おととい医院の駐車場で車の後ろを壁にぶつけた
まだ2か月しか乗ってない新車なのに・・
バイクも入れて生まれて初めて買った新車なのに
他に仕事の機械も壊れてしまってまたえらい出費じゃ!
どうしたんだろう・・
ふと思ったんだけど暮れに買った正月のしめ飾りを見たら小判のかざりが付いていて
松の内が終わったら小判だけとって財布に入れて‘たね銭,にして下さい・・
と書いてある
ほうほうこの小判を財布に入れるとお金がぎょうさん入って来るんやな
それで財布に入れといたんだけど
昨日、神社にしめ飾りを納めに行った時に小判も納めて来た
‘たね銭,・・・
昔のお客さんに青森から出稼ぎにこちらに来たしげやん(仮名)がいた
しげやんは料金がタダ?な事もあってうちに毎日来た
けっこう僕と気があってた
しげやんは一生懸命働いて青森では御殿の様な家を建てたと言ってたんだけど
ある青森に帰省した時にどう言う訳か奥さんに家から放り出された
それからしげやんは躓きだしてホームレスになったんだ
うちにも来なくなってそうだなあ・・1~2年経った頃
駅前でしげやんを見かけた
駅のコンコースの端に敷物を敷いてそこに正座して膝の前にざるを置いていた
しげやんはとうとう〇食になってしもうた
「しげやんどうしたんですか?」と声をかけたんだけど
別に恥ずかしそうなそぶりも見せなかった
そしてざるの中を覗いたら千円札が3枚入ってた
「すごいやん!3千円も入ってる」
って言ったらしげやん
「これは‘たね銭,だ」
って言うた
「5円、10円で恵んでやったと思われたらかなわないから最初から自分で3千円入れておくんだ」
「これを‘たね銭,って言うんだ」
としげやんは得意げに僕に説明した
もう何十年も前の話だけどしげやん今頃どうしてるだろう
(ここはどの辺だろう)
僕が初めて来た場所、名神高速道路の上だ
気が付くとその時フロントガラスの向こうに小さな白い粉が舞ってる
だんだんその白い粉は量を増して大きさも大きくなって来て車に向かって来る
灰色一色だった視界の先が急に白色で埋め尽くされてきて
車が白い壁に向かって走っているような気になった
運転手の社員が
「まいったな、チェーンを巻かなきゃ」
そう言って路肩に車を止めるとあちらこちらでもチェーンを巻く作業をしている
(雪ってこんなにあっという間に大きくなるんだ)
僕はその時、皆の混乱をよそに感動していた
(これや!これが雪やな新日本紀行でよく見る雪や!)
白い雪がこの世の中の汚いものをすべて覆い隠してくれるような気がした
あくる日、玩具問屋に行くと昼休みに普段倉庫で見かけない会社のえらいさんに呼ばれた
「ちゃ~飲みに行こか?」
しげると二人で喫茶店に誘われた
「何日かお前らの働きを見とったけど」
(あんたは見て無いやん、見とったんはじじいじゃ)
「お前らは将来ろくなもんにならへんな」
こんな事を言われてしげると二人でその日にクビになった
終わり
そんなアホな
わしらは時給なんぼで雇われてるのに2時間タダ働きせえっちゅーて
そんなん出来るかい!
・・としげると二人して5時で帰った
じじいはそんなわしらを横目でじぃーと見ていた
2~3日たった頃、肥えたおばはんがわしら二人ににこにこしながら言った
「あんたら‘うち,と一緒やて、おえらいさんが言うてたで」
「‘うち,と一緒で‘役たたん,って」
「あっ!一緒や、いっしょ~♪」
おばはんは嬉しそうにそう言った
まあ僕もしげるもパチンコには熱を上げても労働意識は皆無だった
それにしてもここのえらいさんわしらはええけどおばはんまで役立たずとか言うか?
