
大変申し訳ありません。現在YouTubeが視聴できなくなっています。削除されたのかもしれません。他力本願の投稿ですから、ご理解をお願いします。
しばらく待ってみましたが、削除されたのは間違いないようです。このブログを通して利用していただきありがとうございました。
このブログには、他にも多彩な内容を紹介していますので、ご活用いただけたら嬉しいです。
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ハンナ・リデル(生誕1844年) イギリスの宣教師で、熊本にハンセン病病院「回春病院」を作っただけでなく日本のハンセン病の歴史に大いなる足跡を残しました。

井上 毅(生誕1855年)熊本市坪井 日本の官僚・政治家です。法制局長官・文部大臣などを歴任しました。

横井小楠(生誕1809年)熊本城下内坪井町 熊本藩において藩政改革を試みるが失敗。福井藩に招かれて幕政改革や公武合体の推進などに活躍しました。新政府に参加するが暗殺されました。

小泉八雲(生誕1850年)ギリシャ生まれの新聞記者です。紀行文・随筆・小説家です。1891年熊本の第五高等中学校の英語教師として赴任して1894年まで熊本で過ごしました。

河口愛子(生誕1871年)山鹿市 東京小石川に学校をつくった明治~昭和の女子実務教育者です。現在文華女子高等学校となっています。

日本文華学園のホームページに初代校長の河口アイ(愛子)の紹介文が掲載されています。是非ご覧ください。
田島亀彦(生誕1889年)八代市日奈久 父と祖父は仏師、その影響を受けて彫刻家となりました。子(田島義朗)と孫(田島享央己(たかおき))も彫刻家ですから、5代の彫刻家ということです。

孫の田島享央己(たかおき)さんがおじいちゃんについて書いた文章〔エド工日記〕を見つけました。おじいちゃんに対する尊敬の稔を感じることができました。
〔田島家の彫刻家三代噺〕
松浦シズエ(生誕1922年)鹿本郡植木町(現熊本市) 昭和25年に植木町に私塾洋裁教習所(現:城北高校)を開設して、服飾関係の技術教育に尽力しました。雇用の場として、株式会社ラ・モードを創立して特に女性の職場確保に努めました。

城北高校のホームページに紹介の文章が掲載されています。是非ご覧ください。
山下泰裕(生誕1957年)益城郡矢部町(現:山都町) 柔道家です。引退までの203連勝。対外国人選手116勝無敗という大記録を打ち立てました。2019年にJOC会長に就任しました。

歴史に残る生き方をされた皆さんですね。熊本県だけでもこんなに居られるので驚きです。私のような凡人の人生も山あり谷あり喜怒哀楽でしたから、その人生は計り知れません。大河ドラマになったらいいですね。
熊本と言えば 私は「村下孝蔵」です。
拙いブログへの訪問ありがとうございました。
フォローさせていただきました(__)
村下孝蔵さん初恋ですね。嬉しいです。5年前には村下孝蔵さんの通っていた水俣第一中学校に「放課後に数学の苦手な子に教えてほしい。」頼まれて10月から3月までボランティアに行ってきました。同い年でした。私は軟式テニスと陸上競技でしたから中体連でも会うことはなかったようです。(村下さんは水泳)
こちらでは〔初恋通り〕があってモニュメントや歌碑があります。水俣市の2つのデパートをつなぐ50mほどの小道です。市民が一番通る道といってもいいです。
歌手として活躍されているとき水俣三中に10年間勤めていました。そのときもよく話題になっていました。私が30代でしたか❗
私のブログも楽しんでください。
やっと村下さんを知ってる人に出会えました。
ブログやってて良かったです。そして訪問してくださった事に感謝です。
1953年2月18日生まれの村下さんと同級生だったのですね・・・・・
そうですか・・・「初恋どおり」があるのですか・・
なんか涙が出ます。40歳のときからコンサートに行っていました。
突然の急死に受け入れることが出来なかったです。。
牛久の村下さんのお墓参りには何回も行きました。牛久にも行きたかったです。
ありがとうございますとっても嬉しかったです。。
もうすぐ生誕69歳を迎えます。。
何か歌いたいです。。
もうチョッと書かせてくださいね。
この道徳の教材を作るとき水俣芦北地方の代表をしたんです。この地に生まれ育ち先生をしていました。そんな視点で村下孝蔵さんを見てみると波瀾に富んだ人生だったことがわかりました。裕福な家に育ちましたが、思い通りにいかなかったことも多かったようですね。しかし、エレキギターとの出会いから音楽への深まりが始まったようです。他のことをやりながらもいつもエレキギターが支えてくれたようです。常に傍らにあり親しむだけでなく技術的なとことからみんなを魅了するまで高められたようです。認められデビューされたのも遅かったようですね。
健康には恵まれずデビューされた頃は肝炎に悩まされたようです。それをおしてのコンサート活動だったようです。段々重くなり東京と広島との往復が難しくなっての東京移住となりました。そしてご存じのことが起こりました。
学ぶべきことの多い人生を歩んでこられました。霧子さんみたいな方々がいっぱいおられるんでしょうね。
水俣では今でも《誇り》に感じています。初恋はいつ聴いても青春のときの自分を思い出します。