HIROZOU

おっさんの夜明け

精進

2021-09-30 08:37:02 | Weblog

         

こんなにまだ夜が明けきらない公園でおっさんは体操をしています。

    
あっ!

日が出て来た

明日の10月から心を入れ替えて労働に精進しようと思っています。

    
自宅の庭に変わった蝶々が飛んできました



わしゃ嫌な人間じゃ

2021-09-29 08:30:36 | グチ

数年ぶりのお客様が来店・・

「〇〇さん、こんにちわ!」

「そんなに来て無かったのによく名前を憶えておいてくれたね」

(好意的にとってくれたみたい)

(嫌な奴だから覚えていたんだけど・・)

ほんまに団塊世代前の戦中生まれは使えないな

介護の現場に送迎のバイトにこの世代がよく来てたけど

心な中の・・

(俺を何様だと思ってるんだ)

・・・が態度に出てる

その点、団塊の世代は競争が激しかったせいか割と現場に馴染んでいたな

その団塊の世代が今、介護を受ける年齢に差し掛かって来たけど

けっこう元気なんだ

これがまた

だいいち皆、金を持ってる

この世代のあとの年代と比べるとだよ

戦後日本って団塊の世代を頂点に衰退して行ってるね

今朝テレビを点けたら

嵐の〇〇とXXが同時に婚約発表!

知らんがな~

小室君が帰って来た!

どうでもええやんか~

大谷がホームランうんぬん!

興味無いし

昨日の昼にラジオを点けたら国会中継

立憲の質問者が総理を勇退する菅さんに向かって

「菅さんのコロナ対応が死な無くてもいい多くの人を救えなかった」

(菅さんって人殺しなの?)

だけど誰もが分からないコロナ対応の出来不出来を一方的に失敗と決めつけて

一生懸命に取り組んで来た一国の首相にこれだけの事を言う

言うか?

菅さんのせいじゃ無いよ

自分さへ良ければ他人の事はどうでもいい

そんな世の中の風潮が事を大きくしたんだ

僕自身そんな人間なんだけど


京都物語

2021-09-25 11:24:48 | メモリー

19歳の時のちょうど今頃

秋口から年末にかけて足繁く京都に通った

その頃、住んでいたアパートが阪急京都線の梅田と四条河原町の中間あたりだったから

それとその頃、学校にもバイトにもどの組織?にも属していなくて

やる事も無いのでふらふらと京都に向かった

向かう先は四条河原町のパチンコ屋だ

確か現在でもあるがその頃の店の名前はミカド

店の近くに幕末坂本龍馬と中岡慎太郎の遭難の地、近江屋の碑がある

近江屋とは全く接点のない僕は店の開店前に並んだ

(アホツラさげて)

