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ゆったり、いそがず、あわてず、おだやかに…

毎日の生活の中で感じる森羅万象を、自分の想いとして文字・写真で表現する。

人格の喪失――アルツハイマー病は怖い

2008年11月03日 21時49分36秒 | 思うがままに


テレビで認知症のドキュメントを放映していた。人ごととは思えず見入ってしまった。わが亡母もアルツハイマー病を患い、自分の息子も忘れ、いや何もかも忘れ去ったままに死んでいったのである。ずいぶん前の話であるが――。

「人格の喪失」――これほど悲しいことはない。人間が人間の尊厳を忘れてしまうのだ。患ってしまった姑である病母を長い間、妻は義姉と交代で介護し看病してくれた。なんの見返りもないのに黙々とやってくれたことを決して忘れてはならない。世の中に「病気」は山ほどあるが、アルツハイマー病ほど怖いものはないと思っている。

テレビを観ていると、亡母の初期状態の姿とダブる。テレビの中で、苦闘しながら奥さんを介護している長門裕之氏だが、まだまだ先は長いと想像する。「壮絶介護」と題しているが、病が進行すれば、もっともっと厳しくなり介護は「壮絶」を越してしまうであろう。亡母のときがそうであったのだ。

そうした姿を長い間見ていただけに、アルツハイマー病にだけにはなりたくないと思っている。思っているだけで、この病気が忍び寄ってくるか来ないかは定かではない。この頃、人さまの名前を忘れてしまうことが多い。その後、なんの脈絡もなく「あ、そうだ、あれは○○という名前だったな」と記憶回路がつながることも多いのである。

妻との会話の中で、「あれさ~~」「これさ~~」と言っているとき、内心「あれ、オレもアルツハイマーになってしまったか?」とドキッとすることがある。それほどに恐れおののく病気である。亡母を見ていても、自分が自分でなくなってしまうほど怖いことはない。そんな自分を想像することさえできない。

今は、病気の進行を止める薬があるやに聞く。なんとか完治させる薬はないものか。「アルツハイマー病ですか? あ、すぐ直る病気ですね」と平気で会話できる時代が早く来ることを願うばかりである。

過去を想いながら、生きる気力と体力づくりへ

2008年10月31日 20時59分26秒 | 思うがままに


「神無月」である10月も終わった。全国の神さんは出雲へ出張していたので、近在の神社すべての神様が不在であった。ようやくお戻りになったことであろう。

11月は「霜月」である。7日の「立冬」から、いよいよ冬である。文字どおり「霜が降りる」月になってしまうのである。

つれづれなるままに、手元にあった古い日記を開いてみた。読んでみると当時を思い出す。

『平成16年11月4日(木)晴  東急ハンズで買ってきた両面光沢紙で、写真集を印刷しようとしたら、紙を間違えていた。「カラーレーザープリント専用紙」となっている。買うときに見落としていたのだ。「インクジェットでは絶対印刷しないでください」と小さな字で注意書きしてあった。
 せっかく買ってきたのだから使えればと思い、印刷してみた。やはりだめだった。全然きれいな画像にならない。妻には、「この頃、注意力が散漫になってきているよ」と怒られる。自分自身でも「なんで見落としたのか」と不甲斐なく思う。』(抜粋)

当時、たまたま東京へ出かけたので新宿の東急ハンズへ寄ったのだ。パソコンでの両面用紙を購入したのだが、大失敗したのである。レーザー用紙であるがために、今もって在庫になって積んである。

この大失敗は、早くも4年前になってしまった。妻に言われるまでもなく、加齢とともにミスや失敗は多くなっていくような気がする。さすがにレーザー専用紙を買う失敗は繰り返していないが――。

前後の日記を見て、孫娘たちの七五三に呼ばれたこと、会社の大先輩が亡くなりお焼香に出かけたことなどなど、当時を思い出す。

過去に浸るのもよいだろうが、過去の上に立っている現在、つつがなく夫婦で生かしてもらっていることに感謝しなければなるまい。そして秘かに目標としている「85歳」まで生きる気力と体力をつくっていかなければと、これまた秘かに決意したことである。

壊れ始めると連鎖する電気製品!