今はどうか知らないけど
その頃の大阪の風潮は従業員を雇うってやってるんだって感じがした
僕自身、何十人も従業員を雇って来たけど働いて貰ってるんだよ
あの頃の大阪は従業員をこき使ってなんぼだった
その日は営業の社員と玩具の配達の助手としてワゴン車の助手席に乗った
気の良さそうな社員だったけど僕は内心・・
(ようこんな会社におるな他に仕事は無いんかい)
と思った
車は名神高速に乗って京都方面に向かった
その時、初めて嵐山に行った
渡月橋を渡り桂川に沿って走り
一度行って見たいと思っていた嵐山博物館を通り越した
京都市内で何軒か玩具屋を周りまた高速道路に乗って東に東に向かった
なんだか寒くなって来て
(いったいどこまで行くんだろう)
・・と心細くなって来てうつらうつらしながら外を眺めたら
琵琶湖バレイと言う看板が出て来た
3に続く
まだ駐車場に雪が残っていて困ったな
初めて雪を見たのはいつの頃だったろう
故郷の高知でも山間部は雪が降るしスキー場だってある
でも僕の生まれ育った海沿いの小さな町では雪は降らなかった
(ここ最近は稀に降るみたい)
高校生の頃、初めて通学途中に粉雪の舞った事があったけどそれくらいだな
本格的な雪を見たのは今から40年も前の10代最後の年
もう12月に入っていたと思う
20歳を目前にして来年の去就すら見えずにいたのに
相変わらずパチンコ屋に入り浸っていて
負けが混んでその日食べる金も無くなった頃
パチンコ屋で知り合った同い年のシゲルがアルバイトを探して来た
そして二人して雇われたのが玩具問屋の倉庫番だった
今で言うピッキングって奴かな
玩具屋の注文の応じて品物を用意するんだけど
先輩の倉庫番にはよう肥えたおばはんと目つきの悪いじじいと二人がいた
肥えたおばはんは、頭が悪そうに「えへへ」といつも愛想笑いをしてた
じじいは愛想もへったくれも無しに横目でわしらを睨んでいた
じじいが倉庫番の責任者だな
しげると二人でちんたら仕事をこなして5時が近づいたので
(もうじき仕事終いになるな・・・)
と思っていたらじじいが・・
「仕事は7時までやで」
って言うた
「そうですか・・5時までって聞いとったんですが」
そう言ったら、その後恐ろしい事を言い放った
「給料が出るのが5時までで仕事は7時まであるんじゃ!」
「・・・」
2に続く
毎年、この時期になると築地のマグロの初セリがニュースに登場する
一本のマグロが数千万円になったとか景気のいい話がお茶の間を賑わす
マグロ漁の漁場は大体青森の大間沖か津軽海峡辺りだろう
大間でマグロ漁が行われるようになったのはそんなに昔じゃ無い筈だ
テレビ番組で散々まぐろ漁師の悲喜こもごも取り上げられ
釣れる漁師釣れない漁師のせめぎ合い、暮らしぶりの違い
マグロ漁は丁半博打の漁だ
釣れれば天国、釣れなければ何も意味も無い燃料代も出ない
労働の対価の報酬がまったく伴わない文字通り博打だ
漁師の力量はもちろん重要だが
漁師の運を引き込む持って生まれた天性もあると思う
今から50年も前マグロの一本釣りの漁場は土佐沖の太平洋だった
漁期はやはり真冬の今の時期だ
日が暮れると裸電球を点した冷たい土間で一本釣り漁師の親父はマグロ漁の餌・・
その頃はトビウオの塩漬けだったがそれに細工をして手の平ほどの釣り針に結わえ付ける
あれ?延縄だったっけ?
いや違う船を走らせなが釣るんだから一本釣りだ
今の生きたイカやトビウオと違ってあの頃の餌は塩漬けのトビウオだ
トロ箱一杯の餌をひたすら細工する
陽に焼けてごつごつした傷だらけの手で一匹一匹
細工の仕方如何にマグロが食いつくかどうか
トビウオの餌代も馬鹿にならないが
一番の出費が燃料費だ
土佐沖のマグロ漁は大間の様に陸が見える近海じゃ無くて
船を何時間も走らせて漁場に向かう太平洋だ
それこそ当時一晩の燃料代が30万円も掛かった
マグロが釣れないと餌の手間賃も燃料代も出ない
かわいい子供達にも飯も食わせられない
船の借金も返せない
親父はひたすら塩漬けのトビウオと格闘する
そして夜更けと共に出港する
凍えそうな冷たい晩、真冬の荒れた海に立ち向かう
