丈夫だよ!」と言われるとそんな事があったか?っていうくらい平気な顔をして遊んでいた。私もついでに血液検査。白血球4200でノイトロジンはなし。あれだけ飲んだのでちょっと心配だったが、身体はゲンキンだった。

1/21(火)近所の癌友?であるK先生が再発したと聞いたのでお見舞いに行く。
○大付属病院にいるはずなのになぜか居なかった。仕方なく、ついでに美大に寄ってきた。センター試験も終わり、生徒も先生も卒展や入試に向けて忙しそうだった。学生は相変わらずとんがっていて、外部からの人間を睨み付けるような雰囲気だ。
私達もそうだったのかな?
帰ってきてから、先生の自宅に伺うと大学病院は予約でいっぱいなので入院出来ず、違う病院に入れられたそうだ。8月にお話した時には癌が寛解したと医者にもお墨付きだったはずなのに・・・今度も自覚症状があって受診したが、病院の検査待ち、入院待ち、で一月近くも待たされたそうで、「イライラしたわ~」と奥様が諦め顔で言っていらした。一月近くも待たせる神経がわからない・・・命が縮む思いとは、まさしく、こうゆう事なのだ。

1/22(水)随分前から補正用のオッパイをつけたら?と旦那に言われていたので、紹介された業者に連絡して自宅にきてもらった。まさに、新しいオッパイとの出会いだった。
あまり期待はしていなかったが、この際、右側にも底上げしようかしら?と企むくらいに形、柔らかさとも良い感じだ。
フィッテングをしてくれた方は自分の娘さんが赤ちゃんの時に神経細胞芽腫という癌になって大変だったらしい。ようやく10年たって再発の心配がなくなったらしいが、その時の医者とは「放射線をかけるかどうか?」を治療方針を揉めたらしい。
ドクターは「放射線をかけたら50%の確率で再発しない。でも、神経的な後遺症は残ります」と言い、この方は「50%の確率しかないのだったら、神経的な後遺症が残る放射線はしない」という判断をしたと言う。
ドクターは当然「お母さんは、この子を見捨てるのですか?」と言ったそうだが、
「私は、この子は生きていくと思っているので、将来的に後遺症が残るのは嫌だ」と放射線治療を拒否したのだそうだ。結局、この子は身体に傷跡は残ってはいるが、神経的な後遺症もそれほどなく元気に6年生になっているそうだ。確率といってもその人その人それぞれの考え方や生き方があるのだ。治療をしていくうえでは、自分で納得したうえで判断する事が後悔がないのだと思う。新しいオッパイとの出会いに、もれなく新しい人との出会いと新しい考え方も付いてきたのだった。

1/23(木)三回目の活性化リンパ球投与日
血液検査も白血球が3300だったが、とりあえずノイトロジンも無かった。

1/24(金)高校の友人と保育園のママと四十万のKAOというタイ料理のレストランでランチする。私の病気がきっかけで三人で会うようになったのだが、友達の友達は本当に友達だったのである。世間って、まったく狭いのである。
夕方、補正用のオッパイと下着などコロプラストの商品が届く。
嬉しがって、ホレ・ホレと娘にも触らせる。
手術で胸が無くなる事に対しては命との引き替えにまったく抵抗が無かったが、やっぱりあるのならあるに越した事はないのである。そんな事にまったく無頓着な私だったから、新しいオッパイを紹介してくれたパパに感謝する。
「パパ、オッパイありがとう!」

1/25(土)ヤマハのレッスンに合わせて、新しいオッパイを着けて行った。
胸が痛み出してからというもの、あまりに長い期間、下着をつけていなかったのでブラジャー自体が痛く感じる。しかも、痺れてきた。まったく弱っちい身体だ。

1/26(日)娘は朝から子供会の新年会に出かけた。小学校のお兄さん、お姉さんの中で遊んできたらしい。午後、ベットも届く。とってもラブリーな薔薇の花柄の新しいベットカバーとピンクのチェックのシーツも買って大喜びだ。
それまでベットが来たら「一人で寝る!」といばっていたのに、「ママ~、一緒に寝て~」とシクシク泣く始末・・・仕方ないので添い寝したが、私自身がすっかり疲れてしまった。「振り出しに戻る、一回休み」って感じだ。
新しいオッパイも明日の国際ホテルにランチに行く時、また着けてみよう! 
振り出しには戻らないぞ~                      (つづく)

※タキソテール=タキサン系の抗ガン剤の一種

※ノイトロジン=白血球が落ちた時に使う免疫活性剤で皮下に注射する(白血球の平常値4000~7000なので3000以下に白血球が落ちると通常の免疫が無い状態なのでウィルスなどに抵抗力がなく風邪でも肺炎になったりして重篤になってしまうため)

※放射線=通常の治療である手術、抗ガン剤の他にどうしても取り残しや手術出来ない部分に腫瘍が出来た場合などに使う癌治療

※活性化リンパ球=活性化リンパ球療法という免疫治療のひとつ。免疫が下がったために癌になったのにさらに抗ガン剤で免疫が下がってくるのをくい止める。完全寛解(治った)部分寛解、不変(癌が大きくならない状態)あわせて奏効率28%くらいではあるが、第四の癌治療の選択肢として期待されている。


サバイバー日記[23](メール配信)

2008年05月21日 | サバイバー日記(メール配信済み)
【サバイバー日記】23________「青尻」:2003/01/16配信

今日は粉雪が舞い散っている。

1/15(水)弟の娘が生まれた。
私が娘を産んだ時も粉雪が降っていた。
48時間もの陣痛に耐えて、やっと産まれた娘だ。
その娘ももうすぐ6歳になろうとしている。
その時には自分の子供が大きくなるのが当然で、その成長を見守る事が親としての喜びであったはずだ。今、このような状況になるなんて想像もしなかった。
でも、新生児はなんと小さくて、赤いものだろうか?

