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HIROZOU

おっさんの夜明け

回送電車

2021-11-05 09:13:15 | メモリー

最近、仕事も早仕舞いして一杯飲んだらする事も無いので早々と床に就く

やる気が出なくて寝る前に本を読んでも頭に入らない

日付がちょうど変わる頃、必ず目が覚めて朦朧とした頭に昔の記憶が蘇る

いつも同じ思いで、嫌な事ばかり

楽しかった記憶なんてちっとも思い出せない

うつらうつらして寝返りを繰り返していると

いつの間にかピーと警笛を鳴らして駅を通過する回送電車の音が聞こえる

車輪の音がゴトンゴトンゴトン・・・と段々と遠ざかって行く

ゴトンゴトンと現実の音は聞こえなくなり・・

昔々の記憶の中にゴトンゴトンゴトンと車輪の音が蘇って来た

漆黒の鉄橋をピーと警笛を鳴らしながら走り去る茶色い車体の阪急電車

古めかしくすきま風の吹き込む三畳間

裸電球に湿気った万年床

ラジオから流れる深夜放送

いつも風邪をひいていて

ゴホンゴホンと咳き込んでズズーと鼻水ばかり垂らしてた

膝を抱えて厚い布団に潜り込んで

明日の事なんか考えられなくて考えたく無くて

願わくは永遠にこのまま朝が来ない事を祈ってた

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小包

2021-10-19 10:18:53 | メモリー

今日もさぶいね

何度かこのブログでも書いた事があるけど

大阪で初めて一人暮らしを始めた最初の冬

夜中に寒くて寒くて膝を抱えてぶるぶる震えていたら

朝起きると三畳一間のアパートの流しが凍りついていた

その頃、八甲田山の雪中行軍の映画が上映されていたけど

ボロのアパートの室内で凍死したらしゃれにならへんなと思った

田舎から出て来た時に布団を入れてあった大きなビニールシートがあったから

窓際をシートで被ったら暖かくなった

おかげで一冬窓を開けられなかった

わしはビニールシートのアオカンの‘はしり,やな

室内やから‘アオカン,とは言わんな

北風がぴゅーぴゅー吹き付ける商店街を

革ジャンもどきのビニールのジャンバーを着て猫背で歩いてた

パチンコ屋に入り浸ってばかりだったので風呂屋にもめったに行かなかった

その頃、何を食べていたのか思い出せない

そんな時に

田舎の母からみかんや干物、お菓子に下着とかが入った小包がよく送られて来た

小包の中に仕送りとかとは別に2千円とか3千円入った封筒が入れてあって

「お父ちゃんに内緒で送ります、お前もがんばりなさい」

とか必ず一筆書かれていた・・・

お母ちゃん!



 

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京都物語

2021-09-25 11:24:48 | メモリー

19歳の時のちょうど今頃

秋口から年末にかけて足繁く京都に通った

その頃、住んでいたアパートが阪急京都線の梅田と四条河原町の中間あたりだったから

それとその頃、学校にもバイトにもどの組織?にも属していなくて

やる事も無いのでふらふらと京都に向かった

向かう先は四条河原町のパチンコ屋だ

確か現在でもあるがその頃の店の名前はミカド

店の近くに幕末坂本龍馬と中岡慎太郎の遭難の地、近江屋の碑がある

近江屋とは全く接点のない僕は店の開店前に並んだ

(アホツラさげて)