親父は少々のシケでも漁に出た
家族の生活が一本のマグロにかかっている
海はよ~~おお♪海はよ~おお~♪
市場にトップニュースが流れる・・
近所の〇〇丸のおっさんが300キロのマグロを釣り上げた
浜値で120万だ
50年も前だ
続いて同級生のしんちゃんの親父が200キロを釣り上げた
こっちは80万
漁師町が活気づく
うちの親父が大物のマグロを釣り上げた記憶は全く無い
ただひたすら裸電球の寒い土間でトビウオの餌を細工する親父の姿が記憶にある
けっこう仕事熱心で研究肌だった親父なんだが
‘運,を引き寄せる力が弱かったんだろうな
今、土佐沖でマグロが釣れるなんて聞いた事が無いけど
50年も昔の話
今日もさぶいね
気が付いたらもうすぐまた正月やんか
ここ何年か田舎の実家で一人正月を迎えている
たった一軒のスーパーは休みでコンビニも無い過疎の町
世間がお屠蘇とご馳走に舌鼓を打つ日に食い物の心配をせんやならん
冷え冷えとして誰もいない実家で過ごす正月
1972年の紅白歌合戦の視聴率は80%だったとか
10歳の僕も今で家族そろってテレビを見たはずだ
暖房と言えば炬燵だけでそれでも皆で入っていれば暖かった
でも一家だんらんの炬燵に母が入ってテレビを見ていた記憶は無い
いつも何かしらの家事や内職に追われていて
大晦日の晩でも普段の仕事におせちの支度も加わって
それこそ紅白どころじゃ無かった
紅白が終わったら行く年くる年・・
浅草の浅草寺や成田山新勝寺が画面に映って
稀に雪がちらついたりしてしんみりとした大晦日の晩を彩る
浅草ってどんなところだろう・・・
あかぎれの手で垂れた鼻水をこすりながら10歳の僕はそう思った
僕の人生と浅草は何の関連性も感じなかった
そのころからうん十年後・・
浅草を自分のシマのように年中酔っぱらってうろつく様になるとは
成田山ってどんなとこだろう・・・
カラフルな袈裟を着た坊さんが神聖な態度で護摩を焚く
ごにょごにょごにょとお経を唱える
チーン!チーン!
と坊さんが鉦を鳴らすと後ろに座ったじいさんばあさんが首を垂れる
仏様のご加護がありますように・・
その頃からうん十年
成田山と同じ県に住むようになった
節目ごとに成田山に向かう
始めの頃は鰻重の特上にお銚子1本
それが特上が上になり並みになり
お銚子が無くなり
鰻丼になって
最近は鰻は止めて駅前の日高屋になって
鰻屋の前で指を咥えて鰻を焼いてる職人を眺めるようになってしもうた
でも成田詣でをすると前後に不思議に良い事があるような気がする
初めて成田山に行って階段を昇った時・・
(ここだここだ!)
と小さい頃に見た行く年くる年を思い出した
アパートは第〇〇三和荘と言って同じ名前で数字が違うアパートが
その地区に数件建っていてたぶん同じ不動産屋の持ち物だったんだろう
アパートに入るすぐに管理人室があって下駄箱に土足を入れスリッパを履いて入った
アパートは2階建てで真ん中に廊下を挟んで左右に部屋がそれぞれ5部屋程あったが
だから一つのアパートに20所帯ほど住んでいたことになる
トイレは共同の男女兼用、洗濯場もあって洗濯機も自由に使えた
住人のほとんど単身者で学生が主だった
管理人も常駐していたんで廊下も磨かれていてトイレも綺麗だった
部屋はほとんど四畳半で僕の部屋は2階の左の角部屋でこの部屋だけが三畳だった
たぶん建築上四畳半で区切っていくと僕のいた三畳間だけ四畳半がとれなかったんだろう
だから部屋は畳三畳は敷けても台形をしていた
その分家賃は一番安くて月に8000円だった
その他の部屋は12000円くらいで後年知り合った隣のアパートの6畳間の住人の
家賃は16000円だと言っていた
部屋はどっち向きだったんだろう夏はむちゃくちゃ暑くて
角部屋を良い事にいつもドアを開けっぱなしでパンツ1枚でいた
反対に冬は隙間風が吹き込んで寒くていられない
隙間に目張りをしたらどうにか冬をやり過ごせた
窓は鉄枠の網入りガラスで風が吹くとカタカタと音がした
窓の外はトタンの風よけがあって脇から覗くと
鉄橋を渡る茶色の阪急電車が見えた
終わり
今日も今日とてさぶいね
