今日は一日雨かな・・
13日の金曜日
高校生の頃、片道20キロの道を自転車で通学した
20キロと言っても素晴らしく舗装された海沿いの国道でその間信号が2つか3つしか無かった
だから通学時間は40分もかからなかった
雨が降るとカッパを着て自転車を漕ぐわけだけど
僕の場合雨が降るとゆっくり起きて母親の運転する軽トラの荷台に自転車を積んで
もう学校近くまで進んでいる同級生連中に追いつくとそこで自転車を降ろして
そこから一緒に登校するのが常だった
同じ町から高校に通ってる同級生の母親も何人か軽トラを運転してたけど
僕と同じように車で母親に送らせてる奴はいなかった
僕は雨が降っていなくてもしょっちゅう母親に送らせた
これは昔も今も変わらない僕の身上だ
できるだけラクをしたい
ラクをして世の中を渡って行きたい
その為に誰かに助けて貰いたい
今、この歳で思う事は・・・
甘かった
よけい苦労するやんか
今年は3年ぶりに京都祇園祭の山鉾巡行が行われるらしい・・
橙色に灯りが燈された鈴なりの提灯に
コンチキチンの鐘の音と横笛の音
何と言っても他所のお祭りに比べると上品なんだよね
僕が祇園祭の宵宮に行ったのはもう40年以上も前の18歳の時
横一線並びで育ってきた歳から
同じ歳でも努力次第で人により段々と人生に格差が生まれるスタートの歳だ
金持ちになって大成する奴に
ずっと貧乏でのたうち回る奴
よーい!どん
とスタートしても
その時点でそれまでの努力でスタート地点がずっと前だったり後ろだったり
いろんな事情で整地されたグラウンドを素晴らしいシューズで走り出す人もいるし
石ころだらけの砂利道を裸足で駆けださないといけない人もいる
わしの場合スタートとしたと思ったら前に走らないで横道にそれた感じだな
何の話やったっけ?
祇園祭か
ここのところアグネスチャンをよく聞いている
小学校何年生だったか梅田のコマ劇場にアグネスのコンサートを見に行った
コンサートの類はこの歳になるまでそれっきり行っていない
アグネスの最盛期は僕の中学生時代でこの「冬の日の帰り道」は1975年発売
その頃の僕は部活の先輩連中に毎日集中的に殴る蹴るのイジメを受けていた
そんな毎日だったから家に帰ると雨戸を閉めっぱなした暗い部屋で
自分で作ったご神木を一生懸命拝んでいた
今、その頃の歌を聴くとあのみじめな光景が浮かんでくる
何気に図書館で借りた
はとバスの話
両親を東京に呼んで3人で、はとバスに乗ったのはもう何年前だったか
新幹線で上京した両親と東京駅で待ち合わせた
田舎の無人駅じゃ無いんだから東京駅で待ち合わせても落ち合う場所を決めてなかったから
なかなか会えなくて何度か呼び出しのアナウンスをしてもらって
1時間以上かかってようやく会えたんだ
もちろん携帯電話なんて無い時代
田舎者の年寄り夫婦が心細がってるんだと思うと気が焦った・・・
ってもう僕もそんな歳やん
バスに乗って両親の後ろの席に座ったら僕の後ろの席に
同じように上京した両親を呼んで、はとバスで東京見物をさせている同じ年ぐらいの女性がいた
あの頃は田舎から親が出てくると、はとバスに乗せるのがポピュラーだった
「ここはなあ皇居やけんど陛下はここにはおらんがや」
「あいはなあ不二家にいっぺん入ったけんど値段が高いきにそれっきりや」
あい=自分
たまに知った場所を通ると親に説明するんだけど
田舎者丸出しの方言を他人に聞かれると恥ずかしいからぼそぼそと話した
後ろの席の女性もぼそぼそと親に説明してた
今となってはどんなコースを走ったか記憶にないけど
その日の晩飯は銀座のすし屋に入った
親父が・・
「わしは銀座で寿司を食ってるんだな」
とぽつりと言った
母親が千疋屋に入って田舎のみかん山で作っているポンカンの値段を見て
「たまるか!ポンカン一つ300円で売っとる」
と驚いた
そう言えばこの日がうちの両親共、東京に初めて出てきたんだ
たぶん夫婦で旅に出たのも初めてだったんだろう
その晩は無理をして赤坂プリンスホテルに部屋を取った
大きな窓の眼下に東京の夜景がまたたいてた
僕が生前の両親にした最初で最後の親孝行
今日も昼に風呂屋に行ったら洗い場でお客さんが倒れて救急車を呼んでた
最近、よく風呂屋で倒れる人がおるんや
昔、働いていた病院が救急病院だった
人出がいるので医者と看護師だけじゃ無くてリハビリの僕らも事務当直があった