2008年10月21日 21時23分07秒 | 思うがままに


電気洗濯機がおかしくなってしまった。わが家の電気洗濯機は妻の好みで2層式である。今どき、希少価値的存在だ。その洗濯機の脱水タイマーを回しても、しばらくうんともすんとも言わない。いや、脱水のモーターは唸っているのだが、1~2分してようやく回転し始めるのだ。

まだ6年ほどしか使っていないのだが、機械ものだけに「ハズレ機械」に当たってしまったようだ。そもそも、ずいぶん前からタイマーのダイヤルが戻らなくなってしまっていた。適当な時間を見計らってタイマースイッチを手で切っていたという状態だった。

そんなこんなで買い替えることにした。不思議なもので、電気製品のひとつが具合を悪くすると連鎖するようだ。電気洗濯機に続いて、そろそろ使うようになるなと思って電気こたつを出してみたら、こたつの足が壊れてしまった。まいったなあと思っていたら、今度は座敷用蛍光灯のスイッチがおかしくなってしまった。ヒモを引っ張って電気をつけてもヒモが元に戻らない。何回やっても駄目。しかたがなく細い棒で突っついて元に戻さなくてはならない羽目になってしまったのだ。

え~い、この際、これら3点まとめて買い替えだ。ほかに連鎖しないように、早く買ってしまおうと思ったのだ。だが、よく考えてみたら、つい最近に妻のドライヤーが壊れて買い替えたばかりであった。あのドライヤーはひとり逝くのが寂しくなって、友を求めて「あの世」へ旅立っていったのかもしれない。

思わぬ出費であったが、生き物同様に機械ものであっても寿命はつきものである。ましてや脱水モーターが唸っているような状況では、知らない間に発火してしまうかもしれない。物は考えようだ、危険なことが起こらないうちに、新しい電気洗濯機、電気こたつ、蛍光灯たちが着任してくれた。あとは存分に仕事をしてもらうだけだ。

あ、そうだ、今度はどれも長生きしてくれよな! 長生きは佳きことよ~~だよな!

「諏訪圏工業メッセ」開幕。年金暮らしとの関連は?

2008年10月17日 21時21分23秒 | 思うがままに


世界的な金融不安が渦巻く中で、諏訪圏工業メッセが開かれている。株の乱高下、景気の後退――企業経営のかじ取りがたいへん難しい時代である。メッセに262の企業・団体が参加して、技術やサービスを必死に売り込んでいることであろう。

びっくりしたのは、参加262企業・団体の中に2金融機関が出展していることである。こうしたフェアに金融機関が出展したということは寡聞にして知らない。銀行も自社のサービスを売り込まなければならなくなってきた時代背景があるのであろう。

私も現役のころ、業界関係で開かれた各種フェアに毎年見学して、業界の動向、技術の進歩、経営に必要な機械やサービスなどを探ってきた。競争に勝つためには必絶対必要な情報収集の場でもあった。

こうした業界関連などのフェアには、いつの時代も賑やかであった。どこの企業・団体であっても懸命に情報を収集して、自社の隆盛を図ってきたことだろう。きっと諏訪の工業メッセも賑わっているのではないだろうか。諏訪地方という地域的なフェアであるかもしれないが、世界と肩を並べる、いやそれ以上の技術の粋を集めているだけに、きっと世界からも注目を集めているのかもしれない。

もはや隠居のみであれば、技術動向や経済動向などに疎くなってきている。でも、年金生活者であっても金融不安や景気の動向に無縁ではありえない。特に、物価が軒並み上がってきている現在、年金額は目減りを続けている。

技術やサービスの革新は、巡り巡って私たちの生活に潤いをもたらしてくれる。諏訪の工業メッセに行ってもいないし、行く予定もない身であるが、遠くのメッセに大きく期待しているのである。