今から40年も前の昭和55年頃か大阪の茨木市ってところに住んでいた
トシちゃんと聖子ちゃんの全盛期でパチンコのフィーバー台が登場した年だ
最寄りの駅は阪急茨木駅の隣の総持寺って駅だ
急行が止まらない分家賃が安く大阪の梅田へも京都の四条河原町にもそれぞれ
30分~40分と立地も良かった
その頃、駅周辺のどこからでもエレベーター会社の100メートル越す試験塔が見えた
駅の名の通り総持寺って言うお寺があったんだけど
2年間住んでいて一度も行った事が無かった
駅前にはパチンコ屋と立ち食いのうどん屋、炉端焼きの居酒屋なんかがあって
駅を出るとパチンコ屋の喧騒とうどんの匂いが漂っていて
よくうどん屋の隣の自動販売機に酔っ払いがもたれて寝てたりした
くにゃくにゃ道の両脇に小さな商店街があってバケツや笊を売る雑貨屋とか
親子丼や牛丼を出すそば屋に用水路に沿った路地に小汚い飲み屋が連なっていた
しばらく歩くと中産階級の住む広い敷地の中に団地が立ち並んでいて
それを過ぎるといつも通った銭湯にコインランドリーがあった
いちど銭湯の親父にごみの不法投棄をとがめられ風呂に行きにくくなった
コインランドリーのばあさんはここに町に住んで唯一話を交わす人物だった
住んでいたアパートは文化住宅が並ぶ路地の突き当りで脇にどぶ臭い水路が流れていて
たぶん私道だったと思うんだけど
アパートの前に住人の自転車が並んでいて近所の子供たちが遊んでいた
典型的な戦後昭和の貧乏長屋ってところか
その貧乏長屋の住人でも一番貧乏なのが僕だった
つづく・・
今朝もさぶいね
朝と言うか夜中と言うか歩いていたらいつもすれ違うおっさんに会う
帽子のライトを点けて両手に懐中電灯を持って
これで肩に鉄砲を担いでおったら八墓村やで
またまたこの時期になると10代最後の年の師走、
毎日、京都に通った記憶が蘇る
あの年も寒かったな・・
鴨川の川から煙の様な毛嵐が漂ってたり
道行く人が肩をすぼめてオーバーに身を包んで
そう言えば坊さんで頭に野球帽被った人は見いへんな
被ったらいかんのかいな
わしはいつも被ってるけど・・
釜ヶ崎のホームレスも山谷のそう言った連中もだいたい野球帽をかぶってるな
野球帽はホームレスのトレードマークやな
一昔前は頭の毛がカチカチに固まってインドの修行僧の様なホームレスがいたけど
今はそんなん見かけないし
生活保護貰ってええもん食ってるもんやから
健康体のホームレスが多いな
わしが今どうあがいても買えないタバコもスパスパ吸ってるし
あっ、それにドヤも皆ちゃんとあるからホームレスちゃうやん
そうしたらなんやろ
世捨て人・・かな
・・・
何の話やったかいな?
そうそう京都
毎日パチンコ打ちに通ったがな~
40年も前
街にダンシングオールナイトが流れていた
ちょうど2~3年前の今頃
夕暮れ時に生前に母の暮らす施設を訪ねた
太平洋を一望できる高台に施設は建っていて海を見果てると
漆黒の遠い海原にポツンと二つ三つ寂しげに漁火が灯っていた
まだ今でも夜焚き(イカ漁)に行っている船があるんだろうか・・と思った
実家の裏木戸から海に向かって2~3分坂道を昇れば遠浅の砂浜が現れる
もう50年も前の僕が小学生の頃
冬になると砂浜の沖は眩いばかりの夜焚きの漁火に埋め尽くされて幻想的な光景が広がる
その夜焚きの漁船の灯りの一つが親父の乗る船だ
イカ漁は夕暮れに出て朝方帰ってくる
だからその時分、僕が小学校へ行く準備をしていると
漁から帰って来た親父がイカ漁の外道の河豚の鍋をつつきながら
晩酌?朝酌!をしている
甲斐甲斐しく世話をするお袋
その頃のお袋はばあさんの営む衣料品店の服の仕立て直しの夜なべ仕事に
冬に備えて幾つもの木の樽に仕込む漬物作り
日中の畑仕事と家事に追われていつ寝ているんだろうかと不思議に思った
じいさんは山仕事に出る前に地下足袋を履いて鎌を砥ぐ
ばあさんはニワトリに餌をくれる
それから50年経って
実家から皆消えてなくなった
家中の柱時計は皆止まっていて
お袋のミシンも姉の使ったオルガンも
兄の使っていたデスクトップのパソコンも
使い手は皆いなくなったけど
僕の思い出と
物だけは残された