ストレッチャーで患者さんを運んだり、いろんなトラブルに対処したり
テレビでは必然医者と看護師がクローズアップされるがいろんなスタッフの手助けが必要なんだ
ある日、僕の事務当直の晩
ちょうど今頃の時期寒い冬の夜
救急車が駅前で転がっていたおっさんの浮浪者を乗せて来た
救急隊と一緒に処置室に入ってベッドに乗せたら異様な悪臭がする
寒い外ではそれほどでも無かったんだが
暖房の効いた室内に入った途端、長年服に染み込んだ糞尿が溶け出したんだ
もう目に染みるような臭い
看護師が住所とか名前をおっさんに聞いたらぼそぼそとしゃべりだした
「わしは家は高知やきに」
それを聞いた看護師が僕に
「あんたと同じじゃない」
笑いながら言った
「僕は違いますよ僕はこっちに家はありますもん」
おっさんはぼそぼそと何やら言っていたが
僕は浮浪者のおっさんの方言を聞いていてぞっとした・・・
(わしの田舎の人間や・・)
うちの田舎は大阪から船の定期便が昔から就航していてさらに隣町が徳島県だから
関西弁と阿波弁の混じった独特の方言を話していた
僕は恐々浮浪者のおっさんの顔をそっと覗き込んだ
もちろん、おっさんと目を合わせないように
驚いた
(タケにぃ!)
うちの田舎では身内でも親戚でも無いけど近所の若い衆に
名前の後に‘にぃ,を付けて呼ぶ風習があった
看護師から「あんたと同郷ね」と言われたけど
(同郷どころか知り合いじゃ)
タケにぃが僕の顔をチラチラと見るんだけど
たんびにさっと顔をかわして悟られないようにした
タケにぃは僕の顔なんかもう覚えては無かっただろうけれど
僕はタケにぃのしゃべる方言ですぐに分かった
僕はその時、タケにぃの前で完璧な標準語で通した
もちろんタケにぃに
「タケにぃわしじゃわしじゃ・・」
とは絶対に言わなかった
もちろん周りのスタッフにもけっして知り合いだと言わなかった
それにしてもタケにぃ
四国のちっぽけな田舎町からこの関東の街でなにしとるんや・・
と思った
ましてや、わしの勤める職場のわしの当直の晩に
タケにぃ看護師さんやら助手さんに体を綺麗に拭いてもらった明け方
病院から逃げた
ライブ配信の研修が続いているけど
皆、ほんまにちゃんと見てるのかな・・・
大学生なんかオンラインの授業が多いみたいだけど、だとしたら実家を離れる意味が無いな
だけど自立心を養うには親元から離れた方が良いかも
でも最近、世間は物騒だし
僕も40年以上昔に親元を離れた
最初は母親が付いて来てくれた
大阪で不動産屋を何軒か回り結局一番安いアパートにした
阪急沿線の小さな駅で三畳一間8千円
金で親に迷惑を掛けたくなかったんだけど結局兄弟3人の内で一番金で迷惑を掛けた
小さな駅の駅前なのにパチンコ屋は3軒もあった
これが人生のスタート地点に一歩足を踏み出した途端そこに足場が無かった言う元凶だ
まあ自分が他人様より弱かったと言う事だ
・・・
母と二人で駅前の小さな商店街で鍋釜を買った
二合炊きで保温機能の無い炊飯器にインスタントラーメン用の取っ手の付いた小鍋
折り畳みの足の付いたちゃぶ台
その日は母と二人で三畳間に布団を並べて寝た
末っ子だったので母としては3回目の旅立ちの手伝い
その頃、兄も姉も京都で学生をしていた
姉は一人娘って事で団地式鉄のドアが付いたアパートで家賃が破格の4万5千円
兄は賄付の下宿で家賃が5~6万だった記憶がする
下宿のすぐそばに鴨川が流れていた
どの兄弟の旅立ちにも初日に母は枕を並べて眠ったんだろう
しかし母が京都観光をしたなんて聞いた事が無かった
その頃、母も三つぐらい仕事を掛け持ちしていて
兄弟の仕送りに死に物狂いだったから
昼頃から雪に変わるか・・・
雪降ったらもう昼から店閉めて帰ろう
雨は昼過ぎにぃ~♪雪へとぅ~~♪変わるだろ~♪
そう言えば小さい頃、唱歌で習った
雪やこんこん♪あられやこんこん♪
(雪やこんこんってどんなんや?あられと雪ってどう違うんや・・)
(雪、見た事無いし・・)
とか思っていた
昔、NHKの番組に‘新日本紀行,ってのがあって
重々しいオーケストラの演奏と拍子木?の音で始まるんだけど
あの番組をよく見てた
一度なんかうちの田舎も番組に取り上げられて
地主の娘で同級生のケイコちゃんが画面に出た事があって驚いた
もう50年も前だけど
なんやったっけ?