店には観光地と言う場所柄だろうか

もうその頃には珍しかったスマートボールの台が何台か置かれていて

その台目当てだ

その時間、デパートのシャッターが開き土産物屋の店員も慌ただしく動き出す

僕の知っている京都は河原町の高島屋から清水寺界隈まで

パチンコ屋からの徒歩圏だ

昼の休憩時間?儲かっていたら新京極の老舗の寿司屋に行く

決まって安いバッテラを食べた

京都の寿司屋は何故か椀物に赤出汁が多くかったけど普通の椀物も出汁加減が最高だ

新京極は生八つ橋の店が何軒もあって帰りによく八つ橋を買って帰った

だいたいがいつもすっからかんに打ちのめされて金も無いのに京都の町をさ迷った

前の年に友人達と行った祇園祭り

初めて女の子と二人でデートした清水寺

クリスマスの晩に一文無しになって木屋町の交番で100円借りたり

あの頃の京都の思い出が浮かぶ

上京した後も京都には毎年のように行っているけど

それがある程度生活が満たされてから後の京都行きに思い出が無いんだ

数年前に探し物があって押入れをごそごそしてたら

女房と二人で鴨川の土手で並んで撮ってる写真が出て来た

女房に

「二人でいつ京都に行ったんだろうか?」

言うと女房が

「私、あなたとなんか京都に行った事なんか無いわよ、他所の女でしょう」

って言いよる

写真を見せて驚いていたけど女房も忘れてる

やっぱり思い出って若い感受性の大きい時だけだろうか

大人になってからの思い出って胸くそ悪い思い出ばかりだもんな



神戸物語

2021-09-24 18:14:18 | メモリー

僕の知る神戸は夜の神戸だけで昼間の神戸はあまり知らない

正確に言うと夜の神戸港

高校を出て大阪で暮らした2年間のほとんどの帰省はカーフェリーを使った

地元の港と神戸を結ぶ航路だから自宅から歩いて10分足らずで船に乗る事が出来る

船が神戸に向かうのが夕方の5時

折り返し神戸から地元の港に向かうのが夜の11時

だいたい片道5時間半

小さな港町を出た船は港の入り口に浮かぶ葛島と言う無人島を時計回りに回り神戸に向かう

一度、漁に出る親父の船とすれ違った事もあった

その頃の四国の出身者は皆どこかで船に乗らないと都会に出られない

我が町の港は天然の良港で江戸の頃より上方に船が出ていた

だから関西で暮らした母も兄も姉も乗る船こそ違ってもこの港から都会に出た

船の行先は大阪の天保山だったり南港だったり

僕が都会に出た頃、船の行き先は神戸のフェリーターミナルだった

船が神戸港に近付くと漆黒の海の向こうに小さな灯りが見えて来る

その灯りがだんだんと視野に広がった行き

やがて王女様の宝石箱をぶちまいたかのような夜景が広がる

パイレーツオブカリビアンに出て来る海賊の残した金銀財宝の山

そんな宝物の光が六甲の山の上まで連なって伸びて行く

その一つ一つの灯りの下にいろんな人の人生があるんだなと思った

不夜城の門番に合図をするかのように船の汽笛がボーボーと鳴る

ゆっくりと船が港に横付けされると乗船客が夢から覚まされたように

夜景の余韻に浸る事無く現実のツライ世界に戻される

せっせと身支度をすると、とっとと家路を急ぐ

神戸に夜11時着なので電車を使う人はうかうかすると終電に乗り遅れる

乗船客は明日からの自分達の暮らしに備える

その頃の僕はプー太郎だったので

(大阪のアパートの戻ってもわし・・する事無いやん)

と思いながら船を降りていた

また神戸から田舎に帰る時は阪神芦屋駅か深江の駅で出港の時間までを潰した

神戸港11時発なので一杯飲むのにちょうど良かった

芦屋の駅前に馴染みの店まで出来た・・

(未成年だったけど)