店には観光地と言う場所柄だろうか

もうその頃には珍しかったスマートボールの台が何台か置かれていて

その台目当てだ

その時間、デパートのシャッターが開き土産物屋の店員も慌ただしく動き出す

僕の知っている京都は河原町の高島屋から清水寺界隈まで

パチンコ屋からの徒歩圏だ

昼の休憩時間?儲かっていたら新京極の老舗の寿司屋に行く

決まって安いバッテラを食べた

京都の寿司屋は何故か椀物に赤出汁が多くかったけど普通の椀物も出汁加減が最高だ

新京極は生八つ橋の店が何軒もあって帰りによく八つ橋を買って帰った

だいたいがいつもすっからかんに打ちのめされて金も無いのに京都の町をさ迷った

前の年に友人達と行った祇園祭り

初めて女の子と二人でデートした清水寺

クリスマスの晩に一文無しになって木屋町の交番で100円借りたり

あの頃の京都の思い出が浮かぶ

上京した後も京都には毎年のように行っているけど

それがある程度生活が満たされてから後の京都行きに思い出が無いんだ

数年前に探し物があって押入れをごそごそしてたら

女房と二人で鴨川の土手で並んで撮ってる写真が出て来た

女房に

「二人でいつ京都に行ったんだろうか?」

言うと女房が

「私、あなたとなんか京都に行った事なんか無いわよ、他所の女でしょう」

って言いよる

写真を見せて驚いていたけど女房も忘れてる

やっぱり思い出って若い感受性の大きい時だけだろうか

大人になってからの思い出って胸くそ悪い思い出ばかりだもんな


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神戸物語

2021-09-24 18:14:18 | メモリー

僕の知る神戸は夜の神戸だけで昼間の神戸はあまり知らない

正確に言うと夜の神戸港

高校を出て大阪で暮らした2年間のほとんどの帰省はカーフェリーを使った

地元の港と神戸を結ぶ航路だから自宅から歩いて10分足らずで船に乗る事が出来る

船が神戸に向かうのが夕方の5時

折り返し神戸から地元の港に向かうのが夜の11時

だいたい片道5時間半

小さな港町を出た船は港の入り口に浮かぶ葛島と言う無人島を時計回りに回り神戸に向かう

一度、漁に出る親父の船とすれ違った事もあった

その頃の四国の出身者は皆どこかで船に乗らないと都会に出られない

我が町の港は天然の良港で江戸の頃より上方に船が出ていた

だから関西で暮らした母も兄も姉も乗る船こそ違ってもこの港から都会に出た

船の行先は大阪の天保山だったり南港だったり

僕が都会に出た頃、船の行き先は神戸のフェリーターミナルだった

船が神戸港に近付くと漆黒の海の向こうに小さな灯りが見えて来る

その灯りがだんだんと視野に広がった行き

やがて王女様の宝石箱をぶちまいたかのような夜景が広がる

パイレーツオブカリビアンに出て来る海賊の残した金銀財宝の山

そんな宝物の光が六甲の山の上まで連なって伸びて行く

その一つ一つの灯りの下にいろんな人の人生があるんだなと思った

不夜城の門番に合図をするかのように船の汽笛がボーボーと鳴る

ゆっくりと船が港に横付けされると乗船客が夢から覚まされたように

夜景の余韻に浸る事無く現実のツライ世界に戻される

せっせと身支度をすると、とっとと家路を急ぐ

神戸に夜11時着なので電車を使う人はうかうかすると終電に乗り遅れる

乗船客は明日からの自分達の暮らしに備える

その頃の僕はプー太郎だったので

(大阪のアパートの戻ってもわし・・する事無いやん)

と思いながら船を降りていた

また神戸から田舎に帰る時は阪神芦屋駅か深江の駅で出港の時間までを潰した

神戸港11時発なので一杯飲むのにちょうど良かった

芦屋の駅前に馴染みの店まで出来た・・

(未成年だったけど)