1/14(火)術後の補助療法にホルモン治療であるリュープリンは長い期間になると保険適用出来ないらしくゾラテックスに変える事になった。今まではちょっとした腕への皮下注射だったのが、5ミリもあるかのような太い針で10ccの麻酔をしてから針を腹部に刺すのだが、痛くはないが、なんだか気持ちが悪い・・・ぬ・ぬ・ぬ・ぬ・ぬ・・って感じだった。白血球は3300でノイトロジンはナシだった。

1/13(月)同級生達に会う。同じ日本画を描いていた仲間だ。
地方で高校の教員をしている彼は、クラスで担任を持った生徒達に教室で大麻を吸われた事件があり、マスコミ対策で大変だったと話していた。それに比べれば、私の行っていた高校なんかは授業時間に飲酒したぐらいだし、まだまだ青尻だ。
私達も大学時代には無茶をたくさんしていたが、今思うとかわいいもんだ。
出席の返事だけはして、授業を抜けだして内灘に遊びに行ったり、野田墓地に肝試しに行ったり、夜通しバンド仲間と下宿で練習したり、海から上がる太陽が見たいと思いついて朝方に凍る能登路を走り、内浦からの朝日を見たり、「さんさんごご」で一升瓶を一晩で空けてしまったり、今思い出すとほとんど思いつきで行動しているな・・・きっと、大麻も思いつきだっただろうなと思えてしまう。

1/12(日)この間からチェックしていたベネトンのランドセルを買いに行った。ベッドも買った。
毎日くっついて寝ている娘なのに、一人で寝る事が出来るのだろうか?と心配をよそに「大丈夫だも~ん!!」といばっている。以外と娘の方が大丈夫で私の方が寂しいのかも?

1/9(木)3回目の免疫治療のための30ccの採血のあと、横浜から来た2回目の活性化リンパ球を点滴する。抗ガン剤だと風邪ばかりひいていたが、風邪に強くなり、蓄膿も治ってしまった。いつも、抗ガン剤のあとは毎日ノイトロジン(白血球をあげる免疫不活剤)をしていたのだが、白血球も2000台になることもなくなった。副作用が比較的軽いとされるタキソテールだからか?

明日は今年2回目のタキソテールだ。入院しないで外来で2時間かけて抗ガン剤を点滴するので、読みたい本を持ち込んだりして楽しんでいる。
この間は友人から勧められて「水は答えを知っている」を読んでいた。水の結晶がいっぱい写真で出ているのだが、「ありがとう」と水に語りかけると綺麗な結晶を作るのだそうだ。逆に「ばかやろう」というと結晶はガン細胞の様になり、「無視」すると粉々になって一番形がくずれてしまうそうだ。雪の舞い散るこの金沢にも綺麗な結晶を見る事が出来るように私も感謝を忘れずに美しく生きたいと思う。

でも、「切り干し大根がどうしても買いたいから、スーパーに行って!!」
と我が儘を言う母にムカツク私も、まだまだ、青尻だ・・・

(つづく)


不思議な気持ち

2008年05月19日 | サバイバーとカニ夫
メール配信のサバイバー日記を見直しながら投稿していると、その時の状況がリアルに蘇ってくる。

サバイバーの話している顔、話し方、仕草。昨日のように感じる。

この日記の投稿が終わったら淋しくなるだろうなと思う。
でも、その時にはだいぶ前進していて大丈夫かも知れないとも思う。

今日、地域理学療法学の講義で終末期リハビリテーションの説明をした。
最後まで「尊厳」のある生活を・・・と教科書には書いてある。

たぶん、学生には理解できないだろうと思う。
出来るだけ想像して欲しい。自分のことが自分で出来ず、思いが伝えられず、周りの人にすべてを決められる状態を。
尊厳を上手く説明できないが、私が終末期を迎えたら「思いをわかって、気を遣って欲しい」と思う。

私もサバイバーと同じように、特別なことを望むつもりは無いと思う。

笑いながら一生懸命に生きてその時を迎えたい。
何故かそんな気持ちに成ってくるのである。

サバイバー日記[22](メール配信)

2008年05月19日 | サバイバー日記(メール配信済み)
2003/01/05配信

新年あけましておめでとうございます。

昨年は大変な一年でしたが、今年は焦らず、ノンビリとした気持ちで頑張っていきたいと思っています。
本年も宜しくお願い申しあげます。

【サバイバー日記】22________「信じる心」

12/27(金)サバイバー日記はこのところ忙しい毎日で書けなかった。もしかしたら調子が悪いのではと心配されてしまい、久し振りに書く。

12/28(土)手術前からやっときゃ良かった年賀状だが、未だ出来ていない。急いで娘に原画を描かせて年賀状を作る。プリンターしたものから宛名を書いていくと、昨年とは交遊関係がすごく変わっている事に気付く。

12/29(日)お節の買い出しとシーツなどの大物の洗濯、掃除、年賀状・・・なんで年末はこないに忙しいのだろうか?

12/30(月)餅つきで娘と母は安宅に出かけた。
お年賀に持っていくパンを注文した。パパと私は未だ年賀状・・・久しぶりに深夜遅くまで起きていた。

12/31(火)大晦日。朝から母はお節作り。私はアトリエの掃除やらお餅の飾り付け、お正月の生け花、それと年賀状・・・やっと書けた。
う~ん疲れた。今年は240枚なり(フゥ~)
2002年は本当に肉体的にも精神的にもハードな一年であった。
初めて癌と聞いた時には生きてられるかさえわからなかった。でも、元気にこうして生きているだけで本当に有り難い。
紅白をゆっくり観ながら、クリスマスに夫婦で買った5年日記の年頭部分を書く。5年生存率が1%とネットで見た時にはあまりの少なさに笑うしかなかったが、この日記を2人で書いていこうと思う。5年後も必ず生きていると信じて・・・

1/1(水)正月。やっと2003年が明けた。朝4時に起きて、初詣に安宅の住吉神社に行く。その帰りに父とカニ夫家の墓参りをしてから、自宅に帰って、お節料理を食べる。いつものお正月を迎えられただけでも嬉しい。
お屠蘇気分もそこそこにパパは病院の互礼会があり、母も大阪の弟のところに出かけていった。その後、パパの知人宅の彦根まで一緒にご挨拶に行く。(仲人でもあったこの知人の方は修験道をしている)「病は、気から」で自分が信じていないと治らないと力説していた。でも、心のどこかで自分自身が治らないのではないかと不安に思ってもいたので、それは自分自身を信じていないという事になるのだと気が付く。そんな事は充分わかっている筈なのに、癌という病気の恐ろしさを知るあまり、治ると信じる気持ちが揺らぐのだ。パパがいろんな病の人を診ているので、修験道で使う、いろんな人の因縁を斬る方法を教えて貰った。「えいっ!!」と手のひらを返す動作なのだが、要するに、これも気合いなのだ。古来、加持祈祷と言われるものはすべて修験から由来するもので気合いで病を追い払うのは、今も昔も変わらないのかもしれない。
そんな怪しげ?!な事を聞きながらご馳走になって自宅に帰ると、もう10時を軽~くまわっていた。先が思いやられるくらい、正月からハードな一日だった。