そうそう雪の話
新日本紀行によく雪国の話題が出ていて
カンジキを履いて雪道を歩いているおばあさんや
赤いちゃんちゃんこに赤いほっぺの女の子が囲炉裏にあたっているシーンが画面に映ると
僕の目が画面に釘付けになるんだよ
(これが雪国じゃあ~)
とか思って
あの頃、雪国の暮らしに憧れていたんだ
ひきこもり体質だったんで
隔絶された雪の中でひきこもってみたい
と思っていたんだな
うんうん
なんや分からんけど
雪積もったらかなわんのぅ~
今日もまたひやい
昨日‘錢撒き,の事を書いて気になって調べたら
日本全国に同じような風習があったんだな・・・
現代ではもう無い風習や仕事・・
ふぅ~~~ん
うちの田舎では昔、‘肥かつぎ,と呼ばれる仕事があった
僕の小さい頃の田舎町は現代程、上下水道が発展していなくて
ほとんどがいわゆる‘ぼっとん便所,と呼ばれる汲み取り便所だった
それで溜まった糞尿をどう処理していたかと言うと
我が家では両親が木の桶に入れて裏の畑に撒いていた
親父やおふくろが天秤棒に肥の桶を前後に乗せて運ぶ
子供達にはやらせなかったけどけっこう重かったろう
バキュームカーもあったけど頼んでいる家はほとんど無かった
そこで登場するのがお金を貰ってよその家の肥を処理する‘肥かつぎ,と言う仕事だ
うちの田舎では‘肥かつぎ,を生業にする‘へーたん兄ぃ,と言うおじさんがいた
うちの田舎では身内でも親戚でも無いのに
近所の年上の男の人の名前のあとに‘兄ぃ,を付けて呼んでいた
きよしさんと言う人がいたとすると‘きよしにぃ,だ
そのへーたんにぃが肥をかつぐ時
「ほっほ!ほっほ!」とリズムカルな掛け声と足の運びをする
さながら江戸時代の駕籠かきってとこか
「ほっほ!ほっほ!」と言う息遣いが聞こえて来ると
(あっ!へーたんにぃが来た)と分かるんだ
へーたんにぃは、よく小学校の隣の畑に肥を撒いていたので
授業中よく僕はへーたんにぃの仕事を眺めていた
肥は畑に撒くだけじゃ無くて畑の隅に‘肥壺,と呼ばれる大きな壺に溜めておいた
肥壺は畑に穴を掘って埋めてあってけっこう大きかった
うちの田舎にはたぶん現在は行われていないだろうけど
旧正月に‘おおやまさん,と呼ばれる訳の分からん行事があって
地区を東と西に分けて
子供達がお互いの地区の神社を基地に‘鬼ごっこ,のような事をするんだ
小学生から中学3年まで参加する決まりだったから怖かったな
捕まると殴る蹴られる木に縛り付けられる
ははは!