やあ、やあ、固い話になってしまった。まだ若く現役の知人が、この諏訪圏工業メッセに出かけると聞いた。きっと土産話を聞くことができであろう。少しでも明るい話が聞ければうれしいなと思っている。

わが地の歴史を歩いた一日

2008年10月15日 21時33分30秒 | 思うがままに


文化講座で地域の歴史と善光寺とのかかわりについて2回目の勉強会があった。しかも、2回目の今日はバスに乗って現地での勉強会であるから、あちらこちらとまわって先生から教えを受けた。

この地に住んでいながら、この地にことをまるで知らない。川中島合戦時には、この地も武田信玄側に属し、戦乱に見舞われていたことであろう。その中のひとつ、当時、この地に睨みをきかせていた小田切氏館跡を訪ねた。



高台に登る。たしかに館を築き川中島を見渡すには絶好の地であったのであろう。遠くまで見渡すことができる。館跡というが、なにもない。案内板ひとつない。先生が、「こちらの沢からあちらの沢までの一帯が……」と説明されたが、畑があるだけである。目を閉じて、当時を想像する以外ない。

このような勉強会に初めて参加したのだが、昔々、この地で息づいていた人々のロマンが少しでも垣間見たような気がする。そうか、この地も何百万か、いや数知れぬ人々が合戦や争いに巻き込まれながらも、営々と守ってきたのだなあと感慨に浸ることができた。



善光寺へも足を運んだ。いつも参拝に通る道を歩きながら、時には横道に入り、わが故郷とのかかわり証拠を見出していく。いくつも先生から教えられたが、たとえば今まで無関心であった灯籠が、ぐんと身近に感じられるようになったことは不思議なものだ。

昼食のため訪れた公園では、よい天気のもと幼稚園や小学校の子どもたちが遠足で戯れていた。幸せな風景である。今日、観て学んだ戦国時代のことどもは、もはや歴史書の中だけで生きていることだと思わずにはいられない。



はや、秋も深まってきた。あちらこちらから紅葉だよりが聞こえてくる。市街地の木々も葉を染めてきている。今日は、久しぶりにと言うべきか、初めて言うべきか、わが地の歴史書の1ページをひも解き浸った、心地よい秋の一日であった。

漢字の「読み」「書き」は難しい

2008年10月13日 21時51分52秒 | 思うがままに


テレビで漢字検定の出題問題などを放映していた。観ていると、合格率が低く、合格するのがなかなか難しい検定のようである。私は、当然のことながら受験したことはない。

私がまだ現役のころ、常識的な漢字の読み書きをほぼできていた、と思っていた。だが、その頃であっても加齢とともに「書き」のほうはだんだんと忘れてきており、辞書は手離せなかった。

現在、その頃よりずいぶんと年数が経ってしまった。頭脳の劣化は止まらない状況であるが、漢字に関しては「読み」の劣化はさほどでもない。テレビを観ても、準1級の「読み」ではお手上げだったが、2級以下ではほぼ読めた。

このところ「書き」のほとんどはパソコンに頼っているので、入力して変換すれば思いどおりの漢字に変換できる。通常漢字の「読み」には自信を持っているので、誤変換にはすぐ反応できる。

逆に、これがいけないのだと思っている。パソコン依存度が高ければ高いほど、頭脳の劣化率は高くなっているのであろう。「書く」ことがぐ~んと少なくなってきている。「書く」は文字どおり手書きを指すのであるから、手と目の両方で覚えていくから頭脳の活性化には有効なのであろう。

昔は、「読み」「書き」「算盤」が必須であった。現代では、どうも「書き」「算盤」がおぼつかなくなってきている。ましては中年以降になってくると、これは顕著になってくる。これは私だけの傾向ではなく、どうも一般的な傾向のようである。

ただ、漢字検定の「読み」「書き」問題の中で、社会のなかではほとんど使われていない漢字が含まれているのが、いささか疑問に思う。例えば、「信天翁」という熟語がどのくらい眼に触れるだろうか? 活字になったとしても「あほうどり」とか「アホウドり」と表現されていると思う。