1/2(木)カニ夫父母とのお正月の予定だったが、突然のキャンセルですっかり寝正月・・・娘は退屈していたので近所のお友達とリカちゃん遊び、パパは年賀状の入力、私は昨日がハードなわりには元気だった。

1/3(金)今年初めての抗ガン剤の投与日。朝9:00に休日出勤のI医師と待ち合わせしているので急いで病院に向かう。パパはリハビリ室の掃除、娘はリハビリ室の遊具で遊んでいた。無事終わり、カレーを食べに行く。三人とも疲れて夕方には就寝してしまい、夜中に起きて、夕飯代わりのお茶漬けを食べた。

1/4(土)パパ出勤、私は病院に血液検査なのでまたもや娘に病院にお付き合いしてもらう。白血球は3000で注射はなし。11:00am大学の後輩達が自宅に来て、懐かしい話しをしながらランチ。娘は相手にしてもらえず少々不満気味・・・午後、近所のお友達&ママを呼んで、リカちゃん遊びをしてもらった。今まで退屈して暴れていてもそれは仕方のない事だったのね・・・といつも私達の都合でつき合わせていたな~とやっと気が付く。「いつもママにつき合わせてゴメンね」と言うと、「良いよ~」とは言うが、退屈しのぎに私のカツラを取る悪ふざけだけは止めてもらいたいものだ。

1/5(日)今日からブランドバーゲンだが、やはり今出かけると必ずインフルエンザにかかるであろう。やはり、来週入らないと駄目だな・・・と諦める。
でも活性化リンパ球を点滴していたせいか?そんなに抗ガン剤のダメージもなく済んでいる。骨髄抑制も少ないタキソテールだからかもしれないがだんだんと体力が回復してきているのがわかる。家事も億劫に思うこともなくすごせているのが嬉しい。
-- では、また~!!   \(^。^)/


サバイバー日記[21](メール配信)

2008年05月19日 | サバイバー日記(メール配信済み)
【サバイバー日記】21________「生きる力」:2002/12/27配信


今日の金沢は冷え込んで雪がシンシン降っている。
クリスマスやらなんやらこのところのイベント続きで、しばらく、サバイバー日記を書けなかった・・・

12/9(月)金曜日の抗ガン剤投与後の副作用で骨髄抑制が出てきて、白血球が落ちてしまう。この日は珍しく午後に診察だったのでお昼を食べてから病院に向かう。月曜の朝決まって憂鬱そうなパパは重い足取りで出勤していたのだが、携帯から「今から帰る」と暗い声。
「私は今から(病院に)向かっているとこなんだけど・・・」と言いながら、
病院に着く。
診察室に入ると「えっ?一人?」とI医師が不思議そうに私を見た。

「実は、手術の時に取ったリンパ節の廓清の結果がわかりました・・・・」
と、いきなり説明を受ける。耳を覆いたくなるような結果に気持ちがスーと醒めてきて、以外と冷静に受け止める事が出来た。

パパは、手術が出来たのだから助かるのだと思っていたのに、リンパ節廓清の結果を私より先に知ったせいで、今までの緊張の糸がプッツリと切れてしまって、知恵熱を出したのか?
「もしかして、この結果を主人に話しました?」と聞くと、
「たぶん、それで、早退したんでしょうね」とドクターが冗談まじりで言う。
「まったく、肝心なときにいないんだから・・・」と私が言うと、ドクターは苦笑していた。

12/10(火)術後の抗ガン剤のタキソテールはあまり体調的にはダメージが少なそうなので、そろそろ私も家事をしようと思っていた。昨日から天然ガスに切り替える工事でガスも使えないので、母はイライラが頂点に達していた。パパも昨日の廓清の結果のダメージもあって母と朝から大喧嘩を始めてしまった。
「お互いのためにも、アパート帰ったら?」と母に帰って貰うことになった。
もちろん、母にも娘にも昨日の事は知らせていないが、この日から以前の三人の暮らしに戻った。私が元気なうちは普通の生活をしていく事が幸せだと思う。親子水入らずで、久し振りに三人でお風呂に入って、川の字になって寝た。

12/12(木)活性化リンパ球療法という免疫治療をするために、採血をし、横浜に送った。ちゃんと、うまく出来るようにと祈る。

12/14(土)親子クリスマスリースの会をした。親4人、子供10人総勢14人で椅子も足らない程だったが子供達は大喜びでリースを作っていた。

12/16(月)リューブリンの皮下注射と診察。お昼はママさん達と泉野のロアジスでランチ、その後にはクリスマスリースをママさん達と作る。日曜日に安宅の浜で拾ってきた流木や松ぼっくりやパパがケヤキを削った鉋屑で作ったリースはナチュラルテイストになった。

12/17(火)以前勤めていたニッコーの時の上司の命日なので、年末のご挨拶がてら
ご自宅に伺う。二年の闘病の末に癌で逝ってしまった上司の家にいくと、三年という月日がどんなに長いものなのか・・・今同じ薬を飲んでいる私をどうゆう風に思ってらっしゃるのか?

12/18(水)日本画の先輩が訪ねてきてくれた。「今年の特選は?」と聞くと、「えっ?
誰だっけ?」というくらい秋の日展は、おもしろくなさそうだった。

12/19(木)大人だけのクリスマスリースの会をした。昨年いらした方からのリクエストだった。結婚前にアキレス腱を切った時の友人も子供を連れて、訪ねてきてくれた。娘とパパは、ず~と約束していたパンケーキ?を作ると言って晩遅くなってから生クリームを練りだした。おい、おい!いつ食べるのか?