その頃から15年後大震災が起きた

馴染みの店もフェリーターミナルも潰れた

フェリーボートの着く港が大阪の南港に変わった

淡路島に橋が架かって四国と陸続きになってフェリー航路も閉ざされた

神戸はただ車で通り越すだけになったけど

もう一度海の上からあの素晴らしい神戸の夜景を見てみたいと思う

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梅田物語2

2021-09-22 14:59:21 | メモリー

かくして18歳の夏、梅田の専門学校を辞めて同じ梅田の予備校に入り直した

田舎者がどう考えても繁華街近くの予備校に通って落ち着いた勉強が出来るのかと言うと・・

出来へんな

予備校へは授業料の安い夜間にした

休憩時間に同じクラスの浪人生に声をかけたら逃げられた

夜間の予備校生は苦学生が多くて少しでも勉強に集中したかったんだろう

お気楽な僕はそんな事は考えずに相変わらず勉強よりパチンコに熱中してた

一度田舎からの帰りにカーフェリーが遅れて深夜の梅田に着いたが

アパートのある京都線の最終に乗れずに梅田で始発を待つことになったけど

田舎者の僕には都会の夜の時間の過ごし方が分からず

曽根崎警察の入り口で始発まで待たせてもらった

そうしたら夜中に血だらけの人が運ばれて来た

やはり梅田の夜は怖かった

飲み屋に出入りするようになったのはあくる年の19歳からで

この頃は阪急電車のエスカレーター前に売られていた

紙コップ入りの生ビールはよく飲んだ

あくる年の大学受験はやはりダメだった

梅田の地下鉄御堂筋線には独特の臭いがあって

現在でも梅田に行ってこの臭いを嗅ぐと

ああ梅田や~

と思う


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梅田物語1

2021-09-22 08:53:58 | メモリー

もう40年も昔になる 1980年

大学受験に全滅したので梅田の専門学校に入る事になった

その頃の梅田は映画館のあるナビオ阪急が出来たばかりで他に阪急三番街や阪急コンコースなど

おしゃれなファッションのウィンドーが目白押しで

僕の生まれた町の洋服店と言ったらうちのばあちゃんの営む小さな洋服店だけだった

ばあちゃんの店の主力商品はもんぺと地下足袋だったから

隔世の感がしたな

そんなおしゃれな店で僕は洋服を買った事が無くて

高校時代から履いている安物のスリムなジーパンと

合成樹脂でできた革ジャンもどきなジャンバーをいつも着ていた

高校時代は追試小僧だったのに高校を出たてでまだ働きたくなかった

数打ちゃどこかに入れるだろうと安易な気持ちで受けた受験だったから

それで合格できるほど世の中は甘くなかった

無試験の指定校も落ちてしまった

専門学校は放送芸術系だ

放送芸術と銘打つとどんな学校でも自然と生徒が集まった

皆がテレビの華やかな世界に憧れた時代、そんな頃だな

詐欺的なひどい学校だった

学校は阪神高速の梅田出口近くのビルにあった

入学式に出ると周りの連中は田舎の高校にはとてもいなかった部類の生徒ばかりで

不安になって後ろを振り返ると入学式に出席した母の顔があった

4月に授業が始まるとばかり思っていたら教科書が出来て無いとの事で

授業が始まったのはもう6月を迎えようとする時だった

授業が始まったら始まったで授業中はお祭り騒ぎでとても授業を聞く状態では無かった

何人か友達も出来た

皆、テレビ局か映画関係に就職希望みたいだったけど

僕は何も考えて無かった、ただ学生と呼ばれる身分でいたかった

あの頃は毎日のように仲間と授業帰りに喫茶店に寄った

たまに女の子達も一緒だった、飛んでる子が多かった

タバコを覚えた、まだ飲み屋には入らなかった

梅田にスケートリンクがあってけっこう皆すべりに行っていたけど

どんくさい僕は行かなかった

僕がよく行ったのはパチンコ屋

アーケードのある阪急東通り商店街を知ってからはお金のある限りパチンコを打った

だから女の子とデートも出来なかった

なんせいつも文無しだから

あの時代、ディスコ流行で東通り商店街の中にラジオシティとボトムラインと言うディスコがあって

たまに行ってナンパもしたけど

それだけだった、デートする金もパチンコにつぎ込んだから

商店街の中に元禄寿司と言うお皿の流れる寿司屋があってたぶん回転寿司のはしりかな

パチンコで儲かると40皿以上食べた

(今はせいぜい5皿ぐらい)

もっと儲かった時は阪急百貨店でステーキも食べた、

でも女の子とデートと言うとお金が無かった

学校の行き帰りに阪急電車乗り場近くに地蔵横丁と言うガード下があって

その近くに紀伊国屋書店があって店の中から松山千春の‘旅立ち,が流れていた

今でもこの曲を聞くと何だか寂しい気持ちになる

ひとりぼっちで梅田の街をさまよっているあの頃の自分が思い出されて

そうだ同い年の松田聖子の歌う

すてきな♪エイティーン~♪

とか流行った頃だ

スターへの道を邁進する聖子ちゃん

同い年でいつも文無しの僕は

阪急三番街のおいしそうな食べ物屋さんが立ち並んでる前を肩を落として歩いてた

夏休みを待たずに僕は専門学校を辞めた

専門学校の道路を挟んだ向かいのビルにある予備校に入り直した

もう一度大学受験を目指した

(よしゃー良いのに)