おまけにその行事が行われるのは日が暮れてからなんだ
真っ暗闇の鬼ごっこ
その日、僕は東の地区の子供達に追いかけられて逃げたんだ
「ハーハー!」言いながら真っ暗な畑を駆け回った
そうしたら‘ドボン,と落ちたんだ
へーたんにぃの‘肥壺,に
今日もひやいひやい
雪も見た事の無い南の田舎町から誰も知り合いのいない
聞いた事も無かった関東の街にやってきてもう何年たつんだろう
初めて就職の面接で常磐線に乗った時
両親と離れてどこまで遠くに行くんだろうととても心細かった
あの時、スリムのジーパンの似合う好青年は
使い古した野球帽の似合うひねくれたおっさんになった
還暦か・・・
うちの田舎では昔、今では見かけなくなった葬式の列に竹竿を担いだ人がいて
竹竿の先に竹かごを乗せてかごの中に硬貨の入った紙包を入れてあって
葬列に子供達が集まってくると子供たちの頭上で竹かごをゆする
そうすると硬貨が地面に撒き散らばって子供たちが我先に拾う習わしがあった
その紙包の中の硬貨の数はその亡くなったひとの享年の数だけ入れる
60歳の方が亡くなると10円硬貨60枚か100円硬貨60枚となる
断然100円硬貨の方が子供達は嬉しいんだが
それでどこそこでジジババが寝込んだとなると・・
(もうすぐ銭が拾える)
子供達はほくそ笑んだ
拾ったお金はその日に使わなくちゃいけないと言う不文律がって
葬式が終わると子供たちは‘おとく,ばあさんの駄菓子屋に駆け込んで
拾った硬貨分の買い物をする
駄菓子屋のおとくバアと言えば‘しぶちん,で有名だった
ある子が‘おとく,ばあさんに・・
「おばちゃん、おばちゃんの葬式の時は100円玉でお願いね」
と言っていたのを皆聞いていた
おとくばあさんが
「はいはい、わかった、わかった私の葬式は100円玉にするからね」
って言った
それから程なくして‘おとく,ばあさんの葬式が行われた
おとくバアの葬式に撒いた硬貨は10円玉だった
その葬式で行われる‘錢撒き,の習わしをするのが60歳以上からなんだ
まあ60歳まで生きたら大往生と言う事なんだろう
僕も‘錢撒き,の年齢に近付いたんだな
けっこう昨日の夜中は風が吹いて
ぴゅーぴゅーと窓の外に風が吹き付けている気配がした
寝付かれずベッドの上で寝がえりを繰り返していたら古い記憶が蘇った
大阪に住んでいた10代の真冬、三畳一間のアパートに冷たい風が吹き付け
鉄枠の窓ガラスをカタカタと揺らし隙間風が部屋中に吹き込んで来て
もう寒くて寒くて膝を抱えて震えていた光景だ
住まい運はすごくいい方だと思う
東京では一日中、陽も射さない部屋で布団も洗濯ものも干した事が無い部屋だったけど
場所は良かった・・・(坪500万超え)
社会人になった時、アパートは職場で用意してくれた
4所帯入ったアパートだったけど僕の部屋は前にアパートの大家さんが住んでいて
大きな庭と大きな風呂場が付いていた
難点は住んだ時点でまだ汲み取り便所だった
何日か経った頃、近所の住人から・・
「あなたが新しいこの‘スラム,アパートの大家さん?」
って聞かれて
「いえ!僕はここの部屋を借りているんです」
「そう、こんなところに住んだらえらい目に合うわよ」
って言われた
スラム・・・
近所の住人の方が言ったとうり凄まじい住人ばかりだった
郵便配達の方より借金取りの方が多くアパートに来た
あの頃の借金取りは夜討ち朝駆けは優に及ばず
僕の部屋にも借金取りが来て
「隣の部屋の親父、どこにいるか知らんか?」
としょっちゅう聞きに来た
隣の親父は僕の部屋にまで来て
「2千円、貸してくれ?」って来た
(貸さんかったけど)
隣の部屋の親父は毎晩酔っぱらってカラオケをかけていて
「私の大事なだんなさま~♪」
が夜中の2時頃に毎晩流れて来て
もうしょうがないので
「僕、明日も仕事なんですちょっと静かにしてくれますか~」
って言いに行ったら30分ぐらいして僕の部屋のドアをドンドン叩く音がする
ドアを開けたら隣の部屋の親父が立ってる
「若造のくせにえらそうな口を聞いたら刺すぞ!」
右手に包丁を握ってる
(ほんまやで~)
「すいません、すいません!」
ひたすら謝って刺されずに済んだ
あんなもん事を大きくしたらよけいややこしい事になった
何日かして隣の親父はゴミの山を残して‘夜逃げ,したから助かった
ある日、夏の暑い盛りの日曜日、部屋で寝てたら庭から大勢の声がする
「ほんとにここの住人達に困るわね、この部屋の男も自分で庭の草ぐらいとりなさいよ」
「みてこの庭の雑草、まるでジャングルじゃない」
なんと近所の方達が申し合わせて僕の部屋の庭の雑草を刈ってる
なんでも蚊が増えてしょうがないだと
草刈りが終わった頃に顔を出して
「どうもすいません」って頭を下げたんだけど
男の人が・・
「おたくの庭を片付けてたらビールの空き瓶が500本以上出て来たけど
僕の率いる少年野球チームで片付けるから」
とおっしゃった
わしもすっかり‘スラムアパート,の住人してたんだね