さすれば、漢字検定とは何なのであろうか? まあ、目くじらを立てるほどのものでもあるまい。覚えること、書けることに意義を見出している方々もいることであろう。決して悪ことではない。むしろ拍手すべきことかもしれない。

頭の体操には良いのかもしれない。どうも私には無縁の検定試験のようである。

哀しい世の中、欺瞞多い世の中を憂う

2008年10月10日 21時15分03秒 | 思うがままに


アメリカの金融危機が世界に蔓延してきている。私どもの生活にまで大きく影響してきそうだ。反面、日本人4人がノーベル賞を受賞したという明るいニュースも飛び込んできている。ノーベル賞の受賞内容は、いくら読んでも、いくら聞いても凡人には理解できない。人類に大きく貢献していることだけしかわからない。

暗いニュース、明るいニュースが飛び交っているせいか、大きな問題である年金問題が影を潜めている。新聞でも一段見出しで、小さく「証拠がない場合は救済されぬ恐れ」と報じている。いわずと知れた年金記録改ざん問題である。

年金関連の不始末問題で、どうしても不思議に思っていることがある。それは誰も罰せられていない(あるいはひとりふたり辞めた人がいるのかもしれないが)ことだ。あれだけ国民を愚弄して不正をしておきながら罰せられないとは、とうてい納得できない。

今回の記録改ざん問題は、もはや詐欺ではあるまいか。社会保険庁の当事者を詐欺として告発すべきである。あまりにも当事者が多くて、告発すれば年金の支払いができなくなるなんてほざいているようだが、やり方はあるはずだ。何千人いようと告発して弾劾すべき根深い問題である。

それと社会保険庁の悪巧みによって、年金支払い者である企業などの経営者も詐欺で告発されなければならない。社員から正規に徴収しておきながら、社会保険庁に唆されたといえ申告金額を少なくして、社員の年金貰い分を過少にしてしまい、国家への納入金をごまかす結果となっている。こんな不正経営者は許されていてよいものか。これこそ詐欺ではないのか。しかも「証拠がなければ救われない」といわれれば、弱き庶民はなんとすればよいのだろうか。

悪代官と越後屋は悪いことをしていながら、ぬくぬくと高額退職金を懐にして辞めていっている。現代の水戸黄門さまは存在しないのであろうか。悪しき者ほど枕を高くして寝ているとは――。嘆かわしくて言葉もない。

うわさ程度の話であるが、中小企業の中には経営不振から厚生年金や健康保険などを大きく滞納して倒産していったとも聞く。そんな企業は退職金もなかったであろう。社員たちは年金生活者になったとき、もしかすると低い年金額に計算されているかもしれない。しかも倒産していれば証拠書類を捜し出すことは不可能に近い。

自分のことではないが、哀しくて切なくて嘆くだけだ。もはや政治の問題であるだけに、舛添厚労大臣、麻生首相にはぜひとも解決への努力を重ねて貰いたい。切にそう思う。

うれしかった新米、うまかった新米!

2008年10月07日 20時44分31秒 | 思うがままに


「もし、もし、おばあちゃん! ――」

おばあちゃんに電話がかかってきた

妹から送られてきた新米を

都会の孫におすそ分けで送ったのだ

小学生の孫は

新米のうれしさではなく

同封されていた駄菓子を喜んで電話をかけてきたのだ

はにかんだような、うれしさをどう表現したらよいのか

そんな孫のしぐさが可愛いと

電話を終わったおばあちゃんは

うれしそうに笑っていた


そう、もう新米の季節になったのだ

妹からの新米を

早速に炊いて食べてみた

やっぱり新米はうまい

おばあちゃんは満足げの笑顔であった

よかったね おばあちゃん!