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渋谷物語8

2021-09-11 07:02:09 | メモリー

夜間のほねほね学校が始まり昼間の病院勤務も始まった

病院は虎の門にあって1000人程の職員がいた僕の仕事は病棟の雑用係だ

渋谷駅から虎の門の駅まで地下鉄銀座線を使う、銀座線は日本最古の地下鉄で

地下鉄と言っても渋谷のビル3階に銀座線の駅があった

それこそ渋谷という土地は谷の底で渋谷を離れるにはどの方向にも上り道になる

ブログのタイトルに渋谷物語と銘打ってるんだけど実は渋谷を知らない

渋谷の駅徒歩7分のアパートに住んで渋谷の学校に通っていても渋谷を知らない

パチンコ屋ぐらいしか行かなかった

銀座線の赤坂はけっこう詳しい

渋谷・・そうそう東急ハンズは入ったな、それと食べ物屋

リンガーハットが出来たばかりで美味かった

今はリンガーの店はあちこちいっぱい出来たんだけど行かない

20歳の時だ一つ上の高校の先輩が原宿にオリジナルデザインの服飾店を出した

あんな、くそ田舎出身で普段着も学校のジャージしか着なかったような生活から

東京に出て3年でおしゃれな自分の店を持った事に驚いた

僕も20代で店?を持ったけど・・

学校の同級生で大学の講師が

「知り合いが表参道に店を出したから連れて行ってあげる」

と言うので行ったら

表参道に面したおしゃれな店の外にテーブルと椅子があって

運ばれて来た料理がパスタだった

同潤会のアパートの向かいか並びだったけど

おしゃれさに驚いたね

夕暮れの表参道、着飾った若者たち、流行の先端行っとるやん

街の臭いと言うか全然違うんだ

かぐや姫の世界だ

お店のショウウィンドーは皆明るくて

道路を走る車は外車が多くて稀にスーパーカーも走っていて

ダイコンを積んだ軽トラなんぞ走って無いぞ

おそらく貧乏人には似合わない街だね

前の年にしょんべん臭い釜ヶ崎で

作業着、着てうろうろしてた事をすっかり忘れてしもうた

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金木犀の香り

2021-09-10 10:09:56 | メモリー

朝は4時に家を出てウォーキングする

段々と日の出が遅くなって来て家に帰り着く5時半頃にようやく視界が薄明るくなる

今朝、歩いていると微かに金木犀の匂いが流れて来た

もうそんな季節なんだ

今年は夏という季節になんとなく忘れ物をしたそんな年だった

僕の出た小学校は外便所の道路際に金木犀が植わっていて

便所のきつい臭いを和らげようとしたんだろうけど

それにも増して外便所は臭かった立小便の便器なんかほぼ赤茶けていて

一度教師が硫酸をかけて溶かそうとしていたけどそんな事をしても無駄だった

昔の小学校の便器なんて何所でもそんなもんだっただろう

4年生の時は2階の教室で席が窓際だった

窓の外を見ると隣の畑に肥かつぎのへーたん兄ぃが畑に肥を撒いていた

ほっほほっほ!とリズミカルに肥を担いできては大きな柄杓で肥をすくっては畑に撒く

僕は口をぽかんと開けてずっとへーたん兄ぃの仕事を眺めていた

その時、背後に黒い影が近づいて来て殺気を感じた

「おお!ひろぞう!わりゃわしの授業がちゃんちゃらおかしいて聞けんちゅーのか!おお」

「そんなに肥かつぎが気に入ったんやったら手っとうて来たらどうや!おお!」

上から目線で担任のKが難癖をつけて来た

「何とか言うたらどうや!おお!」

僕はうつむいたまま顔を上げれなかった

その時担任Kの鉄拳が僕の頭に炸裂した

涙がちょちょぎれた

担任Kが追い打ちをかけた

「わりゃ!立ち上がらんかい!立ち上がってくるりと2回ほど回ってそのツラ皆に見せんかい!」

僕は立ち上がって2回ほどくるりと回った顔は床に落としたままだ

同級生達がにやにやとその光景を眺めていた

「ええか!お前は他の子よりだらしが無いんじゃ勉強も出来ん、運動も出来ん、ボケッ!」

きょうびの反社会勢力より汚い言葉で事を締めくくった

僕はことさら担任Kより目の敵にされているわけでは無かった

山本のかーくん?の方が僕より叩かれていた

担任Kが叱り鉄拳を咥えるのはガキ大将格じゃ無いんだ

だらしない子それに弱っちー子

昔の教師が生徒にどんな些細な事で鉄拳を振るまうが生徒から反撃を受ける事はまず無い

それでもガキ大将には鉄拳をひかえる

きょうびのパワハラも皆そんなもんだろう

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渋谷物語7

2021-09-09 17:00:00 | メモリー

桜ケ丘のほねほね学校が終わるのが夜の9時過ぎで

鉢山のアパートまではだいたい5分ぐらいで坂を下りてからまた坂を上る

代官山と一括りで呼ばれるこの地域に安い定食屋は全然無かった

唯一天ぷら屋とそば屋があったんだがこれがけっこう高いんだ

後に知ったんだがそば屋は渥美清さんの行きつけだったそうだ

(一度も見た事が無かった)