12/20(金)術後二回目の抗ガン剤投与日だ。朝吐き気止めを飲んでから、病院に行ったのだが、まずは採血してから、身体の状態をチェックし、診察が終わって「じゃ、今日も頑張りますか?」とドクターからの指示がないと、抗ガン剤の用意をしない。
抗ガン剤の点滴しながら、処置室でお昼を食べる。
結局、投与が終わったのは午後三時をまわっていた。娘の英語の塾の送り迎えのため、急いで帰る。

12/21(土)朝、昨日の抗ガン剤の経過観察のため娘と一緒に病院へ行く。
午後、ヤマハのレッスンはクラスコンサートで娘は習っていない変調まで披露して
拍手を貰う。いつのまに自分で変調が出来るようになったのか?
夕方はクリスマスのプレゼントを買いにトイザらスへ・・・サンタも楽じゃない。

12/22(日)冬至
お昼にサバイバー家のクリスマスパーティをする事になっていた。でもこの日は良いお天気だったせいかカニ夫父母は夕方が良いということになり、それまでだらだらと準備する事になった。掃除、部屋のかたずけ、鍋の準備、ケーキの受け取り、チキンの受け取り、柚湯の用意、クリスマスのカードつくりなど三人で協力して準備した。パパは今まで、箸さえ自分で出さない人だったのにまったく変わるもんだ。
チキンと石狩鍋、カボチャと小豆の煮物、クリスマスケーキを食べ、柚湯につかって、健康を祈る。

12/23(月)天皇誕生日
朝からクリスマスのプレゼントのリカちゃん遊びをしたい娘は「・・・ちゃんに電話して~!!」と煩い。メールで都合を聞き、お友達に遊びに来てもらった。
この日、パパの来客があったが、宗教の勧誘だった。余程、私が不幸に見えるらしく、「お念仏を唱えれば・・・」と言ってはくれるのだが、まったくそんな柔な人間に見えたのか?一生懸命に勧誘するその彼は、こちらが反対に心配になるくらい、その手が震えていた。誰でも何かしらの不安はあるものだが、自分で解決しなければならないのは同じではないだろうか?とんだ、来客だった。

12/24(火)クリスマスイブ
昨日のとんだ来客にエネルギーを使ってしまったパパは病院を休んで、MACのアップグレードをしていた。診察で年末で混雑している病院に行ったが、なんだか後ろめたい・・・お昼は○絵塾で九谷焼きを一緒に勉強していた26才の子とランチした。
今宵はサンタさんの登場なので子供はなかなか寝付けず、「かける君が欲しい」とサンタさんにお手紙を書いていた。

12/25(水)クリスマス
朝、娘はサンタさんのプレゼントを見つけ小躍りしながら、喜んでいた。
私の友人からも娘にとプレゼントが届く。「ママは?」と聞くので、「ママはサンタさんにお手紙書くの忘れちゃった」と答えた。「じゃ、パパに貰えば?」と言っていた。「なんで、○○ばっかりなの?」と私を可哀想に思ったのか、プレゼントで貰ったビーズでママのネックレスを作ってくれるのだった。ちなみに、ママのサンタさんへのお願いは「お金が欲しい!!」だった。この日は母の脚の診察日だったので、迎えに行ったり、買い物につき合ったり、親孝行も大変な日だった。

12/26(木)
初めての活性化リンパ球療法をするために横浜からの荷物を病院で待つ。11/18に手術で取った癌細胞でペプチドというものつくり、12/12に採血した血液で培養されて、私の身体に合った、活性化リンパ球というものになり、ガン細胞だけを叩いてくれるものだ。点滴の前に採血を動脈から30ml取った。2週間後にまた、それが活性化リンパ球の点滴になって私の身体に入るのだ。I医師もその治療に要する金額を知っているので、慎重に、しかも無駄なく点滴してくれた。看護師の皆さんも他の病院からの活性化リンパ球療法という得体の知れない医療を手伝うといった形なのだが、皆さん協力的で、それだけでも感謝したい。細心に荷造りをして、横浜に血液を送った。
治療にかかわる皆さんや友人や家族の思いやりが、今の私の生きる力になっているのだと思う。

今年もあとわずかになった。保育園の先生から教えていただいた
相田みつをの「幸せは自分で決める」という言葉が今の気分にぴったりな毎日だ。

(つづく)

サバイバー日記[20](メール配信)

2008年05月19日 | サバイバー日記(メール配信済み)
【サバイバー日記】20________「スバラ式コドモタチ」:2002/12/09配信

11/28(木)に退院してから一週間あまり・・・
11/29日(金)は保育園の計らいで娘の表現会の予行練習を観させてもらう。
子供達は緊張でガチガチだった。娘は蚊の鳴くような声だった。
午後から福井のS病院で手術後初めてK医師に会う。
手術の時には私は麻酔で意識がなかったので、段ボールに手術器具を入れて執刀間際に手術室に飛び込んだ、K医師には挨拶もなしだった。
傷口はケロイドにもなっておらず、すごく綺麗になっており、アキレス腱を切った時の傷と比べると雲泥の差だ。でもリンパ節もごっそり取ってしまったので、脇がつっぱって、腕が上がらない。「リハビリを頑張って下さいね」と言われ、今後の抗ガン剤について相談し、帰った。

11/30日(土)~12/1日(日)は、お見舞いしてくれた皆さんに、すべて洗い流してもらおうと「快気祝い」を買いに行った。近所に出来たア○ングに行ったが、店内はクリスマス一色だ。

12/2(月)は高額医療費の請求に行った。外来診察分と手術費+13日分の入院費で11月分の診療費は¥268,356のうち請求分は¥196,710にすぎず、帰ってくる高額医療費は9万ぐらいしか帰ってこない・・・・でも、住○生命に請求すると一日2万の入院費なので少なくとも13×2で26万だ。手術費は別請求で30万なので、あわせて65万だ。ずいぶんと儲けている計算のようだが、請求してからすぐには振り込まれないのだ・・・トホホ