季節先取りの商戦などに想う

2008年10月03日 21時15分32秒 | 思うがままに


本を買いに出かけた。早! ハヤ! 書店の入口では来年のカレンダーを吊り下げて並べていた。もちろん商品であり売り物である。そうか、10月に入ったと思ったら、商戦はもはや師走に向けて走り出していたのであった。店内には来年版小手帳がいっぱい並んでいる。

こちらは秋がやっと来たかと思うこの頃であるのに、商戦は数か月先取りしているのだ。なにか後ろから急かされているようで落ち着かない。でも、早くにカレンダーや小手帳を並べるのもひとつの風物詩であるから、静かに眺めているより仕方があるまい。

それはそうと、書店の中は平日の昼間であるにかかわらず、ずいぶんと賑わっていた。若者たちも結構と多かった。「こういう人たちはいつ働いているのだろう?」と、つい余計な詮索をしてしまう。自分の過去を振り返ってみて、本屋に行くのは土日ぐらいしかできなかった。それが普通で当たり前であるとばかり思っていた。

世の中は、なにも土日が休日という人ばかりではない。変則勤務をする人、夜に勤めている人などさまざまである。普通日の昼間に本屋へ行って、若者が多いからといって「あれ!」と思う人間のほうがおかしいのであろう。

新聞を見て事故や事件の報道で、被害者や加害者の住所が「住所不詳」となっている例がある。年寄りもいるし若い人でも多く見られる。それこそ「この人たちはどうなっているのだ」と心配気に見てしまう。あれもこれも、馬車馬のように(今、こんなたとえを言っても若者たちには通じないであろう)働いてきて、ようやくほっと一息ついている身になった時の感傷であろう。

人さまのことをいたずらに心配しても始まらない。「自分用の小手帳でも買ったらどう~~」と言われてしまいそうだ。

あ、そうだ、本を買いに来たのだ。さ~てと、あの本はどこにあったっけ~~

金融不安、物価高騰――自分たちの生活をどう守るのか?

2008年10月01日 21時01分02秒 | 思うがままに


アメリカのサブプライム住宅ローンから端を発した金融不安は――と書いてきても、ニューヨーク株式市場が777ドル急落したことなどを論評しようというのではない。いわば地球の反対側でバブルがはじけて金融危機に陥ったのに、日本にまでなぜ影響してくるのか。なおかつ、なにも知らない私たちの生活にまでなぜ影響してくるか。そのことを憂えているのである。

私たち庶民には、金融の仕組みも、対岸の火事が飛び火してくる理由もまったく知らない。知らなくても、まごまごしていると世界的不況の嵐に巻き込まれてしまうかもしれないのだ。「そんな理不尽な」と嘆いてもなにも解決しない。テレビで有識者の先生方でさえ、「手の打ちようがない」というぐらいである。

10月1日になって、またまた値上げ攻勢が始まっている。石油が安くなってきているのに物価は値上げになるばかりである。それこそ、われわれ年金生活者は「そんな理不尽な」と声を大きく叫びたくなる。もっとも若い人たちは物価値上げとあいまって、10月から年金支払いの率が上がるというダブルパンチに見舞わるのだそうだ。

どんな状況であろうと、生きていかなければならない。一般論として、収入は下がっても増えることはほとんどない。あとは支出を抑える以外ない。どうやって~~?

今日も某スーパーへ夫婦で買い物に行ってきた。今朝新聞折り込みのチラシが入って、それを見た妻が、「安いようだから行こう」と言うのだ。あまり値段のわかる夫ではないが、街はどんな状況かと視察代わり(ふん、格好つけなくてもよいのに)にくっついていったのである。

チラシが入ったことによってか、ずいぶんと混んでいた。レジにも大勢並んでいる。価格は安いものが多かったようだ。だから、あれもこれもとカゴいっぱい、いやカゴふたつの買い物になってしまった。合計でいくら安かったのかは、当方はあずかり知らない。こうして庶民は、知恵を絞って支出を押さえる以外に抗する道はないであろう。

海の向こうの不始末であっても、こちらまで大きな影響を受けることを思うと、地球はずいぶんと小さくなってしまったように恐れ慄いてしまう。自分たちの身の安全は自分たちで守っていかなければならない――これがサブプライム住宅ローンから端を発した金融不安における結論(?)と言える――よな!