いまでこそこの界隈は高級フレンチなんかがその手の雑誌を賑わせていて

今日雑誌片手の大勢のおのぼりさん?を呼んでいる

夕食は5時に仕事先の病院で出た

それこそ食堂は夜間の医療系学校の授業に向かう学生たちばかりだった

それでもお腹が減ったのでいつも三浦さんのフルハムロード向かいのコンビニで買い出しした

だいたい一回2千円くらいかかったから月にしたら結構痛い出費だ

風呂屋にも寄った

恵比寿寄りの風呂屋、名前もずばりえびす湯だ

えびす湯でいつも煩い連中と一緒になった

いつも仲間同士で騒いでいた

その頃の人気バンド銀ばえの子分の子分連中だ?

わしは覚えとるその中の一人が役者Sだ

土地勘が出て来ると

中目黒の駅が近い事に気が付いた

アパートから歩いて10分ぐらい

一杯飲みたくなったら中目黒のガード下まで旧山の手通りの坂を下った

今でもあるけど大樽と言う名の大衆酒場

ツマミが皆、僕好みだと思っていたら創業者が高知出身だと後に分かった

昔は汚いお店(失礼)だったけど今では立派な建物になった

ガード下に大阪名物の串カツ屋が出来た事があった

それこそ串カツを目の前で揚げてキャベツ食べ放題二度漬け禁止の大阪スタイルだ

二千円程の出費で十分満足できた

熱燗の味を覚えたのがこの店だ

ご夫婦でやられていて愛想も良かったけれど

いつ行ってもお客が増えなかった

串カツは関西では受けても東京では請け入られなかったみたい

大阪でもそんなにファンが多くも無いもんな・・・

ある日、ひっそりとお店が無くなっていた

現在では中目黒のガード下はおしゃれな店ばかりだ

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渋谷物語6

2021-09-09 10:05:19 | メモリー

西武百貨店のウェイターを二時間で辞めてアパートに帰ろうとしたら

ロス疑惑の三浦さんの店フルハムロードの並びの弁当屋・・と言っても

宮内庁御用達の立派な仕出し屋がバイト募集と表に出ていた

賄い付きとあったので

「これや!」と飛びついた

弁当屋の仕事は洗い場だった

下げて来た仕出し弁当の器をひたすら洗う

たまに配達を手伝う

その年・・確か1982年

今でも覚えているけど浅草辺りに配達の途中か隅田川の吾妻橋にかかった時

吾妻橋の上と言わず現在の隅田川テラスの上といい

大勢の人が隅田川に竿を出してサンマを釣っていた

その時から後、何十年も隅田川にサンマが昇って来たなんて聞かないから

たぶんあの時だけなんだろう

あの頃に比べると隅田川は随分と綺麗になった

それでも今でも雨後の隅田川にはネズミの死骸が良く浮いている

弁当屋の洗い場は僕ともう一人同じ年ぐらいのO君と二人で働いていた

O君は少し知的障害があって仕事は雑なんだけど一心不乱にと言うぐらいに

マジメに取り組んでいた

僕はそれを良い事にしょっちゅう手を止めてうんこ座りして煙草を吹かしながら

「せいが出るのぅ~~」と横目でO君を見あげた

O君はそんな僕に興味が無いかのようだった

そんな僕の仕事ぶりを板場の向こうから眺めているおっさんがいた

賄いはさすがに仕出し屋と言うだけあって素晴らしく美味かった

初めて食べるような洋食が多かったな

僕は仕事はしないんだけど賄いだけはいつも大盛りだ

大盛り飯を食べてる最中に先ほどの板場のおっさんが近づいて来て

「僕はここの社長なんだけど君はいつ頃、辞めてくれるの?」

と聞かれた

(社長が現場で働いているなんて知らなかった)

(これはもう辞めろ)と言っているんだ

と思って

「今から辞めます」

とその時を限りに弁当屋を辞めた

僕の人生で病院以外にバイトをしたのはこの弁当屋が最後だ

その後のバイト先は皆病院の下働きだった

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