12/3(火)先週土曜日にK医師がI医師と金沢のパーティで会った時に私の話になってやっぱり、抗ガン剤は早めに入れようという話しになっていた。血管の出ない私にとって、抗ガン剤を確実に身体に入れるのは針を何度も差し直さなければならないので今まで大変だった。それで、「身体の中に点滴用のポートを埋め込めば簡単に済むし・・・」と勧められていたのだが、痛い思いをするのは手術後しばらくしたくないので断っていた。
でもK医師は出来るだけ早く抗ガン剤を入れた方が良いと急いでいるので、仕方なく手術を受ける事にしていた。
14時執刀の予定に合わせて手術室に入る。「今日は局所麻酔なので手術時間も短いよ」と事前に言われていた。首のところの静脈に管を通して鎖骨下部分にボタンのようなポートを作るそうだ。「寝ますか?」と言われ、首のところを切られるのが恐ろしいので「お願いします!」と麻酔を点滴したはずなのに眠くもならないし、なぜかしっかり意識がある。「うまく、入らないね~、もう一回(ルートを新たに取ろう)しようか?」などと言っている。でも、ドクターの気が散るのではないかと黙って手術を受けていた。レントゲンでポートがちゃんと入ったかを確認する時に看護師が気が付いて、「あれ?サバイバーさん、ずっとおきてた?」と声をかけられる。
I医師は「えっ?うそー!!」と麻酔が効いていないのに驚き、「私語を聞かれちゃったね~」とバツが悪そうだった。それでも、なかなか良い血管が見つからないのとポートが身体に入らないのとで手術が終わったのは16時ちょっと前だった。麻酔が切れると疲れと痛みがドッと襲ってきた。「簡単な手術だって言っていたのに・・・・」と後悔する。

12/4(水)毎日ガーゼ交換に病院通いだ。自動車は退院後そろそろ~と運転していたが、ポートの手術の傷が痛み、運転もリハビリもままならない。という事で病院へは行きはパパと一緒に、帰りはバスで帰ってきた。もちろん、途中で香林坊で下車して、デパートでお買い物する事も忘れない。

12/5(木)先週からメールしている横浜のクリニックからの治療計画の予定表がなかなかうまくかみあわない。何度もメールが帰ってきたが、意図する事がわからない。
クリニックからの電話があって、ようやく意味がわかったのだが、メールだけでやりとりしているとイライラする事もある。こちらの焦る気持ちまでわかってくれというのは無理なのだろう。患者は一日一日が大切なのだ。このイライラと傷の痛みで何もする気が失せてしまったが、娘の表現会用の洋服を買いに行く。もちろん、パパは疲れて、ふて寝していた。

12/6(金)手術後、初めての抗ガン剤点滴。今回はタキソテールという比較的副作用が少ない抗ガン剤だ。朝、吐き気止めを飲んでから手術で作ったポートに差し込み、約2時間点滴をして、終わったら自分で自動車で帰った。体調はあまりかわらない。夕方、近所で評判の英語塾に行った。娘はなぜかハーフの子供達のバイリンガル振りを見て英語をしたいと言い出した。社会保険センターのジュニア英語に約二年通わせても、なかなか前に進まないのに業を煮やして、近所で日本人の英語塾に行く事にしたのだ。もう少し大きくなれば自分で歩いていける距離だ。早く、なんでも自分一人で出来るようになってもらいたい。でも、子供を抱っこさせてもらえるのもわずかかなと思うと、もうちょっとくらい甘えん坊にさせておいた方が良いかなと都合の良い事を考える子離れが出来ない私になる。

12/7(土)いよいよ保育園最後の表現会だ。小学校に入るとこんな楽しい催し物はないそうだから、良い席を取るために朝早くから起きて順番待ちをしようとしていた。
毎年朝の6時頃に行くと決まって5番目くらいなので、今年はもう少し早く行ってねとパパに頼むが、嫌だというのであきらめていると、おばあちゃんから電話がかかってきた。「3番目になったから、あとで変わって・・・」との事、普段から脚が痛いと言っているのに何をしでかすのか・・・寒い中に立ったままでは脚に良い事ではないのでパパがしぶしぶ起きて交代した。お母さん方の中でスタートダッシュに負けそうだと言うので、開門の7:20には私も保育園に行った。その甲斐あって一番前の良い席に着けた。
子供達は、全員先生の顔を確認しながら嬉しそうにお遊戯や劇をしている。娘も予行練習では駄目出しがでたが、本番にはしっかり台詞も言えて、ノリノリだった。
先生や一部の親御さん達は、感激して涙を流して喜んでいたが、以外と子供達は醒めていて、自分のほんのわずかな失敗を後悔しているのだった。なんと、スバラシキコドモタチだ。
一生懸命でキラキラしている瞳の教え子達に見つめられる先生は幸せである。どうして高校生ぐらいになるとあんなにひねくれるのだろうか?そういえば、うちの子は先生ではなくて私ばかりを見ていたなあ~。しかも、カメラ目線・・・それはそれで、この子はどうなるのだろうか?心配になるのだった。


-- では、また~!!   \(^。^)/

忙しい日々

2008年05月18日 | カニ夫と娘
昨日、娘は友人と友人の母の4人で金沢市の農業体験に出かける。
カニ夫は娘を見送った後、玄関先の庭の整理をして出向先の老人健康保健施設へ仕事に出かける。

帰宅10分前に娘から電話。
「お魚もらったんだけど、どうしたらいい?」、「あと10分で帰るから待ってて」と答える。

自宅前のバラに虫がついていたので殺虫剤をまき、家に入る。

娘はもらってきた魚をビニール袋ごと水槽に入れてある、えらい!!
「もうわかっているじゃない」と言いながら、夕食の回転寿司に出かけようとするとカニ夫の実家から留守電が3件入っている。
電話をすると「カニ夫じゃなくて娘の欲しい野菜を持って行くのに何が欲しいのか聞きたかった」と???
相変わらずややこしいことを言う。最近特にややこしいことは避けたいので「いらない」と答える。

息子が嫌いでも、孫が可愛いというのはわかるが、一緒に住んでいるのに、カニ夫を無視したがるのはどうなんだろう。
過去の行いを考えると納得できないわけでもないが、サバイバーも良く愚痴をこぼしていた。

今のカニ夫と娘の状況を理解しようともせず、一方的に自分の思いを押しつけてくる相手からは避けたいと思う。

魚を水槽に移していると車屋さんから電話。板金塗装の修理が終わりましたと。外食がてら車を取りに行くが遠いため帰宅は午後9時30分となる。
疲れ切って就寝。

今日は、水槽の魚とエビのための水草を買いに外出。その後墓地の相談の予定あり。良いところがあるといいな。

今日も良い天気だ。がんばろう。

サバイバー日記[19](メール配信)