その頃から15年後大震災が起きた

馴染みの店もフェリーターミナルも潰れた

フェリーボートの着く港が大阪の南港に変わった

淡路島に橋が架かって四国と陸続きになってフェリー航路も閉ざされた

神戸はただ車で通り越すだけになったけど

もう一度海の上からあの素晴らしい神戸の夜景を見てみたいと思う


梅田物語2

2021-09-22 14:59:21 | メモリー

かくして18歳の夏、梅田の専門学校を辞めて同じ梅田の予備校に入り直した

田舎者がどう考えても繁華街近くの予備校に通って落ち着いた勉強が出来るのかと言うと・・

出来へんな

予備校へは授業料の安い夜間にした

休憩時間に同じクラスの浪人生に声をかけたら逃げられた

夜間の予備校生は苦学生が多くて少しでも勉強に集中したかったんだろう

お気楽な僕はそんな事は考えずに相変わらず勉強よりパチンコに熱中してた

一度田舎からの帰りにカーフェリーが遅れて深夜の梅田に着いたが

アパートのある京都線の最終に乗れずに梅田で始発を待つことになったけど

田舎者の僕には都会の夜の時間の過ごし方が分からず

曽根崎警察の入り口で始発まで待たせてもらった

そうしたら夜中に血だらけの人が運ばれて来た

やはり梅田の夜は怖かった

飲み屋に出入りするようになったのはあくる年の19歳からで

この頃は阪急電車のエスカレーター前に売られていた

紙コップ入りの生ビールはよく飲んだ

あくる年の大学受験はやはりダメだった

梅田の地下鉄御堂筋線には独特の臭いがあって

現在でも梅田に行ってこの臭いを嗅ぐと

ああ梅田や~

と思う



梅田物語1

2021-09-22 08:53:58 | メモリー

もう40年も昔になる 1980年

大学受験に全滅したので梅田の専門学校に入る事になった

その頃の梅田は映画館のあるナビオ阪急が出来たばかりで他に阪急三番街や阪急コンコースなど

おしゃれなファッションのウィンドーが目白押しで

僕の生まれた町の洋服店と言ったらうちのばあちゃんの営む小さな洋服店だけだった

ばあちゃんの店の主力商品はもんぺと地下足袋だったから

隔世の感がしたな

そんなおしゃれな店で僕は洋服を買った事が無くて

高校時代から履いている安物のスリムなジーパンと

合成樹脂でできた革ジャンもどきなジャンバーをいつも着ていた

高校時代は追試小僧だったのに高校を出たてでまだ働きたくなかった

数打ちゃどこかに入れるだろうと安易な気持ちで受けた受験だったから

それで合格できるほど世の中は甘くなかった

無試験の指定校も落ちてしまった

専門学校は放送芸術系だ

放送芸術と銘打つとどんな学校でも自然と生徒が集まった

皆がテレビの華やかな世界に憧れた時代、そんな頃だな

詐欺的なひどい学校だった

学校は阪神高速の梅田出口近くのビルにあった

入学式に出ると周りの連中は田舎の高校にはとてもいなかった部類の生徒ばかりで

不安になって後ろを振り返ると入学式に出席した母の顔があった

4月に授業が始まるとばかり思っていたら教科書が出来て無いとの事で

授業が始まったのはもう6月を迎えようとする時だった

授業が始まったら始まったで授業中はお祭り騒ぎでとても授業を聞く状態では無かった

何人か友達も出来た

皆、テレビ局か映画関係に就職希望みたいだったけど

僕は何も考えて無かった、ただ学生と呼ばれる身分でいたかった

あの頃は毎日のように仲間と授業帰りに喫茶店に寄った

たまに女の子達も一緒だった、飛んでる子が多かった

タバコを覚えた、まだ飲み屋には入らなかった

梅田にスケートリンクがあってけっこう皆すべりに行っていたけど

どんくさい僕は行かなかった

僕がよく行ったのはパチンコ屋

アーケードのある阪急東通り商店街を知ってからはお金のある限りパチンコを打った

だから女の子とデートも出来なかった

なんせいつも文無しだから

あの時代、ディスコ流行で東通り商店街の中にラジオシティとボトムラインと言うディスコがあって

たまに行ってナンパもしたけど

それだけだった、デートする金もパチンコにつぎ込んだから

商店街の中に元禄寿司と言うお皿の流れる寿司屋があってたぶん回転寿司のはしりかな

パチンコで儲かると40皿以上食べた

(今はせいぜい5皿ぐらい)

もっと儲かった時は阪急百貨店でステーキも食べた、

でも女の子とデートと言うとお金が無かった

学校の行き帰りに阪急電車乗り場近くに地蔵横丁と言うガード下があって

その近くに紀伊国屋書店があって店の中から松山千春の‘旅立ち,が流れていた

今でもこの曲を聞くと何だか寂しい気持ちになる

ひとりぼっちで梅田の街をさまよっているあの頃の自分が思い出されて

そうだ同い年の松田聖子の歌う

すてきな♪エイティーン~♪

とか流行った頃だ

スターへの道を邁進する聖子ちゃん

同い年でいつも文無しの僕は

阪急三番街のおいしそうな食べ物屋さんが立ち並んでる前を肩を落として歩いてた

夏休みを待たずに僕は専門学校を辞めた

専門学校の道路を挟んだ向かいのビルにある予備校に入り直した

もう一度大学受験を目指した

(よしゃー良いのに)


雨が降る

2021-09-18 07:31:54 | グチ

先週の土曜日に車検の為に車を車屋に持って行った事から始まった

もともと車に興味が無くて動きゃいいやと思っていたのであまり気にしていなかった

車検に納税証明がいると言うのでちらっと見てみると僕名義の軽自動車2台分の証明書

車検に持って行った車の税金が異常に高いやんか!

税金の支払いは女房が行っているので見た事が無かった

(同じ軽なのに疑問に思えよ)

13年を経過した軽自動車は15000円程高くなる・・

そんなもん知らなんだ

どうせなら車検時にタイヤとエンジンオイルの交換もして置こうと車検前に変えて貰った

車検に移ってから係が来て

「ブレーキオイルがカラで漏れたオイルがどうのこうの」

部品を取り寄せて何やかやで20万ほどかかると言う

「20万かかるんだったらその辺に展示してある中古を買うわ」

と言う状況になって

それが結局安い‘新車,を買わされるハメになってしまった

タイヤとエンジンオイル代はいらないからとか何とか言われて

僕が買う事になった車よりずっと上等な台車を借りて今、乗ってる

なんか最近半導体不足で新車がすぐに来ないだって

もう先週は精神の荒む出来事ばかり

オシッコ入りのペットボトルを何本も駐車場に置かれたり・・

(くやしい!くやしい!)とぶつぶつ言いながらその黄色い液体を処分した

誰かがやらないと事が終わらない

ほんま、きょうびの世の中、〇ちがいだらけ

今朝テレビを見ていると

総理大臣候補者の河野さんが

「人と人とが支え合う世の中にしよう」とおっしゃっていたけど

テレビを見ていると

他人を叩いて叩いて叩き尽くして

足をひっぱり合う異常な世の中にしてるもんだから

おかしい人間がはびっこっとるぞ!