2008年05月18日 | サバイバー日記(メール配信済み)
【サバイバー日記】19「痛みとは?」:2002/11/25配信

11/16(土)10:00am N病院に入院
早速、術前の検査が始まる。胸のレントゲン、心電図、抗生物質の適正、血液検査
などをしてI医師からの説明を聞き、手術の承諾書を書く。手術まであとは待つのみ・・・

11/17(日)手術前に外出許可を取って、昼~夕方まで自宅ですごす。お風呂には術後しばらく入る事が出来ないので娘とゆっくり入る。「おっぱいがなくなるのヤダ!!」
ってダダをこねられる。「ママだって、手術するの本当は嫌なんだよ・・・でもね、手術しないと治らないんだよ」と自分にも言い聞かせる。

11/18(月)朝、もしもの事があったらと思って、旦那、娘、母宛に手紙を書く。読まれなければ、良いのだが・・・12:30娘、母、カニ夫父母が来る。13:30手術室に向かう。「ママ、頑張ってね!!」と娘はニコニコ手を振っていた。母は黙って手を握り、目にいっぱい涙を溜めていた。手術室に入るとまだK医師が到着していないのでスタッフが待っていた。ほどなく来るだろうと麻酔を打たれる。13:55K医師が入室し、14:00執刀。16:00過ぎ、手術は無事、皮膚移植もせずに済んだようだ。
麻酔から覚める。生きている。腰が痛くて痛くてたまらなかった。夜まで旦那が付き添ってくれたようだが、うつらうつらすると腰の痛みで起きてしまう。生きているのだから、痛さをどうにかして欲しい。

11/19(火)術後2日目。朝6:30旦那が病院に様子を見に来る。朝一便で新横浜に行って、
昨日取った組織を運ぶのだ。38℃の熱が出る。術後の疲れと腰の痛さで日中もうつらうつらしていて今何時なのかもわからない。夕方、旦那が帰ってきた。無事組織は届けられたようだ。それにしても腰が痛い。夕食からご飯が食べられるようになったが、手が動かせないのでスプーンで食べさせてもらう。

11/20(水)術後3日目。ようやくベットで起きあがれるようになった。傷口は知覚神経を脂肪と一緒に取ったので、痛さや温度も感じない。オシッコの管をはずしてもらって、ようやくトイレに行けるようになる。でも足下もおぼつかない上、右手は点滴、左手は固定しているので思うようにパンツも下げる事が出来ない。勤務中の旦那に付き添ってもらう。「夫婦は一番見られたくないところを見せ合うものなんだ」と以前にリンパ腫癌治療中の彫刻家のK先生に言われたが、まったくである。

11/21(木)術後4日目。傷はトカゲのように治りつつある。熱も下がって、身体自体は楽になったが、左腕は固定のまま、左胸からのドレーンが着いていたり、点滴の管が抜けないので一人でトイレに行くだけでもハアハア言ってしまう。点滴のルートはなかなか取れないので看護婦泣かせだ。何度も刺される私の右腕は針の穴だらけ・・・今日は6回目で成功した。何度も刺されて痛い思いをする私と汗をかきながら必死で針を刺す看護婦さんはご飯をいっぱい食べて、早く点滴を止めてもらおうと企てる。

11/22(金)術後5日目。
今日予定していた胸からのドレーン(管)を抜くのは、まだ70ccの出血があるので見合わせすることになった。点滴も今日で終わりになった。ドレーンが取れるといよいよリハビリの開始だ。手ぐすねひいて待っている旦那と夫婦喧嘩にならなきゃいいんだけど・・・・

11/23(土)快晴 術後6日目。
昨日の夜は左の腕がしびれてなかなか寝付けなかった。胸からのドレーン(管)を抜くのは、まだ50ccの出血があるのでまたまた見合わせすることになった。点滴が取れたので、あとは早くドレーンが取れるといいんだけど・・・・でもI医師が「今日は天気も良いし、外出してきて良いよ~」と言ってくれたので手術後、初めて外出許可を出して自宅に戻った。自宅で旦那にリハビリしてもらう。
今までこの人と結婚した意味がわからなかったけど、この病気のリハビリのためだったのか?やっぱり、理学療法士と結婚して良かったのだわぁ~と思う。

11/23(日)快晴 術後7日目。
今日は日曜日の昼間だから病院も静かだ。長期で療養している老人が多いこの病院では夜中に「オカァ~サ~ン!!、オカァ~サ~ン!!」と叫んだり、「オォ~イ!!オォ~イ!!」と騒がしい。女の人は母を呼び、なぜか?男の人は奥さんを呼んでいる。相変わらず、近くの部屋のコト○チャンは脱走を企てる。やけに逃げ足は早い・・・16:00、ゴルフ帰りのI医師が来る。ドレーンがやっと抜けた。お昼過ぎに来た娘とパパはベットの上でくつろいで夕方帰って行った。

11/24(月)雨 術後8日目。
今日からリハビリ開始。全然左手が動かない。パパは10数年もの間右手だけで生活していると思うと大変さがわかる。それでもテレビや冷蔵庫など大きくて重たいものでも片手で運んでいたな~私は、あえて手伝わなかった。それは、パパが嫌がるからだ。私が病気になって、その気持ちをわかりなさいという事なんだろうか?そうだとしたら、「もう充分わかりましたので元に戻して下さい!!」って言いたくなる。
夕方、2度目のリハビリを受ける。左手を動かすと痛みが走る。
リハビリ室を通りがかった理事長の息子(○○ジュニア)がニヤニヤしながら、「大丈夫ですか?」と聞く。
そういえば、夫にリハビリを受けている図っていうのは変に見えるのかな~?
ガーゼ交換の時に初めて自分の傷を見た。傷が左脇から胃にかけて列車の記号のようにはっていた。すっっごい、痛そうだけど、痛みは感じないのだ。
I医師に「これまでに何が一番に痛みますか?」と聞かれて、腰の痛みと腕のしびれと答えた。でも、「子供に会えないことが一番の痛み」と言ったら、困るんだろうな~
と思いながら黙っていると、「順調に回復しているので木曜日には退院出来ますよ」
と言われる。同じ五歳の娘を持つ親として考えてくれている先生に感謝する。

では、また~!!   \(^。^)/






サバイバー日記[18](メール配信)

2008年05月18日 | サバイバー日記(メール配信済み)
【サバイバー日記】18  「取るに足らない事」:2002/11/15配信


11/15(金)金沢は、今日もあられまじりの雨だ。
いよいよ手術まであと3日となった。
しかし、入院は土曜日からなので、保育園の劇で使うチュー子さんのウエディングドレスを作ったり、今のうちにとお歳暮の準備やら年賀状やらで結構バタバタしていて、緊張感がなくってむしろ助かっている。

11/12日に手術前最後の福井の診察に出かけた。
この日は珍しく晴れていたせいか、お菓子やジュースを買い込み、3人でピクニック気分で福井まで行く。
このところ、抗ガン剤が切れているせいか?ここ一週間に痛みがジリジリと出てきている。でも、京都の知人から個人輸入して買った「天仙液」なるものを飲み始めたのでいくらか調子は良いような気がする。
K医師によると「痛みと腫瘍の大きさとは関係ないから大丈夫!!」とは言うが、
私的には大きくなって痛みが強くなっているので、ガン細胞が勢いづいているような感じだと思っていたのに、
「この間より、腫瘍部分は小さくなっている気がするね~」という言葉に
「そうかな?」と妙に信じたくなる。
前の診察で、リンパ節を取るか取らないか自分で判断してくださいと言われ、悩んだ揚げ句、I医師に相談した。
「厳しい選択ですね・・・」
「転移を調べましょう」「転移があれば、取るか取らないかはとるにたらない問題なのですから・・・」という事になり、12日まで転移を調べた。
結局転移は無いことがわかった。
K医師は「じゃ、転移もなく、すっきりしているからリンパ節はとろうか」
と言い、リンパ節まで取る事になった。
結局、転移して当たり前の病状なので「取っても取らなくても同じだよ」っていう事だったようだ。腫瘍部分があまりにも大きくって休眠療法でQOLを優先させるとリンパ節は取らないほうが良いという事だったんだ。医師の言葉の裏側にはそんな事が含まれているとは薄々感じていたが、こうあっさりと「リンパ節はとろう」と言われると安心半分、自分の病状がかなり厳しい局面に立たされている事にも気が付かされてしまう。
でも、手術前の私の不安を消すためにI医師とK医師が連絡を取り合ってすでにリンパ節を取る事にしたのかもしれないが、まあ、そうだとしても二人の先生に騙されようと思った。

いずれにしても、手術が成功するように祈るしかない。
娘は診察の間「○○は一人でいられるからパパとママで行ってきて・・・」
と診察室には入らたがらず、診察室のやりとりを聞かないように、待合い室でおりこうに待っていようとしたようだ。
手術後の治療について詳しく聞き、免疫治療のため組織をとる事をお願いして福井から帰る。

夫婦って「一番自分に足らない者同士の組み合わせ」っていう事からすれば、私達もそうなのかな~だから一生修行を積まないと・・・
病気もこの修行の一環なんだろうか?
いずれにしても、癌の細胞との闘いに、自分が試されていると思う毎日だ。
でも、娘にとっても、旦那にしても、母にしても、それは同じかもしれない。

心配しているリンパ浮腫のため、旦那はリハビリのコネを使って、エアーマッサージ器を業者から格安で取り寄せた。私は血管が細いので浮腫になりやすい質だからと言ってついでに脚も痩せたらいいといって脚のエアーマッサージ器も注文したらしい。

そういえば、私の場合は腫瘍が大きいので皮膚移植するんのだけど、お腹の皮膚を胸にもってくるようで「ついでにお腹の脂肪も余分に!?取ってあげようか?」とK医師は冗談をかましてくれた。
「では、た~くさん取ってください!!」とお願いした。

夕方、末弟が顎下腺癌の疑いでこの日が手術日だったので、母と合流する。
幸い、コロンととれたので良性だろうとのこと・・・良かった。
しかし、姉弟そろって無理がたたる性格なようだが、母にとっては心労が絶えない日々だ。

11/14保育園のお母さん方と松任の福喜寿司でランチをする。
保育園のお母さんの中に私の高校の時の共通の友人がいるので園のママ達と高校の友人が協力して作ったのだと皆さんから大きな千羽鶴をもらう。
ほんと弱虫な私を勇気づけてくれる人達に感謝する。

明日から入院だ。でも旦那は38.7℃の熱を出し、ダウンしている。
私が病院まで送り迎えをして診察を受けさせる。
まったく、本当に肝心な時に役にたたないやつだ。
私が風邪で寝込んだらどうするつもりなのだろうか?
でも、病は気から・・・
風邪なぞひかず、頑張るぞ~!!


ps.私の入院中は術後たぶん2.3日はメールが出来ないと思いますが、その後はいつも通りパソコンを運んで送受信するので一日遅れになりますが、メールは出来ますので、病室からまたメールしますね。


-- では、また~!!   \(^。^)/

サバイバー日記[17](メール配信)

2008年05月18日 | サバイバー日記(メール配信済み)
【サバイバー日記】17:2002/11/05配信

11/1 今日は、手術前の診察で福井のS病院に行く。
1度目は癌がわかって5日目で治療の手だてもないままの相談だった。
2度目は炎症性乳ガンの治療の方針に迷いが出て相談に行った。
今回は3度目だ。金沢から福井のインターまでゆっくり行って約1時間半で着く。
ここの病院は新しく、最新治療を取り入れているので、毎日予約の患者でいっぱいだ。
広くて明るいレストランなどもあって、ゆっくりお茶したりも出来る。
入院すれば結構快適に暮らせそうだ。
でも、私の手術は結局、N病院ですることになり、福井のK医師に遠路金沢まで出張手術という事になる。

1,手術前の治療について
2,手術の事(輸血、リンパ節を切除するかどうか?
3,術後の化学療法について(免疫治療と化学療法レジメスケジュール)
4,顎下腺癌について

と手帳に走り書きして、旦那とレストランでアフタヌーンティーをしながら待つ。
予約しているのに乳腺の相談日は診察が長引く事が多く、約2時間待った。
それでも予約しないで行くと、約3時間は待たされる事になるから
「今日は、早いね~」と言いながら診察室に入る。

「どうですか~?」と聞かれる。
「変わらないです。むしろ、痛みが出てきてます。」
触診を交えての診察の中でK医師は腫瘍部分を切り取るサイズを測っている。
(トラレチャウンダナ・・・・)

「リンパ節についてはどうなされますか?」
「今のところ、リンパ節を取っても、取らなくても予後には変わりはないので、本人さんのご希望に添えるようにお聞きしたいんですが・・・」
(って聞かれても、おまかせするつもりだったんだけど・・・・)

「マンマ(乳房)の手術の場合は(世界標準的に)リンパ節をとらない方向なんです」といろいろ説明を受ける。まあ、確かにカナダからの報告も先週ネットで見ていた。
患者にいろいろな場合を説明して決めさせるというスタイルは確かに世界標準の医療だ。しかし、この場合、患者の方も確かな情報と確かな判断力が求められる。
アメリカなどは訴訟にも発展するので特にマンマの手術にはどこまで切るのかを患者に決めさせ、納得したうえで手術となるのが当たり前だ。
リンパ節を切除すればマイナス面では約一割の患者さんにリンパ浮腫になる可能性が出てくる。リンパ節を切除しなければ、万が一その残ったリンパ節からまた癌の細胞が増える可能性があるとされていたが、今は取らなくても同じという報告がある。
しかし、ここ1.2年のデーターであり、将来的にはわからないとされている。

私の場合を考えると、血管が細くリンパ浮腫になりやすい質と思われる。
術後のQOLを考えれば、左手が使えなくなるというのも辛いが、それは、取ったとしても全部取りきれるものではないから取らなくても結局同じという事かしら・・・?
という事も考えられる。まあ、腫瘍部分を取っても完治治療ではないので、結局は化学治療があとに待っているわけだし・・・・
う~む?どっちでも良いと言われると迷ってしまう。
「あとは、ご自分の気持ちとして切り取ってさっぱりしたいと言う方もいますが・・」
「手術の直前でいいですから、決めといてくださいね」
と言われると、まな板の鯉の気持ちがわかるような気がした。パク・パク・パク
こうすれば治りますよ!!というのが無いからやっかいな病気だ。
医者も患者の状態を見て、経験値で判断する事も多いだろうが、そうそう同じ患者はこないだろうし、それこそ生物なのだ。「こうすれば絶対大丈夫!!」と誰か太鼓判を押してくれないかな~?そうゆう自信あふれる態度は患者にとっては必要だと思う。


帰り道、また迷宮に入り込んだ気持ちになって、疲れてしまった。
帰ってから、I医師に相談すると、「転移を調べましょう」という事になり、
今日は胸のCTスキャンをした。結果、肺に目につく転移はナシ。
もしも、転移があれば、逆にリンパ節を取る取らないなど、それこそ取るに足らない問題になってしまうからだ。
転移を調べるのは福井のS病院に行く予定の12日の再診まで続く。
う~ん、悩ましい・・・・                      つづく

サバイバー日記[16](メール配信)

2008年05月18日 | サバイバー日記(メール配信済み)
【サバイバー日記】16:2002/11/03配信

10/30 今日は免疫治療のために新横浜に行く。
8:30のフライトのために7:00には自宅を出る。
平日とあって8号線は通勤の時間帯でいつものように混んでいる。
仕方が無く、美川の方に迂回する事にした。
美川大橋のふもと辺りから虹の輪の右半分ぐらいが見えてきた。
そぼふる雨の中にパステル調の虹が綺麗だった。

「そういえば、つき合う前に二重になった虹を追いかけた事があったねぇ」
と旦那と言いながら空港に急ぐ。
道は年末恒例の道路工事で混んでおり、実家だった安宅をすり抜け、草野の抜け道を使って機上の人になった。
ふと窓を見ると今度は虹の輪の左半分が見えてきた。
ちょうど、安宅の住吉神社あたりから立ち上っていた。
「そうか!安宅から美川の大きさなのね~」
と虹の大きさを飛行機で実感する。

東京湾で飛行機が旋回すると今度は富士山が雲ひとつない青空にぽっかり見えてきた。
「お~日本だ!!」とわけのわからない感動を覚える。
羽田に定刻に着いて、京急バスで新横浜に向かう。
横浜ベイブリッチを渡る頃になると、ほとんどお上りさん気分・・・
横浜の湾岸沿いの首都高速を40分で思いの外、あっさりと新横浜に着く。

11:00新横浜プリンスでネットで知り合った同じ炎症性乳ガン仲間の人に会う。
私達は戦争は知らないけど、敵(癌)を倒すためにも作戦を練りあう。
生き残るためにも・・・そうゆう意味ではまさに戦友だ。
願わくは、敵が弱く、武器や兵力が多い方が良いのだが、炎症性乳ガンの人で生き残っている人はネットで2人しか私は知らない。それぞれ、顔が違うように同じ病名でも治療方法も違うのだ。それでも、その戦友と「頑張ろう!!」と握手して別れる。

15:30の診察のためにクリニックに入る。
このクリニックにはほとんど医者に見放された末期癌の患者が多く、私達は場違いのように思える。自立歩行が唯一の治療の条件なのだが、風が吹いても倒れそうだ。
「こんな私が弱虫ではいけない・・・」と強く思う。
音楽もかかっていないこのクリニックは、時間が止まっていた。

ゆっくり相談していると20:00の最終のフライトの時間が迫ってきた。
院長のわかりやすい説明で免疫治療の承諾書にハンコを押す。
と、すでに17:30をすぎている。
「18:00にはクリニックを出ないと・・・」と看護婦さんに伝えるが、まだ採血や手術の時の標本見本を送る手筈の説明もまだだ。それと会計も・・・
「きゃー間に合わない!!」とわぁわぁ言って、クリニックを出たのが18:00をすぎていた。
バス乗り場まで二人で全力疾走する。

元陸上部の旦那に先に行ってもらったが、私も全力疾走して、やっとやっとバスまでたどり着く。「死ぬかと思った・・・」心臓がバクバクしている。
「こんな事で全力疾走して、死んだら笑えるね~」
と言いながらバスに乗り込み、心配していた交通渋滞も無く、40分で羽田に着く。

完全治療の手だてを見つけられずに悶々といていたのがすっきり雲が晴れているように思えた。
「きっと、虹を見て決めた事には間違いはない!!」と自身たっぷりの旦那に
「えっ?」と疑問が残る私であった。

つづく